『ある晴れた春の日のお悩み』



 智子は葛藤していた。
 リビングに入り、あるモノを目にした時から、彼女は懊悩していた。
 智子の視線の先にはグッスリと寝入っている浩之。
 彼の傍らには一冊の文庫本がポンと置かれている。
 おそらく、寝転がって読書をしていたのだが、春の麗かで柔らかな陽射しの暖かさ、細く開いた窓から吹き込んでくる穏やかな風、それらの連携攻撃に耐え切れずに居眠りを始めてしまったのだろう。場の状況からそう智子は察した。
 心地良さそうに寝息を立てている浩之を見て、智子は小さく嘆息する。
 大の字になってスヤスヤと眠りこけている浩之の姿。それが先ほどから智子を悩乱させている『あるモノ』であった。
 あまりにも――智子の心を乱させてしまう程に――今の浩之の体勢はとある行為をするのにうってつけだったのだ。
 故に、智子は悩む。

「腕枕されて昼寝でもしたら気持ちええやろうなぁ。で、でも、誰かに見られたら恥ずかしいし……」

 バカバカしいと思うなかれ、智子自身は大真面目である。
 夜に浩之と二人きりで居る時や気分が昂った時、気持ちが大いに盛り上がった時などには実に『サービス精神旺盛』になる智子。
 しかし、普段の彼女は『基本的には』常識人であり、また、意地っ張りで素直じゃない面も持っている。加え、意外と言っては失礼だが照れ屋・恥ずかしがり屋な一面も持ち合わせていた。
 従って、腕枕などという『如何にも恋人』な甘い行為を真昼間から、しかも自分から行うにはかなりの抵抗があったのだ。
 また、場所にも問題があった。今、室内には他の者はいない。だが、リビングという場の性質上、誰が何時入ってきても全くおかしくない。こんな所で浩之に甘えたりしたら誰かに見付かってしまう可能性が高い。前述の彼女の言葉通り、それは智子にとって実に恥ずかしいことだった。出来ればそんな事態になることは避けたい。
 だから、智子は動けなかった。身体や本能が求めても、理性にブレーキを掛けられてしまっていた。
 浩之のすぐ傍にペタンと座り込んで彼をボーっと眺めている智子。進むことも退くことも出来ず、完璧に思考が停滞してしまっている。
 ――が、そんな彼女に転機が訪れた。状況が変化したのである。
 浩之が伸ばしていた左腕を折り、自分の胸の上へと置いてしまったのだ。

「あっ」

 思わず智子は小さく声を上げてしまう。
 今まで目の前に用意されていた『御馳走』、その一つが唐突に失われてしまったのだから。
 智子の心に焦りが生じる。今更ながらに至極当然の事に気が付いたのだ。こんな絶好のポジションやシチュエーションがいつまでも保たれるはずがない、ということを。今は伸ばされている右腕も、いずれは左腕と同様に折られてしまう。否、その前に浩之が目を覚ましてしまうかもしれない。どちらにせよ、このままただグダグダと悩んでいても、良いことなんて一つも起こりえないのは確かである。

「ふぅ」

 胸に手を添えて、智子が一つ息を吐く。そして、微かに逡巡した後、目に漸く決意の色を浮かべると、

「ま、まあ、偶にはこんなのも、な」

 些か言い訳めいた事を口にしながら、智子はゆっくりと浩之の隣に身を横たえていった。

「け、けど、ちょっとだけや。ほんのちょっとだけ」

 頬を朱に染めて呟きつつ、浩之の腕へと頭を置く。ついでに、当たり前の様に、条件反射的に自分の身体を浩之へと密着させた。
 ダイレクトに伝わってくる浩之の体温。

「ちょ、ちょっとだけ……ちょっと、だけ……」

 己に言い聞かせるように智子が何度も何度も「ちょっとだけ」と繰り返す。智子としては、少し腕枕の感触を味わったらすぐに離れるつもりだった。しかし、他ならぬ智子自身が既に理解し始めてしまっている。それはあまりにも難しすぎる注文であると。
 それでも尚「ちょっとだけ」と呪文のように唱えて抗おうとする智子。そんな彼女に、予期せぬ追い討ちが掛けられた。

「え? ええっ?」

 腕枕されている彼女の頭を、浩之が優しく撫でてきたのだ。まるで、閨事の後みたいに。いつもの様に。
 驚いて智子が浩之に視線を向ける。――が、彼は相変わらず規則正しい寝息を零していた。起きている様子は微塵も無い。
 つまり、これは無意識での行動である。げに恐ろしきは条件反射か。

「な、そ、そんな……」

 智子にとってはたまったものではない。ただでさえ離れ難い誘惑に苛まれていたのだ。そこにこんなモノを追加されてはトドメに等しい。

「あ、あかんて。わたしはちょっとだけの、つもり、で……」

 言葉とは裏腹に智子は全く身を離そうとしない。否、出来ない。
 全身を包み込むような温もり。納まるべき所に納まった、そんな安堵感。涙が溢れそうになる程の充足感、幸福感。
 それらを自ら放り出せる者が居ようか。少なくとも、智子には無理だった。簡単に手放せるほど無欲ではなかった。
 智子の微かに残った理性――常識や羞恥――がこの期に及んで微小な抵抗を示そうとするが、彼女の本能や身体は聞く耳を持たなかった。極々少数派の正論など圧倒的多数の前では無力。己の身で民主主義的数の暴力を躬行させてしまう智子だった。

「ううっ……こ、こんな……はず、で、は……。ふ、不覚、や……」

 心地良さに負けて、瞬く間にまどろみへと落ちていく智子。零れ出てきた言葉には、意識が無い時の浩之にすら呆気なく篭絡されてしまった自分に対する悔しさが滲んでいた。
 尤も、表情は幸せそうであり、悦びに蕩けきっていたのだが――それは態々言うまでもないことである。




 さて、ここで余談を一つ。
 葛藤の挙句、最後にはアッサリと陥落した智子であるが、その様子を廊下に座り込んでドアの隙間から楽しげに見ていた面々がいた。
 具体的には琴音、芹香、セリオに綾香。
 智子の『誰かに見られてしまうかも』という危惧は現実のモノとなってしまっていたのである。

「うふふ、智子さんってば素直じゃないですね。わたしなら、悩まずに一気にガバッと行っちゃいますのに」

「そうですね。でも、そこが智子ちゃんの可愛らしいところです」

「――あの、みなさん? 覗きなんてしちゃいけません。はしたないですよ」

「セリオ、その意見はごもっともだけど、手にビデオカメラを持ったあなたが言っても説得力無いって」

 いい肴が手に入ったとばかりに、ニヤニヤと、それでいて微笑ましげに、四人は飽くことなく室内を眺め続けるのであった。


 こうして、恰好のからかいネタを与えてしまった智子であるが、彼女はこの後……
 いや、敢えて詳しくは語るまい。
 ――ただ、概ね、諸兄姉の想像通りの事態になったとだけ明記しておく。




 さらに余談。
 廊下から室内を覗き込んで盛り上がっている『お嬢様』たち。
 その様子を、家事の手伝いに来ていた『来栖川メイド部隊』の一人が珍獣でも見る様な目で眺めていた。
 ――が、すぐに視線を外すと、

「……うん、見なかったことにしよう」

 ため息混じりに口にしつつ、その場からそそくさと立ち去った。

 優れた容姿と能力を持つ者だけが選抜される『来栖川メイド部隊』。
 賃金も労働条件も良く、藤田家の面々も優しい人ばかり。文句の付けようの無い仕事。
 ただ一つの欠点は、『良家のお嬢様』『深窓の令嬢』といったものに対するイメージや憧れが木っ端微塵に砕かれることであろうか。
 まあ、些細な問題である。

「私は何も見ていません。ええ、見ていませんとも。……つるかめつるかめ」

 たぶん。









< おわり >


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