『おとな』



「こんにちは……って、あら? 葵、一人?」

「あ、好恵さん。こんにちは」

「綾香たちは?」

 格闘技同好会の練習場である神社の境内。
 そこで一人で本を読んでいた葵に、好恵は軽く周囲を見渡しながら尋ねた。

「まだ来てないんですよ。たぶん、なにか用事があって遅れてるんだと思いますけど……」

 本を閉じ、微かに首を傾げて、推測混じりに葵が返す。

「なにか綾香さんに御用でもあったのですか?」

「いいえ、別にそういうワケじゃないわ。ただ、ちょっと様子を見に来ただけよ」

「あ、そうなんですか」

 好恵の言葉を聞いて『なるほど』といった顔をする葵。
 そんな葵の素直な反応に、好恵はクスッと柔らかく微笑んだ。

「? わたし、何か変なこと言いました?」

「ああ、そうじゃないのよ。これが綾香だったら憎まれ口の一つでも返って来るんだろうな、って思っちゃったものだから、つい、ね。あの娘なら、『様子を見に来ただけ? ホントにぃ? 実は敵情視察なんじゃないの?』とか言ってきそうじゃない?」

「あ、あはは」

 肩を竦めつつの好恵の発言を受け、葵は小さく苦笑する。『綾香さんなら確かに言いかねない』という顔をして。

「ところで、葵」

「はい、なんですか?」

 不意に、好恵は、葵が持っている本へと視線を移した。

「話は変わるんだけど……あなたってそういう本も読んだりするのね」

「え? へ、変ですか?」

 葵が手にしているのは料理のテキスト。数多くのレシピが掲載されている、いわゆる『主婦向け』の本だった。

「変じゃないけど……ちょっと意外かな」

 好恵も葵が料理をすることはよく知っている。
 しかし、それでも尚、好恵にとっては葵と料理の本という組み合わせは少々ミスマッチに感じられた。

「意外、ですか? そうですよね。意外ですよね。あはは。自分でもそう思います」

 少しも気を悪くする事も無く、葵は屈託の無い笑顔を浮かべる。

「こういう本を買ってまでお料理の事を勉強するだなんて、ちょっと前までのわたしなら想像も出来ないことですし」

「そうね。葵はエクストリームにしか興味の無いスポコン娘だったから。それを思うと、料理の本を読む葵というのは結構感慨深いものがあるわね」

 冗談めかして好恵が言うと、葵は些か照れくさそうに頬を掻いた。
 そんな葵を見ながら、好恵は心の中で再度繰り返した。本当に感慨深いわ、と。
 葵は変わった。それも、おそらく良い方向に。
 昔の葵なら、少しでも時間があったのならば、一心不乱にサンドバッグに向かっていたはずである。綾香たちを待っているにしても、今の様に、本を読んで時間を潰す事などは到底考えられない。
 少し前までの葵は、とにかく『思い込んだら一直線』な性格をしていた。生真面目で、脇目も振らずに突き進む少女だった。
 そして、故にどことなく危うい脆さも併せ持っていた。無理に無理を重ねて、挙句に壊れてしまいそうな――そんな怖さを感じさせた。
 それに引き換え、今の葵には周りを見渡せるだけの余裕がある。心に、ちょっとはそっとの事ではビクともしないしなやかさが生まれている。
 ――これも藤田たちと出会ったおかげかしら。
 穏やかな瞳を葵に向けつつ好恵は思った。
 尤も、変わったのは何も葵だけではない。自分自身も精神的に大きく変貌を遂げている。そのことを好恵は強く自覚していた。
 以前の好恵であったなら、目の前の葵の姿を見て『弛んでいる』と感じたはずである。なのに、今は非難どころか安堵の感情すら抱いている。葵に喫した敗北、浩之たちとの出会いと交流。これらは確実に好恵も変えていた。刺々しさが消え、彼女が本来持っていた柔らかさが表に出てくるようになった。
 ――わたしもだいぶ毒されてしまったのかしらね。藤田や葵、綾香たちが作るほのぼの空間に。
 胸の内で苦笑しながらも、それはそれで悪い気がしない好恵だった。

「ねえ、葵。料理をするのって好き?」

 好恵から葵へと唐突に投げ掛けられた問い。それを受け、葵は一瞬だけ目をパチクリさせたが、

「はい、大好きです」

 すぐに満面の笑み浮かべ、元気一杯に返した。

「お料理を褒めてもらえると凄く嬉しいですし、新しいメニューとか考えるのはとっても楽しいですし。それに……」

「それに?」

「家族のみんながわたしの作ったお料理を美味しそうに食べている姿を見ているだけで、心の底から幸せな気持ちになれるんです」

 そう言うと、葵はニッコリと微笑んだ。

「そ、そう」

 同性の好恵ですら思わずドキッとしてしまう程の魅惑的な表情で。
 母性を感じさせる、全てをあたたかく包み込んでしまうような雰囲気を纏わせて。
 それを見て、好恵は深く理解した。
 葵は変わった。良い方向に変わった。けど、ただ変わっただけじゃない。いつのまにか、葵は、私が驚くほどに大人になっていたのだ――と。
 汚れの無い純真な心を持ったまま、大人の包容力を併せ持ちつつある葵。
 そんな葵を目の当たりにし、まだまだ子供だとばかり思っていたのに、と若干の物寂しさを覚えつつも、後輩の成長が素直に嬉しかった好恵だった。





<余談>

 それから暫し、好恵と葵が他愛の無いお喋りを楽しんでいると、

「あー、もう。居残りでお説教だなんて。今日はついてないわ」

「全くですね。さいてーな気分です」

「おまえらの自業自得だっつーの。豪快に居眠りなんかしやがって」

 不意に綾香とセリオ、浩之の声が聞こえてきた。

「やっと来たみたいね」

「ですね」

 好恵と葵は頷き合うと、意識を近付いてくる三人の方へと向ける。



「だって、しょうがないじゃない。昨夜は誰かさんが全然寝かせてくれなかったんだから」

「誰かさんって?」

「そこのボケボケオタク娘の事よ!」

 浩之の問いに、綾香は指をビシッと突き刺して答えた。

「特撮のDVDを観るなら一人で観なさいよね、一人で!」

「何を言ってるんですか。こういうのは誰かを巻き込むから楽しいんです」

 どきっぱりとセリオが言い切る。

「……何気に外道っぽいな、おまえ」

「おかげで1時間くらいしか眠れなかったのよ」

 肩を落とし、疲れた表情で綾香が零した。

「あらあら、それは災難でしたね」

「他人事みたいに言うな、当事者!」

 セリオの肩を掴んで前後に揺らしつつ、声を大にして綾香が突っ込む。

「1時間か。あー、それじゃ居眠りしちまってもしょうがないかもなぁ」

「ええ、仕方ないのよ」

「はい、仕方ないんです」

「いや、ちょっと待て。綾香はともかく、セリオの場合は全然『仕方ない』じゃないだろ。おまえが原因なんだから。つーか、なんでお前まで居眠りするんだよ。なんか根本的な所でいろいろと激しく間違ってるだろ」

「細かい事は気にしちゃダメです。ドンマイ?」

「細かくねぇしドンマイでもねぇ!」

「というか、なんで疑問系なのよ!?」




「……ハァ」

 こめかみを揉み解しながら、思わず深いため息を吐いてしまう好恵。
 聞こえてくる会話があまりにも子供じみていて……。
 葵に対して『大人』を感じた後だけに余計に……。

 取り敢えず、あの三人が到着したら問答無用で葵の爪の垢を煎じて飲ませよう。

 そう固く心に誓う好恵であった。