「長岡志保ちゃんでーす!」
「よろしくな、オレは藤田浩之」
 「無愛想なやつ」それが、彼に対する彼女の第一印象だった。

「ヒロ、今日はあのゲームで勝負よ!」
「望むところだ。負けた方がヤックをおごるんだぞ!」
 やがて、彼女の彼に対する感情は「仲のいいけんか友達」に変わっていった。

「ヒロ、いいかげんにしなさいよ! あんた、あかりのことをなんだと思ってる
の! 男が女の子を、しかもあんたがあかりを泣かせるなんて、絶対やっちゃい
けないことなんだからね!」 
「うるせーな、お前には関係ねーだろ!」
「なによ、関係ないとは!」
 時に二人はすれ違ったりするが、
 
「……志保、あかりに謝ってきた。お前にも、迷惑かけたな」
「わかればいいのよ。いい? 二度とあかりを泣かせるようなまねしたら、承知
しないわよ!」
「……ああ」
 すぐに元の状態へ。

「ん? どうしたんだ、志保。あれ、お前、泣いてるのか?」
「振られちゃったのよ。悪い? あたしが泣いてちゃ」
「いや、そんなことはないけど。え、お前、何を――」
「ごめん。今だけ、あんたの、胸、貸して」
 やがて、彼は彼女の心の中で、特別な存在になっていったのだが、

「どうしたのよ、あかり。この世の幸福がいっぺんに来たって顔して。あー、も
しかして、ヒロとなんかあったんじゃないの? ほら、隠さずにこの志保ちゃん
に教えなさいよ。……え、ほんと、に、ほんとにヒロと……? そう、よかった
わね。あんたの想いがヒロに届いて、あ、あたしも本当にうれしいわ……親友と
して」
 「友情」と「恋愛」の狭間で、彼女は「友情」を選んだ。

 だが、

「何よ、それ。あたしもヒロと結婚? 冗談やめてよね、なんであたしがあんな
やつと!」
 拒絶、

「……何言ってんだろ、あたし。せっかくあかりが誘ってくれたのに……」
 後悔、

「え? 来栖川先輩や保科さん、マルチにセリオまでヒロと結婚するの!? みん
な、ヒロと。そう、なんだ……」
 自己嫌悪。
 様々な負の感情が彼女の心を包み込んだ。

「ま、悔やんだってしょうがないわよね。しょせん、あたしとヒロには、そんな
縁がなかったってことよ。あーあ、かわいそうな奴、こんな美少女と縁がないな
んてねぇ。ま、いいでしょ、これがあいつの運命だったんだから。よーし、覚悟
しなさいよヒロ、これからは、あんたたち色ぼけ夫婦どもをがんがんからかって
やるんだから!」
 彼女は傷ついた心をごまかすために虚勢を張ったが、

「いったいなんなのよ、あいつは! あたしを無視するなんて! ……当たり前
か。ヒロにはもう、見つめなくちゃいけない大切な人たちがいるんだもんね。あ
たしなんか、もう見てくれないよね、友達としても……」
  やはり虚勢は虚勢。
 長くは持たなかった。




『藤田家のたさい』 勝手にやっちまったよ、ごめんなさいHiroさん 的番外編

理由


 その日の朝、志保は憂鬱な表情をしたまま目を覚ました。 「はぁ、またあの夢。まったく、やってらんないわよね。この超絶天才スーパー ミラクルその他なんだかわかんないけど、とにかくすっごくて非の打ち所のない 美少女の志保ちゃんが、あんな男のことをいつまでも気にするなんて」  そう言いながら、志保はふと時計を見た。  時計の針は八時ちょうどを指していた。 「あ――! 何よこれ、遅刻しちゃうじゃない、まったく!」  志保はわーわーと騒ぎながらあわてて着替えだした。 「ほんとに遅刻なんてしようもんなら、あの遅刻魔ヒロになんて言わ、れる、か」  着替えの手がぴたりと止まった。 「あいつ、今はもう遅刻なんてしないんだっけ。ちゃんと起こしてもらってるも んね、大切な人たちに……」  のろのろと着替えを終えた志保は、朝食も食べずに家を出た。  一方藤田家では、浩之の妻のうち二人が彼を起こすという、いつもの朝を迎え ていた。  ゆさゆさ、ゆさゆさ。 「浩之ちゃん、起きてよ。遅刻しちゃうよ。浩之ちゃん、てば!」  あかりが浩之を揺すったが、彼は起きようとはしなかった。 「ヒロユキ、すぐに起きるか、もっとゆっくり寝るか、好きな方を選ぶといいヨ」  その言葉と共に、浩之の顔に冷たいものがくっついた。  その感触に驚いた浩之は、あわててベッドから飛び起きた。 「うわ――! 起きたから、起きたからそれを引っ込めてくれ! レミィ頼む。 人の顔に矢尻をくっつけるのだけは勘弁してくれ。冗談にも、ほどがあるぞ!」 「おはよう、ヒロユキ! でも、そんなこと言うのは、筋違いだヨ。始めっから すぐに起きればいいだけだもの」 「そうだよ、すぐに起きない浩之ちゃんが悪いんだから。おはよう、浩之ちゃん」  そう言ってあかりはクスクスと笑った。  つられてレミィも笑っていた。 「お前ら……」  二人の笑顔を見ているうち、浩之の心からはすぐに怒る気が失せていった。 「ま、それもそうだな。二人ともおはよう。すぐに着替える、先に行っててくれ」 「早くしてね、浩之ちゃん」 「急いでネ」 「ああ」  あかりとレミィは部屋から出ていった。 「さて、着替えますか」  浩之はベッドから出ると急いで着替えをすませ、ダイニングへ向かった。 「いただきまーす」  十分後、藤田家の朝食が始まった。  食事前に席を立った智子が戻ってこないことを気にしていた浩之は、朝食を食 べながらあかりに話しかけた。 「あかり、委員長のやつ、どうしたんだ」 「うん、保科さんね、眼鏡の具合が悪いんだって」 「ふーん」  そのとき、智子がダイニングに戻ってきた。  その姿に気づいた浩之が彼女に声をかけた。 「お、委員長、何してたんだ……って眼鏡はどうしたんだよ?」  ダイニングに戻ってきた智子は眼鏡をかけていなかった。 「うん。なんや、眼鏡のフレーム、壊れてしもたんや」 「壊れたって、じゃあ今日はどうするんだ?」 「せやから、今日はコンタクトにした。藤田君、私、変やない?」  智子はそう言って浩之の隣に座り、彼を見つめた。  デートの時ぐらいしか見たことのない智子の眼鏡を取った姿に、思わず浩之は どぎまぎした。 「え、え、あの……だ、大丈夫。すごくかわいいぜ。でも、なんか、あんまりオ レ以外の奴には見せたくねー姿だな」  柄にもなく顔を赤くして言った浩之に、智子も思わず下を向いて頬を紅く染め た。 「え! ……あ、ありがとう」  その仕草のかわいさに、浩之の体は本人の意志を離れて勝手に動き出し、智子 の肩をつかんだ。 「智子」 「ふ、藤田君。名前で呼ぶのは、あ、その……」  智子はあせったが、浩之はそんな彼女の行動を無視して目を閉じ、自分の顔を 彼女の顔に近づけていった。 「智子」  徐々に近づく浩之の唇を見ているうちに、智子も目を閉じた。 「ひ、浩之……」 「とも――」  ゴスッ。  だが二人の唇がふれ合う寸前、浩之の顔が沈んだ。 「ど、どうしたん、浩之?」 「う、ぎゃが、ぎ、ぎゃ……」  ぴくぴくとけいれんする浩之の頭には、綾香と葵の鉄拳が突き刺さっていた。 「ふん」  綾香と葵は浩之を軽くひとにらみすると、自分たちの席に戻った。 「……い、いってぇな……ったく、何すんだ、綾香、葵ちゃん……」  浩之は目に涙を浮かべながら綾香と葵をにらんだ。  二人は負けじと浩之をにらみ返した。 「何言ってるのよ、それはこっちのセリフじゃない。まったくもう、あなたって 人は……朝っぱらから発情するなんて、あきれて物も言えないわ」 「ちょっと待て綾香。発情って言い方はないだろう。人をけだものみたいに……」 「いいえ、けだものです」 「葵ちゃんまで……」 「時間がない朝からそんなことをするなんて、十分けだものです」 「ううう……」  浩之はまったく反論できず、悔しそうな顔をした。 「とにかく、ラブシーンは帰ってからにしてください。遅刻しちゃいますよ」 「遅刻? ……あ、そうか!」  時間がない、という今の状況に気づいた浩之は、あわてて食事を再開した。  しばらくぽーっとしていた智子も、あかりにつつかれ食事を始めた。  藤田家はいつものように平和だった。  食事を終え、朝の準備をすませた浩之たち十一人は、仲良く学校に向かった。 「なあ、志保ってよ、最近オレたちを避けてねーか?」  その途中、浩之が誰にたずねるともなく言った。  その浩之に琴音が答えた。 「そうですか? わたしには、別にそうは見えませんけど」 「まあ、そりゃ琴音ちゃんは学年が下だからな。あんまりあいつと関わることも ないだろうから、気づかないのかもしれねーけど」  ぼうっと上を見上げた浩之に、あかりが話しかけた。 「うーん、やっぱり浩之ちゃんの気のせいじゃないの? 私、昨日だって志保と おしゃべりしたし、別に志保に避けられてるとは思えないよ」 「まあな、オレとも一対一の時は、まあ普通に話もしてくるんだけどな、あいつ。 でも、オレたちがいっしょにいる時って、最近、あいつの姿見たことあるか?」 「あ、そういえば」 「体育祭とかの特別なイベントでもなけりゃ、まずないだろ?」  あかりはこくりとうなずいた。  琴音たちもそういえば、と言ってうなずいた。  学校に近づいてくると、人通りが多くなってきた。  そんな時彼らは、一人の女子生徒に気づいた。  その女子生徒は志保だった。 「おーい、志保――!」  あかりが声をかけると、志保はちらりと浩之たちの方を向くと、すぐに顔を伏 せ、学校に向かって走り出した。 「どうしたんだろうネ、シホ」 「さあ?」  誰もレミィの疑問に答えられる者はいなかった。 「志保……」  一方あかりは、誰にも、浩之にさえも聞こえないほど小さな声でぽつりとつぶ やいていた。  放課後。  次々に生徒たちが教室から出始めていたが、浩之はいまだに机に突っ伏して眠 り続けていた。  あかりはその浩之を懸命に起こしていた。 「浩之ちゃん、起きてよ。もう授業終わったよ。ねえ、浩之ちゃんってば!」 「ほわ?」  ようやく目が覚めた浩之だったが、まだ机には突っ伏したままだった。 「ううー、疲れたー……」  浩之の隣に座っていた智子は、そんな彼をあきれた顔をして眺めていた。 「もう、何言ってんの藤田君。今日は一日中寝てたやないの。いったい、いつ疲 れるひまがあったん?」 「う……い、いいだろ、別に」  浩之は智子と反対側を向いた。  その様子に引っかかる物を感じた智子は、浩之に顔を近づけてにらんだ。 「あー、なんか隠し事してるやろ?」 「別にしてねえって」 「嘘や!」 「ふふふ」  あかりは二人のやりとりを見ながらクスクスと笑っていた。  そのことに智子が気づいた。 「ん? どないしたん、神岸さん。何がおかしいん?」 「うん。あのね保科さん、浩之ちゃんは、保科さんのためにがんばってたから疲 れてるの」 「私のために?」  智子はわけがわからない、という表情を見せた。 「うん。今日は保科さん、眼鏡をかけてないでしょ? だから休み時間の度に、 いろんなクラスから保科さんを見に男子が来てたよね?」 「そういえば、今日は男子が大勢、私の近くに来てうっとうしかったような気も するけど。でも、私の顔を見に来たっていうのは、神岸さんの気のせいとちがう かな? だって実際私に話しかけてきた男子は一人もおらへんかったし、みんな 私の近くに来たら、すぐに立ち去ってたと思うし」 「それは、保科さんの隣で浩之ちゃんがずっとその人たちをにらんでいたからな の」 「え、そうなん?」 「本当だよ。保科さんに近づこうとしたら、浩之ちゃんに思いっきり怖い目でに らみつけられるから、誰も保科さんに近づけなかったの。休み時間の度にそうい うことを続けてたら、誰だって疲れちゃうよ。ね、浩之ちゃん」  そう言ってあかりは浩之に笑いかけた。 「お、オレは、別になんにも、してねーよ」  浩之はあかりからすっと目をそらせた。 「そうやったん、藤田君」  智子はうれしそうに浩之を見たが、浩之は智子の方を見ようとしなかった。 「だから、別にそういうわけじゃ……ただ、委員長はそういうの嫌がるだろうか ら……」 「藤田君、ヤキモチ焼いてくれてたんや」 「べ、別にヤキモチ焼いたわけじゃ……」 「あー、浩之ちゃん、赤くなったー!」 「うるせえ!」  浩之たちがじゃれ合っていると、綾香と葵が浩之を迎えに来た。  今日はクラブのある日だったためだ。 「浩之、迎えに来たわよ!」 「藤田先輩、クラブに行きましょう」 「おお、待ってたぜ!」  あかりと智子にからかわれ続けていた浩之は、これ幸いと教室を飛び出した。 「あ、浩之ちゃん、待ってよ。途中までいっしょに行こう」 「ちょっと待ってーや、二人とも」  浩之に続いてあかりと智子も教室を出ていった。 「あ、志保だ! ねえ、志保!」  教室を出たあかりは、同じく教室を出ようとする志保に気づき声をかけた。  だが、志保は朝と同様、顔を伏せて立ち去ろうとした。 「おい、待てよ、志保。どうしたんだ?」  浩之が志保の肩をつかんだ。  志保は、その手を乱暴に払おうとした。 「ちょっと、離してよ! この変態!」 「なんだよそれ、お前けんか売ってんのか? なんでオレがそこまで言われなく ちゃいけねえんだ?」 「うるさいわね。あたしはあんたたちに話すことなんかないわよ。いいから離し てってば!」 「だからなんでそんなに怒ってんだよ」 「怒ってなんかいないわよ!」  浩之と志保の言い争いは激しくなる一方だった。  だが智子や綾香はいつものことだと思って、止めようとはしなかった。  一方、普段の二人の口げんかをよく知っているあかりは、今日のけんかがおか しいことに気づいていた。  志保の口調から、浩之に対する絶対的な拒絶が感じられたからだ。  このままじゃいけない、とあかりが止めに入ろうとしたそのとき、  バシィ! 「いいかげんにしろよ藤田! 長岡さん、嫌がってるだろ!」  そこを通りがかった男子生徒が浩之の手を払った。 「何しやがる。お前には関係ないだろう?」  浩之は相手の男子をにらみつけた。 「関係ないことはないな。俺は、お前みたいな女ったらしから女性を守る、いわ ばナイトだからな」  浩之は何も答えなかった。  この程度のことを言われるのには慣れていたため、怒りもわかなかった。  浩之が何も言わないのを答えに困っているのだと考えた男子生徒は、なおも話 を続けた。 「何か言ったらどうなんだ、この女ったらし! へん、だいたいな、お前なんか があんな美人十人と結婚しようというのが間違いなんだ。それに彼女たちも彼女 たちだよな。こんな男にどうだまされたか知らないけど、まったく、何を考えて るんだか……ま、こんな男にだまされるんじゃ、彼女たちのレベルもたかが知れ るってもんだな」  男子生徒は大げさに頭を振った。  だんだん周りに生徒が集まってきた。  その中には藤田家十人の女性のうち誰かに好意を持っているため、その女性の 愛情を一身に受けている浩之を憎んでいる者も、何人かいた。  ちなみに、話をしている男子生徒は、浩之に助けられてから元の明るい性格を 取り戻した琴音に告白していた。  彼とて以前は琴音のことを「疫病神」と呼んで毛嫌いしていたにもかかわらず、 である。  もちろん彼が振られたのは言うまでもない。 周りにギャラリーが増えたことに気をよくした彼は、さらに話を続けた。 「今度は長岡さんか。今度はどんな方法で女性をたぶらかそうとしたんだ。教え てくれよ、藤田! え? そんな変態スケベヤローはな、天が許しても、この俺 が許さないんだよ!」  周りのギャラリーからはそうだ、そうだという声がしていた。  だがその一方では、男子生徒の話があまりにもばからしいことにあきれた女子 生徒全員と、男子生徒の大半が帰り始めていた。  男子生徒の話に頭にきた綾香が、その男にくってかかろうとした。 「ちょっとあなた、いいかげんに――」  だが綾香を浩之が制した。 「綾香、悪いがオレに言わせてくれ」  綾香は浩之に文句を言おうとしたが、浩之の目を見て、何も言えなくなってし まった。  心の底からの怒り――その言葉に当てはまるほどの怒りを、浩之の目は表して いたためだ。  浩之は男子生徒をさらににらみつけた。 「お前結局、何が言いたいんだ? オレが、ここにいる綾香やあかり、みんなと いっしょにいるのが気に入らないっていうんなら、それだけを言えばいい。みん なのことまで悪く言うな。みんなを侮辱することだけは、絶対に許さない」  冷たい、低い声だった。  めったに聞かない、いや初めて聞いたかもしれない浩之の怒りの声を聞いたあ かりは、背筋がぞっとした。  浩之はさらに周りを見渡した。 「ここにいつまでもいるってことは、お前らもこいつとおんなじ事を考えてるん だろ? いいぜ、来いよ。ここじゃ帰る人たちの迷惑なんでな、学校の裏ででも、 話しつけようぜ。どうせお前ら、オレに言いたいこと、やりたいことが山ほどあ るんだろ?」  浩之は男子生徒とギャラリーに背を向けると、歩き出した。  あかりたちは浩之についていこうとしたが、 「お前たちは来るな」  と、浩之に言われ、ついていくことができなかった。  学校の裏では、浩之が彼についてきた七人の男子生徒と対峙していた。 「まったく、まだこんなにいたのか。オレを殴りたい奴が。いや、本当はもっと いるんだろうけどな」  浩之はため息をつき、男子生徒たちを見た。 「まあいいや。おい、お前ら、そんなにオレが憎いんだろ? 中途半端な話し合 いなんてするつもり、ないんだろ? じゃあ、とことんまでやろうぜ!」  そう言った浩之が戦闘態勢を整えたのを見た男子生徒たちは、全員で浩之に殴 りかかった。  五分後、殴られすぎで満身創痍になった浩之は、ふらふらになりながら立って いた。  浩之は自分からはいっさい攻撃をしなかったため、もちろん相手の男子生徒た ちに怪我はなかった。  ただ、日頃鍛えていない拳で、毎日のように綾香や葵と共にトレーニングをし ている浩之を殴ったため、男子生徒たちの拳だけはぼろぼろだった。 「ど、どうした――お前ら。はぁはぁ――もう、おしまいか? こんな程度じゃ、 オレ――は、た、たおれないぜ、へへ……」 「く、くそ――!」  先ほど熱弁を振るった男子生徒が、再び浩之に殴りかかろうとした。  だが、大勢の人影が浩之と男子生徒の間に割って入った。  それは藤田家十人の妻たちだった。 「浩之ちゃんをこれ以上いじめると許さないんだから!」 「あ、あかり……そ、れに――みんなも。ば――ばか、来るなって、言ったろ」  浩之は力なく怒鳴ったが、安堵の表情で言ったその言葉に迫力はなかった。 「だって、浩之さんがこんなにぼろぼろになって……その、だから居ても立って も居られなかったんです」 「…………」 「先輩は、浩之さんがこれ以上殴られるのを、黙って見てられませんでしたって 言ってるんだよ。私も、藤田君がこんなに傷だらけになるの、見てれらないよ」 「そうです、藤田さんの体にもしもの事があったら、わたしは……」 「みん――な、ありがとう。でも、だい――じょうぶ、だから。下がってて、く れ。このけんかは、俺が、決着――をつける、から」  浩之は力なく笑った。 「浩之さん、いいかげんにしてください。どう見ても浩之さんの体は限界です。 これ以上のけんかは許しません」  セリオが浩之の正面に立った。  彼女は腕ずくでも浩之を押さえるつもりだったのだ。  セリオの意図がわかった浩之は、あきらめたような顔をした。 「セリオ……へっ、しょうがねーなぁ。わかったよ」  浩之はぐったりとレミィの肩につかまり、その場を離れようとした。  浩之たちの様子を呆然と見ていた男子生徒たちは、浩之が帰ろうとするのに気 づいて大声を出した。 「おい、待てよ藤田。逃げるのか?」  そう言って浩之を追いかけようとした彼らの前に、綾香が立ちはだかった。  さらにその側にも、何人かの人影があった。  綾香は男子生徒たちを見つめ、にっこりと笑った。  温かさのない、冷たい笑みだった。  なまじ元の顔が美しいため、その冷たさは際だっていた。 「はい、ストーップ。こっから先は、私たちがあ、い、て」  綾香は側にいる女性たちを見た。 「葵、準備はいい?」 「はい、綾香さん。いつでもOKです」  葵は綾香の側で屈伸運動をしていた。 「琴音、殺しちゃダメよ。とりあえず重傷までにしておきなさい」 「……努力はしてみます。一応……」  琴音の周りの空間はすでに歪み始め、空気は彼女の体を包み込むように渦を巻 いていた。 「セリオ、レーザーとミサイル、軍事衛星からの超長距離射撃は使用禁止」 「だめなんですか……」  セリオは残念そうな顔をした。  綾香は三人の様子を満足そうに見たあと、顔を引きつらせた男子生徒たちを冷 たい目で見つめた。 「よくも浩之をあんな目にあわせてくれたわね。あなたたち、ただですむと思っ たら大間違いよ」  綾香たち四人は、じりじりと男子生徒たちとの距離を縮めていった。  彼女たち、つまり藤田家女性陣の中でも、特に戦闘能力においてずば抜けてい る者たちが、自分たちに向かってきている。  それも、彼女たちの最愛の男性である浩之の敵討ちのために。  その事実は男子生徒たちに十二分な恐怖を与え、さらに彼らに五体満足で助か る道は残されていないことを痛感させた。 「いくわよ!」  綾香たちが飛びかかろうとした瞬間、 「待ってくれ!」  浩之の声が響いた。 「え、何?」  綾香たちは動きを止めた。 「待ってくれ、みんな。こいつらには、今日は手を出さねーでほしいんだ。頼む」 「何言ってるのよ。浩之から言い出したけんかとはいえ、この人たちは大勢であ なたをこんな傷だらけにしたのよ。だったら、それ相応の報いを受ける義務があ るでしょ」 「それでも、手を出さねーでほしいんだ。そうじゃねーと、オレがわざと殴られ た意味がなくなる。だから、頼む」 「わざと……わかったわ。だけど浩之、あとでちゃんと説明しなさいよ」 「ああ、ありがとう」  浩之は男子生徒たちをキッとにらみつけた。 「というわけだ。このけんかはこれで終わりだ。結果は気にするな、オレの負け でいい。まあ、それはともかくとして、お前ら、気は晴れたか?」  男子生徒たちはその言葉に不思議そうな顔をした。 「だから、オレをさんざん殴って気は晴れたかって聞いてんだ」 「…………」  男子生徒たちは何も言わなかった。 「ふーん、まあいい、そういうことにしておくか。とにかく、気が晴れたんだっ たらお前ら、オレへの嫉妬からみんなを侮辱するようなくだらないまね、二度と すんじゃねーぞ」  浩之は男子生徒たちを指さした。 「いいな、二度目はない。もしまた、みんなを侮辱するようなことをすれば、そ のときこそオレが、貴様ら全員、容赦なく、ぶっ飛ばす!」 「な、なんだ……と……」  男子生徒たちは浩之の言葉に、それ以上言い返すことができなかった。  彼らは完全に浩之に圧倒されたためだ。  そのときの浩之の気迫はそれほどすさまじいものだった。 「覚えとけよ」  浩之は男子生徒たちに背を向けた。 「ああー、そうそう。忘れてた」  浩之はくるっと振り返り、再び男子生徒たちを見た。 「お前らさっき言ってたな。なんでみんなが俺のことを好きになったかって」  浩之は男子生徒たちに、バカにしたような視線を向けた。 「バカか、お前ら。そんなのわかるわけないだろう、みんなが俺のことを好きに なった理由なんて。意味がないからな、オレも聞いてない。だがな、わかってる こともある。お前らにはわかんないだろうからな、教えてやるよ」  浩之はここで一呼吸おいた。 「オレがわかってること。それは、みんなのことを心から愛してるってオレの心 と、みんながオレにとってかけがえのない存在だってことだ」 「…………」  男子生徒だけでなくあかりたちも浩之の言葉に黙ってしまったが、浩之はさら に話し続けた。 「嫌がらせや暴行。今日みたいな事は、オレがみんなといっしょに生活するよう になってからはしょっちゅう起こってる。今日みたいなけがをしたのだって一度 や二度じゃない。けどな、それでもオレの心は、みんなのことが好きなオレの心 は絶対に変わらなかった。そして、これからも絶対に変わることはない。誰が何 をしようと、オレの心は絶対に変わることはないんだ。オレはみんなのことが大 好きだ。そして、その気持ちはみんなに届いていると、オレは信じている。ま、 こういうことだ。お前らがどう受け取るかは知らんがな。じゃあな」  浩之は男子生徒たちに再び背を向けた。  コン。 「いて」  そのとき、浩之の頭を綾香が小突いた。 「なにカッコつけてんのよ、浩之!」  綾香は笑みを浮かべながら浩之に話しかけた。  だがその笑みは、先ほど男子生徒たちに向けられたのとはまったく違う、愛し い人にだけ向けられた温かい笑みだった。 「何すんだよ綾香! せっかくかっこよく決めたのに雰囲気ぶちこわすなよ。そ れにオレはけが人だぞ!」  浩之は頭をなでながら綾香をにらんだ。  もちろんこのにらみとて、先ほど男子生徒たちに向けられたのとは本質から異 なっているものだった。  二人のやりとりを優しい眼差しで見つめていた、綾香以外の藤田家の女性たち も浩之に話しかけた。 「安心してください。浩之さんがけがで動けなくなった場合は、私たちが全力で 看護させていただきます」 「はい、藤田先輩、任せてください!」 「そういうこと。ま、安心しなさい、浩之」  浩之はふふっと笑うと、穏やかな表情を浮かべた。 「ああ、ありがとう、みんな。みんなが看護してくれたら、けがなんてすぐに治 るな。でも、先輩の薬だけはちょっと勘弁してほし……ってそんなに悲しそうな 顔しなくっても……ああぁ先輩、怒らないでよ……」  浩之はそのまま男子生徒たちを無視して、あかりたちと共に立ち去っていった。 「…………」  あとに残される格好になった男子生徒たちは黙って立ちつくしていた。  ヒュ――。  彼らの周りを夕方の冷たい風が吹き抜けた。  彼らには何もなかった。  憎い浩之を殴った喜びも、自分のことを愛してくれる存在も、全てをかけて愛 することのできる存在も。  彼らにはただ、仲睦まじく帰っていく藤田家の人間を悔しそうに見つめること しかできなかった。  ずきずきとむなしく痛む、拳を握りしめたままで――。  そして、別の場所で浩之たちを見つめているもう一つの影。 「あんな真剣なヒロの目、見たことなかった。それにあかりたちを見つめる優し い目。どうして、どうしてあなたたちだけそんなにヒロに愛されているの? ど うして……」  志保は、ぽろぽろと涙を流していた。 「やっぱりあの人たちにはかなわないな……」  彼女は周りの様子が見えないほど気落ちしていた。  泣いている自分の方を見ている、あかりの存在にも気づかないほどに。  殴られすぎがたたったため、浩之は病院に三日ほど入院することになった。  本当は一日の検査入院のはずだったのだが、浩之が心配で泣きそうになってい たあかりやマルチを納得させるための、やむおえない処置だった。  もちろん、今日は藤田家総出で、付きっきりの看護である。 「みんな悪いな、迷惑かけて」  浩之はベッドに横になりながら、あかりたちに話しかけた。 「何言ってるの、ヒロユキ! ノープロブレム!」 「そうです、藤田さんはゆっくり休んでてください」 「ありがとう。じゃあ悪いけど、オレ少し眠らせてもらうわ……」  そう言って、浩之はゆっくりと目を閉じた。 「みんな、ちょっといい?」  浩之が眠ったのを確認したあかりは、全員を集めて病室を出ていった。  待合所に行ったあかりは、声を潜めて話しだした。 「あのね、みんな。相談したいことがあるの――」  その後、彼女たちは全員で病院を後にした。  行き先は、長岡家だった。  二日後、学校が終わったあかりたちが浩之の病室にやってきた。 「ひ、ろ、ゆ、き、ちゃん! 元気にしてた?」 「元気って、今朝会ったばかりだろ?」 「だって、なんだか浩之ちゃんといっしょに学校に行かないと、学校に行ってる 感じがしなくって……」 「あかり……」 「はい、はい、はい。そこまでよ二人とも! 今日は、そんなことやってる場合 じゃないでしょ?」  綾香が二人の間に割って入った。  あかりは申し訳なさそうにした。 「あ、そうか。ごめんね」 「いいわよ、別に」  そう言うと綾香はすぐに全員と目で何かを確認し合った。 「ん? 何やってんだ、綾香? 退院は明日だぞ」  だが、綾香は浩之の方を見ずに一言言っただけだった。 「けが人は黙ってなさい。私たちにとって大切なことを今からやるんだから」 「大切なこと?」 「そう。浩之も半端な気持ちでやらないでよ。一人の女の子の一生がかかってる んだからね」 「お、おう」  浩之には何が行われるのかはわからなかったが、綾香の口調にからかう様子が なかったため、浩之は彼女の言葉を信じることにした。  廊下に出ていた芹香から、OKのサインが出た。 「よし、じゃあ私たちはちょっと席外すから。あとは浩之、がんばってね」  綾香たちが出ていったあとに入れ替わりに入ってきたのは、志保だった。 「志保、お前……」 「ただのお見舞いよ。結局あたしが種をまいたようなもんだから……」 「志保!」  志保の側にいたあかりが、小さな声で志保に怒鳴った。  あかりに怒鳴られた志保は、ばつが悪そうにした。 「わかったわよ……」 「おい、あかり。これがいったいなんなんだ。大切なことって、なんだ?」  あかりは浩之の質問には答えず、志保に小さな声でささやいた。 「志保、これが最後だよ。自分の気持ちに正直にね」 「う、うん」  志保の返事を確認したあかりは浩之の方を向いた。 「浩之ちゃん、志保が浩之ちゃんに話したいことがあるんだって。とっても大事 な話らしいから、まじめに聞いてあげてね」 「え?」 「じゃあ、私も席を外すね」  バタン。  あかりが出ていったときに立てたドアの音が、重苦しいほど病室に響いた。  病室はベッドに座る浩之といすに座る志保の二人きりとなった。  二人とも何も話そうとしなかった。  いや、志保は話そうとはするが結局何も言えず、浩之は志保の話を聞く気でい たため始めから何も話す気がなかった、といった方が正しかった。 「もう、志保ったら、なんで早く言わないのよ」  浩之の部屋についている監視カメラで二人の様子を見ていたあかりが、いらい らして声を出した。 「まあまあ、落ち着いてください、神岸さん。長岡さんにだって、心の準備とい うものが必要だと思いますよ」  琴音があかりをなだめた。  他の妻たちもうんうんとうなずいていた。 「……うん、そうだね。志保、がんばって」  あかりはカメラに映っている志保に向かってつぶやいた。  ちなみに、現在彼女たちがいる部屋は病院施設の中央管理室である。  なぜ彼女たちがこんな場所にいられるのかというと、この病院が来栖川系列の 病院であったためだ。  来栖川家の者ということで、彼女たちはこの病院内の、医療に直接関係しない 施設に対する使い放題の権利を持っていた。  その特権を使って彼女たちは病院内の監視カメラとビデオを総動員し、入院中 の浩之の行動を二十四時間完全に監視していた。  しかもこの監視カメラは音声も取れる優れ物であったため、抜かりはなかった。  そして今、彼女たちはカメラに映る浩之と志保の行動をじっと見守っていた。 「浩之ちゃん、志保をお願いね」 そうつぶやいたあかりの脳裏には、先日、浩之が入院した日の出来事が思い出 されていた。  浩之が入院した日、待合所での相談を済ませたあかりたちは志保の家に向かっ た。  その道すがら、あかりを除いた九人の藤田家の女性たちは、疑問をあかりにぶ つけていた。 「なあ、神岸さん。それってほんまなん? 長岡さんが藤田君のことずっと好き やったっていうの」 「うん、間違いないよ」 「ですが長岡先輩は以前、神岸先輩が藤田先輩との結婚を誘ったときに断ったは ずですけど。本当に長岡先輩に、藤田先輩への恋愛感情なんてあるんですか?」 「志保、私に遠慮してたんだよ。それに、浩之ちゃんが私以外のみんなのことも、 本気で愛するようになるなんて思わなかったんだろうね」 「そう、なんですか」 「だから志保、みんなが浩之ちゃんと結婚するって聞いたときは、結構ショック だったと思うんだ」 「じゃあ私たちのことをからかってたのは? 浩之に対してだって、今までとあ まり変わらなかったような気がしたけど?」  綾香にたずねられたあかりは哀しそうな顔をした。 「開き直ろうとしたんじゃないのかな? 私たちをからかって、ばか騒ぎして、 そのまま浩之ちゃんへの想いも忘れようとしたんだよ。志保ってそういう娘だか ら」 「ふーん、でも結局、志保は浩之のことが忘れられなかった、と」 「うん……」  あかりはますます辛そうな顔をした。 「あの、あかりさん」 「何、マルチちゃん?」 「どうして、そう思うんですか? 志保さんが、今でも浩之さんのことが好きな んだって」 「ああ、そのこと」  あかりはマルチに寂しそうに微笑んだ。 「今朝、浩之ちゃんが志保の様子が変だって言ったでしょ。そのときに思ったの、 志保が私たちみんながいるときにだけ私たちに会おうとしないのは、浩之ちゃん と仲良くしている私たちを見るのが辛いからじゃないのかなって。それで、それ となく志保の様子を見張っていたの。そうしたら案の定だったよ」 「案の定、ですか?」 「うん、今日浩之ちゃんがけんかしてた所にね、志保もいたの。それで私たちと 帰っている浩之ちゃんを見ながら、志保、泣いてたんだ。それを見て確信したの、 やっぱり志保は今でも浩之ちゃんのことが好きなんだなって」 「そうだったんですか……」 「やっぱり浩之ちゃんだよね、どんなにぶっきらぼうにしていても、ちゃんと見 るべきところは見てるんだよね」 「さすが浩之さんですね。それに、そのことに気づいたあかりさんも」 「そんなことないよ、セリオちゃん。でも、みんなよりは志保とのつきあいが長 いからね。あ、着いたよ」  志保の家についたあかりたちは、しぶる志保を説得して無理に彼女の家に入り、 居間に陣取った。 「なんなのよ、あんたたち。ヒロの奴、けがしたんでしょ? 早く家で看病して やったら?」 「志保、浩之ちゃんは入院したんだよ」  あかりの言葉を聞いた志保は、顔を真っ青にした。  その様子を見たあかりは、全員に目配せをした。  全員、納得したようにうなずいた。 「志保、浩之ちゃんのこと心配だよね」 「そ、そりゃあ、あいつがけがした原因の何割かは、あたしの、せいだし……」 「それだけ?」 「それだけって何よ」 「他に理由はないの? 浩之ちゃんが入院したって聞いたときの志保の顔、真っ 青だったよ」 「そ、それは……あいつは、あたしの、友達、だから……」 「本当に?」 「そ、そうよ……」  あかりは志保をまっすぐに見つめた。 「志保! もう一度だけ聞くね。浩之ちゃんのこと好き? 本当に私たちと一緒 に浩之ちゃんのお嫁さんになる気ない?」 「あかり。な、何言ってんのよ。そんなことある、わけない、でしょ……」  志保はあかりから目をそらした。 「志保、私マジだよ、真剣なんだよ! ちゃんと私の方を見て言って!」 「あかり……」 「どうなの?」 「…………」  志保は何も言わなかった。  あかりも何も言わずじっと志保を見つめていた。  やがて志保は下を向いてぽつりと小さな声で言った。 「あ、あたしは、昔から……そして、いま、でも、ヒロの……ことが、す、好き」  小さいつぶやきだったが、あかりたちにははっきりとその声が聞こえた。 「志保!」  あかりは安堵の表情を浮かべた。  しかし、志保の表情は違った。  彼女は顔を上げ、悲痛な表情を浮かべていた。 「だけどあたしは今日、はっきりとわかったの。あかりたちのことで真剣に怒る ヒロの目、あかりたちに向けるヒロの優しい目。あたしは、あたしはヒロにあん な風に見てもらえない……絶対に見てもらえないの。だめなの、あたしはあなた たちみたいにはなれないの!」  パシィ!  今までじっと志保の様子を見ていた芹香が、志保の頬をぶった。 「ね、姉さん」 「どうしてですか?」 「え!?」  あかりたちは耳を疑った。  芹香がこんなにはっきりと話すのを聞いたことがなかったからだ。  あかりたちの驚きをよそに、芹香は話し続けた。 「どうして、そんなことを言うんですか? どうして、あきらめるんですか?  私だって、あかりさんからのお誘いを受けたときに、どれほど不安だったか。本 当に浩之さんはあかりさん以外の人を、私なんかを愛してくれるのかって。不安 で不安でしょうがありませんでした。私だけじゃありません。綾香も、他のみな さんも、みんなそれぞれ不安を持っていたんです。でも、私たちは浩之さんに告 白しました。なぜだかわかりますか? それほど浩之さんが好きだったからです。 不安で胸が押しつぶされるほど、浩之さんが好きだったからです。そして、浩之 さんは私たちの想いを受け止めてくれました。とてもうれしかったです。おそら く、あれ以上の幸福は絶対にないと思います。でもその幸福は、みんな自分で不 安を乗り越えた結果、手に入れたものなんです。あの不安があったからこそ、今 の幸福があるんです。その幸福は、あなたにだってあるかもしれない。なのにな ぜあなたは勝手な判断をして、最初からあきらめてしまうんですか? 人の心な んて、他人が判断できるほど単純なものではありません」  話し終わった芹香の目には涙が光っていた。 「先輩……」  芹香の話を黙って聞いていたあかりが、そっと志保の手を握った。 「志保、やってみようよ。結果はわかんないけど、このままじゃ私たち、友達に もなれないよ。志保、前言ったよね『私の想いが浩之ちゃんに届いて、友達とし てうれしい』って。私だって、志保の想いが浩之ちゃんに届いたらうれしいよ、 友達だもん。そりゃ、女の子としては妬けちゃうけど……」  志保が周りを見ると、全員、少し瞳を潤ませていた。  芹香の話に、自分たちの昔の決意や想い、そして喜びを思い出していたのだ。 「…………」  志保はしばらく何も言わなかった。  あかりたちも何も言わなかった。  やがて志保はおずおずと話しだした。 「ほ、本当にいいの? あたしもあなたたちと同じようにヒロのお嫁さんになっ ても」 「仕方ないわよ、志保。あなたは私たちよりもずっと前から、浩之のことを見て いたんでしょ? あかりのために告白もしないで身を引いたんでしょ? それで もやっぱり、どうしようもないぐらい浩之のことが好きなんでしょ?」 「綾香さん……」  志保の瞳に涙が浮かんだ。 「だったら、迷う必要はないわ。確かに女としては妬けるけど、最終的に選ぶの は浩之だもんね」 「あかり、……みんな……わかった、やってみる。ありがとう、あかり。ありが とう、先輩。ありがとう、綾香さん。ありがとう、みんな……本当に、グスッ、 ありがとう」  ぽろぽろと流れ出した志保の涙は、とどまるところを知らなかった。  そのときの志保の決意の結果が、今日のこのシチュエーションであった。  あかりたちが心配する中、浩之と志保はいまだに一言も声を発していなかった。 「志保」  浩之の声に、志保は体をかたくした。 「なあ、志保。話ってなんだよ」  雰囲気にたえきれなくなった浩之は、志保に話しかけた。  志保は体中にある自制心を総動員して、なんとか浩之に話しかけようとしたが、 どうしても声が出せなかった。 「大事な話なんだろ? 今日は笑わないで聞いてやるから。な、話してみろよ」 「ヒ、ロ……」  志保は浩之の目を見て驚いた。  自分を見つめる浩之の目。  それは確かに、志保の大事な話を聞こうとしている真剣な、それでいて優しい 目だったからだ。  志保はその目に賭けた。  自分の運命を、想いの全てを、浩之の目に賭けた。 「あ、あのさ、ヒロ……」 「どうした?」 「あ、あたし、ね。ず、ず、ずず、ずずずずずずず……」 「ずずず? お前、何言ってんだ?」 「ずっと前から、あんたのことが、好、き、だった、の……」  小さい声だったが、志保は確かに、はっきりと浩之に告白した。 「え……志、保……お前、本気、か? 本気でオレの、ことを?」  志保は真っ赤になってうなずいた。 「そんな、ことって……」  浩之はとまどった。  無理もなかった。  今までけんか友達だとばかり思っていた女性に、好きだと告白されたのだから。  正直な話、現実逃避したかった。  何も考えず、病院から抜け出してゲームセンターにでも行きたかった。  だが現実として、それは許されることではない。  目の前には真剣に自分への想いを告白してくれた女性。  監視カメラの向こうには、自分の行動の一挙手一投足を監視している妻たち。  彼には、志保の想いに対して真剣に答えるしか道は残されていなかった。  長い沈黙が流れた。  現実の時間にして、わずか二、三分。  だが、志保にとっては二時間にも、三時間にも感じられた。  やがて浩之が口を開いた。 「ごめん……志保」  それは、志保にとってもっとも聞きたくない言葉だった。  この言葉を聞いた瞬間、彼女の心の中には後悔という言葉だけしか残らなかっ た。  志保はがっくりと肩を落とした。 「そっか。やっぱり、そうだよね。ヒロにとってあたしはただのけんか友達だよ ね。わかってたんだ。わかってたんだけど……」 「志保」 「いや、聞きたくない、それ以上聞きたくない!」  浩之が話しかけたが、志保は耳を押さえて半狂乱になっていた。 「いいから聞けよ!」 「いや――!!」  そのとき、 『ひーろーゆーきーちゃーん……』 「は、はひいぃぃぃぃ!!」  スピーカーから流れる低くおどろおどろしい声を聞いたとたん、浩之はベッド の上に立ち上がり、姿勢を正した。 『どうーいうーつーもーりー……?』 「だ、だか、だから、こここ、この話にはまだつ、続き……そう、続きがあるん だって!」  浩之は体中から脂汗を流しながら必死で答えた。 『つーづーきー……?』 「そう、続き。だからあ、あかり、怒り、をおさ、えて。な、たた、頼む!」 『ほーんーとーなーのー……?』 「ほんと、ほんと、ほんと。オレがお前に、こんな嘘言ったことないだろ?」 『そうなの? じゃあ早く志保に言ってあげてよ!』 「あ、ああ」  スピーカーから流れる声がいつもの声に戻ったのを確認した浩之は、潤んだ目 をごしごしとこすったあと、額の汗を拭いながらベッドに座り直した。  「あ、あかり……その声は出さないでくれって頼んだろ? 夢に出るんだぞ、ほ んとに……」  大きく深呼吸をしたあと、浩之は再び志保に話しかけた。 「なあ志保、ちょっとは落ち着いたか?」  あかりと浩之のやりとりを聞いている間に、志保はいくらか落ち着きを取り戻 していた。 「ヒ、ヒロ、続きってなんなの?」  志保は瞳に涙をいっぱいにためながら、浩之にたずねた。 「ああ。ごめん、ていうのは、今まで、お前の気持ちにまったく気づいてやれな かったことなんだ」 「え?」  志保の目には、わずかな期待が表れた。 「か、勘違いするなよ。だからってすぐにおまえの告白に答えるなんて器用なま ね、オレにはできない。第一、みんなからの告白を受けたときだって、答えを出 すのにかなり時間がかかったんだぜ。自分の気持ち、相手の気持ち……本当に一 生懸命考えたんだ。だから、お前のこともしばらく考える時間が欲しいんだ。お 前のことはもちろん嫌いじゃない。だけど、そのこととお前を愛するってことは、 また別の話だ。お前には悪いが、オレは今までお前の事を恋愛対象として考えた ことがない。だからオレのためにもお前のためにも、オレはお前のことを心から 愛せるって、自分の中でけじめを付ける決定的なあかしみたいなのが欲しいんだ。 そのあかしを見つけたとき始めて、オレはお前の気持ちを受け入れることができ ると思うんだ。そんなに時間はかけない。だから、もう少しだけオレからの答え、 待っててくれないか?」 「それって、都合よく解釈してもいいの?」 「いや、そういうわけには……ムグッ――」  そこで浩之の言葉は途切れた。  志保が浩之の唇に自分の唇を押しつけたからだ。  しばらくして、とろんとした顔の志保が浩之から離れた。 「はぁ、あかりたちっていっつもこんなことしてたんだ……でも、もうすぐあた しも」 「おい、まだオレはなんにも言ってないだろ!」 「なによ、あたしの唇を奪っといて、逃げる気?」 「奪うってな、今のはお前が無理矢理――」 「ひどい、ヒロってばあたしを傷物にしたのね! 純真無垢な長岡志保ちゃんは、 藤田浩之というけだものに傷物にされてしまいました。ああぁ、お母さん、志保 ちゃんは藤田浩之のお嫁さんになってしまいます。親不孝な娘を許して!」 「こら――! 勝手に話を作んな!」 「…………」  二人の様子に、あかりは頭を抱えていた。 「あぁん、もう志保ったら。どうしてそうなるのよ……」 「ええんとちゃう? 元々あの二人は、あんなんやったんやし」 「そう、かな……?」 「そうそう」 「そうか……うん、そうだよね!」  中央監理室に、藤田家十人の妻たちの笑い声が響いた。 「――、これでどうだ!」 「うーん、なんか弱いわね」 「またかよ、これで二十五回目、とっくにネタは尽きてるんだぞ。じゃあな、も うこれで最後、打ち止めだ! 志保、お前のことが好きでしょうがない、お前を、 心から愛している! これならどうだ!」 「うーん、合格! ま、プロポーズの言葉としては平凡だけど、熱意が合格のポ イントね」 「いいかげんにしろよ……」 志保の告白から数週間後。  藤田家はいつも通りの朝を迎えていた。  ゆさゆさ、ゆさゆさ。 「浩之ちゃん、起きてよ、遅刻しちゃうよ。浩之ちゃん、てば!」 「まったく、いつまで寝てるのよ。はぁ、こいつを起こすには、もうこれしかな いわね」 「これって?」 「実力行使よ!」  ドシン。  何かが浩之の上に乗った。  浩之は苦しそうに、自分の上の人物に話しかけた。 「こ、こら、おも、重い……どけぇ、どくんだぁ、志保ぉ……」 「何言ってんのよ。さっさと起きないあんたが悪いんでしょ。それに、よりにも よってこんなスレンダーなあたしを捕まえて重いですって? どの口が言ってん のよ、どの口が!」  志保が浩之の口に指を入れて左右に引っ張りだした。 「いひゃい、いひゃい、わえほひほ!(痛い、痛い、やめろ志保!)」 「うるさい、さっさと起きろ!」 「ひょうわええわほ、へふひんわわわ(しょうがねぇだろ、眠いんだから)」 「なんでそんなに眠いのよ!」 「ひゃっへひほうは、おわへほ……(だって昨日はお前と……)」  浩之の言葉に志保は顔を真っ赤にさせ、ますます浩之の口を広げた。 「ああー、ダメダメ! それ以上言っちゃダメ――!」 「ひひゃひゃひゃひゃひゃひゃ――!!(いたたたたたた――!!)」 「もう、二人とも遅刻しちゃうよ! 浩之ちゃんも早く起きて!」  二人の様子にしびれを切らしたあかりが、大声を出した。  告白から数週間後の朝、藤田浩之の妻は十一人になっていた。  この日も、藤田家は平和だった。
<完>


この物語は、フィクション「藤田家のたさい」のさらなるフィクションです。
この物語がHiroさんの作品「藤田家のたさい」シリーズになんの関わり合い
もないことをご理解ください。


 〜あとがき〜

  読んでくださった方、ありがとうございます。

 ……ああぁ、とんでもないことをやってしまいました。
 本編でもやってない、「志保の藤田家嫁入り物語」それを、番外編という形で
あってもやってしまうとは。
 ああぁ、すいません、Hiroさん! 思いついたままをついふらふらと書い
てしまいました。

 内容に関して言えば、「藤田家のたさい」の設定に沿うようにして、なるべく
矛盾はなくしたつもりですが(初期設定からして間違ってるし)う〜ん……藤田
家ってこんなに女性が強かったっけ……?

 苦情等は掲示板か、こちらまで。……苦情はあんまり欲しくないけど(笑)

 それから念のために言っておくと、今回の話は別にここ数日で思いついた話で
はありません。
 私は書くのが遅いからこうなりましたが、書き始めたのは去年の12月です。
 誰かにけんかを売りたい、とかそういうわけで書いたのではない、ということ
だけは知っておいてもらいたいんです。

 また浩之のけんかについてですが……けんかを肯定するような話を書いたこと
に対しての苦情も受け付けます、言い訳はしません。
 さらに、私がこういう描写を持つ話についての感想を送った方にも言っておき
ます。そのときの感想と今回の話は矛盾してます。ですが、これが私です。けん
かを肯定する自分と否定する自分、私の中にはこの二人がいるんです、つまり。

 あとがき、長くなってしまいましたので、ここまで。

 To Heart小説。初めて書いたけど、結構楽しかったです。

 それでは。
 本当にすいませんでした、Hiroさん!(でも、このあとがきを読んでいる
方がいるってことは、HPに掲載されてるってことだよな……)


 ☆ コメント ☆  おおっ!! 志保が藤田家入り!!(@◇@)  あくまでも『IF』の世界ですけど…………ものすっごく良い感じですね(^0^)  それにしても……志保が可愛い(*^^*)  なんか、転んでしまいそうです(^ ^;  >この超絶天才スーパーミラクルその他なんだかわかんないけど、  >とにかくすっごくて非の打ち所のない美少女の志保ちゃん  …………なんだかなぁ(^ ^;  語彙の少ない奴(^ ^;;;;;  >「いいえ、けだものです」  葵ちゃん、結構容赦無いのね(^ ^;  >「関係ないことはないな。俺は、お前みたいな女ったらしから女性を守る、いわ  >ばナイトだからな」  ……………………ふぅ、やれやれ(−−;  何と言いますか…………阿呆男の典型ですなヽ( ´ー`)ノ  >「オレがわかってること。それは、みんなのことを心から愛してるってオレの心  >と、みんながオレにとってかけがえのない存在だってことだ」  か、格好いい……ジーン(;;)カンルイ  >パシィ!  >今までじっと志保の様子を見ていた芹香が、志保の頬をぶった。  志保のことを大切に思うが故に、ですね。  さすがは、みんなのお姉さんです(^0^)  >告白から数週間後の朝、藤田浩之の妻は十一人になっていた。  大団円ですね(^0^)/  まさに、めでたしめでたしです。  >藤田家ってこんなに女性が強かったっけ……?  強いと思います(^ ^;;;;;  >書き始めたのは去年の12月です。  確かに、随分前から今回の話を書きたいと仰って下さってましたね。  難産だったようですが、ご苦労様でした(^ ^ゞ  つばささん、ありがとうございました\(>w<)/


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