『肴』



「注いでちょーらい」

「おいおい、香里。その辺にしとけって。お前、完全に間違いなくこれでもかってくらいに飲みすぎだから」

「注いれ」

「いや、だからな」

「注げ」

「……目が据わってますよ、香里さん」

 コンパ飲み会エトセトラ。
 呼び名は違えど酒の席。
 大学生ともなれば、そのような場に招かれる事は多くなるワケで。
 それは俺も、俺と同じ学校に進んだ香里も例外ではなかった。
 とは言え、比較的ほいほい参加していた俺とは違い、香里は殆ど飲み会の類には顔を出したりしなかったが。
 曰く「どんちゃん騒ぎって好きじゃないのよね」とのこと。
 聞いた時は、『なるほど、実に香里らしい』と妙に納得したものだ。
 しかし、その香里が今日は珍しく誘いに応じていた。「別にこれといった理由なんて無いわ。ただ、なんとなくそんな気分だっただけ」。受けた訳を尋ねた時の解答がそれ。
 実際に『言葉通り』なのか、もしくは何か他に理由があったのかは定かではないが、とにもかくにも久方ぶりに飲み会に参加した香里だった。
 その香里であるが、開始当初から多くの者から酒を注がれまくった。
 普段は来ない者が来てくれた嬉しさ、新鮮さ。アプローチする絶好のチャンス。
 いろいろな思惑に因り、男女問わずあらゆる人から酒を勧められまくった。
 対する香里。
 クールな外面とは裏腹に意外と人の好い彼女は、酌の波を断る事が出来ずに全てに律儀に応え続けた。
 応えて応えて応えまくって。
 ――結果、

「注ぎなしゃいって……言ってるれしょぉ」

 世界中のどこに出しても恥ずかしくない立派な酔っ払いが完成した。

「もうダメだって。これ以上は禁止」

 香里がグイッと突き出してくるグラスを取り上げて、俺は軽くため息を零した。

「えーっ!? なんれよぉ!?」

「さっきも言ったろ。お前、飲みすぎ。もうベロンベロンに酔っ払ってるじゃねぇかよ」

「あらし、酔っれないわよ。じぇんじぇん酔っれらいんらから。だから、もっろ飲んれも大丈夫よぉ」

 呂律が回ってないし。最早なにを言ってるんだか判別が難しくなってきた。

「ダメだっつーの。もう酒はお終い」

 酔っ払いの『酔ってない』ほど当てにならないものはない。
 俺は香里にキッパリと言い返した。

「うー。ひどいー。あいざぁくん、かろじょへの愛が足りてにゃいわよー」

「あのなぁ。愛があるから言ってるんだろうが」

 彼女。そう、彼女なのである。
 香里は今、俺の愛する彼女だったりするのだ、これが。
 ちなみに「じゃ、わたしは二番目でいいよー」とか「仕方ないですね、三番目で我慢します。でもでも、お嫁さんでの一番の座はお姉ちゃんには譲りませんからね」等と宣ったりする輩が多々いたりするが……その辺は見ないフリに聞かないフリ。
 ついでに言っておくと、俺と香里は現在半同棲状態だったりする。高校卒業後に香里が大学近くに借りたアパート。週に5日はそこで寝起きしていた。水瀬邸から通学するよりも楽である、という建て前で。
 実際は、単に好きな娘の傍にいたかったからなのだが。香里もそれを望んでくれたし。
 完全同棲ではなく半同棲なのは、最低でも週に2日は帰らないと拗ねまくるからだったりする。名雪やあゆ、真琴といった面々が。……何気に秋子さんも。

 閑話休題。

 とにもかくにも、俺と香里は一般に『彼氏』『彼女』の関係なのである。
 ――で、彼氏である俺は、彼女であるところの香里に簡潔に言い切った。

「酒はもうダメ」

 しかし、酔っ払いには簡潔だろうが難解だろうが通じやしないのは世の定説。

「やーらー。飲むのー。お酒のむのー」

 子供のように駄々をこねる香里に、俺は思わず天井を仰いで嘆息してしまう。

「……勘弁してくれ」

 周囲からの視線も段々痛くなってきた。
 それはそうだろう。普段の香里はクールで知的な大人っぽい女性で通っているのだから。
 いつもの香里からは想像も出来ないその姿に、興味津々の目が注がれるのは至極当然の事と言える。
 尤も、だからといって突き刺さってくる視線の束を許容できるはずもない。注がれている側の当事者にとっては居心地悪い事この上なしであるし。
 放っておいて逃げるという手もあるにはあるが……そいつは却下しておく。それをすると後で泣きを見る可能性が極めて高い。今の泥酔っぷりを見る限り、明日には今日の記憶は残っていなさそうであるが、誰かにチクられないとも限らない。危ない橋は渡らないに越した事はないのである。
 それに、そういう事情を抜きにしても、俺に『香里をほったらかしにする』なんて邪険な扱いが出来るワケがない。やっぱ……大事だし。

「……こほん」

 自分が抱いた考えに照れ、なんとなく咳払いを一つ。
 それはさておき。
 速やかに、かつ安穏に事態を軟着陸させるにはどうしたらいいか。
 思うに、やはり他の事で香里のご機嫌を取るのが一番だろうか。

「あいざぁくん。コップ取っれ。お酒のむー」

「ジタバタしないの。お酒はもう飲んじゃダメ。聞き分けなさい。そうしたら、代わりに何でも言う事を聞いてあげるから」

 俺が遠ざけたグラスを取り戻そうとモゾモゾしている香里を、子供に言い聞かせるような口調で優しく諭す。無論、餌付きで。

「……何でも?」

「何でもです」

 アッサリと餌に喰い付いた香里に内心で苦笑しつつ、俺はコクンと首肯した。と同時に小さく安堵の吐息を零す。何を求められるのかは分からないが、どんな要求であっても、少なくとも周囲からの好奇の視線を浴び続けるよりは余程マシであろうから。

「じゃあもうお酒は飲まらい。その代わり……」

「その代わり、何?」

「ぎゅーって、だっこして」

 しかし、俺の安堵は香里の放った一言で呆気なく砕かれた。それはもう木っ端微塵に。

「……なんですと?」

 まさかそんな『お願い』が来るとは予想だにしていなかった俺は、呆気に取られて数瞬固まってしまった。
 だっこ? 何故に? どこからその様な発想が?
 酔っ払いに理屈は通用しない。頭では分かっている。分かってはいるが、それでも尚困惑してしまう。

「だっこ」

 鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔をしていると思われる俺に、香里は手を伸ばしながら再度繰り返した。

「だっこ、ですか?」

「うん」

 その通り、と言わんばかりに香里がニッコリと微笑む。

「だっこして」

「あ、あのですね、香里さん。私としましてはあまり目立つ事はしたくないのです。なのに、その様な行為をしてしまっては却って……」

「だっこ」

 俺の言葉を遮って、香里が尚も要求を繰り返してきた。

「で、ですから」

「なんれも言うころを聞いれくれるんれしょ?」

「……うぐぅ」

 それを言われると弱い。そう言ったのは、言ってしまったのは確かなのだから。
 ぐうの音も出ない。代わりにうぐぅは出してみたが。

「だっこ、だっこだっこだっこ」

「だーっ! 分かったよ。分かりましたよ」

 こうなっては折れるしかない。
 というか、何時までも「だっこだっこ」と連呼されるのはキツイ。

「しょうがないな、ったく。……ほら、おいで」

 俺が手を差し出すと、香里が嬉々とした顔で飛びついてきた。
 膝の上にちょこんと乗っかって御満悦の表情なんか浮かべてくれる。

「……ハァ」

 周りの目が痛い。
 今の俺たちは完全に他の奴らの肴になっていた。
 あちらこちらから「見せ付けてくれるよなぁ」とか「御馳走様って感じだねぇ」とか「なんだろ? 今日は妙に暑くない? あそこの二人の所為かな?」なんてからかいの言葉が飛んでくる。
 穴があったら入りたい気分というのはこういうものだろうか。
 でもまあ、これで香里が酒を飲まず、尚且つおとなしくなってくれるのなら……

「ちゅー」

 おとなしくなってくれるのなら……

「あいざぁくん。ちゅーして」

 おとなしく……

「ちゅー」

 なってねえし、このお姫様は。

「なんだよ、香里」

「ちゅーして欲しいの」

「ちゅー?」

「うん。ちゅー」

 香里さん、まさかとは思いますが、この場で俺にキスをしろと言うおつもりですか?
 多くの学友に囲まれているこの場で?

「ちょっと待て、香里。いくらなんでもそれは……」

「ちゅー」

 香里さん、有無を言わせません。
 俺の意見など聞く耳持たずで、問答無用でキスを強請ってくる。

「あ、あのなぁ。俺にも多少は羞恥心ってもんが有るんだからさ、流石に此処でキスするっつーのは勘弁して欲しいんだけど」

「えー? なんれぇ? なんれも言うころを聞いれくれるんれしょ?」

「待て、ホントに待て。なんでまだそいつが有効なんだ? 俺は既に香里の願いを叶えたじゃないか」

「あいざぁくん、一つらけなんて言っれないもん。らから、まらまら聞いれもらうの」

 そ、そうだったか? 俺、『一つだけ言う事を聞く』って言わなかったっけ?
 小首を傾げ、俺は数分前の己の言葉を思い返してみる。

『ジタバタしないの。お酒はもう飲んじゃダメ。聞き分けなさい。そうしたら、代わりに何でも言う事を聞いてあげるから』

 おおっ、ホントだ。確かに言ってないや。うむ、さすがは香里。酔っ払ってるのに侮れない奴だ、はっはっは。

「……俺のバカ」

 床にガックリと手を付きたい心境だった。
 なんつーかさ、もう少し後先考えて発言しようよ、俺。思いつきや勢いだけで口にするからこういう事になるんだぞ。

「言うころきいれね。あいざぁくん、ちゅー」

 心の中でセルフ叱責をしている俺に、ニコニコ顔の香里が再び要求してきた。

「……うぃ。了解っす」

 仕方ないよな。逃げ道を防がれちゃってるんだし。
 観念した顔で俺は「ふぅ」とため息を吐くと、香里のオデコに軽く唇を触れさせる。

「はい。ちゅー、終わり」

「むー」

 かおりん、膨れ面。

「えっと、今のじゃダメなのか?」

 俺の問いに香里はコクコクと首肯し、不満気な表情で「ちゅー」と再要求を出してきた。
 それならばと、今度は頬に口付ける。

「むー」

 膨れ面かおりん、リターンズ。
 うむ。どうやら、我が姫はこの程度では誤魔化されてくれないらしい。

「ちゃんろ、口にちゅーするの」

「はいはい、分かりましたよ」

 今の俺の心境を表現するならば『ヤケクソ』の一語に尽きた。『悟り』でも可。
 なるようになれ。
 そう思い、周囲からの興味津々の目を無理矢理に意識の外へと追い遣ると、俺は香里のアゴに手を添えて軽く上向かせた。
 そして、啄ばむようなキスを彼女の艶やかな唇へと送る。
 香里の望む通り、面々の前で『ちゅー』をした。

「むー。ちゅー」

 なのに……なのに、何故に貴方は頬を膨らませてますか?

「な、なんだよ? 何か不満なのか?」

「もっろ、ちゃんろしたちゅーじゃなきゃ、やー」

「……おい」

 なんですか? それはつまり、此処で、大勢の目の前で、衆人環視の中で、舌を絡めあったりしちゃう様なディープなキスをしろと? そう仰るワケですか、香里さん。

「いつもみたいなちゅーがいいのぉ」

「年がら年中ディープキスをしまくってる様な物言いをすな」

 そういう言い方をすると誤解を招くだろうが。

「あらやだ、聞きました、奥様? いつもみたいな、ですって」

「ええ、しっかりと聞いたざますわ、奥様。これだから最近の若い者は……」

 ほら、こういう風に。
 ――どうでもいいが、お前ら、おばさま口調はやめれ。

「らによぉ。ねんがらねんじゅー、してるじゃらい。いっつも、あいざぁくんから、ぶちゅーって」

「そ、そんな事ないぞ。一日に三回から五回くらいだ。決して年がら年中などではない」

 ない、と思う。

「あらやだ、聞きました、奥様? 一日に三回から五回ですって」

「ええ、しっかりと聞いたざますわ、奥様。これだから最近の若い者は……」

 いや、そのネタはもうええから。
 つーか、俺、思いっきり墓穴掘ったっぽい?

「いまさらぁ、恥るかしがるころないじゃらい」

「む、むぅ。今更と言われると……そうかも、という気になってしまう様な気が……。で、でもなぁ……」

「細かいことは気にしちゃらめよ。あらまをからっぽにした、後先もなーんにも考えらい、ちょとつもーしん、がぁ、あいざぁくんの取り柄なんらからぁ」

 そう言って、香里がケラケラと笑う。
 ――ひょっとして、俺、言外に『バカ』と言われてないか?
 否定できないのが悲しかったりするが。

「なのれ安心しれ、ちゅー、ふぉーみー」

 瞳を閉じて、香里が俺に顔を向けてきた。

「……どうしてもするのか? みんなが見てるのに?」

 ここまで来たら、最早恥もへったくれも無い気もするが、それでも往生際悪く尋ねてしまう。

「ろーしてもするの」

 目を開けてそれだけ返すと、香里は再度キスを受け入れる体勢に戻った。

「そうですか。どうしてもですか」

 言いつつ右を見る。期待に満ちた表情が嫌って程に飛び込んできた。
 左も見た。ふむ、皆さん、興味津々ですね。
 後ろに顔を向けてみる。『ほらやれ、早くやれ』と目で催促された。
 前方。なにやら固唾を呑んで見守ってます。
 うむ、どこにも逃げ場無し。
 ――泣いていいですか?

「……ハァ、しょうがねぇな」

 思わずため息が口から漏れ出てくる。
 ――が、覚悟も決めた。ヤケになったとも言うかもしれない。
 
 いいさ。なら、やってやろうじゃないか。みんなが引いてしまうくらいの濃厚なのを見せてやる。

「じゃ、じゃあ、するぞ、香里。いいな?」

 香里は何も応えない。ただ、静かに待ち構えている。
 
「するからな」

 香里のアゴに指を添えて宣言すると、俺はゆっくりと顔を近付けていった。
 そして、唇と唇が重な……

「……すー」

 ろうとした正にその瞬間、香里の口からそんな吐息の音が聞こえてきた。

「? 香里?」

「……すー……すー……」

「あの、香里さん? もしかして、お眠りになってます?」

「……すー……すー……」

「……そんなの……あり?」

 香里の規則正しい寝息を耳にして、全身から一気に力が抜け落ちた。
 俺の覚悟とか決意とかその他諸々をどうしてくれるんです、香里さん?

「……すー」

 俺の脱力感を余所に、香里は穏やかな寝息を立て続ける。口元に笑みすら浮かべて。

「暴れるだけ暴れて寝ちまうなんて。ズルイやつだな、お前は」

 そんな香里に恨めしさを抱かないでもなかったが、

「……すー……ぁいざぁくん……」

「……ったく。ホントにズルイやつ」

 安心しきった香里の寝顔に、満更でもない気分になってしまう俺であった。
 ま、これも惚れた弱みか。

 若干拍子抜けはしたが、なにはともあれ、これで騒動も一段落。

「相沢君。あなた、普段香里とどんな生活してるの?」

「興味あるなぁ。是非とも聞かせてくれない?」

 ……一段落……

「美坂さんは寝ちゃったけど……どうやら相沢だけでも充分に酒の肴になりそうだな」

「ほらほら、洗いざらい白状しやがれ」

「よかったらカツ丼でも買ってきてやろうか?」

 一段落?





 ――その翌日。

「ねえ、相沢くん」

「ん? どうした?」

「なんかね、すっごく視線を感じるのよ」

「まあ、そうだろうな」

 これだけ四方八方から注がれまくっていたら、そりゃあ嫌でも感じるだろう。
 俺たちに視線を向けてくる面々の中には、昨日の飲み会に参加していなかった奴の姿もあった。
 どうやら、昨夜の話は順調に広まっているらしい。ありがたくないことに。

「ねえ、昨日、何かあったの? あたし、殆ど覚えてないんだけど」

 不思議顔で香里が尋ねてくる。
 俺は、その香里の肩にポンと手を置くと、遠い目をして答えた。

「いいんだ、気にするな」

「な、なによ、それ? そんな言い方されたら却って気になるじゃない!」

「……気にするな。せっかく覚えてないんだから」

「ちょ、ちょっと!? それ、どういう意味よ!? 何があったの!? 昨夜、何があったのよ!?」

「世の中には、知らない方が幸せな事だってあるんだし、さ。は、はは、はははは」

「相沢くん! 教えてよ! なんなの!? なにがあったって言うの!? もうっ、誰でもいいから教えてよっ!」

 香里の問いに答えられる者など居ようはずもなく。
 注目の中、彼女の叫びは空しく響き渡った。

「何があったのよぉぉぉっ!?」









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