これは、耕一たちが結婚するずっと前の、ある日のお話。



「梓ちゃん、明日、私出張で帰ってこられないの」
「梓姉さん、私も明日から、予備校の強化合宿で一週間留守にします」
「梓お姉ちゃん、明日お友達の家に泊まりがけで遊びに行くの」
 千鶴、楓、初音。柏木家四姉妹のうち三人が夕食時に言ったこれらのせりふ
が、柏木家次女、梓の作戦のきっかけであった。

  夕食時にこの話を聞いた後、梓は部屋で脳細胞をフル回転させ、ある計画を
立てた。
「ふっふっふ。見てろよ、耕一。明日が、明日こそが、あんたの心も体もあた
しのものになる日だ――!!」
 夜の柏木家に梓の叫びがこだました。
 


『藤田家のたさい』外伝

柏木家の幸せ〜かわらぬココロ、かわるココロ〜


 梓の叫びの翌日、梓と耕一はふたりっきりの夜を過ごすことになっていた。 千鶴は出張、楓は予備校、初音は友達の家にお泊まり。理由はそれぞれ違うが、 とにかく姉妹のうち三人が家を空けるので、その日の夜の柏木家は梓と耕一、 ふたりだけとなるのだ。  問題の当日、朝食の後三人を見送った梓と耕一は、居間でお茶をすすってい た。 「ふたりっきりなんてめずらしいよな、梓」 「そうだな、耕一」  素っ気なく答えた梓だが、すでに彼女は今日行われる作戦のシミュレートを 頭の中で始めていた。 「うふっふっふ……」  不気味に笑い出した梓に、思わず耕一は尋ねた。 「ど、どうしたんだ、梓」 「……え? い、いやなんでもないよ耕一。あ、そうだ。あたし家の用事があ ったんだ、のんびりとお茶なんて飲んでるひまないんだ。あーいそがし、いそ がし」  あわてて梓はその場を取り繕い、居間から出ていった。 「な、なんだったんだ、あいつ?」  その時、耕一の鬼としての本能は危険を告げていたのだが、梓の様子が気に なっていた耕一はそれに気づけなかった。  そのころ梓は、台所で洗い物をしながら気合いを入れていた。 「ふー危ない、危ない。もう少しでばれるところだった。勝負は夜、あせるな 梓!」  結局、梓の必死の演技のおかげで、耕一はのんきに一日を過ごした。彼女の 作戦によって自分が今日、人生最大の危機に陥れられることも知らずに――。  夕食の時間になると、食卓には、梓が腕によりをかけて作った料理が並んだ。 「さ、耕一、召し上がれ」 「お、ありがとう梓。なんかすっげーごちそうだな」 「今日はふたりだけだからね、たまにはいいじゃないか」 「ふむ。それもそうだな。じゃ、いただきます」 「はい、召し上がれ」  ――ふふふ。確かに今日のメニューは、あたしが腕によりをかけて作ったス ペシャルメニューさ。エルクゥに伝わる薬、バイア○ラと媚薬の混合薬のよう なものが入ってるんだ。なんたって、豊臣秀吉が豊臣家以外に持ち出しを禁じ たり、そのことをうらやんだ徳川家康が関ヶ原の合戦を引き起こしたりといっ た、いわくつきのやつなんだからな。ふふ、ふ……そう、これがあれば、きっ と。そう、きっと耕一は……。  耕一はそんな梓の計画を知らずに、次々と料理を平らげていった。  料理は二十分ほどできれいに片づけられた。 「あー食った食った。ごちそうさま、梓」 「おそまつさま。はい、お茶」 「お、サンキュ。こういうことはほんと気が利くよな、梓って。案外、いいお 嫁さんになったりして」  そう言ってお茶をすする耕一に、梓は複雑な感情を抱いて答えた。 「案外ってなんだよ、それ。それに、相手は……あたしはやっぱり……耕一が ……」 「ん? 最後の方なんて言ったんだ? 聞こえにくいんだけど。……まあ、相 手は、な、とにかく、な……まあ、いいお嫁さんになるのは俺が保証するから、 もうこの話は終わり!」  無理矢理話を終わらせると、耕一は風呂に入るため食卓を出ていった。  数分後、梓は食卓で考え込んでいた。 「お嫁さん、か。耕一のお嫁さん、なれたらいいのにな。ううん、なるんだ、 絶対に! 誰にも負けるもんか、千鶴姉にも、楓にも、初音にも! それに、 そのための作戦はもう始まってるんだから。……それにしても、なんであの薬 効かなかったのかな? あ、もう耕一風呂に入ってる。急がないと!」  あわてて梓は自分の部屋に入っていった。   そのころ、耕一は風呂場にいた。 「ふう。なんだよ、梓のやつ、妙に意識するじゃないか。あんなこと言ったら。 でも、お嫁さん、か……俺って梓のこと結構好きなんだよな。なんだかんだ言 って顔はかわいいし、スタイルいいし、けっこう優しいとこあるし。梓がお嫁 さんか、結構いいかも……。うーん、でも千鶴さんもきれいだし、楓ちゃんも、 初音ちゃんもかわいいし。やっぱりみんな好きなんだよなって、はは、何考え てるんだか」  ばしゃっ。  考えを止めるかのように耕一はお湯をかぶった。 「さ、体を洗いますか」  その時、突然風呂場の戸が開いた。 「ん?」 「こ・う・い・ち。背中、流してやるよ!」  戸が開いた所には梓がバスタオルを巻いて立っていた。 「あ、梓? 何やってんだ、お前!」  耕一はあわてて前をタオルで隠して立ち上がった。 「何って、背中流してやろうと思っただけじゃないか、どうしたの?」 「どうしたもこうしたもあるか! それに、おま、お前、その格好!」 「大丈夫だよ、ちゃんと下に水着着てるよ。それとも、こういうの嫌なの?」 「嫌とか、そういう事じゃなくってだな、恥じらいとか、そういうのがだな……」  耕一が、なおもしぶっていると、梓は風呂場の床にぺたんと座り込んで泣き 崩れた。 「ひどい、耕一はあたしが恥知らずな女だと思ってるんだ。あたしだって恥ず かしいよ。だけど耕一が喜んでくれるのなら、と気合いを入れて、がんばって きたのに……」  梓に泣かれた耕一はあわてて床に片膝をついて、彼女を慰めた。 「あわわわ、梓、泣きやんでくれ。誰もそんなこと思ってないって。梓はすご く女の子らしい娘だから、俺はそういうことよーく知ってるから。な!」  しかし、梓がなおも泣き続けたため、耕一はがっくりと肩を落とした。 「はあ……わかった、俺の負け。大変おそれ多いのですが、よろしければ背中 を流していただけないでしょうか、梓お嬢様。お願いいたします」  耕一の言葉を聞いて、梓は耕一を見上げてにこっと笑った。  「最初っから素直にそう言っとけばいいんだよ、耕一!」  梓のうれしそうな顔を見た瞬間、耕一は己の敗北を悟った。  「演技か……まさか嘘泣きまで使うようになっているとは……」 「はい、耕一。向こう向いて」  だが、耕一を無視して梓は立ち上がり、耕一は梓に背中を洗ってもらうこと になった。    背中を洗ってもらっている間、耕一は必死で耐えていた。  ――落ち着け、落ち着け。頼む、落ち着いてくれ!  梓の盛った薬のせいで、耕一の体は少しでも気を抜くと、爆発しそうになっ ていた。  ――なぜだ、なぜこんなに体が熱くなるんだ!  耕一はいまだに自分自身の体が熱くなる理由がわかっていなかった。  梓はというと、耕一の背中を洗い続けながら考え込んでいた。  ――なんでだろ、おっかしいな。ここまでやって耕一が暴走しないなんて…… 薬の分量、間違えたかな?     梓は確かに薬の分量を間違えていた。普通の人間に使う量の五倍の量を入れ ていたのだから。ではなぜ耕一が耐えていられるのかというと、ひとえに彼が 最強の鬼であるおかげだった。だから、いくらか体が熱くなるだけで、すんで いたのだ。これがもし普通の人間なら、心臓が爆発して死んでいるところであ る。 梓と耕一がそれぞれ必死で考え事をしている間に背中は洗い終わった。  ばしゃっ。  梓が耕一の背中にお湯をかけた。   「ささ、サンキュ、梓。あ、後は俺がやるから。も、もう出ていってくれ」  耕一は梓に風呂から出ていくように言ったが、梓は抵抗した。 「何言ってるんだよ、遠慮するなって」  そう言いながら耕一の前に回った梓だったが、耕一の体のある一点に目をや ったとたん、動きを止めた。 「耕一……あんた……」 「…………」  耕一は何も答えることができなかった。梓が自分の後ろにいる間に何とか収 めようとはしたのだが、なにぶん常人の五倍もの薬を盛られた身である。体の この変化はどうすることもできなかった。 「……エッチ……」  口ではそう言ったが、梓は心でガッツポーズを取っていた。   ――よっしゃ、あと一息! 「いや、だから、これはその。あは、あははははは……」  風呂場に耕一の乾いた笑い声が響いた。もう耕一には笑ってごまかすぐらい しかできなかった。  しばらく笑っていた耕一だったが、突然両手をあわせて梓に頭を下げた。 「あ、梓、頼む。こういうことだからもう風呂場から出ていってくれ!」  梓はその様子を見て、内心ため息をついたが、あまり耕一をからかっても仕 方ないので風呂場から出ることにした。 「わかったよ、じゃあまた後でね、耕一」  そう言って梓は立ち上がり、風呂場の戸の方へ行った。  ――助かった。  耕一は安堵の息を吐き、梓の方を向かずに彼女に話しかけた。 「あ、そうだ梓。このことは千鶴さんたちにはないしょに……」  むに。  しかし、梓からの返事の代わりに耕一が受け取ったのは、背中に広がる柔ら かな感触だった。  耕一はゆっくりと背中の「何か」に話しかけた。 「あ、あ・ず・さ・さ・ん? 何を、なさってるんで、しょうか?」 「お別れのあいさつ!」  梓は耕一の背中に抱きついていた。そうすると、自然に胸が耕一の背中に押 しつけられる格好になるという寸法だ。   ――こ、これは、あ……すごく柔らかくって、気持ちよくって、なんかもう ……何もかもよくなってくるような……。  背中に広がる感触に、耕一は理性の国境線を今まさに越えようとしていた。 そこを越えれば戦争勃発の危機!   ――だめだ、理性が持たない!   その時、梓がぱっと離れた。 「じゃな、耕一」  梓は風呂場から出ていった。後には呆然とした耕一が残されていた。 「お、俺は耐えきったのか?」  脱衣所で服を着た梓はゆっくりと目を閉じてつぶやいた。 「ほとんどの仕掛けは終わった。後は最後の一手……この一手できっと、耕一 は……!」  目を開けた梓は、きっと風呂場の方を見た。 「……これでいいんだ、これで」  そのころ、千鶴は東京のホテルで得意先の御曹司との会食をしていた。    ざわっ。  千鶴の乙女の第六感を何かが刺激した。  ――こ、この感覚。これは、まさか、耕一さんの身に何かが……梓、あの娘!  急にそわそわしだした千鶴を不思議に思った会食相手の男は、千鶴に話しか けた。ちなみにこの男、商談の会食とは名ばかり。その実、千鶴を落とそうと ねらっていた。 「どうしたんですか、柏木さん……柏木さん」 「はっ! いえ、なんでもないんですよ。ちょっと失礼」  千鶴は席を立ち廊下に出た。 「よくもやってくれたわね、あの娘。許さないわよ……ふふ、ふふふふ」  そう言いながら千鶴はペンと手帳を取り出し、手帳を一枚破くと、そこに何 かを書き出した。 「これでよし。待っててください、耕一さん。あなたのフィアンセ……自称だ けど……の私が助けに行きますからね」  千鶴は自分と共に出張に来ていた部下の一人に、先ほど書いたメモを渡した。 「すいません。これを、足立さんに渡してくれますか。お願いします」 「それは構いませんが、一体これは?」 「つべこべ言わない!」 部下にひとにらみすると、千鶴は会食場所に戻った。  その後には千鶴のにらみで気絶した部下が残されていた。  会食場所では男が待ち疲れていた。が、千鶴を見ると、相好を崩して話しか けた。 「どうしたんですか、柏木さん。突然席を立って、しかもなかなか帰ってこな いなんて。何かあったんで――」  男がなおも話を続けようとしたため、千鶴は男の話を遮った。 「申し訳ありませんが、わたくし急用ができてしまいました。また、いずれご 縁があれば、お会いしましょう」  そう言って立ち去ろうとした千鶴の手首を男がつかんだ。 「どうしたんですか、柏木さん。待ってください。私は今日、あなたに仕事以 上の大切な話があるんです」  しかし、千鶴にはこの時の男の行動は、障害以外の何者でもなかった。  にっこり。 「私にはありません。手を、離してくださいませんか?」  千鶴は笑ったが、決して喜んではいなかった。その目には鬼としての本性が 表れていた。邪魔をするなら殺す、という。  さすがの下心男もこの笑みには勝てなかった。全身から生気を吸い取られた かのように文字通り、灰になっていった。 「邪魔です、どきなさい!」  千鶴は自分を止めようとする部下を、四人ほど灰にした後、ホテルの玄関に 出た。 「耕一さん、今私が助けに参ります!――はぁああ!」  千鶴は鬼の力を解放した。すると、その力は千鶴の体を空中に浮かばせた。  どびゅん!  千鶴は隆山へ向かって飛んでいった。 そのころ足立は千鶴のメモを見てうなだれていた。メモにはかわいらしい文 字でこう書いてあった。  ―― 耕一さんの危機なので隆山へ帰らせていただきます。あとはよ     ろしくね!                        フロム ちーちゃん ――  何とか梓の誘惑から耐えきったと思っていた耕一は、布団の上で横になって いた。 「なんなんだ、梓のやつ。でも、さっきの梓の胸、気持ちよかったな……はっ。 な、なぜ! なぜ今日はすぐこうなる!」  耕一があせっていると、すっと部屋のふすまが開いた。 「え?」  そこには枕を持った梓が立っていた。 「何やってるんだ? 梓?」 「耕一、いっしょに寝よ!」 「へ……?」  その言葉に耕一はしばらく呆然とした。  しばらくして復活した耕一は、梓に怒鳴りだした。 「な、何言ってんだ。んなことできるわけないだろ!」 「えー、いいじゃない、減るもんじゃないし」 「減らなくってもなくなるかもしれんだろ! だめったらだめ!!」  耕一の言葉に梓はニヤリと笑った。 「ふーん、そういう事言うんだ? じゃあ、さっきのお風呂のこと、千鶴姉た ちに言おうかな?」 「なに! 約束が違うぞ!」  「お風呂では、あたしは出ていくことは約束したけど、それ以外は知らないよ」  梓は、ふふん、と笑った。 「もし、こんな事がみんなに知れたらどうなるかな? 楓なんか一言も口きい てくれなくなるだろうな。初音は、耕一が怖くて近寄らなくなったりして。千 鶴姉は、まあ全治一ヶ月はかたいよな」 「ぐっ」  その時、耕一の脳裏には梓が言ったような光景が浮かんだ。 「いいじゃない、耕一。なんにもなければいいんだろ。それに、今日ならばれ ないって。な、いいだろ」  梓は勝ち誇ったような顔をしていた。  耕一は我が身の当面の安全確保を優先させることにした。 「……わかった。いっしょに寝よう。ただし、絶対このことはみんなには内緒 だぞ」 「やった!」 「眠れない……」  身の安全を守るため、梓といっしょに寝ることにした耕一だが、目がさえて 眠ることができなかった。  布団は元々一人用なので、必然的に二人はくっつかないと眠れなかった。さ らに梓は、耕一の右腕を胸に抱えるように眠っていたため、耕一の右腕は、言 葉では言い表せないような感覚に支配されていた。しかも、梓が部屋に入って きてからというもの、部屋中をほのかな香りが漂っており、ますます冷静な判 断ができなくなっていた。  ――どうする、耕一。このままでは俺の理性が吹き飛ぶのは時間の問題だぞ。 そうだ、他のことを考えるんだ。他のこと、他のこと……。  しかしその時浮かんだのは、風呂場での出来事だった。  しかも耕一はバ○アグラ入り媚薬を盛られているため、何かあると、体の一 部がすぐ元気になるようになっていた。 「ううぅ」  結局、耕一は努力と根性とガッツで欲望と戦うことを余儀なくされた。   「耕一、眠れないの?」  梓が耕一に尋ねた。もちろん、彼女は眠っていなかった。眠ったふりをして、 最後の作戦を実行に移す機会をうかがっていたのだ。  そして、ついにそのときが来た。 「眠れるわけないだろ?」 「そっか……やっぱり迷惑、かな? あたし」  急にしおらしくなった梓に耕一はとまどった。 「どうしたんだよ、梓。そんなしおらしくするなんてお前らしくないぞ」 「だって、さっきのお風呂だって、今だって。耕一、あたしのこと嫌がってる みたいだから……あたしってそんなに嫌われてるのかな?」  そう言って耕一を見る梓の目には涙が浮かんでいた。  ――か、かわいい。  耕一の理性を保つひもは、すでに髪の毛より細くなっていた。 「嫌ってる、とかそんなことは絶対、うん、絶対ないぞ、梓」 「じゃあ、なんで、そんなに嫌がるんだ?」 「だから、それは……やっぱり……」 「あたしは耕一が好きだから、あたしのことだけを見て欲しいから、恥ずかし いの我慢していろんな事をやった……けど、耕一はあたしのこと避けてばっか り。今までだってそう。耕一以外の男となんかつきあいたくなかったから女子 校に行った。だけど耕一は……そんなにあたしが嫌い?」  梓の最後の作戦。それは、耕一が自分の誘惑に耐えることをある程度見越し た上でのもの。  「自らの本心、想いの丈をぶつける」  これが、梓の考えた最後の作戦だった。 これは、ある意味作戦とは呼べないものかもしれない。しかし、梓が自分の 本当に欲しいもの、「耕一の心」を手に入れるには、この方法しか考えられな かった。  それに自分の誘惑で耕一が普段通りの精神状態でないときならば、耕一もも しかしたら「ケンカ友達」という自分に対する先入観抜きで自分のことを考え てくれるかも、そういう期待もあった。  また梓自身、今なら素直になれそうな気がしていた。  だから今は駆け引きなしで耕一に自分の心を伝えよう、梓はそう思った。 「梓……」  耕一は驚いていた。千鶴、楓、初音は女らしく、梓は男勝り――自分の中の、 そんなステレオタイプの認識が間違っていたこと。そして、梓も他の姉妹たち と同じか、それ以上に女性らしい繊細な心を持っていたという事実を、初めて 感じていた。 「く、くくっ」 耕一は、梓の告白を聞きながら、自分自身に怒りがこみ上げてくるのを感じ ていた。確かに梓と結婚したら、などということを考えたこともある。だがそ れはあくまで冗談の域を出ない程度のものだった。それに対して梓はどうだ。 こんなにも自分のことを真剣に考えてくれている。  自分が梓のことを好きだと思う気持ちと、梓の自分のことを好きだと思う気 持ちの違い、真剣さの差。耕一はそんな梓の気持ちに今までまったく応えよう としていなかった自分に情けなさも感じていた。  だが、梓はそれでも自分のことを好きでいてくれている。  耕一はたえられなくなって梓を抱きしめた。梓がいとおしかった、いつもの 自分ではないような気もしたが、今の耕一にそんなことは関係なかった。ただ 梓を抱きしめたかった。 「梓! お、俺は、俺は……」 梓も耕一に応えるように、耕一の体に手を回した。 しばらくの間、部屋を静寂が包んだ。耕一も梓も、ぴくりとも動かず互いの ぬくもりを感じていた。 「こ、耕一……うれしい……」  ――夢じゃないよな、本当に耕一が!   梓は、心から望んでいた状況が訪れた喜びを、かみしめていた。  梓がこの部屋に来たときから部屋中に立ちこめる香り、それはエルクゥに伝 わるお香。その香りに包まれた人間は、自分の思いを素直に表しやすくなると いうものだ。  ――このお香の香りの中であたしを抱きしめてるって事は、耕一はやっぱり あたしのこと……。 やがて梓は耕一に小さな声で話しかけた。 「ねえ、耕一……」  その声に耕一は少し驚いたが、ゆっくりとうなずくと体を移動させ、梓の上 に覆い被さる格好になった。 「梓……本当にいいのか」  梓は小さくうなずいた。 「いいよ、耕一。初めての人は、ううん、こういうことはあんたとだけだって 決めてたんだから」 「梓……」 「耕一……」   耕一の手が梓の服に掛かろうとした。  その時、  ずごぉああ――ん!!  突然、窓ガラスがある方の壁が吹き飛んだ。 「なに! 誰だ!」  梓をかばいながら、耕一は素早く臨戦態勢に入ろうとした。しかし、この時 の耕一は戦闘意欲とは別の意味で興奮しており、とてもまともに戦える状態で はなかった。 「ち、千鶴姉……」  壁の外には青白い光を身にまとった千鶴が浮かんでいた。 「え? 千鶴、さん? え!」  我に返った耕一は自分の現状に気づき、「死」を覚悟しながら話しだした。 「あ、あの……ち、ちち、ちづ、ちづづ、づづ、千鶴、さん。東京へ行ってい たんじゃないんで、ございましょうか?」  すでに耕一は自分の言葉がおかしいことに気づけないほど緊張していた。 「はい、行っていました。けど、嫌な予感がしたので急いで帰ってきたんです」 「どうやったんでござ、いましょう?」 「飛んできました」 「とぶ、トブ、飛ぶ。飛んで?」  耕一は自分の耳を疑った。そんな物理法則を無視したようなことをできるわ けがないと思ったのだ。そんなことを考えていると、ようやく彼の気持ちも落 ち着いていった。 「信じてないんですか? 簡単なことですよ。全身から、鬼の闘気を放出すれ ばいいんですから」 「梓、お前できるか?」 「できるよ。耕一もできるはずだよ。ある一定レベル以上の力を持つ鬼なら、 みんなできるんだ。あんたの親父さんに教えてもらったんだ」  いつの間にか素に戻った梓が当然のように答えた。 「知らなかった……」  耕一は状況を無視して感心していた。しかしエルクゥ秘蔵の○イアグラの力 はものすごく、体の一部は元気なままだった。 「それはそうと」 すう。  千鶴は音も立てず部屋へ入ってきて、二人の前に立った。 「こ・う・い・ち・さ・ん。あ・ず・さ・ちゃ・ん。二人で何をやっていたの かしら?」  にっこりと笑う千鶴だが、その目が笑ってないことは誰の目にも明らかだっ た。耕一は気絶しそうな自分を必死で支えた。 「あ、あの、千鶴さん。これには深い訳がありまして……」 「若い男女が一つの布団で寝て、しかもあなたの……がそんなに元気で、一体 どんな訳があるのかしら?」  びゅうっ。  ひときわ冷たい風が吹いたかと思うと、部屋の中はまさに氷河期のようにな った。部屋中氷で覆われ、天井からはつららが下がっていた。 「私というフィアンセがありながら、妹に手を出すなんて、許しません、耕一 さん!」  ずがっ!!  怒りに燃えた千鶴の拳が耕一の方へ向けられると、衝撃波で耕一は吹き飛ば され、壁にたたきつけられた。 「ぐはっ」  バイアグ○のせいで血液の流れがおかしい耕一は、この一撃で全身に力が入 らなくなり、さらに完全に気を失った。 「耕一!」 「私ではなく、梓に手を出した罰です。少しは反省してください」   梓は千鶴の方を向いて立った。 「よくもあたしの耕一を……許さねえ!」    千鶴は梓の言葉に反応して、梓の方を向いた。二人は3mほど離れて向かい 合った。 「あたしの、とはどういう事かしら、梓ちゃん」 ぶんっ。  千鶴の右手が一瞬消えたかと思うと、梓の髪の毛が数本、宙を舞った。 「どうもこうもない、耕一はあたしを選んだ。言葉通りの意味さ。それよりも、 千鶴姉。誰が耕一のフィアンセだって?」 ぶんっ。  今度は梓の右腕が消え、千鶴の髪が宙に舞った。 「私よ」 千鶴が冷たい目をして答えた。 「何言ってんだ、そんなこといつ誰が決めた!」 「耕一さんが私たちに再会したときに、私が決めました」 「勝手な事言うな!」 「勝手も何も、これはもう了解事項ですよ、私の中では」 「それが勝手だって言ってんだ、この行き遅れの年増!!」 「今、なんと言ったのかしら、梓ちゃん?」 「聞こえなかったのなら何度でも言ってやるよ。この年増、偽善者、年増、年 増、貧乳、年増、年増!!」 ぶんっ。ばがっ。  ぶんっ。どごっ。  二人が言い合っている間も彼女たちの衝撃波のぶつけ合いは続いた。そのた びにお互い少しからだをずらして攻撃をよけるので、壁や天井は穴だらけとな った。 「どうやら話し合っても無駄なようね」 ぶんっっ――。  千鶴の両手の五本の爪が伸び、青白く光を帯びた。千鶴の爪が闘気で覆われ たのだ。 「そうみたいだな」  同じように梓の両拳も青白い光に覆われた。 「今日こそ、決着をつける!」 二人の声が重なり、戦闘準備は完了した。  だが、二人はしばらくにらみ合ったままだった。 「…………」  耳が痛くなるほどの沈黙が流れた。  お互いに相手の隙をうかがっていた。  みしっ。  崩れ掛けた壁から音が鳴り、それが合図となった。 「たあ――っ!」 「はあ――っ!」  千鶴と梓は飛び上がり、空中で激突した。  ばきっ、ずががっ、どかっ。  普通の人間には決して見えないスピードの闘いが始まった。 千鶴がすさまじいスピードで残像を作ると、片っ端から梓がそれを消してい った。  お返しとばかりに梓が突きを連続で繰り出すと、千鶴はジャンプ一番、それ をかわした。  千鶴の爪が空を裂き、梓の拳が大地を揺るがした。  互いに一歩も譲らぬ攻防が続いた。 一見、リーチの長い千鶴が有利だったが、長すぎる爪が帰って邪魔になるこ ともあり、なかなか梓にダメージを与えることができずにいた。  一方、梓の方もこれといった決定打が与えられないでいた。懐に飛び込んで も、肝心なところで千鶴の爪に邪魔されるのだ。 「ていっ」  千鶴が右手の爪をまっすぐに突きだすと、梓は顔をガードしていた左手でそ の右手を横から叩いてかわした。 「ふんっ」  その隙をついて梓が繰り出す右の突きを千鶴はよろめきながらも左手で受け 止めた。 「ぐぐぐっ」  そのまま二人の足の動きが止まり、互いの力比べが五分ほど続いた。が、突 然二人ともぱっとその場を離れた。 「はあっはあっはあっ」  体力を消耗したのか、二人は闘いを中断し距離を置いて向かい合った。 「しばらく戦わない間にずいぶんスピードが上がったわね、梓ちゃん」 「ああ、だてに毎日かおりから逃げ回ってるんじゃないからな。千鶴姉こそ、 攻撃の鋭さにますます磨きがかかったみたいだ」 「ええ、こんな事もあろうかと、訓練は欠かしませんでしたから」  二人とも見かけとは裏腹にかなり体力を消耗しているようで、なかなか戦闘 は再開されなかった。 「くっ……二人とも、いいかげんやめてくれ! 二人とももう限界だ! この まま闘いを続けたら、本当にどっちも死んでしまう!」  動かない体を懸命に動かし、ようやく復活した耕一が叫んだ。  その声に答えるように二人は耕一の方を向いた。 「大丈夫ですよ耕一さん。私は死にませんから。さあ、今すぐこの子を倒して、 明日にでも私たちの婚約発表です」  「耕一、安心しな。あんたの気持ちは私が一番よくわかってる。すぐに千鶴姉 を倒してさっきの続きだ!」 「だから、冷静になって話を聞いてくれ!!」  だが二人にはすでに耕一の声は聞こえていなかった。 「たあ――っ」 「はあ――っ」  耕一の願いを無視して、二人は最後の力を振り絞って飛び出し、雌雄を決し ようとした。  ――このままでは二人とも本当に死ぬ!  そう思った耕一は二人の間に飛び込んだ。 「やめてくれ、千鶴さん、梓!!」  「耕一さん!」 「耕一!」  二人が気づいたときはすでに手遅れだった。  どっこお――ん!  二人の力を振り絞った攻撃を全身で受けた耕一は屋根を突き破り空中に飛ば され、地面に激突した。 「耕一!」 「耕一さん!」  あわてて二人は耕一に駆け寄った。 「耕一、耕一!」  梓が耕一を揺らすと耕一はゆっくりと目を開けた。 「梓、千鶴さん……ぶ、無事だったのか……よ、よかった……。あ、あんまり、 こ、こんな、命か、賭けた、姉妹喧嘩しないで、く、くれ」  耕一はなんとかこれだけを言うと、気を失った。   「耕一、動けないくせにあたしたちをかばって……。そんなことって……起き ろよ、耕一、耕一――!!」  結局、耕一は千鶴からの連絡で急いで駆けつけた楓と初音が病院に連れてい った。電話時から取り乱していた千鶴と梓では、そんなことをする判断もでき なかったからだ。 幸い、鬼の力を使ったおかけで耕一のけがは大したことはなく、一週間も入 院していれば退院できるということがわかった。  耕一が入院している間に、突貫工事で柏木家は再建された。  耕一が退院した翌日の夕方。  千鶴は自分の部屋にいた。しばらく強制的に会社を休まされたのだ。理由は、 「東京出張以来、千鶴の顔を見るとおびえる社員が多い」ということだった。 どうも灰にされた社員以外にも、千鶴の犠牲者は多かったらしい。  「まったく、梓のせいで耕一さんが大変なことになっちゃったわ。それに、楓 たちが私と梓に耕一さんの看病させてくれないし……でも見てなさい、耕一さ んが回復したら、私たちの婚約発表よ!」 「ううっ」  部屋にいた耕一に悪寒が走った。    梓は夕食の準備をしていた。 「ったく、千鶴姉が邪魔しなければもう一息だったのに。せっかく耕一からあ たしにしてくれそうだったのに、惜しかったな。でも、今度は絶対決めてみせ る!」  ここで梓は一つ勘違いをしていた。確かにあのとき耕一はお香の香りの中で、 梓を抱きしめた。事実、その香りをかげば、自分の想いに素直になる効能を持 つお香だが、その想いの対象が一人の人物だけとは限らないことを梓は忘れて いた。  つまり、耕一は確かに梓のことが好きだが、同じくらい千鶴、楓、初音のこ とも好きだった。たまたま梓がそばにいたため梓に対する想いを素直に表して いたが、耕一が梓「だけ」を愛しているわけではなかったのだ。 「ひぁっ」  再び耕一に悪寒が走った。  耕一は部屋で寝ていた。安静にするよう楓たちに言われたためだ。それもそ のはず、いくら鬼の力を使って回復が人間よりはるかに早いとはいえ、普通の 人間なら大変なことになっていたようなけがだったのだ。そう簡単に体が自由 になるはずはなかった。  すうっとふすまが開き、楓と初音が部屋に入ってきた。 「いらっしゃい、楓ちゃん、初音ちゃん」  耕一は布団から起きようとしたが、二人に止められた。 「だめです、耕一さん」 「そうだよ、寝てなきゃ」 「わかったよ。ありがと、楓ちゃん、初音ちゃん」 「耕一お兄ちゃん、けがの具合どう?」 「うん、結構大丈夫だよ。ほら心配しないで」  そう言った耕一の腹を、突然楓が布団の上から叩いた。 「ぐうっ」  耕一は苦しそうにうめいた。 「やせ我慢はやめてください、耕一さん」 「ごめん、楓ちゃん。やっぱお見通しだったか」  楓と初音は耕一をにらんだ。 「ほんとに耕一さんは、無理ばっかりして」 「そうだよ、お兄ちゃん。あんまり心配かけないでよね」 「ほんと、反省してる」  耕一が心からすまなそうにすると、二人はあわてて話題を変えた。 「で、でもお兄ちゃん、けががその程度でよかったね」 「うん、でもあの二人の渾身の攻撃の直撃を受けてこの程度ですんだんだから ね。ほんと日頃の行いの良さだな、うん……は、はは、は」  楓がにこりともしなかったので耕一はばつが悪かった。 「……それはよかったんですけど。それにしても」  楓が少し怒ったような顔をした。 「姉さんたちにも困ったものです」 「そうそう。お兄ちゃんをこんな目にあわせて!」  初音も同意した。  そんな二人を見て耕一は二人の手を握った。 「楓ちゃん、初音ちゃん、二人のことをそんなに悪く言わないで」 「でも、お兄ちゃん……」 「そうです、耕一さんがこうなったのも、あの二人の喧嘩のせいなんですから」  耕一は頭を横に振った。 「確かにそうかもしれない。いや、まず100%二人のせいだろう。でも、こ んな事で君たち姉妹の仲が悪くなって欲しくないんだ。俺にとっては、体のけ がは鬼の力でほとんど大したことない。けど、君たちの仲が悪くなったら、そ の方が辛いんだ。だから頼むよ、ね、二人とも」  耕一の頼みに二人は首を縦に振るしかなった。 「わかりました」 「うん、わかったよ」 「ありがとう、二人とも」  耕一は微笑んだ。 「じゃ、またあとでね、お兄ちゃん」 「早くよくなってくださいね」 「うん」  二人は部屋から出ていった。    一人になった部屋で耕一はつぶやいた。 「千鶴さんに梓。ほんと、あの二人には参ったよな。でも、俺のことを想って くれての行動だから、本気で怒れないんだよな。それに楓ちゃん、初音ちゃん。 二人とも俺のこと心配してくれて、今の身の回りの世話はほとんど二人に頼り っきり……」  耕一は、はぁっとため息をついた。 「やっぱりみんな、俺のことを? でも、俺は今までみんなの気持ちに気づこ うとすらしなかった……。ごめんみんな、もうちょっと待ってくれ。必ず、必 ず答えを出すから」  耕一の心の中で、何かが変わった。  そのころ、廊下に出た楓と初音はそれぞれ自分の中の想いを再確認していた。 ――耕一さん、とても優しい人。私の一番好きな人。あんな乱暴な姉たちに は耕一さんは渡せない。耕一さんは、私のもの。耕一さんは私が守ってみせる!  ――耕一お兄ちゃんって本当に優しいな。やっぱりあんな素敵なお兄ちゃん、 誰にも渡せないよ。耕一お兄ちゃんは私の旦那様になるの! 「な、なんだ?」  耕一は三度目の悪寒を感じた。 こうして、柏木四姉妹による柏木耕一争奪戦が始まった。  二年後、耕一の答えと彼女たちの闘いの決着は意外な形で明らかになるのだ が、それを知る者は未だ誰もいなかった。
<完>


〜あとがき〜
 
 ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。「龍 つばさ」改め
「つばさ」です。名前変えました。自分で書くのめんどいし、短い方がいいと、
勝手に判断した結果です。
 たぶん、いろいろな方にご迷惑をおかけすると思います、この場を借りてお
詫び申し上げます。

「柏木家の幸せ」の第二話です(といっても時間軸は昔)
 Hな話を想像した方(いらっしゃれば)ごめんなさい。
 今回は「おバカな話にしよう!」というコンセプトで書き始めたのですが、
だめでした。どうもうまく書けません。
 書けば書くほど梓への感情移入がひどくなっていき、どっちつかずの話にな
ってしまいました。まあ、これはこれでひとつの形として考えていただければ
いいな――と。

 ところで今回の耕一と梓のラブ(?)シーン。 
 あのままHをしたとしても二人とも後悔がないような心理展開にしたつもり
でしたが――。どうでしょう。(梓の心境の一部に矛盾があると思われるかも
しれませんが、梓はあくまで耕一の『心も体も全て』が欲しかったのだ、と理
解してください)

 それから、今気づいたんですけど、前作「やさしさ――」で私、「エディフ
ェル」を「エデェフィル」と書いてました。情けない……。 

  最後に、Hiroさん、こんな作品を掲載していただきありがとうございま
した。

  ではまた、別の作品で。


 どもども、Hiroです(^ ^ゞ    このSSを拝読させていただいて思ったこと、それは……    梓、可愛すぎ \(>w<)/  ああっ、ラブシーンでの千鶴さんの妨害が悔やまれます(^ ^;;     随所にちりばめられたギャグも良いです。タイミングが絶妙ですね( ̄ー ̄)b  ま、それはさておき…………  「エデェフィル」  うがぁ!! こちらもチェックが甘かったです。  すみませんすみませんm(_ _)m  もちろん、早速直しておきました。  皆さん、ごめんなさいです。  ではでは、最後に…………  つばささん、本当にありがとうございました\(^▽^)/    これからもよろしくお願いしまーす。 




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