たさいシリーズ番外編

しずく





 空を見上げて―――大空を自由に飛ぶ小鳥達を眺めながら―――深呼吸、胸の中に新鮮な空気をいっぱいに送り込んだ。

 今日も、いい天気だ―――





 空はどこまでも蒼く―――見渡す限り続いていく―――遙か向こうに見える山々の稜線を越えても、更に続いていくのだろう。

 ふと気付けば、空を飛ぶ小鳥達の姿がある。

 彼らは自由の羽をはばたかせ、あの空の向こうへと飛んでいくのだろうか?

 長瀬祐介は中央公園のベンチに座り、ただ、何をするでもなくぼーっとした時間を過ごしていた。

 彼の横には一人の少女が佇んでいた。

 少女は彼の側で、彼の影のように、存在感というものを全く表さず、目には見えず、しかし無くてはならない、そんな空気のようにその場にいた。

 少女は、月島瑠璃子という名を持っていた。

 その透き通った水晶のような瞳には、何も映し出されていない。

 その肌は生気すら失われているのかと錯覚をおこしそうなぐらい、白い。

 落ち葉が舞った。秋の陽光と、秋特有の乾いた、しかし、決して寒さを伴っていない風が、頬を撫でていく。

 少女には失ったものがあまりにも多すぎた。

 結果、彼女は心を、そしてその全ての世界を閉ざしてしまった…

 その様な結果を引き起こしたのは、誰でもない、自分に他ならない。

 人の精神を司る力も、彼女に対しては無力だった。

 彼女が閉ざした扉は、巨大で重く、その上手がかりすらない。

 僕には、どうすることも出来なかった。

 過去を振り返るのは良くないのかも知れない。

 だが、ひきずって進むよりは、全てを背負い込み、抱えて歩いていく方がいくらかましだろう、そう思う。

「瑠璃子さん―――良い、天気だね」

 返事が返ってくることは無い。

「今日みたいな暖かい日は気持ちが良いよね」

 そうだね、長瀬ちゃん

 彼女は何も言っていない。

 ただ、そう言った気がしただけ。

 薄い微笑みを彼女へと向ける。

 祐介は、それに満足したのだろうか、また、空を眺めることを始めた。

 そんな二人を、わずかに離れた場所から見ている少女もいる。

 背中まである赤く、長い髪の毛にはちょっと癖があった。

 瑠璃子とは対照的に、その肉体には生気と躍動感に満ちあふれていた。

 赤い髪の少女はゆっくりと祐介に近づいていく

「祐君、空を眺めているのがそんなに面白いの?」

 言った。どこか、祐介を面白がっているような、そんな表情に口調だった。

「うーん、面白い、と言うわけでもないけどね」

 大空へと向けられていた視線は向きを変え、少女―――新城沙織へと向けられた。

「けれど、感じるんだ。 こんなに天気の良い日に空を眺めていると、全てを愛せそうな、そういう感覚を」

「へぇ、で、その全ての中にはあたしも含まれているの?」

 そんなことは言うまでもないことだった。

 だから、とぼけてみせる。

「さぁ、どうなのだろうね?」

「あ、ずるい」

「ははは」

 祐介は屈託無く笑った。

 沙織はその笑顔が好きだった。

 結局それ以上は何も言わず、そして祐介の隣。瑠璃子とは反対側の隣に座った。





「祐君、瑠璃子さんのこと、まだ愛してる?」

 沙織はベンチに座ると、しばらくは足をぶらぶらさせながら黙っていたが、ふと突然訊いてきた。

「うん」

 祐介は頷く。瑠璃子は微動だにしない。

 彼女の瞳は透明すぎて、その心を伺い知ることなど決して出来はしない。

「瑠璃子さんは、一生、僕が支えていきたい。」

 口調は、淡々としていた。

 逆にその瞳に、決意の光が灯している。

「こんなことで、贖罪―――にならないのだろうけど―――でも―――そうじゃなくて―――僕は本当に瑠璃子さんを…」

 ぼそっとした、かき消えそうなくらい弱々しい呟き。

「重すぎるよ、そんなの」

 彼女は悲しそうに言った。

 確かにそうかもしれない。

「それでも、だよ」

 自分では、出来ないかも知れない。

 でも、出来る出来ないんじゃないんだ。やらなければならないんだ。

 沈痛な面もちのまま、祐介はまた、黙った。

 逆に、沙織はあかるく言う。

「あたしも、手伝ってあげる。 そうしたら祐君の負担も軽くなるよね―――」

 沙織はクスリとおかしそうに祐介を見やる。

 祐介にとって、その言葉は有り難かった。

 しかしこのとき彼は、沙織の言葉の本質を理解していない。

 だが、そんなことは些末なことだ。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 たがいの恭しい態度に、思わず笑いがこみ上げてくる。 青空の下で二人の笑い声が、風に乗り、遙か彼方にとばされていった。





 後に、法律が改正されて、多夫多妻制が導入されたことを、沙織ちゃんから聞かされた。

 あぁ、そうなのか。

 そんなことになったのか。





 介護を続けていきながら、さらに1年が過ぎた。

 彼女の兄も、未だに病院のベッドから起きることもできない。

 そして瑠璃子さん、彼女の方は幾分か“世界”を取り戻し始めていた。

 話しかけるとわずかに反応を示すことがある。

 しかし、それでも自律的な反応を示すことはなかった。

 これからもまだ永い時間が必要とされるだろう。 だが、時間は生きている限りいくらでもある。

 決して急ぐことはない。

「今日は寒いし、もう帰ろうか」

 その言葉が、誰に向けられていたものかは定かではない。

 祐介は瑠璃子さんの車椅子を押しながら歩いていく。

 その隣には、沙織の姿があった。





 瞬く間に、幾度かの花見と、紅葉の季節が過ぎていった。





 とあるホテルのホールに、白いタキシードを着た祐介がいた。

 その前に瑠璃子、左手には沙織がいる。

 彼女たちは、真っ白のウエディングドレスを着ていた。

 祐介と、沙織の腕はしっかりと繋がり、瑠璃子の乗る一台の車椅子は彼らの手によって押されていく。

 その日の、青空が広がる下での結婚式は、彼らが主役である。





 ここはとある病院の一室。

 もう20はとうに過ぎているだろうと思われる男がベッドで眠っていた。

 穏やかな顔で、安らかな寝息を立てている。

 夕日が射し込み。彼の顔を赤く照らしているせいか、そこに病人の顔色の悪さは見えない。

 傍らには、顔に幾筋もの大きな傷跡を持った女性と、眼鏡をかけた、どちらかと言えば童顔の部類であるだろう栗色の髪の女性が、佇んでいた。

 病室の花瓶には、こまめに取り替えられていると思われる花が、飾られている。

 夕暮れ時の病院に、彼女たちの談笑だけが響いていた。

「……いつか……覚め……ましょうよ……そうしたら……しょう……」

 中年の看護婦の耳には、途切れ途切れにそんな会話が聞こえていた。

 だが、そんなことはあっと言う間に忘れる。

 まだ、彼女には仕事が山ほど残っているのだ。

 いつまでも眠り続ける患者と、その見舞客の会話などを憶えるための記憶容量など、どこにも存在していない。

 看護婦は、カルテの整理をするために机へと手を伸ばした―――





 それから、幾数回の春と秋が過ぎた。

 祐介達は、とある郊外の一軒家に、住居を構え、生活を営んでいる。

 そのときには、彼らの家庭に、一男一女が授かっていた。

 長女の方は、今月には4歳を迎えようとしていた。

 祐介はその元気すぎる子供達に対して、随分と母親に似たものだ、そんなことを思いもしていた。

 祐介は、休日をリビングでくつろいでいた。

 陽当たりの良い縁側では、瑠璃子が静かに寝入っていた。

 沙織は、庭で子供達と遊んでいる。

 今日も、何事無く終わるのだろう。





 祐介が、いつの間にか自分が寝入っていたことに気付いたときには、もう西の空が真っ赤に染まっていた。

 まだ、かすかに残る眠気を、振り払い、立ち上がる。

 ふと気付くと、瑠璃子の姿が見えない。

(沙織が、もう家の中に入れちゃったのかな?)

 が、それが間違いであることに気付くのに、数秒もかからなかった。

「長瀬ちゃん、おはよう」

 それは、声、だった。

 月島瑠璃子の声、だった。

 祐介は何も返す言葉が浮かばなかった。

 いや、それ以前に、状況の把握すら出来ていなかった。

「るりこさん!?」

 瑠璃子は、庭に立っていた。

 彼女は真っ赤な夕陽を背景に、髪をかき上げ、神秘的に微笑んだ。

 それは、昔見た光景と全く同じだった。

「戻ってきたよ、わたし」

 祐介は、何も考えられずに、ほとんど本能的に、歩み寄っていく。

 のろのろとした足取りで、なんとか、彼女の元へと辿り着く。

 そしてそこで力つきるように、彼女へと倒れ込んだ。

 瑠璃子はもたれかかってくるその祐介の体を、優しく抱きとめた。

「ごめんね。 長瀬ちゃんがずっとわたしを呼んでいること、知っていたんだよ」

 そっと、囁くような声だった。

「でも、お兄ちゃんは、わたしが必要だったから。 わたししか癒せなかったから」

「瑠璃子さん…」

 祐介の目に涙がにじむ。

「もう、わたしが出来ることは終わったから、長瀬ちゃんのところに帰ってきたよ。 ごめんね、遅くなって」

「何だっていいんだ…瑠璃子さんが…瑠璃子さんがこうして話してくれるなら…」

 涙は、次第に一筋の雫となり、頬を伝い、地面に痕を残した。

 とまらない嗚咽をこらえることもせず、瑠璃子の体を抱きしめた。

「一緒に暮らそう…」

「うん、わたしは長瀬ちゃんの奥さんだもの、当然だよ」

 もう、何も言うべき言葉はない。

 ただ、長い口づけの時間があるだけだった。





 数年経つと、祐介の一家に、さらに子供が増えることとなった。





 病院の一角にあるその病室は、今は使われていない。

 数年前に、寝たきりの患者が退院して以来、そこは倉庫となっていた。

 元々離れで、不便なところにあったので、そのくらいしか使い途がなかったのだ。

 中年の看護婦は、埃まみれのその部屋から洗剤を探すのに躍起になっていた。

 やっと、探し当てた頃には白衣が、ねずみ色になっていた。

 部屋の鍵を閉めるときに、ふと、ここの患者のことを思い出した。

 ある日突然、目覚めたのだった。

 誰もが見放していたはずなのに。

 彼女が見た彼はそのとき涙を流していた。

 涙の雫をこぼれ落としながら言った。

「祐介君と幸せにな」

 その、ただの一言だけ呟き。

 あとは平静を取り戻した。

 一週間後、彼は退院した。

 二人の女性に付き添われて。

 中年の看護婦は、倉庫の鍵を返すためにナースセンターに戻った。

 戻ったその時には、その患者のことなど忘れていた。





 月島先輩が退院したことに関しては、何の驚きもなかった。

 それは予想できたことだったから。

 ただ、そのあとに彼が行方不明になったことは気にかかった。

 しかし、瑠璃子さんが大丈夫だというのだから、別に良いのだろう。





 毎日を、幸せに過ごしている。

 もちろん辛いときや悲しいときもある。

 でも、家族に囲まれると、幸せなことしか感じれなかった。





 最後に、一言だけ言いたいんだ。

 沙織ちゃん。

 瑠璃子さん。

 そして、今まで良くしてくれた皆様。

 ありがとう。





―――(終わり)―――



あとがき
 こんなので、良かったのでしょうか?
 それ以前に、これはたさいシリーズでは無い、と怒られてもしょうがないですね。
 色々と試行錯誤の結果、こうなりました。
 今回は、話が短い割にだいぶ時間かかりました。
 次は、もっと良いモノを投稿させてもらいますね。


 ども!! Hiroです。
 非常に素晴らしいSSを頂き、大感謝です!!
 ご謙遜をなさっていますが、立派な『たさいシリーズ』ですよ〜。
 しかし、『たさいシリーズ』って、こんなにもシリアスな作品になれるんですね(^^;;
 ちょっと、ビックリ(・・・おい!)
 おーちゃん様、本当にありがとうございました!!\(^▽^)/



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