「ごめんなさい、先輩。迷惑を掛けてしまって……」

 今日のクラブで足にダメージを負ってしまったわたし。
 そのわたしを背負ってバス停までの道を歩く先輩に、見えないとは知りつつもペコッと小さく頭を下げて謝った。

「気にしない気にしない。困った時はお互い様だよ。それに……」

「それに?」

「好きな女の子の力になれるのは男冥利に尽きるからね」

「そ、そうですか」

 好きな女の子。そう言われてわたしの胸がドキドキと高鳴る
 先輩にオンブされての帰り道。
 不謹慎だけど、足を痛めてしまった事をちょっとだけラッキーと思ってしまうわたしだった。




『たなぼた?』




 綾香さんとのスパーリングが始まってから、お互いに動きを見せないままに既に5分ほどが過ぎている。完全な膠着状態。
 とにかく手を出そう、足を出そう、タックルを仕掛けていこう。
 頭ではそう思っているのだけど、体が言う事を聞いてくれない。
 綾香さんから発せられる押し潰されそうなほどのプレッシャー。それがわたしの動きを封じ込めてしまう。
 迂闊には飛び込めない。けれど、いつまでもこのままというワケにもいかない。
 なにかきっかけが欲しい。ほんの少しでも綾香さんに隙が出来れば……。
 わたしがそんな他力本願な事を考えた時だった。

「198……199……200。はい、腕立て終了です。では、続けて腹筋に行きましょう」

「ちょ、ちょっと……待て、セリオ。何セット……連続で、やらせる気だ? 少しは……休ませて、くれよ」

「却下です。昨夜、わたしが休ませて欲しいとお願いした時、浩之さんはどうしましたっけ?」

「え!? そ、それは……」

「休ませてくれませんでしたよね」

「……う゛っ」

「腹筋が終わったらすぐに背筋。その次は再び腕立てです。さあ、はりきっていきましょう」

「こ、こういう反撃の仕方はどうかと思うのですがぁ!?」

 先輩とセリオさんのなんとも言いがたい微妙な会話が耳に飛び込んできた。
 思わず脱力しそうになるが、どうにか気が抜けるのを堪える。
 わたしと相対している綾香さんの顔にも若干の苦笑が浮かんだ。と同時に、わたしの方にからかいめいた視線を送ってくる。

「……? っ!? っ!」

 一瞬の疑問。次いで理解。頬が真っ赤に染まっていくのが自分でもよく分かる。
 綾香さんの瞳はこう言っていた。『今日はあなたの番ね、葵♪』と。
 その眼差しに触発されたように、脳裏に先輩とのあんな行為やこんな行為が浮かび上がってくる。
 そう、確かに今日は『わたしの番』だった。つまり、わたしもセリオさんみたいに休み無しのノンストップで『いろいろ』されてしまう可能性が大なワケで……。

「あ、あう」

 羞恥心から思わず視線を地面へと落としてしまった。

(……って、やばっ!)

 背筋が凍る感覚を覚え、すぐに気を取り直し綾香さんへと顔を戻す。わたしの目に飛び込んできたのは綾香さんの左拳。

(わたしのばかっ!)

 闘いの真っ只中、相手から目を離すなど以ての外。自分の方が隙を作ってどうするというのか。
 不甲斐ない己を叱咤しながらどうにか綾香さんの拳を右手で受け止める。様子見のジャブだったのか、速度が幾分遅かったのが幸いだった。
 けど、安堵している暇など無い。続けざまに2発目、3発目と撃たれてきた。それをスウェーで避け、ガードで防ぐ。
 4発目の左、バックステップでかわす。5発目、右拳で迎撃、弾く。
 次いでの右ストレート。やや大振り。それをダッキングでやり過ごす。
 好機。
 ストレートを避けられた事で綾香さんに若干の隙が生まれた。刹那、ボディががら空きになっている。そこにわたしは勢いよくタックルを……。
 条件反射的にそのわたしを迎え撃とうとして放たれる綾香さんの右膝。それが、タックルに入ろうかという体勢のままでピタッと静止したわたしの直前を通り過ぎていく。強引なストップに因るフェイント。綾香さんの膝をやり過ごしたわたしは、勝機とばかりに本命のタックルを綾香さんに叩き込もうとして、

「っ!?」

 次の瞬間、急いで身を退かせた。
 わたしの眼前、ギリギリの所を通過していった綾香さんの右足。かかと落とし。
 わたしの動きを見て膝蹴りから即座に切り替えたのか、もしくは初めから全てを読んだ上での一連の動作だったのか。わたしには分からない。分からないが……チャンスを潰された事、そして、わたしに動揺を与えた事だけは嫌というほど理解できてしまった。
 一瞬、ほんの一瞬だけ呆けた様に動きを止めてしまったわたし。
 けど、例え一瞬であっても、そんな大きすぎる隙を見逃してくれる綾香さんじゃない。
 先ほどのモノとはスピードが一段上の本気のジャブを放ってきた。重い。一発一発が非常に重い。
 左のジャブから右のフック。どうにか防ぐ。
 間髪入れずの左ハイキック。それも辛うじて右手でガードする。
 綾香さんはそのまま流れるように、右足を軸に、左足を振り下ろす勢いを利して、反時計回りで左のバックハンドブローをボディーへ。
 その攻撃も左腕でなんとか防御。しかし、綾香さんはガードされた事など気にも留めてない様に攻撃を続行。目線は、腕を下げた事でガードの空いた左側頭部。おそらく狙うは綾香さんの必殺技とも言える右ハイキック。

「くっ」

 上体を逸らし、急いで腕を運び、届けられるであろう衝撃に備える。
 けれど。
 下から上へと送られつつあった一撃必殺の足刀は唐突に軌道を変えた。

「え!? あ!」

 いけない、そう思った時にはもう遅かった。完全に意識が頭部へと行っており、足元への注意が散漫になってしまっていた。
 綾香さんの蹴りは途中で上から下へと巧みに変化が成され、

「うあっ」

 わたしの左脛に鋭い痛みを与えながら振り抜かれていった。
 堪らず痛む箇所を押さえて蹲ってしまうわたし。
 ローキックによるKO。
 勝敗の決まった瞬間だった。

 セリオさんの診断の結果、わたしの足は軽い打撲。少し腫れているものの、大したことはないとのこと。
 練習だって続けようと思えば続けられる程度のダメージ。実際、わたしはそうしようとした。
 けど『無理は禁物、今日は安静に』と全員から口を揃えて言われてしまってはおとなしく従う他になく。
 こうして、今日のわたしの練習は終わりを告げた。


○   ○   ○


「ごめんなさい、先輩。重くないですか」

 停留所で、わたしを背負って帰りのバスを待つ先輩へと、何度目かになる謝罪の言葉。

「全然。むしろ軽すぎるくらいだよ。――つーか、ホントに気にしなくていいってば。葵ちゃんは何も悪くないんだからさ」

 先輩は苦笑しながらそう言うと、わたしたちの左隣にいる――自分の分とわたしの鞄を手にした――綾香さんへと視線を送った。

「悪いのは一切の手加減をしなかったこいつなんだし」

「仕方ないじゃない。今の葵相手に手加減なんて出来るわけないでしょ。もしそんな事してたら、今頃浩之の背に乗ってるのはきっとあたしになってたわよ。さっきの組み手だって本当に紙一重だったんだから」

 冗談めかした色の混じった先輩の言葉に、綾香さんは澄ました顔で反論する。わたしたちの右隣で佇んでいる――浩之さんのカバンも持った――セリオさんもコクンと同意の首肯をした。

「そっか。ま、それじゃしょうがねぇな。確かに葵ちゃんは強くなったし」

「ええ、葵は強くなったわ。うかうかしてたらあっと言う間に追い抜かれて、あたしの方が追う側になっちゃうかもね」

「そ、そんな。わたしなんてまだまだですよ」

 左右にキョトキョトと首を振り振り、微かに声を上擦らせてしまいながら先輩たちの言葉を否定する。謙遜でもなんでもなく素直にそう思う。けれど、それを耳にして、綾香さんとセリオさんは揃って苦笑しつつため息を吐いた。

「その性格は相変わらずね、葵」

「葵さんの謙虚さは美点でもありますけど、ね。ですが、過ぎるのは問題です」

「そうだぞ、葵ちゃん」

 先輩が綾香さんとセリオさんに追随する。

「確かに、今の時点ではまだ綾香には敵わないのかもしれない。だけど、確実に差は縮まっていると思うぞ。なにせ、チャンプである綾香をマジにさせることが出来る程になっているんだ。だから、もっと自分に自信を持たなきゃ」

 その言葉に、綾香さんとセリオさんがうんうんと首を縦に振る。

「……は、はい、わかりました」

 励まされ、わたしは無意識に拳をギュッと握りつつ……若干小さくはあったが、確かな声で応えた。
 それを聞いて先輩は「よし」と頷き、綾香さんが満足そうに微笑む。 

「――でも、思うんですけど……もしかしたら、葵さんにとっては今ぐらいの強さがベストなのかもしれませんね」

「は? どういうことだよ、セリオ?」

 今までの流れを根底から崩しかねないその発言に、先輩が不思議そうな声色で尋ねる。綾香さんはキョトンとした顔でセリオさんを眺めていた。おそらく、わたしも似たような表情をしていることだろう。

「だって、今以上に強くなってしまっては……」

 そこで一旦切ると、セリオさんはわたしへと妙に生温かい笑顔を向けてきた。

「こうしてオンブを堪能できる機会も減ってしまうでしょうし、ね♪」

 いや、そんな『ね♪』とか楽しそうに言われましても。

「あー、なるほど」

 納得しないで下さい、綾香さん。

「今の葵、怪我してるくせにとっても幸せそうな顔をしてるものね。浩之におぶわれて嬉しいんでしょ♪」

 セリオさん同様のニヤニヤ笑いを浮かべる綾香さん。
 どうでもいいですが、二人揃って語尾に『♪』を付けるのは勘弁して下さい。――というか、わたし、すっかり玩具にされてますか?
 ほんのちょっと前の真面目っぽい会話が台無し。

「そ、それは……その……」

 嬉しいんでしょ、と問われれば答は当然イエス。嬉しくないわけ、ない。
 先輩の温かさに安心できて、服越しにも伝わってくる逞しさにドキドキして。
 いつまでも、いつまでも……このままでいたいと思ってしまう。
 わたしを肴にしてキャイキャイと騒ぐ綾香さんとセリオさんの声をBGMにして、わたしは我侭を一つ心の中で呟いた。
 普段なら早く来ることを願う帰宅時のバス。
 けど、今日は、今は。

 ――まだ、来ないで下さい。もう少しだけ、このままで。

 そんなことを考えてるだなんておくびにも出さず、誰にも気付かれないように胸の内でそっと呟いて、
 先輩の身体へと回している腕にほんのちょっとだけ力を込めて、

 足の痛みもなんのその、思いがけずに降り掛かってきた『瓢箪から駒』『棚から牡丹餅』を全身で堪能してしまうわたしだった。


○   ○   ○


 ちなみに、次の日のクラブの時間で、

「はい、先輩。次は腹筋300回です」

「ちょ、ちょっとタンマ。少し休憩しようよ」

「……先輩、昨夜、わたしがお願いしても休ませてくれませんでしたよね?」

「う゛っ」

「さあ、先輩。頑張って下さい。あ、腹筋が終わったら次は背筋300回ですからね」

「こ、こんな反撃の仕方はどうかと思うのですがぁ!?」

「問・答・無・用・です♪」

 こんな会話が繰り広げられるのは最早必然だったりする。









< おわり >


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