『強敵』



 それは、嵐の前の静けさなのだろうか。

 息をするのも憚られるほどの静寂に包まれている室内。

 壁にかけられている時計の秒針の音が異様に大きく響いている。



 その静けさをうち破ったのは、

「今日こそ……」

 という、理緒の決意に満ちた声だった。



 理緒の表情には緊張の色がありありと浮かんでいた。
 額に一滴の汗が流れ落ち、指も微かに震えている。

 理緒は拳を強く握りしめ、その震えを強引に潰す。



「今日こそ……今日こそ越えてみせる!
 じゃないと、わたしは先に進めないのだから!」


 理緒は、これから死闘を繰り広げる事になるであろう相手に指を突き付け、声を大にして宣言した。



 そして、

「いくわよ」

 その声を合図に、理緒の戦いがスタートした。



 室内に小さな、それでいて激しい苦闘を容易に想像させる音が轟き渡った。










 それから2時間が経った頃。

 部屋の中を支配していた激闘の音が唐突に止まった。



「うふ、うふふ、うふふふふふ」

 代わりに、理緒の勝ち誇った様な笑い声が充満する。



「越えたわ。わたしは、遂にこの大きな山を越えたのよ!」

 晴れ晴れとした顔の理緒。

 瞳にたまっている大粒の涙が、今までの苦難の大きさと、それを乗り越え戦いに勝利できた充実感を如実に表現していた。




「思えば長い戦いだったわ。
 ……でも! でも、わたしはこの苦闘に勝利したの!
 ついに……ついに……





 ダブルクリックを修得したのよ!!





 ああっ、感動だわ!」





 ……………………。

 あー、何と言うか……。

 つまりはそういう事である。

 彼女の相手というのは、パソコン使用者には必需品の周辺機器『マウス』である。

 ツッコミを入れたい所は多々あるだろうが、ここは一時グッと我慢をしていただきたい。




 今更だが、状況を簡単に説明しておこう。



 家族中でも随一といえる経済観念の持ち主である理緒。

 彼女は、藤田家の財布の紐を管理する役割を担っている。

 さて、その理緒であるが、彼女は現在、家計簿を手書きで記していた。

 しかし、セリオや智子からの強い薦めもあり、パソコンの家計簿ソフトに手を出してみようと考えたのだ。

 だが、理緒には如何せんパソコン経験がなかった。

 その為、今はマニュアル片手に基本的操作を覚えている真っ最中なのであった。



「カチカチ君は完璧に極めたわ。
 次は……どらっぐあんど……んと……えと……。
 と、とにかくそれよ!
 よーし、頑張るぞー!」



 なにはともあれ。

 歩みは非常に遅いが、一歩一歩確実に進んでいる理緒。

 努力家の理緒のことだ。彼女が家計簿ソフトを意のままに操ることが出来るようになる日は……意外と近いかもしれない。



「ボタンを押したまま…………わっ! 変なとこで放しちゃった!
 え? え? え? な、なに? あれ? 上書き? なんなの!?
 えーん、わかんないよ〜〜〜っ! 誰か助けて〜〜〜っ!」




 ……………………。

 …………訂正。

 理緒vsパソコンの日々は、これからもまだまだまだまだまだまだまだまだとーーーぶんは続きそうだった。



 家計簿マスターへの道は遠い。





「ふえーん。なんか止まっちゃった〜〜〜! もうイヤーーーーーーッ!!」










< おわり >





 ☆ あとがき ☆

 一発ネタ。

 職場のPCのマウスを見た瞬間に思い浮かんだ話です(^ ^;

 仕事中に何を考えてるんだか( ̄▽ ̄;








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