『とぅはと捕物帖』



 華の都、ここは大江戸八百八町。
 火事と喧嘩が名物の百万都市である。
 その江戸に、最近新たな名物が一つ。

「待ちやがれ! 今日こそとっ捕まえてやる!」

「は、はぅ〜。ま、待ってくださぁい」

「待てと言われて待つ奴なんかいないわよ! 捕まえられるもんなら捕まえてみなさいって!」

 それは闇夜を切り裂いて町を走り抜ける三人の男女、声を張り上げての捕り物劇であった。

「待てと言ってるだろうが! 神妙にお縄につきやがれ!」

「お縄に付いちゃってくださいですよぉ」

 追うのは、数々の事件や厄介事を解決してきた名親分との呼び声高い岡引、藤田の浩之。――と、その部下である下引のまるち。

「冗談! あっかんべぇだ!」

 追われる側は、真っ黒な南蛮渡来の『れおたぁど』を身に纏い、同じく黒い『ますく』で口元を隠した女性。
 手には本日の獲物である小さな黄金の菩薩像。

「待たねぇか! 『怪盗猫娘』!」

「ちっがーう! あたしの名前は『快盗ぷりてぃきゃっと』よ! なんど言ったら覚えるのよ、この鳥頭!」

 布で覆われているが故に若干くぐもってはいるが、それでも尚美しく響く声で浩之の叫びを訂正する。

「うるせぇ! 小憎らしいお前なんかにゃ猫娘で充分だ! つーか、設定に反した横文字の名前なんか使いやがって、このど阿呆!」

「小憎らしくて悪かったわね! 大きなお世話よ!」

 大声で言い合いながらも、速度を緩めずに走り続ける浩之親分と女怪盗。

「わたし、『ぷりてぃきゃっと』って名前、好きですよ」

「へぇ、あなたにはこの名前の良さが分かるの?」

「はい。とっても可愛らしいじゃないですか」

「あら、ありがと♪ 頭の固い親分さんと違ってあなたは良い子ねぇ」

「い、良い子ですか? え、えへへ。嬉しいですぅ」

 全速力で追いかけっこを続けながらも、女怪盗とまるちがホノボノとした空気を作り出した。
 その会話を耳にして、浩之のこめかみにプクッと血管が浮き出る。

「阿呆! こそ泥なんかと和気藹々としてるんじゃねぇ!」

 叱り付け、浩之はまるちの後頭部を軽くペシッと叩いた。

「はうっ。ご、ごめんなさいですぅ」

「うわぁ、乱暴な男ねぇ。女に手を上げるだなんて」

 浩之の行為を見て、ぷりてぃきゃっとが「さいてー、さいてー」と連呼して非難する。

「きっと、こういう奴が『どめすてぃっくばいおれんす』とか引き起こしたりするのね、うんうん」

「一人で妙な納得をするな! と言うか、さっきも言ったが設定を綺麗にシカトして横文字を使うんじゃねぇよ」

「大丈夫大丈夫。平仮名だから問題ないわ。のーぷろぶれむ」

 キッパリと平然と女怪盗が返した。

「ワケわかんねぇって! なにがどう大丈夫なんだ!?」

「まあまあ、細かいことは気にしない気にしない。……それはそうと、あなた、どこまで追ってくるつもり? いい加減に諦めたら? しつこい男は嫌われるわよ」

 若干うんざりした口調で快盗ぷりてぃきゃっとが問う。

「もちろん、お前を捕まえるまでだ」

「浩之さんはしつこさには定評がありますからね。特に女の子がらみでは……はぅっ」

 まるちの言葉が途中で止まった。否、止められた。
 後頭部に再度飛んできた浩之の手によって。ちなみに、先程よりやや強め。

「余計な事は言わんでいい」

「あうぅ。ごめんなさいですぅ。つい本当の事を言ってしまいまし……はぅっ」

 ある意味絶妙の掛け合いを見せている浩之とまるち。
 後方で繰り広げられている会話に微かに頬を緩めつつ、女快盗は徐々に走る速度を緩め……そして、歩を止め、くるりと振り返った。
 それを受け、浩之とまるちも同様に足を止める。二人の顔に警戒の色が浮かんだ。

「どうした、急に止まって? もしかして、観念したのか?」

「まさか。そろそろ不毛な追いかけっこを終わりにしたいと思っただけよ。あなたたちと一緒にいると退屈しないけど、だからといって、いつまでもついてこられるのも迷惑だしね」

 そう言うと、女快盗はおもむろに胸元から竹筒を取り出した。
 栓を取り、中に入っていた液体を道に撒く。

「何の真似だ?」

 独特の臭気から、それが油であることは浩之にもまるちにもすぐに分かった。ただ、意図は掴めない。

「目の前で撒かれた油なんかに引っ掛かる奴なんかいねぇだろ」

「さぁ? それはどうかしら? 確かに親分さんは引っ掛からないでしょうけど、ね」

 余裕を感じさせる声で言うと、快盗は浩之たちへと視線を向けたまま後ろに下がって距離を取った。

「逃がすかよ! なんだかよく分からんが……いくぞ、まるち!」

「はい!」

 軽く助走を付けて浩之とまるちが油を飛び越える。
 否。浩之は飛び越えられたが、まるちは、

「は、はわわっ!?」

 助走が足りなかったのか、単に跳躍力が足りなかったのか、はたまた走り続けたが故の疲労のためか、理由はなんであれ見事なまでに油の上に着地してしまった。しかもど真ん中に。

「まるち!」

 足を滑らせて転倒する寸前、浩之が咄嗟に手を伸ばす。

「ひ、浩之さーん」

 その手を掴み、まるちは転ばないように必死になって体を立て直そうとした。
 この時のまるちを表す言葉は二つ。『溺れる者は藁をも掴む』と『火事場の馬鹿力』であった。
 普段のまるちからは想像も出来ないほどの強い力で引っ張られ、浩之は思わず体勢を崩してしまう。

「ひ、浩之さん! 浩之さん!」

「どわっ。ま、まるち! 少しは落ち着け! 力を緩めろ!」

「わわわぁっ! 転びます! 転んじゃいますぅ!」

「あ、暴れるな! 大丈夫だから暴れるなって!」

 滑る足元に恐慌するまるちと、予想以上の力で引かれ身動きが取れなくなってしまう浩之。
 その二人を眺めながら、女快盗ぷりてぃきゃっとは『してやったり』の声色で言った。

「ほらね。追えなくなっちゃったでしょ? ま、あたしもこんなに上手くいくとは思わなかったけど」

「く、くそぉ」

「うふふ。親分さん、今夜も楽しかったわ。それじゃ、またね♪」

 浩之へと楽しげに笑いながら手を振ると、女快盗は軽やかにその場から走り去って行った。
 追おうにも、未だにまるちにしがみ付かれている為にどうにもならず。

「ち、ちっくしょおおおぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!」

 まるちが転ばないようにシッカリと支えつつ、浩之は声を大にして悔しさを放つ。
 江戸の夜に、浩之の叫びが虚しく響き渡った。



○   ○   ○



「浩之ちゃん、おはよう……って、なにしてるの?」

 朝一番、浩之が寝食の場としている長屋の一室にやってきたのは、近所で営まれている小料理屋『かみぎし』の娘、幼馴染のあかりであった。
 そのあかり、部屋に入ってくるなりポカンとした顔になる。
 あかりの視線の先ではまるちが顔に『反省』と書かれた紙を貼って正座していた。

「文字通り反省中、らしい。俺が起きた時には既にこの格好だった」

 浩之が苦笑混じりに答える。

「反省? まるちちゃん、昨夜、また何かやったの?」

 あかりがポロッと口にした『また』という言葉に反応して、まるちが「はぅ〜」と情けない声を上げて涙を流した。

「まあ、ちょっとな」

 あかりの問いに曖昧に返し、浩之が苦笑いを更に深める。

「ところで、どうしたんだ、こんな朝早くに? なんかあったのか?」

「あ、そうそう」

 ここに来た理由を思い出して、あかりがポンと手を打った。

「志保がかわら版を出してるんだって。いつもうちに魚を売りに来てくれるおじさんが教えてくれたの。ねえ、浩之ちゃん。一緒に貰いに行こうよ」

「……俺はいらね」

 あかりの申し出を浩之があっさりと却下する。

「かわら版なら理緒ちゃんの所のがいい。正確だし文章は丁寧だし。それに比べ、志保のとこのは速報性は秀でてるけどガセばっかりだからな。読む価値なんてねぇよ」

「でも、志保の書くかわら版って読んでて楽しいよ。笑えるし」

「かわら版で笑いを取ってどうするんだよ」

 こめかみを指で押さえ、浩之が呆れた声で零した。

「とにかく、俺はいらね」

「そんなこと言わないで。ねっ、一緒に行こうよぉ。志保だってきっと浩之ちゃんが来てくれるの待ってるよ。ねっ、ねっ。行こうよぉ。一緒にお出掛けしようよぉ」

 改めて拒否の意を示した浩之に、おねだり口調であかりが訴える。
 上目遣いで、甘えた声色でお願いしてくる幼馴染。浩之の肩を軽く揺すって「ねぇ、ねぇ」と。
 さすがに、それを邪険に突き放せるほどの冷たさは生憎持ち合わせておらず、

「ったく、しょーがねーなぁ」

 深いため息を吐きつつも、結局は折れてしまう浩之だった。

「分かった分かった。行くよ。行けばいいんだろ、行けば。まるち、お前も一緒に来い。もう反省の時間は終わりだ」

 まるちの顔に貼られた『反省』をペリッと剥がす。

「ほら、行くんならさっさと行くぞ」

 あかりとまるちにそれだけ言うと、浩之は三和土に降りて草履を突っ掛け、一人でとっとと外に出てしまった。

「あっ。ま、待ってよ、浩之ちゃーん」

「はわっ。お、置いてかないでくださーい」



○   ○   ○



「またまた現れたよ、快盗ぷりてぃきゃっと! 今度の獲物は越前屋の黄金の菩薩像ときたもんだ!」

 江戸の町の中に流れる小川。
 それに架かっている橋の近くで大声を張り上げているのはかわら版屋の名物娘である志保。
 早くも昨夜の事件について刷ったかわら版を手に、激しい身振りと共に辺り一面に声を響かせている。

「越前屋と言えばここらでも有名な豪商だけど、金の汚さに関しても天下一品、はっきり言って庶民の嫌われ者。そんな輩からものの見事にお宝を盗み出してきたぷりてぃきゃっと! さすがは神出鬼没の大泥棒ね。実に鮮やかだわ! で、それを追ったのがみんなもよーく知ってる藤田の浩之親分。今回もまたアッサリと取り逃してくれたわ。相変わらず女には甘いのよねぇ。聞くところによると、ぷりてぃきゃっとは相当に『良い身体』をしてるらしいのよ。どスケベなヒロだから、大方身体に見惚れて鼻の下を伸ばしているうちに逃げられたんでしょうね。ホント、あいつはバカだから」

「ちょっと待て! 勝手なことぬかすな! 誰がバカだ、誰が!」

 志保が気分良く弁舌をぶっていると、それに被さる怒号が一つ。

「なによ。いいとこで邪魔しないで……って、なーんだ、ヒロか。噂をすれば何とやらね」

 あかりとまるちを両の腕にくっ付かせて登場した浩之を見て、志保が不愉快そうに「ふん」と鼻を鳴らした。

「悪いけど、今はあんたと遊んであげられるほど暇じゃないのよ。商売の妨害しないでくれる?」

 志保は犬でも追い払うように、浩之に向けて「しっ! しっ!」と手を振る。

「て、てめぇ」

 頬を引き攣らせて、浩之は志保を睨み付ける。そして、悪口雑言を放とうと口を開いた。
 しかし、浩之が言葉を発する寸前、別の方角から罵詈雑言が志保に向けて飛ばされる。

「やれやれ。毎度の事ながら、志保さんの言葉には教養が感じられませんね。聞き苦しいことこの上なしです。そんなことだから、親分さんに相手にしていただけないのですよ」

 浩之や志保、あかりやまるちが一斉にそちらに目を向けた。
 すると、そこには穏やかな笑みを浮かべた髪の長い少女の姿が。

「琴音ちゃん」

「おはようございます、親分さん。朝から親分さんとお会いできて、琴音、幸せです♪」

 ニッコリと微笑んで、ペコリと可愛らしく頭を下げて挨拶をしながら、琴音が浩之たちの方へと近付いてくる。
 琴音。清楚で美しい外見と、静物画から風景画、動物画まで幅広くこなし『この世に琴音に描けない物など存在しない』と評される程の実力を兼ね備えた、今、江戸で一番人気の高い絵師である。

「こ、こ、こーのエロ絵描きが! なーに言いたい放題言ってくれちゃってるのよ!」

 ただし、現在はもっぱら春画描きであるが。

「エロ絵とは、これまた教養の欠片も無い言い方ですね。下品です。まあ、元々志保さんに品など求めてはいませんが。無駄ですからね。くすっ」

 志保の叫びに余裕の態度で琴音が言い返す。思いっきり棘を付けて。

「春画は芸術ですよ。まさに美の極致です。志保さんのような無粋な方には到底理解できないかもしれませんけど」

「こ、このぉ、言わせておけばぁ!」

 琴音からの毒舌を受けて、志保が顔を真っ赤にして声を荒げた。
 周囲に一触即発の空気が流れる。

「ひ、浩之ちゃん。と、止めなきゃ」

「そ、そうですよ、浩之さん」

「……ほっとけ。いつものことだ」

 オロオロして訴えるあかりとまるちに、浩之は疲れた口調で言い放った。
 現に、志保と琴音の口喧嘩は浩之の言葉通りに『いつものこと』であった。
 志保が浩之をネタにしてかわら版を書き、それに琴音が突っ掛かる。そのやり取りは事ある毎に繰り返され、既に日常茶飯事となっていた。

「エロ絵は所詮エロ絵よ。しかも、あんたの場合は妄想絵じゃない。もしくは願望絵かしら? 『あーん、親分さーん。琴音を滅茶苦茶にしてくださーい』とか夢想しながら描いてるんでしょ。この変態女!」

「ふんっ。親分さんに構って欲しくて、わざと悪意のあるかわら版を書いている寂しい志保さんよりはマシです。志保さんってあれですよね。いわゆる『好きな子ほどいじめたい』ってやつ。全く幼稚ですね」

「な、なんですってぇ! もう一度言ってみなさいよ!」

「ええ、何度でも言って差し上げますよ」

 誰も制止しないのをいいことに、天井知らずで盛り上がりまくる琴音と志保。
 そんな二人を横目に、

「……ったく」

 浩之が深い深いため息を吐いた。
 四方八方から飛んでくる『御愁傷様』と言わんばかりの同情や憐憫の入り混じった視線が痛い。
 思わず、頭を左右に振って再び嘆息してしまう。
 ――その瞬間、

「ん? なんだ?」

 浩之の耳に遠方で多くの者がどよめく声が入ってきた。次いで、感嘆や羨望の声も。

「なにごとだ?」

 興味を惹かれて、そちらへと顔を向ける。
 あかりにまるち、言い争いをしていたはずの志保と琴音も共に。
 暫しの後、浩之の目に入ってきたのは三人の美しい少女の姿だった。ついでに、周囲に「かーっ! かーっ!」と騒音を振り撒いている屈強そうな老人も一人。

「なにもんだ、あいつら?」

 浩之が疑問を漏らす。
 すると、身近にいた四人の少女が一斉に驚きの表情を浮かべた。

「え? 浩之ちゃん、知らないの?」

「ん? ああ、全然知らねぇ。有名人なのか?」

 浩之が問うと、志保が『やれやれ』と言わんばかりに肩を竦める。

「あんたって相変わらずよねぇ。岡引という仕事をしてるんだから、少しは世の中の事に詳しくなっときなさいよ」

「大きなお世話だ。んなことより、誰なんだよ、あいつらは?」

「美人三姉妹と評判の来栖川屋の御令嬢ですよ」

 浩之の再度の問いに琴音が答えた。

「来栖川屋? 来栖川屋というと、あれか? 乾物から造船、貿易まで幅広く手掛けてる、大江戸一の大豪商の来栖川屋か?」

「はいですぅ。そこのお嬢様、芹香さんに綾香さん、芹緒さんです。そして、御付きの瀬馬守さんです」

「ふーん。芹香に綾香に芹緒ねぇ」

 名前を口にしながら、浩之が一人ずつ視線を送っていく。
 最初に芹香。次に芹緒へ。

「確かにいいとこのお嬢様って感じだな」

 彼女たちの身のこなしから溢れる上品さ、着ている物の高級さなどから、浩之は「なるほど」と納得して深く頷いた。

「で? こいつが綾香だっけ?」

 次いで、三人目、綾香に視線を送り、

「……ん?」

 その刹那、浩之は微かに違和感を覚える。

「あれ? あいつ、どこかで会ったことあるような……気の所為か?」

 思わず首を傾げる浩之。
 そのまま、浩之の目は綾香に釘付けになった。
 他の二人と同様に絶世の美少女であるが、芹香や芹緒と違い躍動感が感じられた。
 芹香と芹緒が儚げな弱々しさを醸し出しているのとは対照的に、綾香は生命感溢れる力強い輝きを発している。

「うーん。やっぱり、あいつの顔を見るのは今日が初めてだよなぁ。あれだけの女なら一度会ったら忘れないと思うし……。でも、あの雰囲気、どこかで……」

 浩之が必死に記憶を探る。綾香のことをジッと見詰めながら。

「……あ。やば。ジロジロ見すぎたかな?」

 向けられる視線を察したのか、綾香が浩之へと目を向けてきた。浩之と綾香の視線が絡み合う。
 綾香が一瞬驚いた顔を浮かべたようにも見えたが、気の所為だろうと思い、すぐに意識の外へと捨てやった。
 バツの悪さを感じる浩之であったが、急に顔を背けたりしたら却って格好悪く、また失礼になると思い、そのまま目を逸らさずに軽く笑みを浮かべる。ついでに一応会釈もしておいた。
 それに綾香は笑顔で応えると、彼女はそのまま浩之の方へと歩を進めだした。慌てて制止する老人の声を綺麗に無視して。

「藤田の親分さんですね。はじめまして、来栖川の綾香と申します」

 浩之の目の前に来ると、そう言って綾香はふかぶかとお辞儀をする。

「ああ、岡引の藤田だ。よろしくな。別にそんなに畏まらなくてもいいぜ。気楽にしてくれ」

 対して、浩之は極々簡単な挨拶を返した。

「あら、そう? じゃ、お言葉に甘えて普通にするわね」

「おう、そっちの方が俺も気を遣わなくて済むからな。ところで、綾香さんと言ったっけ……」

「綾香、でいいわよ。あたしも浩之って呼ばせてもらうから」

 浩之の言葉を途中で遮って綾香が訂正を掛けてくる。

「そっか。そんじゃ、綾香。お前さん、俺の顔と名前を知ってたみたいだけど、どうしてだ? どこかで会ったことあったっけ?」

 浩之が綾香に尋ねる。
 すると、綾香は少しだけキョトンとした後、プッと吹き出した。

「な、なんだよ?」

「いやね、浩之ってば。あなたの事を知らない人なんてこの江戸にはいないわよ」

「そ、そうなのか?」

 困惑した顔で浩之が訊く。

「藤田浩之といったら江戸の町で最も有名な岡引よ」

「へぇ、そうなのか。俺って結構知名度高かったんだな」

 満更でもない表情をして浩之が『うんうん』と頷いた。
 ――が、

「ええ、江戸で一番の女好き、スケコマシとしてね」

 次の綾香の台詞でガクッと崩れ落ちた。頭から地面に突っ伏してしまう。

「な、な、なんじゃそりゃあ!」

 ガバッと起き上がると、浩之は開口一番叫んだ。魂から。

「納得いかんぞ! なんで俺がスケコマシなんだ!? そんないい加減なことを流布してる奴はどこのどいつだ!?」

 その浩之の物言いに、綾香の目がジトーッとしたものになる。

「ねぇ、浩之。あなた、説得力って言葉、知ってる?」

「は? お前、何を言って……」

 浩之の口が途中で止まった。綾香の視線の意味を察して。
 綾香が見ているのはあかりにまるち、琴音に志保。綾香は、自分に向けられる嫉妬や警戒、不安等の感情の篭った目から、彼女たち四人が浩之に好意を寄せている事をすぐに理解した。同時に、この四人は氷山の一角でしかないであろうことも。

「もう一度訊くわ。説得力って言葉、知ってる?」

「知ってます。すみません。俺が悪かったです」

 ガックリと肩を落とし、浩之、敗北宣言。

「んふふぅ。分かればいいのよ、分かれば」

 心底楽しげに綾香が微笑む。
 刹那、彼らから少し離れた所から綾香を呼ぶ「おじょーさまーっ! いい加減になさいませーっ!」との怒声が。

「まったくもう、大声で恥ずかしいわねぇ。……ごめんなさい。連れがうるさいから、あたし、行くわね」

「ああ、それじゃあな」

 まだ若干の敗北感に苛まれながらも、浩之は笑みを浮かべて綾香に応える。

「ええ、それじゃ」

 綾香も笑って返し、あかりたちへも小さく手を振った。
 そして、姉たちの許へと早歩きで向かう。
 ――浩之の横を綾香が通り過ぎた。

「……えっ!?」

 その瞬間、浩之の脳裏で重なった。不意に、唐突に、それでいて完全に。姿形、声、醸し出す雰囲気、全てがカチッと噛み合った。
 どこかで会ったのではないか?
 浩之が抱いていたこの疑問が一気に氷解する。

「待った!」

 衝動的。浩之は思わず声を張り上げて綾香を呼び止めた。

「……なにかしら?」

 立ち止まり、背を向けたまま、顔だけを見せて綾香が問う。

「どうしたの? まだ何か用でも?」

「……あー、いや、別に用ってワケじゃないんだけど」

 つい勢いあまって呼んでしまっただけ、とはさすがに言えず、浩之は乾いた苦笑を顔に貼り付けて頭を掻いた。

「ま、いっか。せっかく足を止めてもらったんだし、どうせだから一つ忠告でもさせてもらおうかな」

「忠告?」

 身体を浩之の方へと向け直して綾香が尋ねる。怪訝そうに眉を顰めて。

「ああ。とは言え、忠告っつーほど大袈裟なもんでもないんだけどな」

 そう前置きしてから浩之は本題を切り出した。

「お前も知ってるだろうけど、最近、江戸の町を騒がしている盗賊がいてさ……」

 ピクッと、綾香の顔が微かに強張る。
 だが、浩之は綾香の反応には一切構わずに口を動かし続けた。

「『怪盗猫娘』とか云うふざけた奴なんだけどな。そういうコソ泥がウロチョロしてやがるから、今、江戸の夜は物騒になっちまってるんだわ。だからよ、夜に一人で歩き回るのは止めた方がいいぞ。下手に夜遊びなんかしたら『猫娘』に噛み殺されちまうかもしれねぇぜ」

 必要以上に、不自然なまでに『怪盗猫娘』を強調した浩之の言葉を受けて、綾香の目が鋭い輝きを帯びた。
 だが、すぐにその光を消すと、代わりに瞳を挑発的な色で満たす。

「猫娘じゃなくて『ぷりてぃきゃっと』でしょ。それに、『ぷりてぃきゃっと』は人を傷付けたりしないって聞いてるわよ。きっと義賊なのね」

 クスッと笑って綾香が返した。こちらも『ぷりてぃきゃっと』の名を無闇矢鱈と強調して。

「義賊、ねぇ」

 浩之の漏らした呟きに綾香が大きく頷いてみせる。

「ええ。だから、変な心配しなくても大丈夫よ。もっとも、あたしは夜中に一人で出歩いたりなんてしないけど」

「そっか。それじゃ、余計なお世話だったな」

「まあね。けど、心遣いは受け取っておくわ。ありがとね」

「ああ」

 綾香の礼に短く応えると、浩之は一つ大きな吐息を零した。同時に、身体中に篭っている余分な力を抜く。

「俺の用件ってのはそれだけだ。つまんねぇ事で呼び止めちまって悪かったな」

「いいえ、気にしてないわ。じゃあ、浩之の親分さん……」

 そこで一旦言葉を切ると、綾香は穏やかに笑った。
 そして、

「また、会いましょう。近いうちに、ね」

 再会を約束し……去って行った。

「ああ。また、な」

 遠くなる綾香の背中に、浩之が小声で返す。
 自分でも気付かないうちに、口元に楽しげな笑みを浮かべて。

「浩之ちゃん、どうかしたの?」

「浩之さん?」

 今まで浩之と綾香の間に流れていた空気に入り込めない――しかも危うい――ものを感じていたあかりとまるちが不安そうな心配そうな顔をして尋ねてきた。

「ん? なんでもねぇよ。どうもしねぇよ」

 笑顔で返し、安心させるようにあかりとまるちの頭をポンポンと撫でてやる浩之。
 次いで、二人と同様の顔をしていた琴音の頭も撫で、志保には軽口を叩いておく。
 しかし、頭の中では先程からたった一人の顔だけが浮かんでいた。

(来栖川屋の綾香、か)

 岡引の藤田浩之。そして豪商の娘、綾香。
 これが、二人の『初めての』出会いであり、この日から続いていく二人の歩みの第一歩であった。









< つづ……く? >
たぶん続きません


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