『知名度その2』
「ありがとね」
あたしは握手を交わしてから色紙を渡した。
「はい、次の人。お名前は?」
とある日曜日。
あたしは、大型スポーツ用品店のオープン記念イベントの一環として催されたサイン会に出席していた。
最初、お爺様経由でその依頼の事を聞いたときは主催側の正気を疑ったものだ。
いくらエクストリームがメジャーになってきたとは言え、学生チャンピオンに過ぎないあたしのサイン会なんかでお客が呼べるわけがないと。
しかし、あたしの認識は甘かったようだ。
あたしが店に到着したときには、既に長蛇の列が出来ていた。軽く見積もっても200人は越えていると思われた。
加えて、各種格闘技系雑誌の記者及びカメラマンが取材にやって来ていた。
はっきり言って、あたしの想像を遙かに超えて盛り上がっていた。
へぇ。あたしって、意外と人気あるのねぇ。
―――なんて、他人事の様に感心したものだ。
店内は結構な混み合いを見せていた。オープン当日ということを差し引いてもまずまずの入客数と言えよう。
あたしの参加がどれだけ客寄せになっているかは不明だが、僅かにでも売り上げに貢献できていると思うと悪い気はしない。
たまには、こういうのも楽しいものね。
暢気にそんなことすら考えていた。
ハプニングがすぐそこにまで迫っているとも知らないで。
「応援してます。頑張って下さいね」
「ええ、ありがと」
色紙を渡して握手。
そして、次の人に目を向け、
「……え?」
その瞬間、あたしは間抜けな声を上げた。
「実物の綾香さんに会えて感激です。いやもう感動ッス」
そこには、あたしのよーく知ってるヤツがいた。
言うまでもないが、藤田浩之その人である。
な、なにしに来たのよ、こいつは? なんで列に並んでるわけ? もしかして、あたしのサインが欲しいの?
……って、そんなわけないか。きっと様子見がてらの陣中見舞いといったところね。
それにしても何なのよ、その他人行儀な話し方は? 無用の混乱を避けるため?
あたし、心の中で自問自答。
「ずっとサインしていて大変じゃないですか? これ、よかったらどうぞ」
そう言って、浩之はあたしによく冷えたペットボトルを差し出してきた。あたしの好きな銘柄のスポーツ飲料だった。
どうやら、思った通り陣中見舞いだったようである。
「サンキュ。ありがたく頂くわ」
礼を言いながらペットボトルを受け取る。
―――と、同時に手に伝わる紙の感触。
なんだろうと思って見てみると、一枚の小さなメモが添えられていた。
そこには、『ご苦労様。今日の晩御飯は綾香さんの好きなおかずのオンパレードだよ』等々のみんなからの激励メッセージが。
あ、何というか、ちょっとジーンと来た。
些細なことなんだけど、みんなの優しさが胸にしみる。
改めて、家族って良いなぁ、なんて思わされてしまった。
メモを胸に添えて思いっ切り浸ってしまいたい気分だ。
でも、今はイベントの真っ最中。
だから、あたしはその衝動を必死に堪えると、顔を左右に軽く振って何とか気持ちを切り替えた。
そして、ペンを手に取り、色紙に向かいながら浩之に尋ねた。
「あなた、お名前は?」
我ながらおかしな質問だとは思うがやむを得ない。相手が他人の振りをしているのだから仕方がない。
「えっと、そうですねぇ」
あたしの問いに、浩之はちょっとだけ考えて、
「綾香ラブラブ君へ、でお願いします」
そんなことを宣ってきた。
「……はい?」
思わず尋ね返すあたし。今のあたしの顔は、さぞや間の抜けた物になっていることだろう。
「ですから、綾香ラブラブ君で。なんと言っても、俺、綾香さんのことが大好きですから。それはもう心から」
とんでもなくこっぱずかしい事を、浩之が真面目な顔でサラッと言い切る。
「そ、そう。それは光栄ね」
その爆弾を受けて、あたしの頬が真っ赤に染まっていく。
顔の表面温度が上昇していくのが自分でもハッキリと分かった。
「なんでしたら、綾香萌え君へ、でも良いですよ」
狼狽えるあたしを見て、浩之の口元にニヤリとした笑みが浮かぶ。
それを見て、あたしは浩之が此処に来たワケをやっと理解した。
確かに陣中見舞いもあるだろう。様子見という部分もあったと思う。
だけど、一番の理由はあたしをからかう為だ。そうに違いない。
「もしくは、可愛い綾香に恋する男とか、三国一の綾香マニアとか」
あたしの考えを証明するかのように、浩之の口からは次々と弾丸が放たれる。
大好きとか可愛いとか、あたしにとって避けようのない弾丸が。
ふ、普段は恥ずかしがってあまり聞かせてくれない言葉なのに……いつもは、気分が最高に昂揚しているとき以外には言ってくれないのに……どうして、どうしてこういう時は平気で口にするかな、あんたは!?
からかわれていると分かっていても、それに抵抗できない自分が哀しい。
浩之があたしに『好き』とか『可愛い』と言っている。その事実だけで、あたしの頬は染まり胸は高まる。身体が芯から燃え上がってしまう。
ここまで浩之の言葉に弱かったのかと、今更ながらに愕然とさせられてしまう。
「世界一の綾香ニストってのも良いかな。それとも……」
あたしの気持ちを知ってか知らずか、浩之が延々と口撃を続けている。
このまま放っておくと何時までも言い続けていそうな気がする。
「も、もういいわ。一番最初ので書くからもう止めて」
あたしは、根負けしたように言って浩之の口を制止させた。
これ以上聞いていたら、本当にどうにかなってしまいそうだったし。
「えっと……それじゃ『綾香ラブラブ君へ』っと。これで良いのね?」
「完璧ッス。額に入れて飾らせてもらいますね」
勘弁してよ。そんなのを本当に飾ったりしたら、あたし、マジで暴れるわよ。
「はい、どうぞ」
「ども」
あたしが差し出す色紙に浩之が手を伸ばす。
その手を見て、突発的にあたしの中である考えが蠢いた。
あたし一人だけドキドキさせられるなんてズルい。あたしだけ恥ずかしい思いをさせられるなんてフェアじゃない。なにより、このままやられっぱなしなんて面白くない。
だからだろうか。気が付いたときには、あたしは浩之の手を掴み、自分の方へグイと引っ張っていた。
「えっ?」
完璧に不意を突かれた様な浩之の声。
それを無視して、あたしは、浩之の襟元を掴んで更に引き寄せる。
そして、
次の瞬間、
サイン会場の時が凍った。
「な、なにするんだよ!?」
数秒後、我に返った浩之が口元を抑えながら叫んだ。
「散々バカな事を言ってくれたからその仕返しよ。あんたがあたしをからかって遊ぼうなんて百万年早いの。ねっ、婚約者さん♪」
ウインクをしながら、あたしが勝ち誇ったように返した。
『ええ!? こ、婚約者!?』
あたしの放った『婚約者』という単語に、周囲にいた人たちが一斉に反応を示す。
「そ、それじゃ……こいつがこの前来栖川さんがテレビで言ってた」
「藤田浩之、なのか?」
驚愕・興味・嫉妬等々いろいろな感情の入り混じった視線を浩之に浴びせつつ。
「あー、えっと……お、俺、そろそろ帰るわ。……それじゃ」
四方八方から放たれてくる何とも表現しがたい気配を受け、何時までもこの場に残るのは得策ではないと考えたのだろう。浩之はあたしにそう一声掛けると、そそくさと会場を後にしてしまった。
「フッ。勝った」
立ち去っていく浩之の背中へ向けて、あたしは笑みを浮かべて勝利の宣言をする。
見事にやり返す事に成功し、あたしは充実感に包まれていた。
この時のあたしは、やはりどこか冷静さに欠けていたのだと思う。
浩之に『好き』とか『可愛い』とか言われてのぼせ上がってしまい、周りが全く見えなくなっていたのだろう。
何せ、浩之は逃げ出せるが、あたしはイベントが終わるまでは逃げ出せないという事実をすっかり忘れ去っていたのだから。
当然の如く、この後あたしは質問責めに遭った。
ワイドショーのレポーターも真っ青といった勢いであれやこれやと訊かれた。
それはもう、いろんな事を根ほり葉ほり。
ついでに、あたしが忘れていた事がもう一つある。
「け、結構よく撮れてるじゃない。このカメラマン、良い腕してるわねぇ。あ、あはは」
「あはは、じゃねーよ! どうしてくれるんだよーーーっ!」
それは、サイン会場には、マスコミも来ていたということだ。
―――で、あたしと浩之のキスシーンなんて、そんな美味しいネタを逃す者などいないわけで。
てなわけだから、後日、格闘技系の各雑誌にあの時の写真が見事に掲載されまくったのだ。『エクストリームの女王来栖川綾香。婚約者との白昼堂々のキスシーン』『来栖川綾香、結婚間近か!?』なーんて見出しと共に。
もっとも、この件であたしにダメージは全くない。あたしは別にイメージで売ってるアイドルではないのだから。
今回のことで一番割を食ったのは何と言っても浩之だろう。
何故なら、
「よ、良かったわねぇ、浩之。これで更に有名人になったわよ」
「嬉しくねーよ。こんなんで有名になんかなりたくないっつーの!」
この騒動で、浩之の知名度がまたまたグンと上昇してしまったであろうから。
しかも、本人の望まぬ形で。
まあ、今更ジタバタしても仕方がない。
事実を事実として素直に受け止めてもらうとしよう。
ある意味、自業自得でもあるのだし。
ねっ、浩之。
「ちょっと待て! 自業自得だぁ? 勝手なこと言うなって。全部お前の所為だろうが」
「な、なに言ってるのよ! 元はと言えば浩之が……」
ちなみに、例の色紙は、浩之の部屋に本当に額に入れられて飾られていたりする。
ううっ、勘弁してよぉ。
< おわり >
< おまけ >
『へぇ。あの記事の裏にはそんなエピソードがあったんだ』
あたしは、ある友人と電話をしていた。
内容はサイン会の時の事。
『面白いわね、それ。今度、あたしも同じようにやってみようかな』
「そ、それは止めた方が……」
友人の名は緒方理奈。
日本の音楽界を代表するトップアイドルだ。
「あたしの時とは比較にならないほどの大騒ぎになっちゃいますよ。絶対にマズいですって」
『分かってるわ。ウソよ、ウソ。そんなことしないって』
あたしの制止に、理奈さんが軽い声で応えた。
「そ、そうですよね」
それを聞いて、あたしは安堵の吐息を洩らす。
しかし、安心したのも束の間。
『多分、ね。うふふ』
そんなイタズラっぽい声が耳に飛び込んできた。
その時あたしは確信した。この人は絶対に実行する、と
『兄さんに頼んだらサイン会とか握手会とかのイベントを入れてくれるかしら? それとも弥生さんにお願いした方がいいかなぁ? なーんて、もちろん冗談だけど』
心底楽しそうに話す理奈さん。
その声を耳にしながら、
(どうか、冬弥さんが理奈さんのファンに滅殺されませんように)
冬弥さんに近々訪れるであろう騒動が、可能な限り小さい物になるように祈らざるにはいられないあたしなのであった。
< おまけ2 >
「長瀬よ。これはどういうことだ?」
「は? どうしたと言われますと?」
「何故に一冊ずつしか買っておらんのだ?」
「一冊ずつではいけませんでしたでしょうか?」
「当たり前だ! 閲覧用・保存用・スクラップ用・その他諸々用と最低でも15冊ずつは必要。これでは全く足りんわ!」
「さ、さようでしたか! なんたる失態。誠に申し訳御座いません」
「詫びなどいらん。そんな暇があるのなら、さっさと不足分を買ってこぬか!」
「ははっ! ただいま!」
浩之と綾香のキスシーンが掲載された雑誌。
それを全誌15冊ずつ購入した剛の者がいたりした。
「おおっ、この写真は良い。萌える! 萌えるぞ!」
敢えて、誰とは言わないが。
< おまけおわり >
☆ あとがき ☆
『知名度』のエピソードのすぐ後に起きた出来事ってことで一つ。
時間の流れが変? 気の所為です( ̄▽ ̄;
おまけに関してですが、『たさい』では綾香よりも理奈の方が年上と設定してあります。
原作に準ずる(?)と理奈の方が年下(綾香の後輩)になるのですが。
確か『WHITE
ALBUM』の舞台は『ToHeart』から数年経った世界という設定だったはずですので(ちょっと記憶が曖昧)。
最後のは……まあ、そういうことです(;^_^A
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