「ねえ、浩之。この場所、なんだか懐かしいわね」
微かに目を細めて綾香が言う。
綾香の視線の先には、最初に俺たちが拳を交し合った場所があった。
ブラブラと当てのない適当な散歩。その末に辿りついたのはあの川原だった。
確かに少し懐かしい様な気もする。まだ、あれからそんなには経っていないのだが。
「浩之。あのさ……」
『空色』
「――で? 俺たちは何故に対峙してますか?」
グローブを着けてやる気満々の綾香。その様子に、俺は小さくため息を吐いた。
「いいじゃない。せっかく此処に来たんだから手合わせしましょ。やっぱ、川原に来たら戦わなきゃ」
「どういう理屈だ、そりゃ。つーか、なんでグローブなんか持ち歩いてんだよ。しかも俺の分まで」
「乙女の嗜みよ」
嫌な嗜みもあったもんだ。
世の乙女様方が当たり前のようにグローブを携帯している様を想像してちょっぴりゲンナリした。
「『乙女の』じゃなくて『綾香限定の』嗜みだろ。このバトルマニアめ」
「凶暴人物みたいに言わないでよ。失礼ね」
どう好意的に解釈しても凶暴人物だろうが。
――と、心の中だけで呟いておく。俺だって命は惜しい。
「それに、浩之だって人のこと言えないんじゃない?」
「何を言うか。俺は平和的日常を望む穏やかな紳士だぞ」
「平和的、ねぇ。その割には自分から厄介事に首を突っ込みまくるわよね」
「昔の人は言いました。それはそれ、これはこれ」
平和的日常を望んでるのは事実なんだよ。ただ、放っておけなくて体が勝手に動いてしまうだけだ。
「ていうか、論点がずれてるっつーの。お前のバトルマニアと俺のお節介を一緒にするな」
「お節介だという自覚はあったのね」
「……うぐぅ」
すいません。自重できない性格でホントすいません。
「ま、それはさておくとして。あんまり突っ込むと浩之がいろいろとダメージ受けそうだし」
そうして頂けると助かります。
「浩之にもバトルマニアの素質はあると思うわよ」
「そうかぁ? 俺は無抵抗主義の紳士……鼻で笑うんじゃねーよ。露骨にため息吐くな」
「だって、浩之があまりにもバカな事を言うものだから。無抵抗主義? だったら、なんでそんなに準備万端なのよ?」
「え?」
綾香に言われて初めて気が付いた。自分の体が程よく温まっていることを。
「あたしと話している間、体を解したり屈伸したり。どう見てもやる気に満ちているじゃない」
「おおうっ」
どうやら無意識でアップをしていた模様。
綾香と対峙すると体と脳が勝手にエクストリームモードに入るらしい。染み付いた習性というものは恐ろしい。
「ね? ほら、やっぱり浩之もバトルマニアの素質十分じゃない」
綾香がイタズラっぽい笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んできた。
「なんてこった。俺もいつの間にか凶暴でバイオレンスな綾香菌に侵されていたのか。……って、いてーよ! 腕を抓るな」
「失礼なこと言うからでしょ!」
「わかったわかった。悪かったよ。それより、やるんなら早く始めようぜ。せっかく温めた体が冷めちまう」
「……まったくもう」
不満げに綾香が軽く口を尖らせる。だが、提案自体には異存が無いらしく、ブツブツ文句を零しつつも俺から離れた。
数歩の距離を開けて向き合う俺と綾香。
「覚悟しなさい。凶暴人物の本気を見せてあげるんだから」
「……お手柔らかに」
パンッと拳を撃ち綾香が気合を入れる。
いかん。どうやら闘争本能という炎に余計な油を注いでしまった模様。ちょっと命的にピンチかも。逃げていいですか?
けど、綾香から伝わってくる闘志が妙に心地好く感じられるのも事実だった。
綾香が指摘したとおり、俺にもバトルマニアの素養があるのかもしれない。オラ、なんだかワクワクしてきたぞ。
「じゃあ、行くわよ」
「ああ」
俺と綾香は同時に構え……そしてそのまま静止した。
綾香の実力は嫌というほどよく知っている。少しでも隙を見せれば一気に勝負を決められてしまう。故に動けない。
綾香も俺の力量を理解している。まだまだ差は有れど、決して油断は出来ないことを分かっていた。だから動かない。
全神経を集中させて隙を伺いあう俺たち。
ピリピリとした緊張感。張り詰めた弓の如し。なにかきっかけがあれば一直線に矢は放たれる。
――その時。
俺と綾香の間を一陣の風が吹きぬけた。
強風に舞い上がる木の葉。かき上げられる髪。そして……スカート。
ああ、そういえば今日の綾香はミニスカートだったなぁ。そんなことを今更ながらに再認識。
「ブルーか。うむ、絶景だな」
「っ!?」
ボソッと放たれた俺の一言。それに綾香が即座に反応した。
「こ、この……ばかあああああぁぁぁぁぁっ!」
「ひでぶっ!?」
次の瞬間、俺の意識が刈り取られていたのは言うまでもない。
○ ○ ○
「実に良いアッパーだったわ。さっきの一撃は芸術品ね」
「浸ってんじゃねーよ。いくらなんでもアゴはないだろ、アゴは。マジで砕けるかと思ったぞ」
「大丈夫大丈夫、その辺はちゃんと計算して撃ったから」
「ホントかよ」
ジトーッとした目を向ける俺。それに対し、綾香は猫口スマイル。
おまえなぁ、可愛らしく猫口すりゃ何でも許されると思うなよ。
「ったく、しょうがねーなぁ」
許すけど。
「まあ、あたしも悪かったと思ってるわよ。だから、こうして膝枕してあげてるんじゃない」
綾香のアッパーで気を失った俺。
次に目覚めたとき、俺の頭は綾香の膝の上にあった。腿の柔らかい感触がたまらなく気持ちいい。
「おまえなぁ、膝枕すりゃ何でも許されると思うなよ。許すけど」
「ふふっ。ありがと。お許しいただけて嬉しいわ」
俺の髪を梳きながら綾香が優しく微笑む。
「うむうむ、寛大な俺に感謝するように。存分に崇めるとよいぞ」
「調子に乗らないの。あたしの下着に気を取られて油断した浩之にだって非があるんだからね」
綾香が俺の額を軽くペチッと叩いた。
「仕方ないだろ。あんな状況でパンツを見せられたら誰だって目が行くって」
「それは……そうかもしれないけど」
「つーかさ、おまえも今更パンツを見られたくらいであんなに動揺するなよ。あれくらい平然と流せって」
「無茶言わないでよ。何度見られたって恥ずかしいものは恥ずかしいもの」
言葉どおりに、綾香が恥ずかしそうに頬を薄っすらと染める。
「難儀だな」
「乙女心は複雑で繊細なのよ」
「そっか。――ま、綾香のそういうところも可愛くていいとは思うぞ」
「え? そ、そう? 可愛い? 本当に?」
一瞬呆気に取られたものの、すぐに嬉しそうに微笑む綾香。向けられてくるストレートな眼差しがなんだかこそばゆくて、俺は照れくささを誤魔化すように目を閉じた。
「ああ。もっとも、あくまでも『俺にとっては可愛い』だけどな。他の奴にとってどうかは知らん」
「……浩之」
「ん? なんだ、俺の名セリフに感動でもしたか?」
放たれる軽口。我ながらバレバレな照れ隠しだった。
綾香が穏やかな笑みを浮かべて俺を見つめているのが分かる。見なくてもそういう気配がビンビンと伝わってきた。
妙に気恥ずかしい。
「浩之」
「だから、なんだって……」
言葉が遮られた。
柔らかな感触。
――そういえば、前にもこんなことがあったなぁ。
頭の片隅でそんなことを思う。
ただ、あの時と違うのは行為の長さ。
俺たちは暫し無言の時間を過ごした。
「ねえ、浩之」
「ん?」
「好きよ」
「知ってる。――なあ、綾香」
「なに?」
「好きだぜ」
「ん、知ってる」
思い出の場所に、また一つ思い出を刻む。
大事な人と一緒にこういう積み重ねが出来ること。それが幸せというものなのかもしれない。
まだ微かに痛むアゴを摩りながら、そんなことを思う俺だった。
余談だが……。
膝枕をされているということは、当然視線は空の方を向いているわけで。
俺の目に映る空に対し『ちょっと綾香のパンツの色に似てるなぁ』などという感想を抱いていたのはここだけの秘密。