……悪夢だ。

 俺は今、地獄にいた。
 出来ることなら逃げ出したい。しかし、それは叶わぬ夢。
 なぜなら、俺が少しでも逃げようとする気配を見せると、

「浩之! どこへ行く気!?」

 俺をこの苦行に放り込んだ張本人である綾香から叱責の声が飛んでくるからだ。

「……ハァ」

 ついついため息がこぼれ落ちる。





『ゆ〜る〜ず』




 俺がこんな苦しみを味わう羽目になったのには理由がある。

 先日、俺と綾香はいつものようにゲーセンで対戦した。当然、お約束の『負けた方は勝った方の言うことを何でも一つきく』という条件が付いた賭勝負だ。

 ―――で、

「うぐぐ」

「やっりー! あたしの勝ちね♪」

 俺は見事なまでに敗北を喫した。

「約束よ。あたしの言うこと、一つ聞いてもらうわね」

「へいへい。分かってますよ。……そんで? 何をさせる気だ?」

「……そうねぇ。それじゃ、今度の日曜日、買い物に付き合ってもらおうかしら」

 綾香は少しだけ考えた後でそう言った。

「なんだ、そんなのでいいのか?」

 どんな無理難題を吹っかけられるかと思っていた俺は、ホッとすると同時にちょっと拍子抜け。

「ええ。それでいいわ」

「OK。なら、次の日曜は一日中綾香に付き合ってやるよ」

 安心しきった俺は、深く考えずにあっさりと了解した。

「うん。約束よ」

「ああ、約束だ」





 ……まさか、その買い物とやらが……

「ねえねえ浩之、見て見て〜。これ、すっごく可愛いよね。マルチに似合いそう。……あ、こっちのは清楚な感じね。あかりとか姉さんにピッタリかな」

 下着だとは思わなかったが。

「そ、そうだな」

「うん♪」

 デパートの女性物下着売場。
 男にとっては近寄りがたい場所ナンバーワンだろう。
 そんな所に強制連行されているのだから……まさに地獄。
 目のやり場に困るし、どんな顔をしていいのかも分からない。
 周りの女性客の目が痛いし……店員も奇異の視線を向けてくるし……恥ずかしいやら情けないやらで……俺、マジで泣きそう。

「あっ、このデザイン良いな」

 ブルー入ってる俺を後目に、楽しげに下着を物色している綾香。

「どう? 似合う?」

 陳列されていたブラを手に取り、それを自分の胸元に当てつつ俺に尋ねてきた。

「あ、ああ。良いんじゃないか」

 俺は綾香の方にチラッとだけ視線を送り、無難にそう答えた。

「ちょっと。もっとちゃんと見なさいよ」

 その態度が気に入らなかったのか、綾香が不満そうな声で文句を言ってくる。
 もっとも、顔にはからかいの色がこれでもかってくらいに浮かんでいたが。

「ん〜? な〜に? 浩之、ひょっとして照れてるの〜?」

 楽しんでやがる。こいつ、絶対に楽しんでやがる。
 俺が狼狽える姿を見て面白がってやがる。

「うぷぷ。浩之にも可愛らしいとこあるじゃない」

 ……あ、なんか無性に悔しくなってきた。

「浩之って意外と純だったのね〜。ビックリだわ〜」

 いくら罰ゲームだからといって、やられっぱなしってのはさすがに面白くない。
 このまま受け身一方ってのは俺らしくない気がするし……。

「ビックリ、か。確かに、今更下着程度で照れるのは俺らしくないかもな」

 てなわけで、反撃を開始することに決定。

「よし。じゃあ、照れるはやめて、堂々した態度で綾香に似合う下着を見繕ってやろう」

 そう宣言すると、俺は綾香の身体を舐め回すように眺めながらニヤッと笑った。

「な、なによ。変な目で見ないでよ」

 綾香が抗議の声を上げる。しかし、俺はそれを無視してニヤニヤとした視線を送り続けた。

「綾香はスタイルが良いからどんな下着でも似合いそうだよなぁ。胸だって大きいし」

「ちょ、ちょっと〜」

 セクハラ紛いの俺のセリフを聞いて、綾香が思わず胸を隠す。羞恥のため、顔も赤く染まっていた。
 それを見て、俺は溜飲を下げた。ちょっとでもやり返すことに成功し、かなりの満足感。
 だが、ここで手を抜いたら綾香に再度やり返される恐れがある。
 従って、俺は追撃をかけることにした。

「おっ、あれなんか良いんじゃないか。綾香によーく似合いそうだ」

 俺はとある下着を指差して言った。
 そこに展示してあったのは、かなり際どいデザインの下着。身体を隠すという役割を見事なまでに放棄している、非常にセクシー&デンジャラスな代物だった。

「あ、あれーっ!?」

 綾香が目をまん丸くして叫んだ。

「そう、あれ。あの下着を着た綾香、きっとすっごく綺麗だろうなぁ」

 からかい半分本音半分で綾香の耳元で囁く。

「え? 綺麗?
 ……浩之……ホントに……綺麗だと思う?」

 首筋まで朱に染めて、上目遣いで綾香が問う。

「ああ、思う思う」

 コクコクと頷く俺。

「あの下着を着たあたしのこと……見たい?」

「見たい」

 俺、一欠片の躊躇いもなく即答。

「……そう」

 俺の答えを聞いて、綾香は少し俯いた。
 そして、暫くの間、そのままの体勢でなにやら考え込んでいたが、やがてガバッと顔を上げると、

「じゃ、あたし、あれを買うわ」

 そう宣った。

「へ? マジで?」

 まさか、本当に買うと言い出すとは思っていなかった俺は、ついついマヌケな返答をしてしまった。

「なによぉ。あれを着たあたしを見たいんでしょ? それとも、さっきの言葉はウソだったの?」

「いや、ウソなんかじゃねーよ」

 俺は即座に否定した。

「だったら良いじゃない。それに……あたしも……ちょっと興味あるし……」

 赤い顔をしてポソポソと呟く綾香。最後の方は殆ど聞き取れないくらいの音量だった。

「そっか。まあ、綾香がそう言うなら」

 俺に反対する理由は無いしな。俺にとっても喜ばしいことだし。

「うん。……てことで……はい」

「え?」

 俺の手にポンと手渡される綾香の財布。

「あの……綾香、さん?」

「なーに?」

「これはいったいどういうことでしょう?」

 財布に視線を送りながら尋ねた。イヤすぎる予感を必死で押さえ込みながら。

「浩之がレジに行って買ってきてよ、あれ」

「……………………」

 言葉を失う。

 マジっすか? 俺が? レジに行って? あのセクシー下着を?

「なにボーッと突っ立ってるの? 早く行ってきてよ」

 笑いながら残酷なことを仰る綾香嬢。そのお顔には、『あたし、やられたらやり返すわよ』と如実に書かれていた。

「もしも、断るって言ったら?」

「浩之のことを指差して、大声で悲鳴を上げてやるわ。『きゃー、エッチ、変質者ーっ!』ってね」

 この場でそんな悲鳴を上げられたら、俺、本気で捕まりかねないんですけど……。

 つまり、俺には退路は無いわけね。

「……分かったよ。買ってくればいいんだろ、買ってくれば」

 ガックリと肩を落として、俺は屈服の言葉を口にした。
 そして、俺は重い足を強引に引きずってレジへと歩いていった。

「頑張ってね〜♪」

 背後から届けられる激励が、俺には悪魔の奏でる葬送曲にしか聞こえなかった。





○   ○   ○





「あはは。あー、楽しかった」

「……ううっ。人生の汚点だ」

 対照的な顔をしている俺と綾香。
 片や満面の笑み、片や縦線入りまくりの鬱顔。

「あの時の浩之の顔。おっかしかった〜」

「…………」

 おのれ。満足そうな顔をしおって。
 悔しい。どうにかしてギャフンと言わせてやりたい。このまま引き下がってなるものか。

 そんなことを考えている俺の視界に、行きつけのゲーセンが飛び込んできた。
 今の俺の敗北感、目の前にゲーセン、隣に勝ち誇った綾香。となれば、俺の行動は決まっている。

「……なあ、綾香」

「ん? なーに?」

「今日も勝負しないか、あそこで」

 俺はゲーセンを示して提案した。

「リターンマッチってやつ? 別にいいわよ」

 あっさりと受け入れる綾香。

「よし。それじゃ、例によって負けた方は……」

「勝った方の言うことをなんでも一つ聞かなければならない、ね」

 俺の言葉を継いで綾香が言う。

「そういうこと」

「OK。乗ったわ」

「覚悟しろよ、綾香。今日は俺が勝たせてもらうからな」

「そうはいかないわ。返り討ちよ」

 俺と綾香は不敵な笑いを浮かべ合うと、全身から闘志を漲らせてゲーセンへと入っていった。



 ゲーセンの自動ドアをくぐりながら、俺は決意を固めていた。

 絶対に勝って、今日の屈辱を倍にして返してやる。
 綾香、楽しみにしているんだな。泣いて謝っても許してやらないからな。
 くっくっく。

 ―――なんて、鬼畜なことすら考えていたりした。










 ―――で、次の日。


「すみません、あそこに展示してあるビキニの水着を……」


 泣いて謝っても許してもらえなかった。


 …………しくしくしく。








< おわり >






 ☆ あとがき ☆

 『たさい』と言うよりは『(Ba)カップルLight』みたいな作品になってしまいました。

 ま、それもまた良しということで( ̄▽ ̄;


 下着売場……私が浩之の立場だったら泣きます、本気で。

 男性にとっては、やはり近付きたくない場所ですよね。

 もっとも、桃源郷に思える人もいるでしょうけど(^ ^;




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