『虎の尾』
「あの……浩之さん、少しいいですか?」
夕食後の自由時間。浩之がベッドに横たわってマンガを読んでいると、控えめなノックと共にマルチがそう声を掛けてきた。
「おう、いいぞ。入ってこいよ」
マルチを呼び込みながら、浩之は「よっこらせ」と身を起こした。
「は、はい。失礼します」
カチャッとドアを開け、マルチが静々と入室してくる。
「どした? 何か用か?」
どことなく余所余所しいマルチの態度に怪訝な物を感じつつも、浩之は笑顔で迎え入れた。
「あ、あのですね……そ、その……浩之さんに少々お尋ねしたい事がありまして……」
「尋ねたい事?」
鸚鵡返しに浩之が問うと、マルチは些か頬を染めてコクンと頷いた。
「わたし、今日の夕方、浩之さんのお部屋をお掃除したんですけど……」
「ああ、やっぱりマルチが掃除してくれたのか。部屋が綺麗に片付いてたから、そうじゃないかとは思ってたんだ。ありがとな」
「い、いえ、とんでもないです。――で、ですね。えっと……お掃除をしてたらですね……こ、こういう物を……見つけてしまいまして」
そう言って、マルチは背中側に隠し持っていた物を浩之へと差し出す。
それは一冊の雑誌だった。
カラーページの多い雑誌だった。
女性の写真が異様に多く掲載されている雑誌だった。
不思議な事に、どういうわけか、その女性の大半が衣類を身につけていなかった。
早い話が、『そういう』雑誌であった。
浩之の背に冷たい汗が流れる。
「こ、これは、その、若気の至りと言いますか男の悲しい性と言いますか……コンビニに飲み物を買い物に行った時、思わず勢いで購入してしまいまして」
しどろもどろになりながら浩之が必死に釈明する。
「……浩之さんって、ひょっとして……こういう……」
「ち、違うぞ。俺は別にこの手の本を購読してたり愛読してたりなんかしないからな。今回はホントにたまたま。魔が刺したんだよ。この本にしたって、買ったはいいけど、結局殆ど読まなかったしさ。なんか途中で気持ちが萎えちゃって。グラビアを眺めてても全く面白くないし、『やっぱ、あいつらの方が比べ物にならない程に良いな』って感想しか抱けなかったし。その所為でマジで一回も使ってないし」
「使う?」
不思議そうな顔をして、マルチがちょこんと小首を傾げた。
「い、いや、分からないのならいい」
誤魔化すように、コホンと咳払いを一つ。
「とにかくだ。その本を買ったのは、買ってしまったのはほんの出来心なんだよ。なので、間違っても『こんな本に手を出すだなんて、もしかしてわたしたちに飽きたのでは?』なんていう、見当外れのいらぬ危惧は抱かないように。そういう気持ちはこれっぽっちも、全く、微塵も無いから。なっ?」
マルチの肩に手を置いて、浩之は至極真面目な表情で説く。
「は、はい。分かりました。――というか……あ、あの……わたし、別にそんな事は心配してないですよ。浩之さんの事、信じてますし」
浩之の勢いに若干気圧されつつも、マルチはキッパリと言い切った。
「そ、そっか? だったらいいんだけど」
胸に手を添え、ホッと安堵の息を吐く。
「なら、俺に尋ねたい事ってなんなんだ? 俺はてっきり、『いつもこういうのを買ってるのか?』とか『他の女に興味があるのか?』とか、そういう糾弾を受けるのかとばかり」
「違いますよ。わたしがお尋ねしたいのは……そういうことじゃなくて、ですね……」
「そういうことじゃなくて?」
「え、えっとですね……その本なんですけど……ちょっとだけ中を見ちゃったんですけど……な、なんと言いますか……掲載されてるのって、む、む、胸が大きくてスタイルの良い人ばっかりじゃないですか。だ、だから、その、浩之さんも、やっぱり、大きい胸の方が好きなのかなぁって思いまして……」
頬を染め、人差し指をツンツンと突付き合わせて、モジモジしながらマルチが言葉を紡ぐ。
その様を見て、浩之は微笑ましさの入り混じった苦笑を浮かべた。
――ったく、しょーがねーなぁ。
心の中でそう思いながら。
男性である浩之には、胸に関するコンプレックスを完全には理解する事は出来ない。故に、そんな浩之に出来るのはただ一つ。言葉で、態度で、安心させてあげることだけ。
「そりゃまあ、俺は大きな胸は嫌いじゃないぞ。どちらかと言えば好きな方かな。寧ろ大好物と言っても過言じゃない。巨乳だけでドンブリ飯三杯は軽いしな。触っていて楽しいし、感触が気持ちいいし、あまつさえ挟めたり包めたりするし」
何を、とは敢えて訊くまい。
「でもな、決して大きな胸だけが好きなんじゃないぞ」
そう言うと、浩之はマルチの頭にポンと手を置いた。
「マルチくらいの胸だって同じくらい大好きだしな」
「ホントですか?」
「ホントだって。確かにマルチの胸は決して大きくない。というか、ぶっちゃけ小さい。ペタンコだ」
「はうっ!」
自分の胸元に剣がグサッと突き刺さったのがマルチにはハッキリと見えた。
「つるつるだし」
「うぐっ!」
「平坦だし起伏は皆無だし」
「ひうっ!」
「膨らみは微かで僅かで細やかで」
「あうっあうっあうっ!」
四方八方から飛び刺さってくる刃。
『黒髭危機一髪』
マルチの脳裏に浮かんだのはその一語だった。
「乏しくて貧しくて、ちんまりとしていて」
「ううっ、う、うううううっ」
「けれど、俺はそんなマルチのちーーーっちゃい胸も大好……」
「う、う、うわあああぁぁぁん! 浩之さん、いじわるですぅぅぅ!」
「――って、えっ!? ま、マルチ!?」
目に大粒の涙を溜めて、言葉の剣に耐えられなくなったマルチが浩之の部屋から走り出ていく。あたかも宙に飛び舞う黒髭の如くの勢いで。
その――浩之から見たら――唐突な行為に対処できず、浩之はポカンとした顔になる。
が、すぐに我に返ると浩之はマルチへと叫んだ。
「お、おい、マルチ! どうしたんだよ!? っていうか、本は置いていって下さい、本は!」
マルチは『浩之がその手の本を持っていた』という事に関してさして気にしていなかったが、だからといって他の者もそうだとは限らない。火種となりそうな物はなるべく流出させない方が望ましい。従って、誰かに見られる前に回収するべき。
そう思い、浩之はマルチを追いかけるべく急いで腰を挙げたが、
「あっ、皆さん。聞いてください、浩之さんってばいじめっ子なんですよぉ。――え? この雑誌ですか? これはですね、浩之さんが……」
時すでに遅し。完璧に。
思わずガックリと跪いてしまう。
「え? お説教ですか? お仕置き? ――はわっ!? 葵さん、理緒さん、なんだか目が怖いですぅ」
彼方から届いてくる不穏なセリフ。
それを耳にして、これから己に降り掛かってくるであろう制裁の数々を嫌でも連想させられてしまい、堪らず胸の中で十字を切ってしまう浩之だった。
フォローするつもりが思いっきり虎の尾を踏みつけてしまった男の運命や如何に。