『ぶらいんどたっち』
みなさん、こんにちは。雛山理緒です。
いきなりですが、今、わたしはキーボードと格闘中だったりしています。
いわゆる『ブラインドタッチ』の練習中。
智子さんや綾香さん、セリオちゃんらがパソコンを使う時、モニターだけを見て字を打っているのを目にして「かっこいいなぁ」と思いまして……それでわたしも練習を始めたのですが……こ、これがなかなか難しくて。
『あいいぇpかくくkwこ』
訂正。なかなかじゃありません。すっごく難しいです。
ちなみに、上の意味不明の羅列ですが、わたしとしては『あいうえおかきくけこ』と入力したつもりでした。
「はうぅ。頭と指がパニック状態だよぉ」
正しい手の置き方・指の運び方などは智子さんたちにレクチャーしてもらいましたので、あとは本人の努力次第なのですが……ううっ、先は長そうです。
「えっと……取り合えず、基本中の基本である『あいうえお』だけでもマスターしないと」
キーボードを見て『A』の位置を確認し、そこに指を添えてからモニターに視線を移して『あ』を入力。
キーボードを見て『I』の位置を確認し、そこに指を添えてからモニターに視線を移して『い』を入力。
キーボードを見て『U』の位置を確認し、そこに指を添えてから……
「って、なにをやってますか、わたしは!?」
文字を打つ前にキーの位置を目で確認してたら意味無いでしょうが!
入力する瞬間だけモニターを見ていても仕方ないですよぉ!
自分で自分にツッコミをいれ、わたしは思わず頭を抱えてしまいました。
いけないいけないと思いつつも、どうも無意識にチラチラとキーボードを見てしまいます。
これではダメです。ダメダメです。ダメの三乗です。
「……頭、動かせないように固定しちゃおうかな。椅子の背凭れにでも縛り付けて」
自分で制御できないのであれば、些か強引ではありますが、『見たくても見ることが出来ない』状況にしてしまうのも一つの手かと。
「そう、だね。そういうのも有りかな。……よし、それでいこう」
わたしはポンと手を打つと、自分の考えにゴーサインを出しました。
――そして、即実行。思い立ったが吉日なのです。
「よいしょっと。……ん、こんなものかな」
椅子の背凭れに、芹香さんからお借りしてきた柄の長い竹箒を縛り付けました。
背凭れの部分が肩くらいまでしかなかった為に、こうして別の物で継ぎ接ぎする必要があるわけなのです。
結果、見た感じ『凸』の字を縦長にした様になりました。
「それじゃ、次は……わたしの頭を……」
出来栄えに納得して腰掛けると、わたしは、同じく芹香さんから借りてきた紐で箒の柄に頭を固定します。
鉢巻の様に紐をおでこに宛がうと、後ろに回して箒にしっかりと結び付けました。ギューッと力を込めて、ギッチリと。ピクリとも動けない様に。
「うん。全く動けないよ。完璧だね」
目線はモニターに固定。頭を動かすことなど不可能になりました。
これならばキーボードに目を向けてしまう事もありません。
「ではでは、準備が整ったところで……練習練習っと」
わたしは気分良く練習を再開しました。
今のわたしは傍から見たらかなり滑稽な姿でしょうが、取り合えずそれは気にしないという事で。見られなければオッケーですし。
『あいううぃあいうをあおいえpあいyえお』
何度も何度も『あいうえお』を入力。
『あおうwおあいうえp』
何度も何度も。何度も何度も。
一文字打つ度に、無意識に下を見ようとしてしまいますが、固定している甲斐があってそれは出来ず。狙い通りです。
無理矢理に動きを止められている所為で首の辺りに引き攣るような感覚が生じますが、それはまあ止むを得ないでしょう。
『あいうrいあいうえpあいうえおあいうえおあいうえおあいうえおあいうえおあいうえお』
その後、延々と練習を続けていると、努力の成果か『あいうえお』はほぼ間違いなく打てるようになりました。
進歩です。格段な進歩です。
ちょっと感動です。
「よし。それじゃ、今度は『カ行』だね」
勢いに乗って、次のステップへ。
「えっと……K……K? あ、あれ? Kってどこだっけ?」
記憶を頼りにキーボードを打ちますが、出てくる文字は『J』とか『L』とか『;』とか。
「わかんなくなっちゃった。しょうがない。今回だけは一度目で見て……」
言うと同時にわたしはキーボードへと視線を向けました。
否、向けようとしました。
そう。この時のわたしは何故かすっかり失念していたのです。固定されている事を。
当然、無理矢理に止められる頭の動き。それは、わたしの首に小さくない衝撃を与えました。
先程から引っ切り無しに引き攣るような感触に苛まれていた首。
はっきり言って『攣る』寸前にまで酷使されていた首。
そこにトドメとばかりに加えられた負荷。
その結果、
「は、はうあっ!」
わたしの首筋に電気が走りました。ピシッと音を立てて。
「あ、あううう゛う゛う゛っ」
痛みでまともな声が出ません。出るのは掠れた呻きのみ。
と、取り合えず、紐を解いて……よ、横に……。
そう思い、痛みを堪えて指を結び目に運びました。
すると、そこでもアクシデント発生。
慣れない探索行を強いられて疲労が溜まっていた指が、紐に触れた途端に首同様にピキッと。
「っっ!」
今度は呻きすら出せず。
襲っていた痛みに、身体が反射的にビクッと仰け反りました。仰け反ってしまいました。
そして、その行為により生じた運動エネルギーによって、わたしは椅子に縛り付けられたまま後ろにドタッと倒れこんでしまいました。
毛足の長いカーペットのおかげで、倒れた際の痛みが殆ど無かったのは不幸中の幸いでしょうか。
「……ぅ……ぁ……っ、ふぅ」
そのまま暫し。時計の秒針が三周と半分ほど。
ピクリとも動かずに静かに床に身を委ねていると、どうにかこうにか痛みは引いてくれました。
「……っ……はぁ……はぁ。ああ、ビックリしたぁ」
思わず安堵の吐息が漏れます。
「この程度で攣っちゃうなんて鈍ってるのかな? 確かに、最近ちょっと運動不足気味ではあるけど」
微かに苦笑いを浮かべつつ、わたしは身体を起こそうとして、
「……うわ」
――途中でその動きを止めました。
転んだ拍子に巻き込んでしまったのでしょうか。マウスのコードが足に絡み付いていました。どうもしっかりと結ばれてしまったみたいです。足を揺すっても落ちる気配が全くありません。
「こ、困ったなぁ」
あまり邪険に扱うとコードが切れてしまいそうで、怖くて派手には足を動かせません。
「……ま、いいや。取り合えずマウスは後回しにして。先ずは頭の紐を……ひ、紐、を……」
結び目に指を運んで解こうをしましたが……はて、どうしたことでしょう。
「う、うぐっ。全く解けないんですけど。緩みすらしないんですけど」
疲労の所為で指の力が落ちている為か、はたまたギッチリと結びすぎた所為なのか。
どちらにせよ、結び目は健在。わたしの指をかたくなに拒絶しています。
「えっと、こ、この状況って、すっごくまずくない?」
椅子に固定されているので身を起こせず、マウスのコードによって足も動かせず。
誰かに救いを求めようにも、
「各部屋、防音がしっかりしてるからねぇ」
おそらくは声も届かないでしょう。
プライバシーを守る為の建築者の厚意。それが今は心底恨めしく思えました。
「はうっ。もしかして八方ふさがり!?」
状況の絶望的加減と、自分のあまりにも情けない姿に、わたしは思わず涙を一筋。
「あううううっ。誰か……助けて」
その願いが叶えられないことを理解しつつ、言わずにはいられないわたしでありました。
結局、わたしが助けられたのはその翌朝。
いつまでも部屋から出てこないことを心配して見に来てくれたあかりさんに発見されるまで、わたしは同じポーズを強いられることに。
恥ずかしいやら情けないやら。
ちなみに。
真夜中に「これって、『ひとりえすえむほーちぷれい』みたいだよね」とかバカな事を考えてしまったのはここだけの秘密。
更に「浩之くん、えすえむって好きかなぁ? もし好きだったら、わたし……って、キャーキャー、わたしってば何を考えてるのよぉ」とか思って琴音ちゃんみたいに「やんやん」と悶えてしまった事は、もっともっと秘密。
< おわり >
戻る