『ぬーぶら』
浩之が居間の前を通りかかると、中から妙に楽しそうな声が聞こえてきた。
何事かと思って覗いてみると、部屋では女性陣が勢揃いしてなにやら談笑していた。
「どうしたんだ、みんなして? なんか盛り上がってるじゃん」
ワイワイとした雰囲気に誘われ、そう声を掛けて浩之が居間に入る。
「あら、浩之。あなたこそどうしてたのよ。一人で部屋に篭っていたみたいだけど?」
「今日買ってきたマンガを読んでたんだよ。飢龍伝」
空いているソファーに腰掛けながら、浩之は綾香からの問いに簡潔に答える。
「え? あれの新刊出てたの? 後で読ませてね♪」
「あいよ。――で? お前らは何をしてたんだ?」
浩之が最初の問いを再び繰り返した。
それにセリオが答を返す。
「琴音さんにヌーブラを見せてもらっていたんですよ」
「えへへ。ちょっと、衝動買いしてしまいました」
ペロッと舌を出す琴音。
「ぬーぶら? ぬーぶらって何? 蚊の幼虫か?」
「それはボウフラやろ」
「じゃ、あれだ。パリの美術館」
「ルーヴルや」
「お湯を入れて三分間」
「ヌードル……って、いい加減にせんかい!」
浩之のくだらないボケに、智子が呆れた顔をしながらも律儀に的確なツッコミを入れていく。しかも速攻で。機を見るに敏である。
「これですよ」
二人の絶妙とも云えるコンビネーションに苦笑しつつ、琴音が現物を浩之に差し出した。
「ん、どれどれ」
受け取った物をまじまじと眺める。
色は肌色。触感は非常に柔らかく、まるでゼリーの様。
「ぱっと見、ウルトラマンの目みたいだが……マジでなにこれ?」
実物を見て、浩之の困惑は更に深くなっていた。
わけわからんと云う顔で周囲の面々に尋ねる。
「名前の通りですよ。それはブラです」
一同を代表して琴音が答える。
「は? それじゃ、これって下着なのか?」
「まあ、一応は下着……らしきものです」
「へぇ。こいつがねぇ」
感心した声を上げながら、ヌーブラをしげしげと見詰める。
見詰めて見詰めて見詰めまわす。
触る。触る。徹底的に触って触って触りまくる。
そうして、暫くのあいだ堪能した後、浩之は不意に琴音に視線を向けると徐に口を開いた。
「琴音ちゃんに頼みがある」
「ふぇ!? た、頼み、ですか? は、はい、なんでしょう?」
唐突に話を振られてビックリした顔を見せる琴音だったが、すぐに気を取り直すと笑みを浮かべて浩之に応じる。
その琴音に、浩之はヌーブラを手渡しながら言った。
「あのさ、物は相談なんだけど。もしよかったら、そいつを着て見せてくれないかな? どういう風になるもんなのか、非常に興味がある」
「ええっ!? ひょ、ひょっとして、今すぐですか?」
「うん、今すぐ。もちろん、嫌だったらいいんだけど」
「い、嫌ってことは……ないです、けど。寧ろ、見て欲しいって気も無きにしも非ず、ですけど。でも、やっぱりちょっと恥ずかしいです」
頬を染めてモジモジする琴音。
「そこをなんとか」
言って、浩之はパンッと手を合わせた。内心で『照れてる琴音ちゃんも可愛いなぁ』などと思いながら。
ちなみに、四方八方から「浩之ちゃんのエッチ」「ヒロユキって、ナチュラルにスケベだよネ」なんていう非難めいた声が投げ掛けられていたりもしたが、それらは全て聞こえないフリ。
尤も、胸の内では『エッチもスケベも別に否定する気は無いけど、今更たかが下着でそこまで言わんでも』と、些か腑に落ちない思いを抱いていたりしていたが。
未だに女心、並びに乙女心をいまいち理解していない浩之であった。
「ねっ、琴音ちゃん」
周囲からの雑音を意識の外に追いやって、浩之は琴音にお願いを続ける。
「……そんなに見たいんですか? どうしても?」
「どうしても見たい。是非とも見たい。浩之的好奇心がプリーズと叫んでる」
琴音の問いに浩之即答。どキッパリと。
それを聞き、琴音は小さな小さな吐息を一つ。そして、観念したように腰掛けていたソファーから立ち上がる。
「もう、しょうがないですね。わかりました。では、少しだけ待っていてください」
照れくささと呆れと微かな嬉しさの入り混じった複雑な笑みを浩之に向けてそう言うと、琴音は着替える為にヌーブラを手に居間から出て行った。
余談であるが、琴音が着替えに行っている間中、浩之に向け、
「……浩之さん、えっちです」
「やれやれ、性欲魔人の面目躍如やな」
他の面々から、ため息混じりのぼやきとジトーッとした視線が集中投下されていたりしたのは言うまでもない。
それから数分後。
「お待たせしました」
戻ってきた琴音が顔だけを部屋の中にピョコッと。
そして、次の瞬間、浩之の顔を見て驚いた声を上げる。
「ど、どうしたんですか? なんか、ものすごくゲッソリしちゃってますけど」
「気にしないでくれ。針のムシロにいただけだから」
力なく笑う浩之。
「針のムシロ、ですか?」
わけがわからず、眉を顰めて小首を傾げてしまう琴音。
「マジで気にしないでくれ、頼むから。――それはそうと、なんで顔しか出さないのさ。着替えたんだろ? 入って来いよ」
そう言って、浩之が『おいでおいで』と手招きする。
「……は、はい。あ、あの……似合ってなくても……その……わ、笑わないで下さいね」
少しの躊躇の後、羞恥で顔を真っ赤にしながらも、浩之に言われるままに琴音が居間に入ってくる。
すると、部屋の中に居た全ての者の口から感嘆の吐息が漏れた。
「ど、どうでしょう? 変じゃないですか?」
軽く周囲を見回して琴音が尋ねる。
「大丈夫、全然変じゃないわよ。ちょっとエッチっぽいけど、けっこう良い感じだと思うわ」
琴音の胸を覆うヌーブラをまじまじと眺めながら綾香が返した。
「へぇ。こういう感じなんだ。意外としっかり胸に張り付いてるみたいだね」
「薄着になる際には最適でしょうか。これでしたらラインが出ませんから」
あかりとセリオが興味深げに意見を交換する。
同様に、他の面々もああだこうだと感想を述べ合っていた。
そんな中、暫しファッションモデルの気持ちを疑似体験していた琴音であるが、やがてトコトコと浩之の前まで歩いていくと、手を後ろで組んで彼に自分の半裸身を晒した。
「どうですか、浩之さん?」
はみかみながら、琴音は浩之に問うた。
しかし、浩之からの答えは返ってこない。浩之は、ただ呆けた顔で琴音の事をジッと見詰めているだけだった。
「あ、あの……お気に召しませんか?」
リアクションが無いことに不安になった琴音。囁く様に、自信なさげに訊いた。小首を傾げて、上目遣いで。
その瞬間、浩之の中で何かがプチっと切れた。
実の所、浩之は琴音が部屋に入ってきた瞬間から魅了されてしまっていたのである。
琴音は上半身はヌーブラのみの半裸という扇情的な姿だったが、下半身は普段着――清楚なお嬢様風のロングスカート――のままだった。
そんなある種のフェチ心を擽るアンバランスな格好、加えて羞恥の表情、モジモジとした態度。全てが浩之のストライクゾーンだった。もっと俗っぽく言えば激萌えだった。
そして、トドメとばかりのイヂメ魂に火を点す不安気な声、プラス上目遣い。
それらの要素を目の前に一度に提示されたら、浩之の決して太くはない理性の糸が切れてしまうのは致し方のないことである。
「何を言ってるんだ、琴音ちゃん。お気に召さないわけないじゃないか」
「本当ですか? 良かったぁ」
心底安心して、琴音が満面の笑みを零す。
「ところで琴音ちゃん。今日は、琴音ちゃんだったよね」
琴音の肩に手を置いて、浩之がそう確認する。
最初は何の事か分からずに「え?」という顔になった琴音だったが、すぐに『夜』の事だと思い至り、耳まで赤くしながらも小さくコクンを頷いた。
「そっか。なら、問題ないな」
言うや否や、浩之が琴音をお姫様抱っこ。
「さあ、行こう。琴音ちゃん」
「ふ、ふぇ!? 行くって、ど、何処にですかぁ!?」
「ハッハッハ。そんなの決まってるじゃないか」
狼狽している琴音に浩之が笑いかける。歯をキラーンと輝かせて。
「愛の! 大海原さぁ!」
高らかに宣言すると、浩之は琴音を抱いたまま走り出した。
「ふぇ!? ふぇぇぇぇぇ!?」
――突発的大型台風獣一号、一過。
「……え、えっと……ひ、浩之ちゃん、久々に大暴走?」
「ヌーブラ……凄い効果、です」
浩之と琴音の一連のやり取りを目にしていたあかりたちは、全員が揃って呆気に取られた顔をしていた。
「凄い効果というか、あそこまで行くと過剰作用やな。効き過ぎや」
「琴音さん、明日は起きてこられるでしょうか」
「ムリ、だと思うヨ。ああなったヒロユキは……ヤジュウだから、ネ」
マルチの零した心配げな呟きに、レミィが浩之の部屋の方角へ目を向けて答えた。それに釣られる様に、周りの者も一斉に同じ方向へ視線を送る。そして、同情と羨ましさの入り混じった表情で、いつまでもいつまでも眺め続けるのであった。
レミィの言葉に、心の中で深く深く同意しながら。
この日以来、藤田家女性陣の中でちょっとしたヌーブラブームが沸き起こったりしたのだが……それはまた別の話である。
< おわり >
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