『うれしはずかし』
「おかえりなさい、お姉ちゃん」
「っ!?」
おそるおそる、音を立てないように注意しながらそーっと家の中に入ってきた香里。
――にも関わらず、そんな彼女を出迎えた存在があった。愛妹、栞である。
なんたるバッドタイミング。思わず神を呪ってしまう香里であった。
「随分と『お早い』御帰宅ですね」
ニコニコとした――多分に引き攣った――笑顔を浮かべて栞が言う。
時計に表示されている時刻は午前6時。確かに、帰宅するには些か『早い』時間である。
「お姉ちゃん、こんな時間までいったい何をしていたんですか? 家に連絡も入れずに」
「……ちょっと、ね。連絡の件は悪かったわ、これからは気をつける」
クールに返して、栞の横を通り過ぎようとする香里。
しかし、次の栞の一言が香里の足を止めた。ピタッと。
「祐一さん」
歩みを止めると同時に香里の肩がピクッと揺れる。
「あ、相沢くんがどうかしたの?」
「祐一さんも、昨夜は家に帰ってないみたいなんですよね。お姉ちゃんがいるかと思って水瀬先輩のお宅にお電話したんですけど、その時に秋子さんに教えてもらいました」
『あの、夜分遅くすみません。お姉ちゃん、来てます?』
『香里さん? いいえ、来てないわよ。もしかして、香里さんもまだお帰りになってないの?』
『香里さん『も』?』
『ええ。実は、祐一さんもまだ帰ってきていないんですよ』
『え!? そうなんですか!?』
『はい、そうなんです。それにしても、祐一さんと香里さんが揃って帰りが遅いだなんて。……これはひょっとするとひょっとするかしら』
『ひょっとすると? ひょっとして何なんです?』
『やっぱり、そう考えるのが自然ですよねぇ。うふふ。なるほどなるほど、そういうことですか♪』
『あ、秋子さん? 一人で納得しないで下さいよぉ』
『あらあら、私ったら。ごめんなさいね、栞ちゃん。……まあ、何と言いますか、取り合えず、香里さんの事は心配しなくても大丈夫だと思いますよ』
『え? どうしてですか?』
『だって、十中八九、祐一さんが一緒ですから』
『祐一さんと、ですか? ――っ!? ま、まさか、それでは今頃お姉ちゃんと祐一さんは……』
『はい、たぶんしっぽりと♪』
『え、えぅーっ!? 抜け駆けですか、お姉ちゃん!? そ、そんなことする人きらいですぅ!』
「――といった具合に。以上、ドキュメントでお送りしました」
「ご苦労様、熱演だったわね。よく分かったわ」
目の前で寸隙を繰り広げた栞へちょっぴり呆れた視線を向けつつ、香里はフゥと微かなため息を一つ。
「で? お姉ちゃんは本当に祐一さんと一緒にいたんですか? しっぽりだったんですか?」
「年頃の女の子がしっぽりとか言うのはよしなさい」
こめかみに人差し指を当てて香里。
「そんなことはどうでもいいんです! 一緒だったんですか!? そうじゃなかったんですか!?」
香里からの注意を『そんなこと』の一言で一蹴し、栞が猛烈な勢いで香里に迫る。
「ちゃんと答えるから少しは落ち着きなさい」
言って、香里は再度ため息。
「相沢くんとは確かに一緒だったわよ。……ま、ちょっとワケ有りでね」
「ワケ? ワケってなんですか?」
「昨日の放課後、相沢くんと百花屋へ寄ったんだけど……」
「えぅ!? 二人でですか!? お、お姉ちゃんだけなんてズルイですぅ!」
香里の言葉を遮って栞が叫んだ。
――が、香里は敢えて無視すると、そのまま話を続ける。
「暫く(甘い)会話をしているうちに(二人とも盛り上がってきちゃって)、相沢くんの体の(一部の)様子がちょっと……熱っぽくなっちゃって……」
「え? もしかして、祐一さん、体調を崩したんですか?」
香里の説明を聞いて、栞が心配気な表情を浮かべた。
なにやら異様に隠蔽部分が多かったりするが、それは栞には知る由も無いことである。
「……え、ええ。そうなのよ」
栞からの問いに、香里は微妙に視線を泳がしつつ答えた。やや上擦らせた声で。
怪しい。あからさまに怪しい。そんな姉の態度を見て、栞の視線に疑惑の色が混じる。
「だから、少し休もうってことになって、『たまたま』近くにあった『ベッドのある、横になれる施設』に入ったの。ただ、最初は『休憩』だけのつもりだったのよ。だけど、相沢くん(の一部)の熱がなかなか引かなかったから、結局は『お泊り』になっちゃったけど」
「へー、そーなんですかー。それはたいへんでしたねー」
栞が完璧な棒読みで返す。この時点で疑惑は既に確信へと変わっていた。
朝帰りをした人物が『ベッド』やら『休憩』やら『お泊り』やらの意味深な単語をポンポンと。悟って下さいと言わんばかりである。
「お姉ちゃんのことですから、さぞや熱心に看病したんでしょうねぇ」
言いながら、栞がジトーッとした目を香里に向ける。
「ねぇ、お姉ちゃん。看病の一環として、一緒にお風呂に入ってその豊かな胸を使って背中を流してあげた時、祐一さん、凄く喜んだんじゃありません?」
「それはもう。思わずあたしの方まで嬉しくなっちゃうくらいに……って、なんで栞がそんなこと知ってるのよ!?」
顔を真っ赤に染めて詰め寄ってくる香里を見やりつつ、栞はボソッと呟いた。
「ビンゴ、ですか。やっぱり」
「へ? び、ビンゴ? ま、まさか、栞、かまを……」
「そうですよ。尤も、かまを掛けるまでもなくお姉ちゃんは墓穴を掘りまくってましたけど」
大袈裟に肩を竦めて、ため息混じりに栞が答える。
「う゛っ。し、栞……そ、その……これは……」
「いーですねー。おねーちゃんとゆーいちさんはらぶらぶでー」
なんとか言い訳をしようとする香里をきっぱりと無視し、栞は頬を膨らませてプイッとそっぽを向いた。
「あ、あのね、栞」
「ふーんだ。聞く耳なんか持ちませんよーだ」
栞、拗ねモード大発動。
「お姉ちゃんも祐一さんも嫌いですぅ」
○ ○ ○
「――と、こういう事があったのよ」
説明を終えると同時に、香里はハァと深い吐息を零した。
そして、百花屋に来るたびに頼んでいるお気に入りの紅茶を一口。
「そりゃまた災難だったな。それで? 栞の御機嫌取りには成功したのか?」
「なんとか。毎度の如く、アイスでね」
苦笑を浮かべて、対面の席に座る男――祐一――に答える。
「あーあ。思わぬ出費だわ。それもこれも全部相沢くんの所為よね」
言って、香里は祐一に非難の視線を送った。
「相沢くんがいつまで経っても放してくれないのがいけないんだから」
ちょっぴり唇を尖らせて拗ねた表情をしてみせる香里。
「おいおい、俺だけが悪いのか? そんなことはないと思うぞ。香里だって、甘えた声を出しながら擦り寄ってきて、決して離れようとしなかったじゃないか」
「そ、それは……否定しないけど。でも、『お泊り』をする羽目になったのは、やっぱり相沢君の責任よ。あたしが『そろそろ帰らなきゃ』って言っても全然聞いてくれなくて……何度も何度も」
届くか届かないかの声で香里がポソポソと。耳まで朱に染めて。
「そんだけ香里が可愛いってことだな。放したくなくなるほどに。恨むんなら自分の魅力を恨んでくれ」
「か、可愛いって……そ、そんなこと言われたって誤魔化されないんだから。栞へのアイスの代金、相沢君にも折半してもらうからね」
恥ずかしさを誤魔化すように、香里が早口で一気に言い放った。
「なんだよ、けちくさい奴だな。アイスの1個や2個、ポンと買ってやれって」
「12個よ、しかもハーゲンダッツ」
「……マジ?」
祐一の問いに香里がコクンと首肯して答える。
アイスの中でも値の張るハーゲンダッツ。それも12個。
香里が折半を頼みたくなる気が痛いほど理解できた祐一だった。
「それは本気で御愁傷様って感じだな。出来れば助けてやりたいところだ。ところ、なんだが……実は俺も似たような状況でな」
どことなく遠い目をして祐一が零す。
その様を見て、香里はすぐにピンと来た。
「イチゴサンデー?」
「プラス、肉まんとタイヤキ。おしゃべりな栞に知られたってことは、舞や佐祐理さん、天野の耳に入るのも時間の問題なわけで。すると、先のラインナップに更に上乗せがある可能性が大だ。最低でも牛丼大盛りは確実だな」
「御愁傷様」
先程祐一に言われた言葉を香里が返す。心からの同情を込めて。
「それじゃ仕方ないわね。その状況の相沢くんに折半を求めるのはあまりにも酷ってものだわ」
「まぁな。でも、俺の所為で香里がハーゲンダッツの刑になったのも事実だし。だから、俺なりの誠意ってのも示したいと思うんだ。けど、さすがに金は無理。絶対に無理」
祐一の切実さすら感じさせる言葉に、香里は「でしょうね」と返して深く頷いた。
「そういうわけなんで、別のもので払おうと思う」
「別のもの?」
「ぶっちゃけた話、身体で」
「か、身体!?」
香里の顔がみるみる真っ赤に染まっていく。
「ああ。香里に『好きなだけ甘えてきても許すでござる。そりゃもう、オールオッケーさ、ベイベー』権を進呈しよう。どうだ? これなら金もかからないし、香里も俺も大満足間違いなし。実にナイスな案だと思うが?」
「そ、そうかも……しれないけど。……す、好きなだけ?」
上目遣いで香里が確認する。
「好きなだけ。まあ、香里がいらないって言うんならこの案は即時却下するけど。どうする?」
「いる」
可聴領域ギリギリの小声ながら、香里即答。
「そっか。よし、それじゃ早速」
言うや否や、香里の手を取って祐一が立ち上がる。
「えっ!? も、もしかして今から!?」
「もちろん。善は急げっていうだろ?」
「……善は急げ、か。それもそうね。昔から言うものね」
香里は至ってクールに――首筋までもを赤く染めて――同意。
「んじゃ、行こうぜ。いやぁ、本気で甘えてくる香里かぁ、楽しみだなぁ♪」
「ち、ちょっと! な、なんで、権利を行使される側の方がそんなにウキウキしてるのよ。も、もう、ばか」
――で、その数時間後。
「えぅー。お姉ちゃん、今日もまた帰ってきません。あれだけ言ったのに。これはアイス追加ですね、もちろんハーゲンダッツを。……っていうか! なんでわたしを混ぜてくれないんですか! わたしを仲間外れにして、二人だけでいいことしてるお姉ちゃんと祐一さんなんてだいっきらいですぅ!」
美坂低には些か不穏当な叫びが轟いていたりした。
同様に水瀬低でも。
そして、初めに戻る。
以下、エンドレス。
< おわり >
戻る