私立了承学園第440話

「親戚」

(作:阿黒

 


 就寝前の小1時間程の時間を潰すのに、眠気を誘うために本を開くのは悪くない。堅苦しくない、適度な娯楽小説か旅行記くらいが良いだろうか。それを流し読みする傍らに、紅茶とビスケットでもあればなお良いだろう。一人で暮らしていた頃は、自分でわざわざ紅茶を淹れるのも億劫で、滅多に揃えることはなかったが。

 放課後。

 柳川は、学園の図書館から適当に借り出した本を入れた紙袋を下げて、商店街地区を歩いていた。車は入れない、人通りの少ない裏路地をいつもよりほんの少し歩調を落として歩きながら、腕の時計に目を落とす。自分より少し早く上がって、付添のマインと一緒にDIYに壁紙や工具を見に行った貴之との待ち合わせの時間には、まだ大分余裕がある。

Honey Beeかエコーズでコーヒーでも・・・いや、それは合流してからでいいか。どこか他に適当に時間を潰せるような所は・・・)

 ……!!

「……うん?」

 微かに、覚えのあるような声が聞こえたような気がして、柳川は足を止めた。日当たりが悪くやや薄暗いが、無人というわけでもない路地の真中で耳を澄ませる。雑踏のざわめきと近くから聞こえてくる表通りの喧騒の中から、エルクゥの聴覚は目的の音を辛うじて拾い上げた。

(…どい…いやっ、はな…)

(…せえっ!このガキ…)

 僅かに眉をしかめ、柳川は動き出した。滑るような足取りで、しかし全く音を立てず、柳川は路地の角を二つ曲がり、更に細く入り組んだ裏道に入り込んだ。途端に、声がクリアーになる。

「…おっ…お金が欲しいならバイトでもなんでもして、自分で働いて稼ぎなさいよっ!い、いまお金があったって、あなた達にお金を上げるつもりなんかないんだからぁ!」

「なんだとこのガキ!」

「まわしちまうぞコラァ!」

「がっ…がき、って、あ、あなた達中学生でしょう!?私は高校生なんだから年上だよっ!」

「ウソこけ!見え透いたウソつくんじゃねーよチンクシャ!」

「んな小学生な高校生がいるかっ!!」

 そう喚きかけて、一人が気配を感じてこちらに振り返ってくる。

「…なんだよオッサン。向こういけよ」

 小さなファンシーショップの入り口の影になる所に、中学生が3人。中学生といっても、体格はそれなりに良い。その輪の中で、壁際に追い込まれている少女の顔は見えないが、しかし、触覚のようにピン、と立った髪の毛を、柳川はよく知っていた。

 とりあえず。

「…お前らの気持ちはよーくわかる。わかるが、その娘は本当にお前らより年上だ。まあなんというか、それ絶対か?と問われると、万全の自信で断言はできんのだが」

「ああっ!?なんだかしみじみ頷かれてるっ!!??」

 涙目でそう抗議してきたのは――柏木初音だった。柳川にとって公的には了承学園の教師と生徒という間柄であり、私的には異母兄の娘――姪である。

 周囲を囲む悪童共にこづかれたのか、初音の髪は少し乱れていた。

「しかしな。お前と楓の2人で全国高校生女子平均胸囲を−2cmは下げているというこの如何ともしがたい事実をどう説明するつもりだ?」

「かっ、勝手にそんな話作らないでよ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」

「嘘じゃない。この前、保健室にあった教育委員会差し回しの資料に、確かに記載されていたぞ」

「え…ほんと…?」

 半信半疑な顔の初音に鷹揚に頷くと、左手に紙袋をぶら下げたまま柳川は腕を組んだ。

「本当だ。…一見公文書風メイフィア手製の偽造資料に」

「それ結局嘘じゃないですかーーーーー!!!」

「うむ。お前みたいに素直な奴がいるから、メイフィアも騙しにそれだけ力を入れるんだろうな。その気持ちはわからなくもないが」

 ちょっぴり遠い目をしてあさっての方角に向かって呟く柳川である。

 と、今まで無視されていた中坊3人が、唸り声を上げてきた。

「お前ら…なめてんのか、こらぁ」

 柳川は、少しだけ視線を動かして彼らを見た。そのままかっきり2秒間、見つめて。

「ところでお前一人か?耕一達はどうした」

「えっ…あ、あの、今日はわたし一人でお買い物に…でも、後で待ち合わせ…」

「だから、何事もなかったよーに無視すんなあああああああっ!!」

 ヤニで黄ばんだ乱杭歯を剥き出しにして喚く学生には全く構わず、柳川は初音との距離を詰めた。柳川は長身だが身体つきは細く、一見してあまり強そうではない。そのため頭一つ分の身長差ながら、全く臆することなく学生達は柳川を睨み上げた。

 唯一人、柳川がどれだけ危険な男であるか知っている初音は、思わず制止の声を上げかけ…

 

 パンッッ。

 

 乾いた音が、路上に響いた。

 殴られた顎に手をやり、柳川は黙って中央の学生を見下ろした。

「失せろオッサン」

 全体的に平べったい造詣の、泥臭い顔つきにはまるで似合っていない金髪の不良学生は、ただそれだけを短く言い捨てる。

 細い裏道とはいえ、全くの無人ではない。少ないながらも通行人はいるし、初音の買い物先であった店内には当然、店員がいる。だが、危険な雰囲気に素知らぬ顔で通り過ぎるか、慌てて道を変えて立ち去ってしまい、こちらに関わってこようとはしなかった。

「………」

 殴られたまま動かない柳川が萎縮して怯えている、と判断して、不良学生達は初音に視線を戻しかけた。その、微妙なタイミングで。

「おい」

 静かに、柳川は声をかけた。殴られた時に少し唇を噛んでしまったのか、僅かに血の味を感じる。

「俺はまだ二十代だ。おっさんなんて言われる歳じゃない」

「……この!!」

 瞬間的に沸騰し、学生が再び右拳を放った。意外に鋭い、先程よりも容赦のない一撃が柳川の顔面を捉え――

「えっ!?」

 映画のフィルムが突然飛んだように、いきなり2メートル程離れた路面に転がされている学生に、初音は声を上げた。うつ伏せに転がった本人も、自分が何をされたのか全く理解していない顔で、痛みを忘れて呆然としている。その、キョトンとした顔が、年齢相応の幼さを感じさせた。

(…えっと…殴りかかってきた腕をとって、流しつつ後ろに回りこんで、踝を踵で踏み抜いた…んだよね…?)

 なんとなくそんな分析をしてしまう初音の前で、硬直していた残りの2人が身じろぎした。

「このオッサ…」

「オッサンではないっ!!」

 がすっ。

 軽々と振り回された、本がズッシリと詰まった紙袋で肩口を打たれ、その学生は衝撃に蹈鞴を踏みなつつ辛うじて持ちこたえた。だがその手から黒い革袋が零れ落ちる。ズシャッ、と重い音を立てたその袋の中には、ギッシリとパチンコ玉が詰められてあった。

「こっ、この野郎…」

 咄嗟に小振りのナイフを抜いたものの、痛そうに肩を抑える仲間とこちらにせわしなく交互に視線を向ける学生の手を、柳川は見つめた。

 何か固いものに刃をぶつければ、逆に手首を挫いてしまいそうな危なっかしい手つきだった。

「こっ、こっ、こっ、このヤロウっ、ナメんじゃねぇぞぉっ!!?」

「…お前ら、悪態つくにしてももう少しオリジナリティとかボキャブラリーは無いのか?頭の悪い…」

 自然な動作で背広を脱ぎながら、柳川は無造作に距離を詰めた。ひっ、と声にならない音を咽喉から洩らしながらも、右手の刃物を――

 自棄になって振り回す前に、柳川の右手が鋭く動いた。強烈な勢いで背広が腕に叩きつけられ、握ったナイフごと腕に巻きつく。

 あっ、と思った時には腕を捕られ、少年の身体は近くの壁に叩きつけられた。そのまま簡単に、背広ごと柳川にナイフを奪われている。

「…少し遊んでやろうか?」

「えっ…」

 そのまま相手の右手を壁に広げさせると、柳川はその上に自分の手を乗せた。左手にナイフを持ち替え。

 ドカッ!!

 凄まじい勢いでナイフの刀身の半ばまでが一気に壁に突き刺さり、逃れようと身をよじらせかけていた少年は、その勢いに気圧された。指と刃の間には、ミリ単位の隙間しか残されていない。

「お前らの歳だと…そうだな、エイリアン2という映画を見たことがあるか?」

「へっ?…な、ない…」

「…そうか」

 頭を振る少年に、少し残念そうな顔をして、柳川はナイフを引き抜いた。そして。

 ドカッ!!

「ひいいいいいっ!!?」

 今度は人差指と中指の付根スレスレにナイフが突き立ち、少年は悲鳴を上げた。思わず手をのけようとするが、その瞬間まるでプレス機のような圧力で、上に乗った柳川の手が少年の手を壁に押し付けた。

「つっ、潰れる、潰れる―――――!!」

「黙って見てろ。おもしろいから」

 少年の泣き声を無視し、柳川はナイフを引き抜き、そして壁に突き立てた。

 かつっ。かつっ。かつっ。かつっ。

 親指のすぐ外側を起点として、指の股をナイフは忙しく往復を始めた。…そして徐々にその速度は、増してゆく。

 カツッ、カツッ、カツッ、カツッ、カツッ。

「ひっ…」

 見ているほうが怖くなるほど、ナイフは指スレスレの場所に連続して突き立てられていく。その動きは精密機械のように滑らかで、正確で、そして速かった。

 カカッ、カカッ、カカカッ、カカカカカカカカカカカカッ、カカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカッッ……!!

「――!!」

 無言の悲鳴を学生が爆発させた。まるでそれを見計らったかのように、ピタリと刃の動きが止まる。

「昔の西部劇やギャング映画では、たまにこんなシーンが出てきたものだったが…お前の年代じゃ知らないか?俺がお前らの歳の頃は、学校の休み時間によくシャーペンで遊んでいたものだったが」

 軽くそう言って少年を解放すると、何気なく柳川はナイフを指でクニャッ、と無造作に曲げた。単なる鉄屑になったそれを路地裏の暗闇に投げ込んで、学生どもの方に振り返る。

「いいかお前ら――?」

 と言いかけた丁度その時には、素晴らしい脚力を見せて、2人の学生が角を曲がって消えていくところだった。少し遅れて、軽く足を引き摺りつつ懸命に走っていた学生が、仲間を追って角を曲がる。

 …………。

「…つまらん。これからがねちねちしつこくもマッタリとしたイヤガラセ本番だったというのに」

「ああっ…助かったのに、助けてもらったのに素直に喜べないのはどうして…?」

 何やら逃げ出した不良学生達に憐憫を覚えているらしい初音に、柳川は片眉だけ器用に上げてみせた。

「…あのな。全てを忘却の淵に沈めて、社会復帰に10年はかかりそうなダメージを負わせたわけでもあるまいし。ま、そんなことは滅多にやらんが」

「えーと…」

 滅多にやらない。(意訳=たまにやる)

 何だか辛そうな顔をして汗を垂らしている初音はとりあえず放っておいて、柳川は背広が破れていないを確認して袖を通した。適当に放り出した紙袋を拾い上げ、中の本を確認する。

「…壁の傷は…後でパテで埋めて塗装すれば目立たなくなるか」

「うわぁ…きれいに手形に傷がついちゃってる…」

 先程のナイフゲームで手形が刻まれた壁面を見て、もう感心するしかない、と半ばあきらめたような声を初音は上げた。そのまま柳川の方に顔を向け、少しだけ考え込むと、初音はペコリと頭を下げた。

「あのっ。…ありがとうございました」

「…ああ。まあ、これでも一応は元警官だし」

 柳川は、所謂キャリアではない。大学卒業後、交番勤務の巡査から始めて二十代後半で警部補に昇進という、異例の出世を果たしている。これは柳川の有能さを証明しているが、反面それ故に同僚のやっかみを買い、職場内で孤立する原因の一つともなったのだが…。

「ん…?」

「あれ?」

 適当に茶を濁してさっさと別れよう、と思いつつ、柳川は右手に目を止めた。初音も気付いたらしく声を上げる。

 小指の横腹で、小さな赤い血の玉がゆっくりと膨れ上がっていた。痛みは無かったが、どうやらちょっとだけ、失敗していたらしい。まあ、エルクゥにとっては代謝を活性化させればものの1分もたたず痕も残さず消えてしまうような、かすり傷ともいえないものではあった。

「やれやれ、カッコ悪いな…?」

 苦笑しかけて、そこで柳川の顔面は引き攣った。何の躊躇いも見せず、ごく自然に初音が手をとって、傷に口を寄せてきたのだ。

 ちゅっ…

 少し指を吸い、そして温かで柔らかい舌先が、チロッと傷口を舐める。

「えっと…あ、あったあった。――はい、これでよし、と」

 よしじゃねーだろ。

 意外に手馴れた手際で貼られた、可愛い絵柄のクマがプリントされたバンソウコウを見ながら、心中密かに柳川はうめいた。しかし、一応手間をかけてもらったわけではる。

「…すまんな」

 素っ気無い礼ではあるが、この男からすればかなりな努力の結果である。少し、口元が引き攣っていたが。

「ううん、全然大したことしてないし。…でも、まあ、これでお互い様、ってことで」

 屈託の無い笑顔を見せる初音に、柳川は、ひょっとして、自分は早まった真似をしてしまったのでないだろうかという、深刻な疑惑に捉われかけていた。

 最近わかってきたことだが、どうも自分は、こういう素直で邪気のないタイプは苦手らしい。

 まがりなりにも親類ということでつい手を出してしまったが…深みに嵌らないうちに、早々に手を引いた方が懸命かもしれない。

 初音の笑顔から目を逸らしながら、柳川は心の内でそう呟いた。

 

* * * * * * * * *

 

 待ち合わせの駅前には当然のことだが、貴之達の姿はまだ見えなかった。約束の時間まで、まだ30分以上ある。

 ロータリー近くに設置されたベンチに座ると、柳川は傍らの初音にオレンジジュースの缶を手渡した。

「ありがとうございます、柳川の叔父さん」

 べきっ!!

 缶コーヒーのプルタブを必要以上に大きな音を立てて開けると、柳川は自棄気味に一息で無糖コーヒーを飲み干した。

「ううっ…なんだかどんどん深みに嵌っていくような…」

 その声にはちょっぴり、涙が滲んでいた。

 本当なら、その場ですぐ別れるつもりではあった。しかし、初音の方も、耕一や姉達と待ち合わせをしていて、そして最寄のわかり易い待ち合わせ場所として駅前が選ばれるのは、ごく無難な選択というもので。

「叔父さん、か。…ふふっ、ひさしぶりだな、この呼び方」

 ちびちびとジュースを飲みながら、初音はしみじみと呟いた。7年間、親代わりとなって自分たち姉妹を育ててくれた、賢治叔父さん。耕一お兄ちゃんのお父さん。

 その『叔父さん』という呼びかけには、深い愛惜があった。

(ううっ…)

 それがわかるだけに、無下に『叔父さんと呼ぶな』などと言うのは、柳川といえども流石に気が引けた。

 どんどん道を踏み外していく。

 スチール缶を指二本で縦に潰しながら、柳川は深い溜息をついた。

「でも…さっきはちょっと、意外だったかな。柳川叔父さん…そんな、黙って殴られるような人じゃないって、思ってたから」

「というか、好き勝手平気に殴りまくる方だしな、俺は?」

「……えーと」

 曖昧な笑みを浮かべる初音に、柳川は言った。

「そうは見えないかもしれないが、これでも普段から自制はしている。…俺は、まあ、大志や腐れ魔女やラルヴァ共のような、殴っても容易には壊れん奴等は平気で殴るが、生徒に手を出したことは、一度だって無い。

 腕力をかさに無理強いするようなことも、ない。…少なくとも、自分ではそのつもりでいる」

 チラリと冬弥のことを思い出し、柳川は、軽く目を閉じた。

 先刻の一件も、随分手加減をしている。顔面ではなく肩口を狙うというように、極力相手に怪我をさせないように心がけたつもりだ。一番重傷なのは足首を痛めた少年だろうが、それとて2,3日で完治する程度の軽傷だ。

「…俺は、誰が相手でも万遍なく平等に公平で分け隔てなく、好き勝手絶頂に傍迷惑なだけで」

「…それ、結局全然ダメダメだと思う…」

「ふん」

 そのまま、二人は少し口を噤んで目の前を通り過ぎていく人並みに視線を送った。それをぼんやりと眺めながら、柳川が、フッと口を開く。

「さっきの件だが。お前、俺があの悪ガキの1人をこかした時、目で追ったな。…動きが見えていたのか?」

「えっ?…あ…えっと…まあ、多分、何をどうしたのかは、おぼろ気には…」

「…やはりどんなにか弱く見えても、柏木の人間ということか」

「…そう…だね」

「力で対抗はできなかったのか?」

「えっ…?」

 まるっきり、意外なことを尋ねられた顔をしている初音に、半ば納得しながらも柳川はうんざりした気分になった。

「いつもは、耕一や姉達が傍にいるだろう。今日は、たまたま俺が通りかかった。…だが、今度こんな目に遭った時、お前は1人でどうするつもりだ?」

「え…あの…その…」

 答えられない初音を睨むと、口元を柳川は歪めた。

「忠告しておこう。…そんな時は、可能なら真っ先に逃げろ。大声で助けを呼べ。金が欲しいっていうなら、くれてやれ。間違っても、腕力で対抗しようだなんて思うな」

「……」

 唖然としている初音に、諭すように柳川は続けた。

「生兵法は怪我のもと、だ。何か護身の心得があるとか、少しばかり武術をやってる奴の過信が、一番危ない。特に刃物相手に素手でどうにかできるなんて、考えないことだ。

 有り金巻き上げられるくらいで済むならそうしろ。金は惜しいが、命を無くすよりずっとマシだ」

 少し離れたゴミ箱に、柳川は潰した空き缶を放った。放物線を描いた缶は縁の所に当たったが、危うい所で中に落ちる。

「何より、お前にそんな荒事は似合わないしな」

 ベンチの背もたれに身体を預ける柳川の横顔を、初音はしばらく見つめていた。ややあって、ポツリと呟く。

「…叔父さんは…もっと、怖い人かと思ってました」

「一応、俺は教師だからな。生徒相手には、それなりに偉そうなことも言う」

 口ではそういいながらも、なんとなく間がもたず居心地の悪い思いをしている柳川である。こんな時、煙草を吸えれば多少はごまかしになるのだろうか、とふと思う。

「え〜と…」

 こちらも少し話題探しに苦労して、初音は少し考え込んだ。

「あの。えっと、さっきエイリアン2…とか言ってましたよね。映画。好きなんですか?」

「え?いや…まあ、この前の休みに、貴之が唐突に『今日はキャメロン祭りだ〜』とか言って、ビデオ借り込んできて。それで」

「キャメロン…ああ…。好きなんですか、キャメロン監督」

 さすがに大作映画を何本も作っている監督だけあって、その名は初音にも耳に馴染んだものだった。幾つか作品も見て、素直におもしろいと思っている。

「む。魚が空飛んで人を襲う映画作る奴がか?すごいよなー。フツーの人間は、そんなこと考えないよなー。いやまったく」

「えっと…」

 露骨に皮肉げな口調に、思わず冷汗を浮かべて固まってしまう初音である。

 豪華客船が沈むアカデミー賞受賞作とか、SFサイボーグ映画とか、コメディ調スパイ映画とか、他にも色々と語るべき作品はあるだろうに、わざわざ無名時代のB級作品を挙げるあたり、かなり意地が悪い。

「お前…というか、お前らも、マンガとか読んだりするのか?」

 とりなすように、今度は柳川の方から話題を振ってきた。マンガ、というジャンル選択に相手の年齢を考慮し尚且つ自分でもわかる範囲内で、という思惑が推測できる。

「うん、いや、はい、よく読みますよ〜。前の学校では、クラスの男子とかよく雑誌を持ってきてたから、読ませてもらって。少年チョップとか」

「ほう?…意外だな。梓あたりならわかるが」

「梓お姉ちゃんも、少年マンガ時々読んでるけど…なんだか、ちょっと、ごつい絵柄の格闘ものとか」

「格闘…拳法マンガとか?」

「そうそう。えっと、…原哲夫先生って、知ってます?」

「知ってるぞ」

 自信満々に柳川は頷いた。実際、柳川の世代でその名を知らない筈がないだろう。

「サイバーブルーを描いていたやつだろ」

 …………。

 …………。

 …………。

「……え?」

「この銃に死角はないって、バカだよなー。途中で路線変更してから、最初の敵は『クモ怪人』ってあたりがやはりお約束というか…どうした?」

「いえ…なんでもないです…」

 どうしてそこでお前は既に死んでいる拳法マンガが出てこないの―――!?

 せめて天下御免の傾奇者(かぶきもの)とか―――!!?

「…ああ…でもなんとなく納得しちゃうのはどうしてなのかな…?」

「ナニを謎な事を言っている?」

 初音が見るところ、本当に不思議そうに柳川は尋ねてきた。別にからかっているわけでもなさそうである。

(…ひょっとして、柳川叔父さんってマイナー好みなのかな?)

 マニアックというか、捻くれているというか、単に趣味が悪いだけということかもしれない。

 ガサゴソと紙袋を探っている、若すぎる叔父の隣でなんとなく初音は溜息をついた。

「…そういえばそれ…中身、本?どんな?」

「学園の図書館から、少しな。ホームズ物とか」

 ポワロやメグレといった探偵小説の古典を取り出して、先程の件で本が傷んでいないかチェックしながら、柳川は苦笑した。

「子供の頃はよくこの手の小説を読んでいたんだが…今日、図書館で見かけて懐かしくなってな。少し目を通してみたら話の筋を大分忘れていて、結構おもしろく読み進められたから」

 唯一探偵物ではない『ボートの三人男』を柳川は開いた。病気ノイローゼの間抜けな三人組が休養と称してテムズ川をボートで溯る旅行に出かける。その珍道中を描いたユーモア小説だ。イギリスという国はなんとなく古風で厳格で生真面目といった印象があるが、意外にエスプリの効いたギャグをかましてくれる一面も持っている。モンティパイソンやMr.ビーンの国でもあるし。

「叔父さんて…子供の頃はどんなだったんですか?」

「む?…まあ…普通…の子供だったと、自分では思うが」

 たちまち活字の世界に没頭していきながらも、3割ほどは現世に足を留めて柳川は姪に応じる。そんな叔父の姿に、少し初音は微笑んだ。

 考えてみれば、この叔父とこれほど言葉を交わしたことなど無かった。

 確かに出会いは最悪で、奇妙な、そして一般的にはやや憚りのある関係もあって、友好的とはとてもいえない状態がずっと続いてきた。

 だから――当たり前のように、互いに相手を理解しあうということもなく、その意志もなく、お互い敵意を消せないまま、距離を置いてなるべく関わりあわずに過ごしてきていた。

 けれど、お互いをよく知りもせずに、ただいがみ合い続けるのは…寂しいことではないだろうか。もっと別な出会い方をしていれば――あるいはより良好な関係にあったかもしれない。

 まがりなりにも、親戚である。

 こうして話してみれば、意外な側面や、思い違いがあったことを、僅かな語らいで見つけることができるのだから。

 案外、話の通じる相手なのかもしれない。この叔父は。

「あの…一度、尋ねてみようと思っていたんですけど…」

「……」

 無言で、ただちらりと向けた視線に先を促され、初音は少し低い声で言った。

「叔父さんは…やっぱり、私達…というか、柏木家が、嫌いなんですか?」

 活字を追っていた柳川の目が止まった。外見的に現れた変化は、それだけだった。

「…どういう意味だ?」

「えっと…その」

 初音は言い澱んだ。

 耕一や初音達にとって、祖父である柏木耕平は物静かで穏やかな、『優しいおじいちゃん』であった。一代で鶴来屋グループを築き上げた偉大な創業者、郷土の大立者として祭り上げる声もあり、事実経営者として大きな業績を残した大人物ではあったが…やはり初音にとってはおじいちゃん、である。

 その耕平が60歳の大台を前に自分の息子と同世代の愛人を密かに抱え…その間に出来たのが、柳川だった。一般的にあまり道徳的とはいえない、しかし珍しくも無い話である。

 しかし、自分たちの間では、この事実はやはり避けては通れないことだろう。だからあえて、初音はそれを尋ねてみたのだ。

「…………」

 ややあって、柳川は本を閉じた。

「母の妊娠を知った時、柏木耕平は即座に中絶を命じたそうだ。…それに反発した母は、一旦は折れたふりをした。子供を堕ろすかわりに高価な宝石類をねだり、噂にならないよう地元から離れた病院へ行く、と称して隆山を離れ…そのまま着の身着のままで雲隠れした。必要な荷物は事前に小分けして発送してあったというから、我が母ながら、いい根性していると思う」

 父、という呼び方を使わないところに、微妙な心理がある。柳川は僅かに苦笑したようだった。

「ねだった宝石や装飾品を売り飛ばして当座の生活費を確保すると、母は1人で俺を産んだ。

 ――こう言うと簡単だが、身重の、未婚の女が1人で生きていくというのは、大変なものだ。女性の地位が向上している今でもそうだが、『未婚』というだけで、世間はふしだらな女という偏見を持つ。母は自分ではそんな苦労話はしなかったが、住むアパートを借りるだけでも相当難儀な経緯があった。…身元不明の、ふしだらでだらしのない未婚の女に部屋を貸すのは、嫌がるところが多いからな」

 初音にとっては理解不能の話である。なぜ、そんなことで拒絶されてしまうのか。

 そんな初音を見て、柳川はすぐに視線を戻した。

「親が子供を育てるのは、将来老後の面倒をみてもらうための打算だ、などと言う奴はブン殴ってやりたかった。そんな目論見があるのを否定はしないが、親が子を想う心というものは、そんな薄っぺらいものじゃない。

 親というものは…子供のために、大きな代償を払っている。自分の楽しみを、自分の自由を、自分の幸せを犠牲にして、子供の幸せのために、子供を育んでくれるんだ。愛しんでくれるんだ。

 そこに将来は…なんて打算は無い。

 親とは…そういうものだろう?」

 意外な、穏やかな声だった。意外すぎる、言葉だった。だが、初音は、ためらいもなく頷いた。何度もコクコクと、頷いた。

「だが、柏木耕平は…父親は、俺が生まれてくるのを望まなかった。俺に生まれてくることは、あの男にとっては望ましくない事だった」

 声に怒りは無い。ただ事実を、事実のまま、他人事のように淡々と口にしている。そんな口調だった。

「今では…その理由はわかるし、無理も無いとは思う。

 実際、それは賢明な判断だったと思うさ。

 だが、それでも、俺は…奴にとってはいらない子供だった。

 父親にとって、俺は邪魔な子供なのだと。

 …それが俺の原点だ」

 初音を見ず、目の前を行き交う人の列に視線を固定させたまま、柳川は尋ねた。

「憎んではいけないのか…?」

「――え?」

「柏木耕平は、俺に生まれて欲しくなかった。奴は俺を抹消しようとした。

 自分という存在の全てを否定されて、…それでも憎んではいけないのか?怒ってはいけないのか?」

「あ…」

 意味にならない、掠れた声を初音は上げた。声は、言葉にはならなかった。どうしてもならなかった。

「――別に、柏木本家を憎んでるわけじゃないさ。いや、耕一の野郎は気にいらないが、まあ、過去のいざこざはさておいて、冷静に考えてみると…別に、お前らを憎む理由なんて、実は特別無いんじゃないか?まあ、何となくいけすかなくはあるんだが」

「えっ?えっ?えっ?」

 コロコロと変わる柳川の言葉に目を白黒させている初音である。そんな姪の姿に、柳川はなんとも判別のつかない複雑な顔になった。

「結局――俺は生前中に柏木耕平と会う機会は無かった。実のところ、顔だって隆山に赴任してくるまでは知らなかったくらいだし。

 俺には生まれる前から父親など存在しなかった。それが俺の当たり前だった。向うが俺を否定するなら、こっちも否定するだけだ。それで不都合もない。

 …憎しみ続けるには、あまりにも存在が希薄すぎて…俺にとっては、もうどうでもいいような無価値な代物にすぎないのさ、父親なんてものは。

 大体、もうそんな事で拗ねるのが似合う歳でもない」

 ベンチの背もたれに身体を預け、柳川は空を見上げた。天気は快晴。こんな不毛な話が似合う空ではなかった。

 時計に視線を落とし、柳川は僅かに顔を顰めた。

「遅いな、貴之…マインがついてるのに、遅刻なんて…」

 感情機能がおざなりな分、量産型のHM−12は能力的にはそこそこ優秀である。マルチと違って方向音痴ではなく、512分の1の確率で発生するドジをすることもない(但し未確認)。万事に無難に、そつなくこなす程度の処理能力は持っている。

 遅刻といってもほんの5分程である。まだとりたてて心配するような段階ではない。だが――

 貴之が、不意に体調を崩したのだとしたら?

 貴之はカワイイから、ナンパされてしまっているのではないか?(この場合、男女の区別無し)

 まさか先程の初音同様、タチの悪いチンピラにでも絡まれているのでは?

 そんなことはない、と否定しつつも、想像はどんどん悪い方へと加速度的に突き進む。そんな数々の最悪の予想の中で、一番ありそうなのは……。

「あの腐れ魔女、今度はナニを企んだっ!?」

「…なんだか物凄い論理の飛躍があったような、でもそうでないよーな…?」

 思わず真剣に考え込みかけてしまう初音である。

「そういえば…耕一お兄ちゃん達もどうしたんだろ?ちょっと遅れてるな…」

「そちらは比較的どうでもいいが」

「…そーですか」

 もう、なんだか色々な事をあきらめたような顔で消極的に頷く初音に、少しだけきまり悪げに柳川は頭をかいた。

「つまらん。…ここで反論とかツッコミとかあれば、こちらもそれなりに盛り上がるんだが」

「…そういうこと、いつも期待してるんですか?」

「ほんの少しだけ、な」

「それはどうも…すみません」

「……いや、そんな素であやまられても」

 はっきりと困った顔になる柳川を初音はしばらく見つめていたが、もう一度、ゆっくりと頭を下げた。

「あの。…ごめん、なさい」

「…?なにがだ?」

「えっ…と」

 顔は上げたものの、やや俯いて、初音はポツリと言った。

「その…おじいちゃんのこと」

「…………」

 一度、少しだけ口をもごつかせて、それから、柳川は応えた。

「別に、俺は謝罪なんぞ求めてはいない。その必要もないし、そもそもお前が謝罪する謂れは無いだろう」

 そう言われても、初音の表情に変化は無かった。

「…でも…おじいちゃんも、お父さんやお母さんも、叔父さんも、もういないから。

 おじいちゃんが…叔父さんにしたことは、やっぱり悪いことだって、思うし、だから、そのことは、私たちがあやまらなきゃいけないことだと、思って…。

 その…私には、そんなことしか、思いつかないし…。

 足りないとは、思うけど」

 しばらく、二人とも口をきかなかった。

 柳川は、眼鏡を外すと、レンズの汚れを拭って、かけなおした。

 そして言った。

「…逆だろ、普通。なんで俺が、お前にあやまられなきゃならん。

 お前があやまるなんて、間違っている。絶対に間違っている」

「………でも」

「でも、じゃない。なんでお前そんな…真っ直ぐ過ぎるくらい、素直で、……ええい!」

 苛ただしげに、右拳を柳川は握り締めた。

「お前は…いい子だよ。なんでそんなにいい子なんだ?なんでそんなに真っ直ぐ…素直で…」

 捻じ曲がって、偏屈な自分が、イヤになる。

 言葉が詰まって、下唇を噛む柳川をじっと見つめて、初音はゆっくりと首を振った。

「違うよ、叔父さん。私、いい子なんかじゃあ、ないよ」

 不審そうな顔をする柳川の横で、初音はまだ半分ほどしか減っていないジュースを、半口、含む。

「私は、いい子なんじゃない。いい子じゃなきゃ、いけなかったから、だから、いい子を演じてるだけだったんです」

 顔を僅かに向け、ほんのちょっぴり、笑う。

「私は家族の中で一番下で、つまり、お姉ちゃん達みんなから、守られてばかりだった。私は、一番弱かったから、お姉ちゃん達も、叔父ちゃんも、お兄ちゃんも、みんな、私を守ってくれた。

 …でも、私が弱いから、みんな、いっぱいいっぱい、苦労して、傷ついて、私の分まで、辛い思いをして。でも、私弱いから、何もできなくて。

 だから私は、お姉ちゃん達を困らせない、良い子じゃなきゃいけなかったの。

 お姉ちゃん達を少しでも助けるために、どんな小さなことでも引き受けて、ほんのちょっとでも負担を軽くして。みんなを励まして。元気付けてあげられるように。

 家の中を明るくして、あったかいって思えるように、そんなムードを作れるように、少しでもお姉ちゃん達の慰めになれるように、私は、いい子を演じる必要があった。それだけなんだよ、叔父さん。

 そのために、わたしは、姉さんを困らせない『良い妹』にならなきゃいけなくて、そうなろうと思って、そしていつの間にか、それが私の当たり前になった…それだけのことなんだよ」

 何と言って良いのやら。

 普段の毒舌も、皮肉も、一言たりとも、柳川の口から呟かれることはなかった。

「しかし…だからって…」

 そういって、口は止まってしまう。

「…お父さんとお母さんが、亡くなった時」

 きゅっ、と軽く唇を噛んで、初音は少し黙った。

「その時千鶴お姉ちゃんは16歳。今の私と同じか、少し年下。だけど、今の私に、千鶴お姉ちゃんのようなことは、出来そうにないの。

 千鶴お姉ちゃんは、ずっと、お姉ちゃんで、私は、ずっと妹だったからかな。千鶴お姉ちゃんは、なんていうかうまく言えないけど、その、私の小さい時からずうっと…」

 頤に指を添え、しばらく考え込んで、初音は少しはにかんだ。

「ずっと、お姉ちゃんだった」

 自分でもその表現がおかしかったのか、初音は少し笑いながら言った。

「だからかな。今の私よりも、ずっと大人びて、しっかりしていて。私はまだ小学生だったから、余計、大きく見えた。私にとっては、半分大人みたいなお姉ちゃんだった。

 梓お姉ちゃんも、楓お姉ちゃんも、やっぱり千鶴お姉ちゃんを頼りにしているところがあると、思う。

 でも、あの時は…周りの大人に較べたら、やっぱり千鶴お姉ちゃんもまだ子供なんだって、思い知った」

 両親の死と共に宙に浮いた、鶴来屋グループ会長の座。

 見知った人たち。初めて見る人たち。たくさんの人たちが、毎日家に押しかけてきた。

 怖い顔、恐ろしい顔、たまに笑い顔もあったけど、それは本当の笑顔じゃなくて。

 訪問者は昼夜を問わず、延々と、親を失ったばかりの姉妹を取り囲んで、難しい言葉を並べ立て、吼え、怒鳴り散らした。

 よく家に来ていたカイシャの人が、来る度にお小遣いをくれたり、笑って挨拶をしてくれる、優しい人が、まるで別人のように豹変し、矢面に立った長姉を責立てた。

 その狂乱の渦の中で、姉は、小さく見えた。とてもとても、小さく見えた。

 けれど、決して、自分たち妹の前から、退こうとはしなかった。

 それでも自分の家族と離れて、来てくれた賢治叔父がいなければ自分たちはどうなっていたことか。

「…あの時に、私がお姉ちゃんにしてあげられたことは、少しでもお姉ちゃんを休ませてあげることくらいだった。

 だから、一番幼い私が、応対をしているお姉ちゃんのところに泣きながらやってきて、それで憐れみを誘って…なんて、そんな打算的なことも、やったんだよ。

 そんなことくらいしか、わたし、できなかった」

 珍しく長くしゃべって喉を使ったが、それでもまだ空にはできないジュースの缶を両手に包んで、初音はほうっ、と息をついた。

「…何故、そんなことを俺に話す?」

「え?えっと…わたしたち、自分のこと、何も詳しく話さないまま、きたから…。

 だけど、今日は叔父さんは、私をまあ…助けてくれたし、それに今まで私たちが知らなかったこと、色々話してくれたし…だったら、私も、お返ししなきゃと思って。

 …それに、わたし」

 えへへ、と舌をちょっぴり覗かせて、初音は肩を竦めた。

「いい子だね、って、お兄ちゃんや、お姉ちゃんや、みんな私のことそう言うけど…私だってそろそろ、そんな、『いい子』なんて言われる歳じゃないよ。

 その…いくら見た目子供っぽいからって」

 どうも、子供扱いされることに割合不満をもっているらしい初音に、柳川はちょっとだけ顔を顰めた。

「…ガキだから子供扱いされるのは当たり前だろう」

「…そういうこと言われちゃうからイヤなんです」

 そう言って、また一口ジュースを飲む。

「なにより…みんな、私を買いかぶってるから。私そんな、いい子じゃない。もっと、普通で、平凡で、つまらないところや悪いところだって持ってる。なのにそんなこと言われるのは、ちょっと心苦しい」

「……なるほど」

 控えめで謙譲の美徳を持っている人間には、過剰な讃美は時として負担になることもあるだろう。何事も時と場合によりけり、とはいえ。

「確かに聞く限りでは、お前は人の良識や羞恥心を巧みに利用して事を自分の有利に運ぼうと図る、なかなか打算的な一面も持っているようだな。自分の弱さを武器にするところなんて、なかなか悪辣だぞ」

「えっと…まあ…そう、なのか、なぁ…?」

 一応肯定しつつも、かなり複雑そうな顔で汗を浮かべている初音だった。

「…だが、それの何が悪い?」

「え?」

「時と場合によりけり、だ。…子供のお前が大人に対して、他にどんな手段を持ち得たというんだ?そもそも大人として子供に当然払うべき配慮を払わない輩に、何を遠慮することがある?そもそもそんな余裕なぞ、当時のお前らには無かっただろうが」

「それは…そうだけど…」

「お前は良い妹を演じてきた、と言っても…それは誰に強制されたわけでもなかろう。自分でそうなりたいと考えてのことだろうが?そして実行してきた。

 だがそれで…誰が得をした?」

「えっ?…得、って…」

「お前1人の、利己的な打算での演技じゃなかったんだろ?…姉達のため、家族全体のためだったんだろうが。…それは無償の行為というものじゃないのか?

 つまりは、他者に対する深い思いやり、って奴じゃないか。

 お前のいう『良い妹の演技』とやらは、その思いやりに基づいているものだろう。なら――お前は演ずるまでもなく、元から良い子であったということだ…と、まあ理屈をつければそうなるな」

 そう言って、ポンと軽く初音の頭に柳川は手を置いた。

「うーむ。なんとなく手を置きたくなる頭だ」

「ううっ…なんだかとっても複雑な気分…」

「それに、なんかこう、ちょうど頭を撫でるのに手頃な高さだよな。…なんだ、泣くほど嫌か」

「いえ…嫌っていうか…ちょっぴり、情けないというか…」

 軽く、そっと初音の髪を撫でながら、どことなくその感触が馴染み深いもののように感じられることに、内心少し柳川は首を傾げた。それでも置いた手を外そうとはしなかったが。

「だが、まあ、そんな理屈は耕一達もわかっているだろ。…そんなこと、わざわざ口にするだけ野暮ってものだからな。というより理屈づけるものでもない。

 お前はやっぱり、いい子だよ。

 …それだけで済むことだし、それだけのことだ」

「で…でも…」

「でもじゃない」

 ぽん、と、初音の頭をはたいて、柳川は軽く睨んだ。

「俺が自分の考えを正直に言うなんて、滅多に無いんだ。信用しろ」

「えっと…は、はい。…でもそれって、叔父さんいつもはウソばっかり言ってるってことなのかな…」

 そおっと、上目遣いの視線を向けられて、柳川は無言で視線を逸らした。

 思わず間違った狩猟本能がムクリと起き上がりそうになるのをグッと堪える。

「お前…1人でぶらつくことはなるべく控えた方がいいかもしれん」

「え?どうして?」

 その気のない奴にもむらっ気を起こさせかねないからだよ。

「どうして?どうしてなんですか?」

「言えるかんな事っ!ええい、とにかくダメと言ったらダメなんだっ!!」

「そんな…ひどいよ…」

 だから、瞳をうるませるな!俯くな!握った拳を口元に添えるなああああっ!ええい、犬ちっくな奴めっ!!

 キリキリと痛む胸を抑えながら、それでも表面上は無表情を保って柳川は腕を組んだ。今ならなんとなく、スフィーやマルチに正気を無くす結花の気持ちもわからないではなかった。

とにかく、何か言おうとして――

 

「初音ちゃんにナニしてやがるこんちくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!」

 

 ずきゃあああっ!!

 

「げれぺっ!!?」

 いきなり後頭部に強烈極まりないケリを喰らい、柳川はあっさり吹っ飛んだ。

 

 キキ―――ッ!!どぐらがしゃごしゃんん!!ぼさっ!!こいんっ!!

 

ロータリーに転び出た柳川に軽トラックが慌てて急ブレーキをかけた。柳川も咄嗟に身をかわし何とか避けたが、その脇から出てきたスクーターに撥ねられ、更に客待ちしていたタクシーにぶつかって跳ね返り、歩道の植え込みに突っ込んだ。

 無論、最後の『こいんっ!!』は起き上がった柳川の頭に空き缶がぶつかった音である。

「き…貴様耕一っ、いきなり何をする!!」

「それはこっちの台詞だっ!お前…初音ちゃんを泣かしたろ!?見ろ!ちょっぴり涙ぐんでるじゃないか!!」

「…まあわかってたけど、あたしたちの一族ってやっぱ無駄に頑丈だな〜」

 ちょっぴり頭から流血しながらも喧々囂々と耕一と怒鳴りあう柳川に、梓は乾いた笑い声を上げた。

「初音…大丈夫?」

「初音、怪我は無い?ひどいことされなかった?ああ、ごめんなさい、梓が我侭いって困らせなければ初音を1人で置き去りにすることもなかったのに…!」

「って何あたしに責任転嫁してんだよ千鶴姉っ!」

 楓と共に初音に駆け寄っていた千鶴の後ろで、梓が喚いた。

「大体我侭ってなあ…千鶴姉がケーキ作りに挑戦とか無謀って言うかお願い勘弁してくださいって感じに阿鼻叫喚なこと言い出すからだろ!!?

 お願いだから自重してよ頼むから!!」

 

「むががががががががががががががががががが…」(耕一)

「むききききききききききききききききききき…」(柳川)

 

「あらあら、大変なことになってるわねぇ」

「誤魔化すな千鶴姉ェ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」

 という、怒声というより悲鳴テイストな梓の言い分はもっともではあったが、確かに一方の耕一vs.柳川の方もなかなか大変なことになっていた。

 基本的に変身した場合は耕一の方が明らかに柳川の能力を上回るが、人間態のままでは両者の力量にそれほど顕著な差は無い。昭和30年代のプロレス紛いな力比べの状態で膠着している二人は、ほぼ互角に見えた。道行く人々も興味ありげに二人の対決を見守っている。

「ああっ…ちがうんだよお兄ちゃん!叔父さんは別に悪いことなんか…」

「だって初音ちゃんちょっとだけ潤んだ瞳をしてたじゃないか!絶対この男がなんか悪さしたに決まってる!!」

「え、えっと確かにちょっと横暴なことも言われたけど…。

 ああっ、柳川叔父さんもやめてよお!さっき、生徒には手を出さないって言ってたじゃないですか〜〜〜〜〜!!」

「忘れたっ!!」

「ええ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!?」

「というか、こいつだけは別だっ!大体なんで自分より強い奴に手加減なんかせにゃならん!!?」

「え〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?お、お願いだから二人ともやめてよう」

「初音」

 何とか二人の争いを止めさせようとする初音の手を、楓がとった。ゆっくりと、頭を振る。

「無理だからあきらめよう」

「え〜〜〜〜ん、そんなあっさりあきらめないで〜〜〜〜〜!?」

 思わず頭を抱えてしまう初音であった。

「う〜〜ん…なんだかな、という感じで今日も地球が大ピンチだね」

「貴之様…」

 と、見物人たちの間から貴之とマインが姿を見せた。そのまま貴之はホイホイと軽い足取りで姉妹の方へやって来る。

「まあ…もう原因なんかどうでもいいって事態になっちゃってるみたいだねぇ。いつものことだけど」

「貴之様…モウ慣レ切ッテマスネ」

 言いたいことは山ほどありそうなマインに構わず、貴之は千鶴と梓に笑いかけた。

「とりあえず、殴り合いになる前にチャチャっと済ませましょうか?」

 既にあきらめ顔のマインから買ったばかりの工具箱を受け取って開くと、貴之は大ぶりのレンチとスパナを取り出した。

「ハンマーはあまりに殺伐としているからね。…はい」

「いや、はいって笑顔で渡されても…これをどうしろと」

「…まあ…わからなくはないですけど」

 冷汗を浮かべている梓の横から千鶴がレンチを受け取った。

「梓は拳の方がいいでしょ?…じゃ、お願いね」

「ううっ…やっぱりこういう展開?」

「あはははは。…じゃあ、そちらはよろしく〜」

 貴之は柳川の背後、千鶴と梓は耕一の方へ回りこんだ。それぞれの得物を構える。

「ああっ…結局こういう展開になるんだね…」

「…………」

 思わず首を竦め、顔を手で覆ってしまう初音とマインの横で、楓が、ボソッと呟いた。

「まあ…いつものことだし」

 

 がん・がん・ごわ―――――――――ん!!

 

 そして少しくぐもったお寺の鐘のような音が、盛大に鳴り響いたのであった。

 

* * * * * * * * *

 

 とりあえず。

 ほんのちょっとだけ、柏木家と柳川との距離は縮んだように思われる。

 そう信じたい初音であった。

 

 

<終わるっぽい>

 


【後書き】

『教師は生徒に手は出さない』

 これは別に今回考えついたわけではなく、ずっと以前から自分の中では決めていたことです。私は柳川を自分の腕力を背景に生徒に無理強いをするような教師としては設定していません。これは初期の段階から一貫しています。

 彼はそんなことに関係なく自分の思うが侭にしか振舞わないだけで(爆)

 というか、これは柳川に限らず他の教師全てに言える事で、改めて考えてみるまでもなくそのような行いは悪辣としか言いようがなく、了承の世界観とは全く相容れません。

 まあ、ルミラ的なことは洒落の範囲ですむけどね(^^;

 

 実をいうと、私は柏木姉妹の中では初音が一番思い入れが薄いです。(梓者だから)

 でも、なんか了承って初音の影が薄いよねっていうか出番少ないし。というわけで、初音をちょっと扱ってみようかな、と。

 

 なお、作中でヤンキー中学生が使っていた刃物は、名前が蝶に由来するものだったのですが、もう過去のことですしそろそろ扱っても大丈夫かなーとも思いましたが、やっぱやめときます。(笑)

 

 いわんとけよ、そんなこと。


 ☆ コメント ☆

綾香 :「相変わらず性格がバラバラよね、ここの姉妹って」(^ ^;

セリオ:「そうですけど……人の事言えないでしょうが」(;^_^A

綾香 :「え? あたしと姉さんはそっくりよ」(^^)

セリオ:「どこがですか?
     外見はそっくりですが、性格はまったく正反対じゃないですか」(;^_^A

綾香 :「似てるってば。
     例えば……優しいところとかお淑やかなところとか」(^0^)

セリオ:「それにしましても、さすがの柳川さんも初音さんの前では形無しですねぇ」(^^)

綾香 :「こらそこ! 何事もなかった様にサラッと流すな!」凸(ーーメ

セリオ:「やはり、初音さんの純粋さは無敵ですね」(^0^)

綾香 :「ちょっと! 人の話を聞きなさいってば!」(ーーメ

セリオ:「初音さんには、いつまでも無垢なままでいてほしいです」(^^)

綾香 :「だーかーらー!」(ーーメ

セリオ:「少なくとも、こんなんになったらダメですよ」(−o−)

綾香 :「だーっ! 指を差すなーーーっ!!」(ーーメ








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