『落涙』
「いつかは……いつかはこの日が来てしまうことは分かっていたわ」
午後の陽射しに照らされ、眩しささえ感じさせる程に光に満たされた香里の部屋。
そこで、室内の明るさとは正反対の、沈痛さを滲ませた声色で香里が零した。
「栞のことは、覚悟は……出来ていた。出来ていたつもりだった」
ベッドに腰掛けた香里が肩を微かに震わせて言葉を紡ぐ。
「でも、甘かったわ。それが現実になると……そんなもの、綺麗に吹き飛んでしまって……」
手をギュッと握り締め、涙を一つ。
「相沢くん、あたし、もうダメ。もう、笑えない」
俺に目を向け、香里が弱々しく言った。
「あたし、あなたが思っているほど強くないもの。あたしは……あたしは……」
涙をポロポロと落として嗚咽する香里。
そんな香里に、俺は何も声を掛けてやることができなかった。
『しっかりしろよ』とか『泣いたって時間は戻らないんだぞ』といった陳腐な慰めや叱咤の台詞しか思い浮かべることの出来ないことに腹が立つ。不甲斐ない己を殴り飛ばしたくなる衝動に駆られる。
――と同時に、俺は自分が思いの外冷静であることに驚きを覚えた。
そう。俺は香里ほどのショックは受けていなかった。
しかし、それも無理からぬことかもしれない。俺と香里とでは、栞と過ごしてきた時間があまりにも違う。 出会ってからまだ日も浅い俺と、何年も何年も恐々としていた香里。『この日』を迎えることの恐怖と闘ってきた時間が違いすぎるのだから。
だから……仕方がない。
『最低だな、俺は』
ドライなことを考える自分に唾棄したくなるほどの嫌悪感を覚えつつも、俺は香里の肩をそっと抱き寄せた。
「相沢、くん」
素直に身を委ね、涙声で俺の名を呼ぶ香里。
気の利いた慰めを言えないのであれば態度で示すのみ。その声に応え、俺は肩に回した腕に更に力を込めた。
「相沢くん……相沢くん」
最初は抱かれるままだった香里であるが、少しすると彼女の方からも腕を伸ばし始め、やがて縋り付いてくる様に強く強く抱き締め返してきた。相変わらず「相沢くん、相沢くん」と俺の名前を呼びながら。
「香里」
胸の中に納まった香里の頭を撫でながら、俺は心から願った。
香里の心の傷が一日でも早く癒えることを。
そして、
その為なら、どんなことでもしようと。例え、それが如何なる愚行であったとしても。
愛しい少女の温もりを感じながら……俺は、誓った。
『終わり』
「――って、終わってどうするんですかぁ!?」
突如室内に木霊する声。その主、美坂栞かっこ貧乳かっことじる。
「お姉ちゃんも祐一さんもひどいです。なんなんですか、その態度は!? そんなことする人、嫌いですぅ!」
頬をプクーッと膨らませて栞が抗議してきた。
胸もそれくらい立派に膨らめば良いのにな、とか考えちゃったりしたのはここだけの秘密だ。
「そもそも、なんで泣くんですか!? ワケが分かりませんよ!」
いや、あれは泣くだろ。
俺は栞が持っているブツに視線を向けながら思った。
スケッチブック。しかも、謎の怪生物の絵付き。イメージ的には『命名:ぬちょぐりあ』って感じだな、よく分からんが。まあ、とにかく超怪奇不可思議物体が描かれているのである。
だが、あまり認めたくないのだけれども、どうやらあれは『俺と香里』らしい。栞曰く。
……泣くな、うん。
強制的にモデルをやらされた挙句、出来たのがあれでは泣くのも致し方ない。というか泣いて当然。トラウマになっても不思議じゃない。
俺みたいに耐えられる『漢』の方が珍しいと思われる次第。
香里の「今まで、どうにかこうにか逃げおおせてきたのに。無念だわ」という涙声が哀れを誘う。
「こんなによく描けてるのに。祐一さんもお姉ちゃんも芸術を愛する心が足りていません。もっと絵を見る目を養って、わたしの作品の良さに気付けるようになって下さい」
むちゃゆーな。
「それはそうと! お姉ちゃんもいつまで祐一さんにくっ付いてるんですか! ああ、もう! イチャイチャしすぎです! 離れてください!」
香里の身体をグイグイと引っ張って、栞が俺から引き剥がそうとする。
「あーん、栞が苛めるぅ。助けて、相沢くぅん」
対して、絶対に離さないとばかりに腕に力を加える香里。
妙に甘ったるい響きを持った香里の声が栞の血糖値……もとい、血圧を更に上昇させた。
「は・な・れ・て・く・だ・さ・い!」
「いーやーよ」
栞対香里の戦いが激化していく。
俺は、それをただ黙って見守っていた。
下手に口出しすると絶対にやぶ蛇になるのは分かりきっていたし、グイグイと押し付けられる香里の双丘が実に心地よかったから。つまらない茶々を入れてこの感触が無くなってしまうのは惜しい。
従って、静観はしているが、俺的には香里を応援していたり。
「……む、むぅ。お、お姉ちゃん……な、なかなか、やります、ね。さすが、です」
それからしばらく引っ張ったり引っ張られたりを繰り返しているうち、栞がスタミナ切れを起こした。
ゼェゼェと荒い息を吐きながら、肩を大きく上下させる。
「し、仕方ありません。こうなったら最後の手段、奥の手です」
なにやら不吉で不穏な言葉を口にすると、栞は徐に俺たちから距離を取り始めた。
「栞? なにをする気だ?」
嫌な予感に襲われて尋ねる俺。いや、なんとなく予想は付いているのだが。
「いきます!」
俺の問いに答えず、栞は奥義を発動。
助走を付けて、俺たちに向かって勢いよく飛び込んできた。
ダイビングしおりんプレス。もしくは、しおりちゃんアタック。
「うわぁ!? やっぱりかぁ!」
「きゃっ!」
圧し掛かられ、ベッドの上に転がってしまう俺と香里。
その上に乗って、栞は満足そうな笑みを浮かべた。
「お姉ちゃんと祐一さんを離すことが出来ないのでしたら、わたしも一緒にベタベタするのみです。と言いますか、わたしは祐一さんもお姉ちゃんも大好きなんですから最初っからこうすれば良かったんですよね。これなら、わたしもお姉ちゃんも祐一さんもみーんな大満足、万事オッケーのノープロブレムなのですから♪」
「そ、そういうものなのかぁ?」
よく分からんしおりん理論を炸裂され、俺は思わず尋ねてしまう。
「そういうものなんです」
キッパリと言い切る栞。
「うーん。ま、そういうものなのかもね」
苦笑を浮かべつつも、香里も追随した。
「そっか。なら、いいや」
至極アッサリ納得すると、俺は香里と栞の身体に腕を回してギュッと抱き締めた。
「そうそう。いいんですよ♪」
心底楽しそうに笑う栞と、
「世間一般の常識で考えれば、あまりよくはない気がするけど……」
やれやれ、といった顔をして、それでいてやはり楽しそうな香里。
午後の陽射しに照らされ、眩しささえ感じさせる程に光に満たされた香里の部屋。
そこで、俺たちは上になったり下になったり、顔を見合わせてクスクス笑い合ったりして。
差し込んでくる陽光に負けないほどの、明るい声を響き渡らせ続ける俺たちであった。
そんな事を暫し続けていると、俺は不意に注がれている視線に気が付いた。
何事かと思って目を向けると、そこにはドアを小さく開けて中を窺っているおばさんの姿が。
「!? お、おばさん!?」
「えっ!? お、お母さん!?」
「きゃっ!」
慌てて俺から離れる香里と栞。
「な、なにしてるのよ!? 覗きなんて最低よ!」
顔を真っ赤にして抗議する香里。
「ごめんねぇ。別に覗くつもりは無かったのよぉ。でも、何度ノックしても反応が無かったから、心配になっちゃってぇ」
悪いと思いつつも、ついついドアを開けてしまった、と。なるほど。一理ある、かな。
「だけど、ビックリしたわぁ」
心配してドアを開けてみたら娘たちが男とくんずほぐれつ。そりゃ、確かに驚くよな。
「香里も栞もあんなに甘えんぼさんだったなんてぇ。お母さん、知らなかったわぁ♪」
おばさんの言葉を受け、香里と栞は真っ赤な顔で轟沈した。
ってか、そっちかよ!? そっちの意味で驚いてんのかよ!?
どうでもいいですが、なんでそんなに嬉しそうなんでしょう?
「相沢さんに甘える二人があまりにも可愛かったからぁ、お母さん、ついつい絵に描いちゃったわぁ」
間延びした声でそう言うと、おばさんはどこからともなくスケッチブックを取り出してきた。
もしかして、かなり長時間覗いてました?
おばさん、実はもの凄く肝の据わってる方ですか?
スケッチブック、ひょっとして常備してます?
いろいろと、それはもういろいろとツッコミを入れたかったが、なんとなくドツボにハマりそうだったので心の中だけで抑えておく。
「絵、見る?」
おばさんは邪気の無い笑顔でそう言って、俺にスケッチブックを差し出してきた。
別に断る理由もないので素直に受け取る。
「あっ! だ、ダメ! 相沢くん、見ちゃダメ!」
香里の制止の声が飛んだ。
――が、ちょっとだけ遅かった。遅かったよ、香里。
えーっと、何と言うか、非常に表現しづらいのだが、取り合えず一言で感想を述べると『見事なまでに栞のお母さん』だった。
この世に、『栞以上』の絵が描ける人が居るとは思わなかった。
少しだけ、泣けた。
< おわり >
戻る