『おもわず』



「あり? 千堂くんとこの本、もう完売しちゃったの?」

 売り物がすっかり無くなったテーブルを見て、格闘ゲームのキャラクターの衣装を身に纏った玲子が目を丸くして尋ねた。

「……まだお昼前なのにねぇ」

 思わず携帯に視線を落としてそう漏らす。

「うん、おかげさまでね」

「凄かったですよ。ホント、あっという間に無くなってしまいました」

 売り子をしていた瑞希と列整理をしていた南。その二人が疲労と充実感の入り混じった声色で返した。

「そうなんだぁ。あ、そういえば千堂くんは? 姿が見えないけど」

「休憩、というか挨拶回りかな。猪名川さんとか彩ちゃんの所とかに行ってると思うから、暫くは帰ってこないんじゃないかしら」

 瑞希が質問に答えると、玲子は「ふーん」と納得顔を浮かべる。

「……あっ、そうそう。これ、差し入れ。南さんもどぞ」

 思い出したようにそう言うと、玲子は二人にスポーツドリンクのペットボトルを手渡した。

「うわぁ、ありがとう。喉、カラカラだったのよ」

「ありがとうございます。いただきますね」

 受け取った二人は、美味しそうに飲み物を喉に流し込んでいく。
 疲れと渇きが癒され、堪らず瑞希と南はハァと吐息を零した。

「どう? 久しぶりの売り子はやっぱ疲れた?」

「そうね。ちょっと戸惑ったりもしちゃったし。南さんが助けてくれなかったら今頃大惨事になってたかも」

 玲子の問いに、瑞希は微かに苦笑を浮かべつつ答える。
 玲子の言うとおり、和樹たちにとって今回は久しぶりのサークル参加だった。
 和樹がプロとしてデビューを果たしてからは、一般でお客として足を運ぶ事はあっても、サークルとしての参加は滅多に出来ていなかった。以前は毎月作れていた同人誌も、今は年に1,2冊が限度。当然ながら趣味よりも仕事が優先であるだけに、同人誌の生産量が落ちてしまうのは仕方のないところだった。従って、和樹のサークル参加にはどうしても『久しぶりの』という枕詞が付いてしまうのである。

「でもまあ、しょうがないよ。こればっかりは、ね」

 ――お仕事の原稿を落としたりしたら、編集長に絞め殺されちゃうかもしれないし。
 そう言って、クスッと微笑む瑞希だった。




「そういえば、今日はお客さんに随分と女の子が多かったですよねぇ」

 飲み物を口にしながら三人で軽く雑談を交わしていると、不意に南がそんな話題を持ち出してきた。

「そなの?」

 瑞希の顔を見て、玲子が確認するように尋ねる。

「そうね。うん。確かに多かったかな」

 デビューする前も和樹のサークルには女性客は少なくなかった。しかし、それでも『6:4』の割合で男性の方が多かったと瑞希は記憶している。ところが、今回は明らかにそれが逆転していた。というか、女ばかり。どう少なく見積もっても、女性が7で男性が3だった。

「なんでだろ?」

「どうしてでしょうねぇ?」

 一様に首を傾げる瑞希と南。
 そんな二人に、玲子が思い当たる事を口にする。

「それはアレじゃないかな? コミックZでの特集記事の影響」

「記事の影響?」

 鸚鵡返しに瑞希が問う。

「そ。コミックZでさ、千堂くんを特集した事あったじゃない。写真付きでさ」

「ああ、なるほど。そういうことですか」

 南が納得した顔でポンと手を打った。

「……?」

 対照的に瑞希は不思議顔。小首を傾げて物問いたげな視線を玲子と南に向けている。

「つまりね。女の子たちが千堂くんの写真を見て、『千堂せんせー、かっこいー♪』とか思っちゃったりしたワケよ。千堂くんってルックスが良いから。そんで、女性ファンが急増しちゃったと」

「ですねぇ。まあ、無理もありませんよ。和樹さんって素敵ですから」

 玲子と南から発せられたその言葉。それを耳にした瑞希の今の表情を一言で表すならば『ポカーン』であろうか。 

「……は、はぁ? かっこいい? 素敵? 誰? 誰が? 誰の事?」

「だから、千堂くん」

「和樹? え? 冗談でしょ?」

「いや、マジもマジ、大マジだって」

 玲子にキッパリと言い切られ、本を買っていった大勢の女の子たちを脳裏に思い浮かべ、瑞希はついつい深い深いため息を零してしまう。

「……なんだかなぁ。蓼食う虫もなんとやらとは言うけど……世の中には物好きが多いのねぇ」

 豪快に壮絶にこれでもかと自分の事を棚の上に放り投げた発言をぶちかます瑞希。
 そんな瑞希に、玲子と南は顔を見合わせて苦笑してしまう。

「それにしても、これから瑞希さんは大変になるかもしれませんね。和樹さんを狙う人も多くなりそうですし」

「瑞希ちゃん、心配で夜も寝られなくなっちゃうんじゃない?」

 気遣いの感じられる――それでいて明らかにからかいの色の混じる――声を、瑞希に掛ける。

「え? 別に心配なんかしませんよ、あたしは」

 だが、それに対する回答は実にアッサリとしたものだった。

「あら、そうなんですか?」

「えーっ!? ホントにーっ? あの超絶ヤキモチ妬きの瑞希ちゃんがぁ?」

「もちろん」

 澄ました顔で瑞希が返す。玲子の言葉に若干頬の辺りを引き攣らせてはいたが。

「だって、顔も名前も知らない人を相手に心配していても仕方ないもの。なにより、もっと身近に気を付けなくちゃいけない人はいくらでもいますし」

 そう言いつつ、瑞希は意味ありげな視線を玲子と南に送る。
 両名があからさまに目を逸らしたのは御愛嬌か。

「それに……」

 瑞希は頬を染めて、恥ずかしそうに小さな声で、

「和樹はあたしにベタ惚れなんですから、他の女の子に気を取られたりはしません」

 ――けれども、胸を張って堂々と言い切った。

「あらあら」

「うわぁ。こりゃまたご馳走様だねぇ」

 確固たる自信を示す瑞希に微かな嫉妬を感じてしまいつつも、瑞希の浮かべる輝かんばかりの笑顔に思わず見惚れてしまう南と玲子だった。




 ――で、ここでエンドマークが付いていればそれなりに綺麗に終われたのであろうが、この話にはまだ少しだけ続きがあった。


「さっすがは瑞希ちゃん。毎晩毎晩、たっっっぷりと濃厚に愛されちゃってる人は言う事が違うねぇ」

 ひゅーひゅー、などと言いながら玲子が瑞希を肘で突っつく。

「なっ!? そ、そんな、あ、あたし、別に……。っていうか、いきなり何を言い出すのよ!」

「そうですよ、玲子ちゃん。ダメじゃないですか」

 真っ赤な顔で抗議する瑞希に、南も困った表情で援護射撃。

「あの和樹さんとあの瑞希さんですよ。きっと朝昼晩食前食後。最低でも1日に6回は確実でしょう。それなのに、そんな晩にしかしてないような言い方。瑞希さんたちに失礼です」

 もとい、思いっきり追い討ちだった。
 相変わらず何処かが致命的にずれている南だった。

「ちょ、ちょっと待ってください、南さん! てか、南さんの方がよっぽど失礼です!」

「あ、そっか。そうですよね。南さんの言うとおりです。ごめんね、瑞希ちゃん」

「そっちも納得しないで! 謝らないで!」

「でも、事実っしょ?」

 至極真面目な顔で玲子が訊いてくる。
 それを受け、瑞希は思わず叫んだ。

「事実じゃないわよ! そんな朝昼晩食前食後だなんて、あたしたちはケダモノじゃないんだから!」

 叫んでしまった。

「普段は2、3回! どんなに多くても4回まで! それ以上は和樹はともかくあたしがもた、な……い……」

 声を大にして。

「じゃ、じゃなくて! そ、その、だ、だから……違うのよ! そうじゃないの! そうじゃなくて!」

「あらあらあら」

「瑞希ちゃん、大自爆」

「あうぅぅぅぅ」




「なあ、瑞希?」

 挨拶回りから返ってきた和樹が尋ねる。

「なに?」

「さっきから、四方八方からまるでケダモノでも見るかの様な視線が飛んできてるんだけど……何か原因に心当たりないか?」

「え? そ、そうなの? あ、あたしには分からないわ。うん。ぜーんぜん分からない。あ、あはは、あはははは」

 乾いた笑いを零しながら、胸の内で和樹に「ごめん」と手を合わせる瑞希だった。