私立了承学園
after school:「師父」

しゅっ!

びしっ!!

ぶんっ!

ぱしっ!!




「はっ!!」

「ぬんっ!」

地球に一番近い恒星の光が地平線に徐々に隠れ去り、遥か遠い恒星の光が
先を競って自己主張を始めた頃。

エクストリーム部の午後のトレーニングも終盤に差し掛かっていた。
綾香と葵はすでに全メニューを終え、クールダウンの柔軟体操をしている。

その傍らで、今日は珍しく執務に時間の空いた長瀬源四郎―通称セバスチャン―が、浩之の
組み手に応じていた。組み手というよりは、実質練習試合に近い形で行われていたが。


「はあっ!!」

「ふんっ!」


浩之が繰り出した右回し蹴りを、長瀬が軽々とブロックする。
更にわざと半歩前に出て見せてから、打ち込むことなく大きく下がる。誘っているのだ。

「くっ・・・・・らあっ!!」

その誘いに乗る・・・と見せかけて、浩之は正面から大きく左にステップした。
それにあわせて体を反転させるセバスチャンに詰め寄って、今度は左上段回し蹴り。

がしっ!!

これも、簡単にブロックされる・・・が、そこまでは浩之も予想済みである。これもフェイント。

「ふっ!!!」

ブロックされた左足を戻す反動を活かし、間髪いれずに
十分に重さを蓄えたカウンターの右回し蹴りを放つ。それは、ブロックの体勢から
戻れていないセバスチャンの左側頭部を正確に捉える・・・・

ぶんっ!!

「っ・・・・・・・・・・・!!」

はずだった。


瞬時に巨躯を屈み込ませて浩之の回し蹴りをかわしたセバスチャンは、次の瞬間浩之の懐にいた。
そして、同時にその両の掌から放たれた強烈な圧迫感が浩之の胸部を貫く。


どん。


「ぐ・・・・・・」


一瞬息が詰まり、そのまま体を折って、前屈みに倒れこんでしまう。
それをセバスチャンがしっかり支えたところで、セリオが声をあげた。

「そこまでです!!」



☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



「ふぉっ、ふぉっ、ふぉ。まだまだ大振りが多いですなあ、藤田様。」

「くそ・・・・化け物じじいめ。今日はいけたと思ったのに。」

「セバスチャン、今の技は?」

形意拳十二形拳のひとつ、『虎形』の変化技・・・『虎撲手(ほうぼうしゅ)』にございます。
あれで、3分程度の力でございますよ。」

「内臓破裂するかと思ったぞ・・・」

恭しく綾香の質問に答えるセバスチャンを恨めしげに睨む浩之だが、口元には笑みが浮かんでいる。

元々平均より高かった基礎体力と持前の要領のよさで、目覚しいスピードで格闘技術を身につけている
浩之だが、器用な分だけその動きには、我流の締める割合が高い。そのあたりが原因となる弱点を的確に
指摘し、指南してくれるセバスチャンの存在は、浩之にとってもありがたいものだった。
百戦錬磨の大先輩であるセバスチャンが持つ実戦感覚と言うものは、来栖川のデータ―ベースなどから
得られる知識ではない。
とは言え、なかなか組み手で一矢を報いれないのはやっぱり正直悔しいのだが。


「すごいバランスですよね・・・私なら、最初の左回し蹴りで下がっちゃってるなあ・・・」


葵がしみじみとした感じで賞賛する。そこには、無意識に軽量級ならではの悩みが含まれているようだ。


「さてみなさん、夕食も近いですから、そろそろ引き上げましょう。あかりさんが待っていますよ。」

「セバスチャン、今夜はうちで食べて行きなさいよ。姉さんも喜ぶわよ。」

「は、かたじけのうございます。ではお言葉に甘えて、お邪魔させていただきますかな。」


軽々とサンドバッグを肩に担いだまま器用に頭を下げてから、セバスチャンは葵が少し辛そうに
引きずっている、もう一つのサンドバッグに手をかけた。


「あ、長瀬さん、こっちのはかなり重いやつですから・・・」

「ふぉっ、ふぉっ、ふぉ!いやいや・・・」


遠慮する葵の言葉をかんらかんらと笑って遮り、そのまま片手で横に倒れているサンドバッグを引き起こす。
それだけでも信じがたい膂力であった。

「セバスチャンでございます、松原様。なに、老いても私目はまだまだ現役でございますよ。ふんっ!」


まるで弁当箱でもぶら下げるかのような軽い動作でサンドバッグを持ち上げると、そのままもう片方の肩に
担ぎこんだ・・・・・・・まではよかった。


次の瞬間。


















くりくきこきょっ






「「「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」」」」






☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆





「ドイツ語で言うところのHexenschuss(※)・・・いわゆる、ぎっくり腰ですね、典型的な。」

※Hexenschuss(ヘキセンシュス):
和訳すると「魔女の一撃」。
突発性の激しい腰痛を指す。
ぎっくり腰とほぼ同意。


非常に詳細に書き込まれたカルテとレントゲン写真を示しながら、担当の外科医は全員が思っていた
通りの言葉を口にした。以前、綾香が背筋痛で診察を受けたときと同じ医師だ。若手ながら、スポーツ
医学の分野では非常に有名な人らしい。
年齢は34歳だそうだが、見た感じは20代と言っても全く違和感の無い、若々しい人だった。

「筋繊維の損傷ですからレントゲンでは損傷部位の詳細はわからないのですが、症状から見ると
筋断裂までには至っていなさそうです。いずれにしても治療には安静が第一ですが・・・
今夜は、泊まっていかれます?」


あえて「入院」という言葉を避けて、できるだけ軽い感じでセバスチャンに尋ねる。彼が病院とか故障と
いったものに縁が無い人物である事を、熟知している口調だ。


「と、とんでもない!!明日は大事な会議がございますし、そのほかにも予定は山ほど詰まっております。
これしきのことで・・・・・」

「あのねぇ、セバスチャン・・・先生の話聞いてた?絶対安静なのよ絶対安静!!」


心底呆れた表情で、綾香が一喝する。


「・・・おじい様とか・・校長先生には、私から伝えておくわ。茂庭先生、よろしくお願いします。」

「しかし綾香お嬢様、このようなことで仕事を空けたとあってはこの長瀬、大旦那様にも校長にも
申し開きの仕様がございません。なに、この程度の事今夜一晩や・・すめ・・・ば・・・・・・・・・・」


尚も通常業務への復帰を主張して、体を起こして見せようとしたセバスチャンだったが、あまりの激痛に
後半で言葉が途絶えてしまう。この男がこれほど痛がるのだから、結構重症なのかもしれない。


「綾香さんのおっしゃるとおりです。今回のような急性腰痛症は、無理をすると症状が長引き、慢性化
する恐れがございます。最悪の場合、ヘルニアを引き起こす事も珍しくありません。早期の業務復帰の
ためにも、最低3日間は安静にする事を強くお勧めいたします。」

「そうですよ。無理してよけい悪くなったら、それこそ困るじゃないですか。」


セリオと葵も口々に説得にまわる。そして、最後に浩之が駄目押しになる一言を放った。


「下手してセバスが歩行困難になったりしたら、先輩が泣くだろ。」
「むう・・・・」


これは効果的だったようだ。しぶしぶといった感じで俯くセバスチャンに、茂庭医師が再び声をかける。


「これは筋違いの一種ですから、鍛えている方でも案外突然起こったりするものでしてね。日頃の僅かな
オーバーワークが蓄積して、ある日突然起こるケースもありますし、主な原因が特定できない場合も多々
あります。まあ、今回は事故に遭ったという風に考えて、ゆっくりお休みになるのが最善ですね。」

「ううむ・・・面目次第もございません。」

「はは、そう硬く考えずに、リラックスしてください。気分を変えればたまに病院で寝てみるというのも、
案外面白いものですよ・・・っと、ちょっと失礼。」

くすくすと笑いながら、茂庭医師はデスクの傍らで不意に鳴り始めた内線電話を取る。

『茂庭先生、至急、ICUに来てください。』

「了解。今行きます。」



それだけで何か察したらしい。迷うことなく机の脇においてあった鞄を持つと、流れるような動作で
立ち上がる。


「すみませんが、少し外させて頂きます・・・支倉さん、後を頼みます。」
「はい。」


そして、カルテと何枚かの用紙を傍らの看護師に手渡すと、全く足音をたてずに、すばやく退出していった。


「では、すぐに病室を用意いたしますから、しばらくこちらで休んでいてくださいね。」


支倉と呼ばれた看護師も、渡されたプリントを手早くチェックしながら礼儀正しく礼をして、速やかに
退出していった。相変わらず、病院内は殺人的な忙しさになっているらしい。
それでも決して笑顔を絶やさないところが、彼女の有能性の証明と言っていいだろう。


「鬼の霍乱・・・ってのは、病気のときに使うのか。ま、なんにせよ、休暇取るにはいい機会だったんじゃねーか?
あんたが休まねーと下の人も休めねーだろ―し。」

「藤田様、そのようなのんきな事では困りますぞ。」

「壊れちまったもんはしょうがねえだろ。何度もいうけど、早く治すんならのんきに構えてんのが一番いいんだよ。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「再発が一番怖いからな。2度と怪我したくなかったら、今回は先生の言うこと聞いとけよ。
『無事是名馬』って言うだろ?」

「ぷっ・・・」

たまたま出た馬の喩えに思わず吹き出してしまい、葵は思わず口を押さえた。源四郎も観念したらしく、
不本意そうな顔で浩之から目をそらし、診察室の白い天井を見上げる。


「さて・・・綾香、ちょっと頼むな。俺、飲物買ってくるわ。」

「え?・・・・あ、うん、いってらっしゃい。」

「あ、私も行きます。」

セバスチャンの態度に満足してから、浩之はちらっと綾香に目をやって、そんな事をいった。
葵も即座にそれにあわせ、座っていたパイプ椅子から立ち上がる。セリオも何もいわず、当然のように
浩之の後について廊下に出た。

診察室には、綾香とセバスチャンの2人が残された。



「・・・・なんか、気を使わせたみたいね。」

「私めにも解りますぞ。綾香お嬢様が、小言を言い足りぬ顔をなさっておられるのが。」

「ばーか。」


くすっと笑って、綾香は静かに、診察用ベッドの傍らにあるパイプ椅子に腰掛ける。


「・・・・びっくりしたわよ・・・セバスチャンが倒れるところなんて、始めて見たわ。」

「醜態をお見せしました。今後二度とこのようなことの無き様、肝に銘じて・・・」

「わかってないわねぇ。」


またも陳謝の弁を連ねようとするセバスチャンを遮って、綾香は苦笑する。


「私が小言を言いたいのはね、あなたがそうやって過剰に謝ろうとする事についてなのよ。」

「・・・・・・・・・・」

「私や姉さんが、あなたの事を単なる執事だと思ってる訳無いでしょ?もっと弱み見せて欲しいのよ。」

「しかし、それは・・・」

「私と姉さんの意見と、おじい様の意見のどちらを重要視するかは・・・もちろん、あなたの自由だけど。」

「・・・・・・・・・・・・・・」


これは流石に意地悪な言い方だったと、言ってしまってから気がついて、綾香は軽く咳払いしてから
セバスチャンの目を見直した。


「・・・・・ねえセバスチャン、姉さんの12歳の誕生日の事、覚えてる?」

「よく、覚えておりますよ。私が始めて、綾香お嬢様がお倒れになった姿を拝見した日でございます。」

「ふふ・・・懐かしいわね。私あの時、遅いはしかにかかってさ。パーティーが終わるなり、倒れちゃったのよね。」


楽しい姉の誕生日に水を差したくなかった綾香は、朝からの体調不良をひた隠しにしてパーティーに出席し、
発熱のめまいと頭痛に堪えて、ずっと笑顔を振り撒いていたのである。セバスチャンは気絶した綾香を左脇に、
泣きじゃくる芹香を右脇に抱えて、救急車の2倍のスピードで病院に疾走し、自動ドアを突き破りかねない勢いで
深夜の救急病院に駆け込んだ。
そのあまりの形相に、医師ではなく警備員が飛び出してきたほどだった。


「病室で気がついたら、枕もとで姉さんがぼろぼろ泣いててさ。最初は何でだか解らなかったんだけど、謝ってるのよ。
ごめんなさいごめんなさいって。私に。」

「芹香お嬢様らしいですなぁ・・・・・」

「なんかね、姉さんは私の体調に気付かないでパーティーで笑ってた事に、すごい罪悪感を感じたらしいのよ。
そのとき、謝りつづける姉さんを見て・・・ああ、私は馬鹿な事をしたんだなって、解ったのよね。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「姉さんにも、セバスチャンにも、かえってすっごい心配かけて。後ではしかが治ってから、私も姉さんに謝ったわ。
・・・そしたら姉さん、なんていったと思う?」

「・・・・・・・・・・・・・なんとおっしゃられたのです?」

「『心外です』だって。『私が綾香ちゃんより誕生パーティーを重視するとおもったの?』って、怖い顔して・・・あんまし
怖くなかったけど・・・そういって怒ったのよ。姉さんに怒られたのって、思えばあれが初めてだったんじゃないかな。」

「・・・・・そんなことがございましたか。」


懐かしそうに目を細めて、セバスチャンは綾香から白い天井に視線を移した。・・・・眼は少し、潤んでいるようだった。


「・・・・・・・・・・セバスチャンも、あんまり自分を大事にしないでいると、姉さんに怒られちゃうわよ?」

「・・・それは・・・・・恐ろしいですなあ。」

「私だったら、姉さんに怒られるぐらいなら、おじい様に雷落とされてクビにされたほうがましだな。」

「そうかもしれませんなあ。」


そう言って、セバスチャンは静かに笑った。いつものような豪快な笑いではないが、心から笑っている事が
綾香にはよくわかった。


「姉さんだけじゃなくて、うちのみんなは基本的に心配性だから。こないだも、ちょっと背中の筋肉痛が長引いた
だけで大騒ぎだったしね。セリオにも葵にも延々説教されるし。セバスチャンが腰痛持ちになんかなったら、クビ
にならなくても心配して仕事なんかさせてもらえないかもよ?」

「私はまだまだ引退するつもりはございませんぞ。」

「だったら軽めにすんでるうちに、とっとと寝込んじゃう事ね。」

思い出したように背中をそらして、背筋に痛みがない事を確かめながら、綾香は少し真面目な顔に戻って
言葉を続けた。

「私もさ。姉さんみたいにいい娘にはしてないけど・・・それでもセバスチャンには、それなりに感謝してるのよ?
格闘技の事だけじゃなくて、日本にもどってからもいろいろ、親身になって考えてくれたし。最初に姉さんと浩之の
味方してくれたのも、あなただったしね。あなたの要望だからセバスチャンって呼んでるけど・・・・・ホントは、
『長瀬先生』って呼びたいぐらい、尊敬もしてるのよ?」

「・・・・もったいのうございます・・・・」

「だから・・・もっと、自分を大事にしてよ。軽く弱音も吐いて、軽く心配かけてよ。私は姉さんより鈍いから、
アピールしないとホントにほっとかれるわよ?」


くすくすと笑いながら、ぽんぽんと布団の上からセバスチャンを軽く叩く。


彼女の姉に、よく似ている、それでいて、綾香らしい笑顔だった。セバスチャンの愛称で呼ばれる老人は、
なんと返答してよいものか解らず・・・・数秒を置いて、こんな事を言った。






「戦後日本の路上から成り上がった荒くれ者としては、ここはひとつ『先生』ではなく、『師匠』というのが
あこがれるところでありますなあ。」






「ぷっ・・・・解った、こんどからそう呼ぶ?長瀬師匠。」

「いえいえ、お気持ちだけで。」


そう言って、今度は互いに爆笑する。少し腰に響いたが、それも気にせず、セバスチャンはかなり久しぶりに、
腹のそこからしばらく笑い続けた。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



「失礼します。お待たせしてしまってすみません。」


二人が笑い終わってすぐ、診察室の扉が開き、先ほどの看護師が車椅子を押しながら中に入ってきた。
すらりと背が高く姿勢もいいので、きびきびとした歩みがファッションモデル並に光って見える。
髪はロングのようだが、今はひっつめてナースキャップの中に収めている。


「今月は入院患者さんが多くて・・・今病室の準備ができましたので、そちらに・・・あら?」


そこまで言いかけて、看護師は人の気配を感じたらしく、振り返って扉の向こうを覗き込んだ。
そして、福寿草みたいな笑顔で綾香たちに向き直る。


「長瀬さん、お孫さんが見えられましたよ。」


普通の年配の患者ならどんなに症状が苦しくても笑顔を零す知らせであるが、この点での「普通」には、
長瀬源四郎は含まれない。まるで蟯虫検査に引っかかったような顔つきになる。


「ふん、もう嗅ぎ付けおったか。」

「ちょっと、そんな言い方ないでしょ。せっかく来てくれてるんだから。」

「まあ、実際ついでだけどね。」


たしなめる綾香と、入口でにこにこしている支倉看護師に軽く会釈しながら、祐介はそんな言わなくても
よさそうなことを言って診察室に入ってきた。


「だいじょうぶ?おじいちゃん。」

「こりゃ、公私の区別をつけんか。長瀬先生と呼べ、長瀬先生と。」

「もう放課後だよ。それにおじさんと被るし。なんだ、元気そうじゃない。」

「あたりまえじゃ、いちいち来てもらわんでも明日には治るわ。足を運んでる暇なぞあるなら、
とっとと帰って試験勉強でもせんか!少しばかりの向上で慢心しておっては、医の道を志すなど
夢のまた夢ぞ!」

「勉強はしてるよ。さっきまで資料室にいたんだし。今日の分は終わったから来たんだよ。」

「それが慢心だと言うのだ。ひよっこが一人前に自らノルマを決めていたのでは、保科様はおろか
綾香お嬢様にも遠く及ばんぞ!」

「ちょ、ちょっと、その言い方じゃあ私が智子より下みたいじゃないのよ!!」


思わず負けず嫌いを表に出して抗議する。

二人の間に割って入りながら、綾香は普段は疎遠に暮らしている、この祖父と孫との
歯に衣着せぬやり取りを、なんとなくうらやましく感じていた。


彼女の師父には・・・・ちゃんと、こんな会話ができる身内がいる。
それがうれしくて、そしてちょっと、うらやましかった。



「まさかおぬし、もう祐子さんに知らせたのではあるまいな?」

「ん、まだ。電話したけど帰ってなかったから、あとでMail入れるよ。」

「捨て置け!!・・・・いちいち苫小牧から出てこられては、こっちがたまらんわ。いいか、今回の件は、
くれぐれも他言無用じゃぞ!!」

「あー、ごろーおじさんにはもう話した。」

「たわけものっ・・・・いたた。」

「えーなになに?セバスチャンって、身内じゃ立場弱いの?」

「まあ、母さんには会うたびに説教されてるね。」

「えーホント!!すぐにお母さん呼んでよ、私見てみたい!!」

「綾香お嬢様!!」


祖父とも違う、父とも違う。

でも多分、いままで一番自分に近い位置から見守って来てくれたこの老人は、
間違いなく、綾香の家族の一人だった。
















おわり



☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



おまけ



「それじゃあ、それほど治療に長くかかるわけじゃないんですね?」

「えぇ、きちんと休めば回復にはそれほどかからないと思います。基礎体力もおありのようですし。
ただ、茂庭先生が『ワーカホリックのようだから、休養のためには入院してもらった方がよさそうだ』って
おっしゃいまして。」

「最善の処置ですよ、それ。できればより万全を期すために、鎖でベッドに縛り付けておくのをお勧めします。」

「まあ。ふふふ・・・」


セバスチャンを病室に移し、マルチと芹香が病院にやってきたところで、祐介と支倉看護師は退出した。
そのまま、何気なく会話を交わしながら廊下を歩く。祐介は、もう病院の多くの職員と顔見知りになっていた。

「あの御歳で現役で働けるなんて、それだけで尊敬すべき事ですよ、祐介さん。」

「元気すぎますよ。僕としては、そろそろ縁側で子猫抱いて、骨董品の茶碗でお茶でも飲んでて
もらいたいんですけど・・・やっぱり、似合いませんね。」

「ふふふ・・・そうですね。」


祐介は、普段は大人に対しても子どもに対しても常に礼儀正しいから、こういう憎まれ口を叩く様子は新鮮だった。
いつもはあまり子供らしい隙を見せないが、こういう一面もまた、かわいいと思う。


「ところで祐介さん。」

「はい?」


ひらり、と並んで歩いていた祐介の前に出てこちらを向くと、支倉看護師はすっと背筋を伸ばして祐介と対峙する。


「・・・・今日の私見て・・・何か、気付きませんか?」

「?え、えーと。」


一瞬きょとんとした祐介だったが、記憶をたどりながら改めて目の前の看護師さんを見つめる。

白衣は無論、いつもと一緒だ。ナースキャップにつめた髪もいつもどおり。その他の服装も、
いつもと変わらない。だが、確かに言われてみればなんとなく感じが違う。


「・・・・・・・・・・・・・・・あ。支倉さん、めがね、替えました?」

「正解です!」



ぱふほぎゅっ



「むぐっ・・・うわあ!!」


前触れなくやわらかい真っ白ないー匂いのする感触に包まれて硬直した祐介だったが、
次の瞬間大きく飛び下がる。

息と脈を必死に整えながら顔を上げると、目の前にはちょっと恨めしそうな顔をした支倉看護師が立っていた。


「そんな、撥ね退けなくても・・・」

「い、いえ、だっていきなり抱きつくから・・・びっくりしたぁ・・・・」

「あ、すみません。正解のご褒美だったんですけど。」

「ご、ご褒美?」

「ちょっと驚かしてしまいましたね。ローマではこのぐらい普通だったものですから。」

「・・・・ホントですかぁ?」

「ホントですよ。では、改めて・・・」

「いいですいいです!!」


改めて大股で一歩踏み込んできた支倉看護師に向けて必死で両手の平を振りながら、
祐介は小刻みに3歩下がる。とりあえず何とか話をそらそうと、無理やり思いついた事を口に出す。


「あ、その!えっと!あーーーーーー、あ、そうだ!に、似合ってますね、新しい眼鏡!!」


思いっきりやぶへび発言なのだが、残念ながらそれに配慮する余裕は今の祐介には無い。支倉看護師は
とたんに頬を赤らめ、うっとりとした表情で、少し小首をかしげて祐介に問い返す。


「ほ、ほんとう・・・ですか?」

「は、はい、とても。なんか前より、もっと優しい感じになりました!」


自分も頚椎捻挫(※)で入院しそうな勢いで、必死に首肯する祐介。何とか話が逸れそうだとか、
思っちゃっているのが憐れみを誘う。

※頚椎捻挫(むち打ち損傷):
交通事故、スポーツなどで首が不意に衝撃をうけ、
頚部が前・後屈動作(前倒し、後ろ反り)や
回旋動作(ねじれ)を強いられ引き起こされる症状。

「祐介さん・・・・」

「は、はい・・・・・なんでしょう?」


更に大股で一歩近づいてきた支倉看護師になにかとてつもない恐怖を覚えて、祐介は小股で3歩半下がる。
4歩目に至れなかったのは、祐介の背中が廊下の白い壁についてしまったからだ。


「本当・・・ですね?信じて・・・いいんですね?」

「ほ・・・・ほんとう、で、す、に、にあってます。」


構わず、また一歩支倉看護師は前にでる。その目は潤んでいて、彼女の背後には点描で描かれた天使が
踊っている。薔薇トーンも満載だ。とても麗しい背景なのに、祐介は恐怖で全身の毛穴が開くのを感じた。
全身性多汗症(※)かと思った。

※全身性多汗症:
局所性のものと異なり、甲状腺機能異常や糖尿病に
よるもの、さまざまな内分泌、代謝疾患、脳、脊髄の腫瘍
や炎症等が背景にある場合があるので注意が必要だ。


「うれしいです・・・・」

「あ、あの・・・はせくらさん?ちょ、ちょっと・・・」


壁伝いに横にずれようとした祐介だったが・・・一瞬早く、支倉看護師の両手が祐介の顔の横の壁にあてられた。
角度を変えれば、キスしているように見えなくも無い。


「もうひとつ・・・気付いていただきたい事があります・・・・」

「え?・・・えっと・・・・靴はいつもと一緒ですよね?な、なんでしょう?」


ここまでくれば、普通の年頃の男性なら何の事か気付きそうなものなのだが、
生憎とこの点での「普通」には長瀬祐介は含まれない。
『了承学園 I am a carrot コンテスト優勝者』。この異名は伊達ではないのだ。


「ここではちょっと。今夜、私の部屋に来てください。」

「え・・・・こ、こんや、ですか?」

「はい。今夜はカレーです。」

「えと・・・僕今日、夕食当番で・・・・」

「お風呂も新しくしました。家に帰って、待たずにすぐに入れます。」


もう、支倉さんは聞いちゃいない。祐介の目をばっちり見つめながら、一方的に話している。


「祐介さん!」

「は、はいぃ!」


反射的に返事をしてしまう。支倉さんは更に前に詰め寄る。もう、鼻と鼻がくっつきそうだ。

逃げるどころか指一本すら動かす事もできず、瞬きもできず、目をそらす事もできず。
祐介はもう、ほとんど半べそかいていた。

だが、このときの祐介の姿を見て「情けない」と称する者がいたとしたら、その者こそ、健全な高校生男子の
心理に対する永遠の無理解者として、糾弾されるべきであろう(※)。

※症状ではなく、これが健全な状態。
こういうものなのだ。

「今日がいいんです。」

蛇に対するハツカネズミの表情で見つめ返してくる祐介に、きっぱりんと、支倉看護師は告げた。
静かだが、反論を許さない迫力があった。

「ど、どう・・・して?」

「明日は私、お休みなんです。それに・・・・」


祐介から全く目をそらさずに、支倉看護師は器用に胸元のポケットから小さな手帳を取り出すと、
片手で開いて、祐介に見せた。

簡素なメモ欄に、折れ線グラフが書いてある。

横軸は・・・・日付。

縦軸は・・・・・・・・・





「・・・・・・・・・体温?」

「ほら、今朝計った値からすると、ちょうど今日・・・・・」

「さよならっ!!!」


何の取っ掛かりも無い廊下の壁を、さかさかさかっと器用に背中で這い登って、祐介はそのまま一目散に、
壁を走って逃げていった。


「あっ!!・・・あの・・・・」


支倉看護師が慌てて廊下の向こうに視線をめぐらしたときには・・・もう祐介の姿は影も形も無かった。



彼女は、そのまま3秒ほどボーっと立ちすくみ・・・
手もとの基礎体温表を2秒ほど眺めてから・・・
ポツリと、つぶやいた。




「ちぇっ・・・」




「ちえっ、じゃなーい!!」




たぺーん!!




「・・・・・痛いです、内藤さん。」

「カドじゃないだけ加減してますっ!!」


すちゃっと日本刀のように小脇にバインダーを戻して、内藤看護師はびしっと支倉看護師に一喝した。


「なんか戻るのが遅いと思ったら、なに廊下でリビドー全開にしてるんですかデレデレしてみっともない!!」

「デレデレなんかしてないです・・・」

「証拠写真とっておくんでしたね。ザクレロみたいな眼ぇしてましたよ?」

「ザク・・・・っ・・・・あ、あんまりです!ちょっと自分が勝ち組みだからって・・・・・」

「あたしのことはかんけーないべな!!」


思わず地で言い返してから、あてつけがましく溜息を吐き、内藤看護師は目の前にいる同僚に改めて
釘をさす。


「とにかくっ!恋愛なさるのはご自由ですが、もう少し節度を持った行動をしてください!祐介さんが怯えて
病院に来てくれなくなったら、眼科にとっても困るんですから!」

「・・・・・・・・・・・・・ずるいです。」

「は?」

「同期のよしみなのに・・・・・同じ眼科だからって、内藤さんは片倉先生の肩持つんですか?」

「別に身を引けとか言ってるんじゃありません!!後先考えた行動をしてくださいと言ってるんです!!」


ばべんばべんとバインダーで腿のあたりを叩きながら、もはや病院の廊下であることも忘れて内藤看護師が
怒鳴る。支倉看護師は、なにやらちょっと不思議そうな顔をして、あごに人差し指を添えて数秒考えた。

そして、言った。



「私、貯金は結構ありますし、アパートの部屋にも余裕がありますから・・・・」

「だ・あ・れ・も・育児環境の話なんかしてませ〜ん!!!」




ああ、もう、もう、もう、もう!!


片倉先生といい、支倉さんといい・・・
ふたりとも、医師として看護師として、非の打ち所の無いエリートなのに。

普通の女性が、高校生ぐらいに自然に卒業しているようないろんな常識事項を、
完全に置いてきぼりにしてここまで来ちゃった感のある眼科主任と外科主任看護師を見て、
内藤看護師は現在の医療受験制度の深刻なひずみを、実感せずにいられなかった。


おまけおわり


(あとがき)
セバスチャンのスタンスは家族っぽくできるかな? というのが今回の執筆動機でした。
来栖川姉妹はどちらかというと両親とか祖父とかとの家族の描写って、創り難い感じがしましたので、
今回はそこに挑戦。ホントは最初タイトルを『祖父』としたんですが、書きながらセバスチャンと綾香さんの
関係はそれともちょっと違うかな、という結論に達しまして、タイトルを『師父』に変更。
代わりにホントの孫として、祐介君を出してみました。
祐介君と源四郎さんの関係はオフィシャルには記述がないんですけどね。

でも、祐介君がセバスチャンの息子さんの源五郎さんを呼ぶとき、違和感無いのはやっぱり「おじさん」かなーって。
だから、祐介君のお父さん、源一郎さん、源五郎さんは兄弟って解釈にしてみました。

反省としては・・・練習中に怪我して病院ってパターンは、前にもやったよなー。それに付属病院の描写とかは
他の人が使いにくいから、あんまり調子に乗って出さない方がいいんだよなー。独り善がりになっちゃうよなー。
最後のおまけなんかホントに蛇足だよなー。しかもおまけっていっときながら無駄に長いしなー。
・・・ってところでしょうか。

なんか最近、話考えるたびに舞台が付属病院になっちゃうから、今後は控えないとダメですね。





 ☆ コメント ☆

綾香 :「セバスチャンがぎっくり腰なんてね」

セリオ:「ビックリしました」

綾香 :「ホントね。
     ゆっくり休んでしっかりと治して欲しいわ」

セリオ:「全くです」

綾香 :「そういえば、ビックリしたと言えば……」

セリオ:「祐介さんですか?」(;^_^A

綾香 :「うん。ま、正確には看護師さんに驚いたんだけど」(^^;

セリオ:「強烈でしたからね」(;^_^A

綾香 :「祐介、いつか本当に食べられちゃうんじゃないかしら」

セリオ:「きっと沙織さんたちも気が気じゃないでしょうね」

綾香 :「取り敢えず、祐介は一人であの病院に行かせないほうがいいと思うわ」(^^;

セリオ:「同感です。
     ところで、話は変わりますが、『I am a carrot コンテスト』って
     最初何の事か分からなかったですよ。
     意味が分かったときは『なるほど』と思いましたけど」

綾香 :「あれは分からない人もいるかもね」

セリオ:「初めは『Piaキャロットの制服が似合う人コンテスト』なのかと思っちゃいました」(;^_^A

綾香 :「……祐介だったら、そのコンテストでも優勝しそうである意味怖いわ」(−−;




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