いつの頃からだろう、彼が気になるようになったのは。
 いつの頃からだろう、彼を目で追うようになったのは。
 今となっては、もう、わからない。
 しかし、それは些細なこと。
 彼がいて、そのそばに自分だけがいる。
 その現実が、あるから。
 その現実が、彼女を安心させてくれたから。

 彼女は信じていた。
 いつまでも、自分だけが彼のそばにいることができると。
 いつまでも、自分だけが彼を見つめていることができると。
 そう、信じていた。
 そんなものは、ただのまやかしなのに。

 春。
 同人誌との出会い。
 それは、ほんの些細なことのはずだった。
 悪友のいつもの気まぐれのはずだった。
 だが、全てが変わり始めてしまった。

 同人誌。
 彼だけが、入った世界。
 彼女には、理解できない世界。

 気づいたときには、彼女のそばに彼はいなかった。
 気づいたときには、二人の間には溝があった。
 彼女は必死でその溝を埋めようとした。
 彼のそばにいたかったから。
 だがそのとき、彼女は気づいてしまった。
 いつの間にか、彼の周りに大勢の女性がいたことを。
 そして彼女たちが、彼を見つめていたことを。

 絵が好きな彼。
 お節介だが優しい彼。
 彼女が大好きな、彼。

 誰にも渡したくない。
 自分だけのものにしたい。

 それは純粋すぎる想い。
 純粋すぎ、そして人を狂わせる想い。

 いつの間にか、彼女は、高瀬瑞希は、その想いにとらわれてしまっていた。
 愛という、純粋な想いに――。





こみパ二次小説

かっちゃん、みっちゃん、よよいのよい!!





「瑞希、いいかげんに原稿返せ!」
「いや! あんたが即売会に行かないって言うまで返さない! もし、それでも行
くって言うんなら……こんな原稿、破いてやる!!」
「ちょ、ちょっと待て。おまえ、それ本気で言ってるのか?」
「本気よ! 絶対、絶対本気なんだから!!」
「くっ……」
 和樹は悔しそうに瑞希をにらみつけた。
 一方瑞希の方も、思い詰めた顔で彼をにらんでいた。

 このにらみ合いは、十分ほど前、突然和樹の前に瑞希が現れたことから始まった。

 その日、千堂和樹は数日後に控えた即売会用の原稿を印刷してもらうため、いつ
ものようになじみの印刷所、「塚本印刷」へとやってきていた。
 だが印刷所の前へとやってきた和樹の前に、突然彼の友人である高瀬瑞希が現れ
た。
 いきなり目の前に現れた瑞希に和樹が声をかけようとしたとき、彼女は大声を出
した。
「即売会に行かないで!」
 と。
 もちろんそんな申し出を受け入れることなどできない和樹は、瑞希の頼みを断っ
た。
 すると瑞希は小さく唇をかむと、ぱっと和樹の手から原稿の入った紙袋をもぎ取
り、
「即売会に行かないって約束してくれなきゃ、これは返さないんだから!」
 と、さらに大声を出し始めた。
 そうして二人は周りの視線も気にせず印刷所の前でにらみ合いを始めたのだった。

 しばらくにらみ合いを続けたあと、和樹はふぅっと息を吐くとゆっくりと口を開
いた。
「なあ、瑞希。冗談はそれぐらいにして、いいかげん原稿返してくれ」
「冗談でこんなことするわけないでしょ! あたしは本気なの。あんたが即売会に
行かないって言うまで絶対返さないんだから!」
「冗談じゃないって……。これが冗談じゃないって言うんなら、ますますわけがわ
からないぜ。瑞希、おまえいったいどうしたんだよ。最近、ほんとおかしいぞ」
「あたしのどこがおかしいって言うのよ! 全然普通じゃない!」
「普通だって言うんなら、なんで俺の邪魔するんだ!」
「え……」
「最近のおまえが普通なんだったら、俺の邪魔をするおまえが普通だってことか?
なあ、どうなんだ瑞希?」
「そ、それは――」
 瑞希は何かを言いかけたが、思い直したように口をつぐんでしまった。
 その様子を見て和樹は寂しそうな笑みを浮かべた。
「瑞希、おまえ、俺がマンガ描き始めたとき、反対してたよな。『おたくみたい
だ』って」
「…………」
 瑞希は何も言わなかった。
「でも、そのうち俺のマンガ、読んでくれるようになったじゃないか。おもしろいっ
て、言ってくれたじゃないか。即売会の売り子したり、色々手伝ってくれたりもし
たじゃないか。俺、うれしかったんだ。俺が本気でマンガを描いてるんだって瑞希
にわかってもらえて、本当にうれしかったんだ」
 和樹はそこまで言うと、少し顔を曇らせた。
「でもおまえ、急に手伝ってくれなくなったよな」
「そ、それは、だから、あん、たの、そ、ばに……」
「おまえにはおまえの考えがある、俺がとやかく言うことじゃない。だから、それ
はもういいんだ。確かに少し悲しかったけどさ。でも……」
 和樹はここで一呼吸おいた。
「邪魔までする必要、あるのか? これがおまえの、普通なのか? おまえが俺の
マンガを嫌いになったのならそれでもいい。でも、俺の邪魔まで――」
「違う! 嫌いになんてなってない! あたし、和樹のマンガも絵も好きよ。今ま
でだって、それにこれからだって、きっと」
「じゃあどうして! 俺のマンガ好きなんだったら、どうして俺が即売会に行くの
邪魔するんだ! おかしいじゃないか!」
 自分をきっと見つめて怒鳴る瑞希に、思わず和樹は怒鳴り返してしまった。
 瑞希は自分に怒鳴る和樹からすっと目を逸らすとそのまま黙ってしまった。
 しばらくそんな瑞希をじっと見つめていた和樹だったが、やがて納得したかのよ
うに口を開いた。
「わかった――」
「破けばいい」
「…………!」
 和樹ははっと息を呑んで瑞希を見た。
「破けばいいって、言おうとしたでしょ、今」
 瑞希は哀しさと悔しさが混じり合ったような表情をしていた。
「和樹の考えそうなことぐらい、わかるよ。あたしに頭を下げて自分の考えを曲げ
るぐらいなら、原稿を破られても構わない。あんたなら、きっとそう言うもの」
「…………」
 図星をつかれた和樹には、瑞希に言い返す言葉は何も見つけられなかった。
「違う?」
「それは……」
「わけ」
「え?」
「わけ、話して。どうして、そんなに即売会に行きたいのか、教えて」
「わけって言っても……」
「あるんでしょ? ちゃんとした理由が。今の和樹にとって、マンガを描くことは
とても大切なこと。即売会はそのマンガを発表する所だから行きたいっていうのは
わかるわ。でも、それだけじゃないんでしょ、和樹が即売会にそこまでこだわる理
由って。だって、マンガを描くだけだったら、雑誌に応募したりいろんなことがで
きるはずだもの。なのに、和樹は即売会にこだわる。ねぇ、即売会じゃなきゃいけ
ない理由があるんでしょう? それを、教えてほしいの」
 和樹はこくりとうなずくと口を開いた。
「即売会ってのはさ、俺にとって大切な場所なんだ」
「大切な、場所」
 和樹は再びうなずいた。
「今俺が曲がりなりにも同人マンガ家の端くれとしてやっていられるのも、即売会
があったからだ。一生懸命描いたマンガを読んでもらって、直接感想をもらう。励
まされたり、けなされたり、そんな即売会って場所があったからこそ、今の俺があ
ると思うんだ。俺のマンガを楽しんでくれる、俺のマンガを読んでくれる。そんな、
俺を待ってくれている人に会いたいから、俺は即売会に行くん――」
 バサッ。
 そのとき、和樹の顔に紙袋がぶつけられた。
「やっぱり、そうなんじゃない」
 瑞希は下を向いたまま、ゆっくりと口を開いた。
「瑞希?」
 和樹が瑞希に声をかけようとしたとき、瑞希は顔を上げ、きっと和樹をにらんだ。
 その瞳には、涙が今にもあふれんばかりに溜まっていた。
「やっぱりそうだったんじゃない。もっともらしい理屈並べて、格好いいこと言っ
て、結局それが本音なんじゃない! 和樹のバカ! あんたなんか、あんた、なん
か……もう、知らない!!」
 そう言い放つと、瑞希はどこへともなく走り去ってしまった。
「…………」
 和樹は紙袋を拾って土を払うと、重い足取りで印刷所へと入っていった。



 そして数日が過ぎ、即売会当日の朝になった。

 八時。
 和樹はベッドからゆっくりと起きあがると、ふらふらとした足取りで洗面所へ向
かった。
 洗面所に入った和樹は蛇口をひねり、勢いよく水を流し始めた。
「瑞希……」
 和樹は流れる水を、ただじっと見つめていた。
「瑞希……」
 もう一度瑞希の名をつぶやくと、和樹は勢いよく顔を洗い始めた。
 何度か顔を濡らした和樹はすっと顔を上げ目の前の鏡を見つめた。
 そこには目の下にくまを作り、頬をやややつれさせたあまり生気のない自分の顔
が映っていた。
「酷い顔だ」
 和樹は自嘲的な笑みを浮かべると、洗面所をあとにした。

「瑞希、起きてるかな……」
 和樹は電話の前に立つと受話器を手に取り、瑞希の電話番号をダイヤルした。
 プルルルル、プルルルル、プルルルル……ガチャ。
『はい、高瀬です――』
「あ、瑞希か? あの、俺、和樹だけど――」
『――ただいま、留守にしております。発信音のあとで、お名前と――』
 ピッ。
「またか」
 和樹は大きくため息をつくと、受話器を下ろした。

 印刷所での騒動のあと、和樹は一度も瑞希に会っていなかった。

 騒動のあったあの日、和樹は印刷所から帰るとその足で、瑞希のマンションへ向
かった。
 しかしそのときまだ瑞希は部屋に戻っておらず、和樹は彼女と会うことはできな
かった。
 そのあとも和樹は何度も瑞希と連絡を取ろうと試みた。
 何度も彼女の家に足を運び、電話をかけたりした。
 しかし、その行動は全て徒労に終わっていた。
 電話は必ず留守電になっていたし、部屋を訪ねても瑞希が現れることはなかった。
 今日までの数日、瑞希と和樹が会うことは決してなかった。
 最初はさほど気にしていなかった和樹だが、全く瑞希と会うことも話すこともで
きない状況が続くと、彼の心には徐々に不安が広がり始めていった。
 また、それと同時に彼は自分の行動への疑問も感じ始めていた。
 なぜそこまで瑞希にこだわるのか、なぜ彼女と話ができないのがそんなに辛いの
か、と。
 考えれば考えるほど疑問は大きくなり、やがて和樹の心は、その疑問と不安から
千々に乱れ始めていった。
 その乱れた心はさらなる不安を産み出し、ついに和樹は食事や睡眠すらも満足に
とれなくなっていった。
 そして寝不足のままかけた頼みの電話も今不通に終わり、和樹はがっくりと肩を
落とすのだった。

「俺は、そんなに瑞希を怒らせたのか」
 和樹はぺたんと床に座り込むと、天井を見上げた。
 だが思い直したように軽く頭を振ると、和樹はようやく出かける準備を始めた。
「悩んでても、仕方ないよな。大丈夫、だよな。うん、瑞希だって、そのうち機嫌、
直してくれるさ」

 十分後、服を着替え、この数日で減らした体力を少しでも取り戻すため食べたく
もないパンを無理矢理飲み込んだ和樹は、あわてて玄関の扉を開いた。
「やべやべ、遅刻だ遅刻! あ、瑞希……」
 外へ出た和樹ははっと顔を強張らせた。
 扉のそばに、思い詰めたような顔をした瑞希が立っていたためだ。
「やっぱり、行くんだね、即売会」
 瑞希は寂しそうな笑みを浮かべた。

 二人が数日ぶりに顔を合わせてから数分後。
「あ、あの、そのさ、瑞希……」
 その数分間の沈黙に耐えきれなくなった和樹が口を開いた。
「その、あの、ご、ごめん。俺、やっぱり、即売会に、行きたいんだ」
「そう……」
 瑞希はほとんど表情を変えなかった。
「ほ、ほんと、ごめん。瑞希がすごく嫌がってるのに、行くなんて言って。で、で
もさ、ほら、やっぱり行かなきゃまずいだろ? 本は印刷したんだから、作者の俺
がいないとさ。やっぱり、ほら直接本の感想とかも聞きたいし。それに、『今度の
即売会も楽しみにしてます』なんて言ってくれるファンがさ、その、俺にもちょっ
とぐらいはいるし。やっぱりその人たちにも会わないと――」
「そう……」
 瑞希はすっと両腕を広げて廊下を塞いだ。
「そんなに即売会に行きたいんだったら、あたしを殴り倒してから行って」
「な……!」
「即売会、行きたいんでしょう? だったら、あたしを殴り倒してから行って」
「ば……バカやろう! おまえを殴るなんて、そんなことできるわけないだろう!」
「そう、優しいね、和樹。でも、あたしを殴らないと即売会には行けないわよ。そ
れでもいいの?」
 やはり無表情のまま瑞希は言った。
「くっ……」
 和樹は悔しそうに自分の右手を見た。

「…………」
 長い沈黙が流れた。
 やがて和樹は思い詰めたように目を閉じると、ぎゅっと右手を握った。
「やっと、やる気になったの」
 瑞希は表情を全く変えずにそんな和樹を見つめていた。
「…………」
 歯をギリッとかむと、和樹は右手を大きく振りかぶった。
「…………!」
 瑞希はきゅっと目を閉じた。
 そして、
 ドガッ
 と、鈍い音がした。
「…………?」
 だがいっこうに痛みを感じなかった瑞希は、ゆっくりと目を開いた。
 そのとき瑞希の目に映ったのは、壁を殴りつけていた和樹だった。
「か、和樹……」
 和樹は目を閉じて荒い呼吸をついていた。
「どうして――、そんな――ことを――」
 瑞希は絞り出すように声を出した。
 和樹は肩で息をしながら、ぽつりと言った。
「即売会には行きたい。けど、やっぱり、瑞希を殴るなんて、俺にはできない」
「ば、バカ。どうして、殴らないのよ――。どうして、自分の、手を――」
「こうすれば、瑞希を殴らなくて済む。瑞希を殴るぐらいなら、俺は、自分の手を
傷つける」
 そう言って和樹は右手を下ろした。
 その拳には血がにじんでいた。
「……そんなに、即売会に行きたいの」
 瑞希は顔を伏せると、すっと両手を下ろした。
「い、行ってもいいのか?」
「…………」
 だが瑞希は何も答えなかった。
「……ご、ごめん、瑞希。俺、行くから」
 和樹は瑞希の態度に罪悪感を感じながらも、彼女の横を通ろうとした。
「ん?」
 そのとき、和樹は自分の服が引っ張られるのを感じて立ち止まった。
 和樹は反射的に横に立っている瑞希を見た。
 和樹の服の袖をしっかりと握っていた瑞希は、うつむいたまま肩を震わせていた。
 その様子に和樹は辛そうな表情を浮かべた。
「やっぱり、許してくれないのか?」
「どうして――」
「?」
「どうして――、あたしじゃ、だめだったの――?」
「な、何が?」
「和樹のそばに――いるの、どうして、あたしじゃだめ――だったの?」
「そばにって、おまえいったい何言ってるんだ?」
「美人じゃ、ないから? マンガが、好きじゃないから? いっつも口うるさいか
ら? わがままだから? ねぇ、どうしてなの?」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
「いや、待ちたくない! 今すぐ答えて!」
「だから答えるって何をだ! そばにいるってどういうことだよ! おまえが美人
じゃないとか口うるさいとか、いったいなんの話だ!」
「またそうやってごまかす! いいかげんに、本当のこと言ってよ!」
「またってなんだ! 俺がいつうそをついた! 本当のことを黙っていた! 俺が
黙っている本当のことってなんだ!」
「和樹が即売会に行く理由よ!」
「この間も言っただろ! 俺のマンガを待ってくれてる――」
「それがうそじゃない!」
「何がだよ!」
「和樹が会いたいのは、和樹のマンガじゃなくて、和樹を待ってる女の人でしょ!!」
「…………!」
 瑞希がそう言い放った瞬間、和樹はかっと目を見開いて言葉を詰まらせた。
 和樹はごくりとつばを飲み込むと、じっと目の前の瑞希を見た。
 いつの間にか顔を上げていた瑞希は、強い意志のこもった瞳で和樹を見つめてい
た。
「…………」
 和樹は何も言えなかった。
 いや、正確には何も言えなかったと言った方が正しかった。
 瑞希の言った言葉の意味と、自分のこの数日間の感情とが頭の中で複雑に混ざり
合い、わけがわからなくなり始めていたのだ。
 和樹が何も言わないのを肯定ととった瑞希はすっと目を伏せると、ぽつりぽつり
と話し始めた。
「昔は――あたしだけ、だった。和樹のそばにいる――のも、和樹を見ているのも、
あたしだけだった。和樹を、名前で呼ぶ――女の子は、あたし――だけだった!」
 そう叫んで和樹をきっと見つめた瑞希は、再び話し始めた。
「なのに――和樹が同人を始めた――とたん、和樹のそばに、女の子が――いっぱ
い――いるようになった。みんな、マンガのこと――知ってた。みんな、和樹を名
前――で、呼んでた。みんな――和樹のこと、見てた。みんな、あたし――よりも、
和樹のそばにいた。あたしの方が――ずっと前から、和樹を――見てたのに。あた
しの方が、ずっと前から、和樹のそばにいたのに! あたしの方が、あたしの、方
が――」
 そこまで言うと、瑞希は声を詰まらせ嗚咽をもらし始めた。
 そのきれいな瞳からは止めどもなく涙が流れ続けていた。
「瑞希……」
 和樹はゆっくりと瑞希の方へ手を伸ばした。
 だが和樹の手が肩に触れた瞬間、瑞希は体をびくっと震わせた。
 驚いた和樹が手を引っ込めたとき、瑞希はゆっくりと顔を上げた。
「ねぇ、和樹。即売会で会いたい人って、ううん、和樹が好きな人って、誰なの?」
「…………!」
 和樹は表情を強張らせた。
「ねぇ、誰なの? 答えてよ!」
 瑞希は和樹の服をぎゅっとつかんだ。
「南さんなの?」 
 どん。
「それとも由宇ちゃんなの? ねえ!」
 どん。
「詠美ちゃんなの? それとも彩ちゃん?」
 どん、どん。
 自分の知っている女性の名前を挙げながら、瑞希は和樹の胸を力なく叩き始めた。
「玲子ちゃん? すばるちゃん? 千紗ちゃん? モモちゃん? それとも他の誰
かなの? ねえ! 誰なの? 答えてよ和樹!」
 どん、どん、どん。
 やがて、和樹の胸を叩く力は少しずつ弱くなっていった。
「答えて、答えて、答えて、答えて、答えてよ、和樹。ねぇ、答えてよぉ……」
  それ以上は声にならなかった。
 和樹の胸に顔を埋めた瑞希は、ただひたすら、涙を流し続けていた。
「…………」
 和樹は何も言わず、自分の胸で泣く瑞希を、虚ろな目でぼうっと見つめていた。

 重苦しい雰囲気があたりを支配し続け、和樹にとっても瑞希にとっても永遠と思
えるほど長い時間が経過した。
 その間、和樹は何もしなかった。
 瑞希の肩を抱きしめることも、彼女に語りかけることもしなかった。
 瑞希が想いを吐露する間も、やり場のない怒りを和樹にぶつけている間も、和樹
は少し開けた口をやや震わせながら、呆然と瑞希を見つめるだけだった。
 二人の間の重苦しい空間には瑞希のもらす嗚咽だけが存在していた。

 やがて瑞希はゆっくりと和樹の胸から顔を上げ、じっと彼を見つめた。
 すでに涙は流れていなかったが、その瞳には言いようのない哀しみが浮かんでい
た。
「どうして、何も言ってくれないの――」
 小さな声だった。
「はっきり言ってくれなきゃ、あたし――」
 再び、瑞希の瞳から涙が流れ始めた
 その涙にはっとした和樹が口を開こうとした瞬間、
「和樹のこと、あきらめきれないじゃない――」
 瑞希の消え入るような声が、彼の動きを止めた。
「和樹の、バカ――」
 瑞希は和樹の前から走り去っていった。

「あ、ああ……」
 和樹は瑞希を止めようと、必死で手を伸ばそうとした。
 だが、何もできなかった。
 突然全身が金縛りにあったように動けなくなってしまったのだ。
 いくら体に力を入れようとしても無駄だった。
 結局和樹には走り去っていく瑞希を見つめることしかできなかった。
「うあ、う……」
 瑞希の姿が見えなくなったとたん、和樹はぺたりと廊下に座り込んだ。
「み、ずき――」
 和樹は今まで瑞希が立っていた場所に何かがあるのに気づいた。
 なんとはなしにそれを拾い、それがバンドエイドだと認識できても、和樹の表情
に変化はなかった。
 だがバンドエイドとそこについていた一粒の涙の跡を見つめるうち、徐々に和樹
の視界がぼやけてきた。
「う、うう……うううう……」
 和樹はバンドエイドをぎゅっと握ると、顔に押しあて肩を震わせた。
「俺は――、バカだ――」
 その日、和樹が家を離れることはなかった。



 翌日の朝、瑞希はいつもより二時間早く家を出た。
 いつもの時間に家を出ると、大学への通学途中で和樹に会う可能性があったから
だ。
 マンションの玄関を出た瑞希は、マンションのそばの電柱に人影があるのに気づ
いた。
「…………」
 だが、瑞希はあえてその人影に気づかない振りをして歩き出した。
「瑞希」
 人影が声を出した瞬間、瑞希はぴたりと立ち止まった。
「お、おはよう、瑞希」
 そう言いながら、人影はゆっくりと瑞希に近づいていった。
 瑞希は人影の方を振り向かずに答えた。
「和樹、なんの用?」
 全く感情のこもらない声だった。
 その声に言いようのない恐怖を感じながら、和樹は話し始めた。
「あ、あの、さあ、えっと、そ、その……と、とりあえず、こ、こっち、向いて、
くれないか?」
「……何?」
 振り向いた瑞希の顔を見た瞬間、和樹ははっと息を呑んだ。
 瑞希が普段とは違い、非常に濃い化粧をしていたからだ。
 そのやつれた頬や目の下にあるくまは濃いめのファンデーションで隠され、充血
した目の周りには、くっきりとしたアイシャドーが塗られていた。
 どう考えても、昨日泣きはらした顔を隠すための化粧だということは明白だった。
 和樹は胸が締め付けられるようだった。
 だが和樹は必死で言葉を選んで瑞希に話しかけた。
「み、瑞希、け、化粧」
「化粧?」
「そ、その、いつもと、違うな、その、化粧」
「関係、ないでしょ」
「関係なくなんて!」
「何?」
「関係なくなんてないだろう? 瑞希は、だって俺のせいで……」
「……昨日のこと、気にしてるの。あたしが和樹の、友達、だから? いいわよ、
別に。気にしないで」
「でも」
「いいから。だから、お願いだから、これ以上、あたしに優しくしないで。もう、
辛いのは、いやだから」
「…………」
「用事って、それだけ? 終わったんなら、あたし、もう行くから」
 そう言って瑞希はくるりと後ろを振り向くと、再び歩き出した。
「あ、ああ、あ……」
 和樹は瑞希に向かって手を伸ばそうとした。
 だが昨日と同じように再び全身が金縛りにあってしまい、全く動けなくなってし
まった。
「い、行く――な、行くな――」
 それでも和樹は必死で口を動かした。
  目の前からいなくなろうとしている瑞希を止めようと、必死で口を動かした。
 だがどれだけ頑張ろうと和樹の口から出る声はあまりにも小さく、瑞希に聞こえ
ることはなかった。
 そして瑞希の姿はどんどん小さくなっていった。
 しかしそんな瑞希の姿を見ながらも、やはり和樹には口を動かすことしかできな
かった。
「行くな、行くな、行くな」
 いつの間にか和樹の目には涙が浮かんでいた。
 それは自分のふがいなさへの怒りと、どうしようもない哀しみが生んだ涙だった。
「行くな、行くな、行くな、行くな行くな行くな行くな」
 小さかった和樹の声はやがてはっきりとしたものになっていき、それと同時に彼
の左拳はぎゅっと握りしめられていった。
 そして、
「行くな――!!」
 バキッ。
 和樹の想いが叫びとなった瞬間、和樹の左手は、彼の顔を殴りつけていた。
 その時、彼の全身の金縛りは解けた。
「行くな、行かないでくれ瑞希!」
 全身の自由を取り戻した和樹は瑞希のそばへ走っていき、彼女の腕をがしっとつ
かんだ。
「いや!」
 いきなり腕をつかまれた瑞希はおびえたように和樹の顔を見た。
 和樹は荒い呼吸をつきながら、真剣な目で瑞希を見つめた。
「行くな、行かないでくれ瑞希。俺は、おまえに言わなくちゃ、いけない、ことが。
だから、話を聞いてくれ。頼む、今言わないと、今おまえに、伝えないと、何もか
も……。だから、頼む」
「…………」
 瑞希は恐怖と困惑が入り交じった表情で和樹を見つめた。
 やがてその瞳に哀しみの色を浮かべると、瑞希はこくりとうなずき和樹の方を向
いた。
「ごめん、ありがとう」
 和樹は瑞希の腕をそっと放した。

 瑞希の腕を放した和樹は、目を閉じて大きく深呼吸をした。
「み、瑞希」
 目を開けた和樹は、何かを吹っ切ろうとするかのように口を開いた。
「あ、あのさ、瑞希、その、き、昨日のこと、なんだけど……。み、みず、瑞希が、
言ったこと、で、えと、あの、だから、その、ちゃ、ちゃんと、返事を……くそっ」
 和樹はぶんぶんと頭を振ると、ぎゅっと拳を握りしめた。
「み、瑞希、俺は、おまえが昨日言ったことに、返事をしたいんだ、ちゃんと自分
で。俺は、俺の気持ちを、きちんと、おまえに伝えたい」
「…………」
 瑞希はその瞳の哀しみの色をわずかに濃くしただけで、何も言わなかった。
 和樹は目を閉じて再び大きく深呼吸をすると、きっと瑞希を見つめた。
「瑞希!」
 和樹はがしっと瑞希の肩をつかんだ。
「瑞希! 俺が、俺が好きなのは、俺がずっといっしょにいて欲しい人は、み――」
「コラ――、同士和樹!!」
「うわっ」
「きゃっ」
 突然耳元に響いた大声に驚いた二人は、あわてて後ろに飛び退いた。

「た、たた、たたた、た、大志……」
 声の主が誰かわかった和樹は、顔を引きつらせながら、声の主を指さした。
 一方、声の主は訝しげな顔をしながら和樹を見た。
「ん? 和樹、何をそんなに驚いているのだ?」
「お、驚くに決まってるだろう! 大志、てめー、いったいどっからわいて出た!」
 声の主、久品仏大志のふてぶてしい態度にカチンときた和樹は大声を出した。
 さらに先ほどまでの状況が状況なだけに、その声には明らかに殺気が含まれてい
た。
 だが和樹のそんな殺気などどこ吹く風、大志はひょうひょうとした顔をしていた。
「わいて出たとはずいぶんな言い方だな。我が輩を寄生虫や病原菌のように言うと
は、失礼にも程があるぞ。『親しき仲にも礼儀あり』という諺をおまえは知らんの
か?」
「何が『親しき仲』だ! おまえはどう考えて俺にとっては悪友だ!」
「なんと!」
 和樹の言葉にひどいショックを受けたかのように額に手を当てた。
「悪友!? 言うに事欠いて、なんと言うことを! 悲しいぞ、我が輩は悲しいぞ、
まいぶらざー! 我が輩とおまえは共に同人誌を媒体とした世界征服を誓い合った
仲間ではないか! なぜそんなことを!」
「いつ誓い合ったんだ、そんなこと!」
 怒りに顔を真っ赤にした和樹の疑問に、大志はふっと小さく息を吐くと、かけて
いた眼鏡をきらんと光らせた。
「前世から決まっていたことだ、気にするな」
「気にするわ!」
 そこまで怒鳴ると、和樹ははぁっはぁっと肩で息をしながら大志をにらみつけた。

「ね、ねぇ、和樹」
 和樹よりかなり遅れて落ち着きを取り戻し、ようやく状況を理解した瑞希が和樹
におずおずと声をかけた。
「これから、どうするの?」
「あ」
 瑞希に指摘されて、ようやく和樹は自分の置かれている状況に気がついた。
 目の前にいる悪友、久品仏大志の乱入のせいで中断してはいるものの、元々和樹
は隣にいる女性に自分の想いを伝えるためにここにいたのだ。
 はっきり言って、大志などを相手にしている場合ではなかったはずである。
 和樹は大きく息を吐いた。
「大志、おまえが何をしに来たのかは知らない。けど、大切な用があるんだ。悪い
がまた今度にしてくれないか?」
 極力感情を抑えて和樹は言った。
「ん?」
 大志は不思議そうな顔をして和樹を見た。
 そして額に指を当て、何かを考えるような仕草をした。
「うーん……ん? おお!」
 ぽんと手を叩くと、大志は晴々とした表情で口を開いた。
「思い出したぞ、ここに来た理由!」
「……おい」
「同士和樹よ。おまえ、いったいどういうつもりなのだ?」
 大志はまじめな顔をして和樹をにらみつけた。
 その表情に和樹は思わずひるんだ。
「ど、どういうつもりって?」
「とぼけるな! おまえの昨日の行動についてだ。なぜ昨日、おまえは即売会に来
なかったのだ!」
「え?」
「い……!」
 和樹はぎょっとして、隣にいる瑞希をちらっと見た。
 瑞希の方も意外そうな顔をして和樹を見た。
 しかし大志はそんな二人の様子など全く意に介さず、話し続けた。
「昨日の行動の理由、素直に白状してもらおうか、同士和樹!」
「ちょ、ちょっと待て、大志。それ以上何も言うな!」
「そうはいかん、我が輩はこのために朝からおまえに会いに来たのだからな。とこ
とんまで言わせてもらうぞ」
「だからやめろって言ってるだろうが!」
「シャラップ、問答無用だ! 己の非を認め、素直に我が輩の糾弾を受けるがいい、
まいぶらざー! いいか、和樹。同人作家にとって即売会で読者と接点を持つこと
は作品を仕上げるのと同じくらい大切なことなのだぞ。そう、読者と接点を持ち共
に作品を楽しむ。そしてその際、読者から様々な感想や意見をもらい、それらから
読者が求めているものを知り、それを自らの血肉にすることによって新たな作品の
構築をなし、さらなる高みへと到達する。これは例え相対性理論が論破され、光速
を越えるものが存在していたとしても、覆ることのない完全無欠の絶対法則! 我
ら同人戦士にとっては、日本国憲法よりも遵守せねばならんことではないか! こ
れを放棄するとは、いったいどういう了見なのだ! 返答次第によってはいかなま
いぶらざーといえども、容赦はせん、ぞ……ん? どうしたのだ、和樹。恐い顔を
して拳を握りしめたりなんぞして」
「大志……」
 ジャリ。
 和樹は左手を腰の辺りに構えて足を軽く開くと、大志をにらみつけた。
「余計なことを、べらべらべらべら、しゃべってんじゃねえぇー!!」
 バゴ――ン!!
「ぐはっ」
 グシャ。
 和樹が叫びと共に放ったねじ込むようなアッパーを顎にくらった大志は、きれい
な弧を描きながら空中を飛び、地面に頭から突っ込んだ。
「ぐぐぐ……」
 大志はぐぐっと頭を上げ和樹を見ると、よろよろと右手の親指を立ててニヤリと
笑みを浮かべた。
「……ナ、ナイス……アッパー」
 がく。
 そのまま大志は気を失った。

「まったく、べらべらべらべら、余計なことしゃべりやがって」
 倒れている大志を粗大ゴミ置き場に捨てた和樹は、後ろで何か言いたげにしてい
る瑞希を見た。
「瑞希」
「な、何?」
「場所、変えるぞ」
「場所って?」
 瑞希が満足に返事をしないうちに、和樹は瑞希の手をぎゅっと握った。
「え、ちょ、ちょっと和樹?」
「いいから来い! 大志が息を吹き返す前にここを離れる!」
「どこ行くつもりなのよ、ちょっと和樹ー!」
 だが和樹は何も言わず、瑞希を引っ張って走り出した。

 十数分後、和樹の家の近くの公園に着いた二人は、肩で息をしながら並んでベン
チに座った。
「こ、ここま――で来れば、大丈――夫、だろ――」
「たぶん、ね――」
 やがて呼吸を整えた瑞希が意を決したように口を開いた。
「ね、ねぇ和樹」
「ん?」
「さっき、大志が言ってたこと、なんだけど」
「あ、ああ」
「本当のことなの?」
「……ああ」
「どうして!?」
 瑞希は立ち上がって、きっと和樹を見つめた。
 その視線に、和樹はばつが悪そうにそっぽを向いた。
「どうして即売会に行かなかったの!? あんたあれほど即売会が大切だって言って
たじゃない!」
「それは、そうだけど……」
「じゃあどうして行かなかったの? あたしにあそこまで言って意地通そうとした
くせに、結局即売会に行かなかったって、それどういうことなのよ! あのときあ
んたが言ったことってうそだったわけ?」
「う、うそなんかじゃ、ない……」
「うそじゃないならどうして!」
「しょ、しょうがないだろ……」
「しょうがないって、そんなことで納得できるわけないでしょ! あんたが即売会
に行くってことで、あたしがどんな思いしたかわかっててそんなこと言ってるわ
け?」
「だ、だから……」
「だからなんなのよ! ちゃんと納得できるようにあたしに説明してみなさいよ!
ほら、早く言い――」
「瑞希のことで頭がいっぱいで、即売会のことなんかすっかり忘れてたんだよ!!」
「え?」
 思わず立ち上がって大声を出した和樹だったが、瑞希の視線に気づくと再び彼女
から目を逸らした。
「お、俺、この間、印刷所でけんかしたときから、おまえのことばっかり考えてて、
気になってて……なのに、昨日だって、泣いてるおまえになんにも、できなくて、
走ってくおまえを、止められなくて……そんな自分にむかっ腹が立って、情けなく
て……気がついたら、即売会なんか、とっくに、終わってた」
「か、和樹。そ、それって……」
 そこまで言うと、瑞希は言葉を詰まらせた。
 一方、和樹ももう何も言わなかった。
 ただじっと地面を見つめるだけだった。

「…………」
 一分、それとも一時間ほどたったのだろうか。
 二人にとって永遠とも思えるほどの時間が流れた。
 やがて和樹は大きくうなずくと、やや気負ったように顔を強張らせて瑞希を見つ
めた。
「ご、ごめんな、瑞希。俺、おまえの言うとおりバカだからさ、今まで、全然わか
んなかったんだ、おまえの気持ちなんて。ちょっと考えれば、気づけそうなもんな
のにな。でも俺、本当に気づけなかったんだ、バカだから。それで好き勝手して、
おまえのこと傷つけて、泣かせて」
「…………」
 瑞希はただじっと黙って、和樹の話を聞いていた。
「ほんとに俺、どうかしてるよ。ずっとそばにいてくれたのに、一番、泣かしちゃ
いけない、女の子だったのに……その子を泣かして、その子が泣いてるのを見て、
初めて、自分の気持ちに気づいて、後悔して……本当に、どうかしてるよ」
 和樹は甲にバンドエイドが貼られた右手をぐっと握りしめて、声を震わせた。
「おまえをあれだけ傷つけたんだ、今更許してくれなんて言えない。けど、このま
ま何も言わないで全てが終わるなんて、絶対にいやだ。だから聞いてくれ、昨日の
答え。やっと気づいた、俺の気持ち」
 和樹は真剣な顔をしてきっと瑞希の瞳を見つめた。
「俺は、俺が好きなのは、高瀬瑞希、おまえだ」
「…………」
 瑞希は和樹の告白を聞いても、じっと黙ったままだった。
 ただ呆然と和樹の顔を見つめていた。
 その様子を見て、和樹は困ったような苦笑いを浮かべた。
「ば、バカみたいだろ、散々困らせたり、泣かせたりした相手に告白なんかして。
で、でも、これはうそでも、冗談なんかでもない、から」
「…………」
 だがやはり瑞希はなんの反応も示さなかった。
「ご、ごめん、朝から引っ張り回して。そ、それからありがとう、最後まで聞いて
くれて。うれしかった。じゃ、じゃあな瑞希」
 そう言って和樹は後ろを振り返ろうとしたが、瑞希は和樹の服をぎゅっとつかん
でそれを許さなかった。
「瑞希……」
 和樹は瑞希をちらりと見ると、辛そうに彼女から視線をそらした。
「服、離してくれないか?」
 だが瑞希はぎゅっとつかんだ和樹の服を、決して離そうとはしなかった。
 和樹の服をつかんだまま、瑞希はぽつりぽつりと口を動かし始めた。
「どうして話、終わらせようとするの? あたし、まだなんにも言ってないのに」
「…………」
 和樹には下を向いたまま、何も答えることができなかった。
「卑怯じゃない、自分は言いたいこと好きなだけ言っといて、あたしが何か言う前
に勝手に話、終わらせようとして」
「ごめん……」
「それに和樹、言いたいこと、全部言ってないでしょ?」
「…………」
「自分で言ったんでしょ、後悔したくないって。じゃあ、言いたいこと、全部言わ
ないと、こ、後悔、する、わよ……」
「…………!」
 和樹ははっと顔を上げ、瑞希を見た。
「また、か……ありがとう、瑞希。そうだよな、全部言わないと、後悔するよな」
 和樹はほんの少し笑みを浮かべたあと、再び真剣な顔をして瑞希を見つめた。
 だがその表情からは、先ほどのような気負いは消えていた。
「瑞希、俺、こうやっておまえに背中を押してもらわないと前に進めないようなや
つだし、鈍感でおまえの気持ちにも全然気づけないような男だ。おまえをすごく哀
しませたりもした。でも、おまえのことが誰よりも好きだというこの気持ちにうそ
はない。だから、もしおまえが今までのことを許してくれて、まだ、俺のことを好
きでいてくれてるのなら、ずっと、俺のそばにいてほしい」
「…………」
「瑞希、俺と、付き合ってください」
「…………」
 瑞希は何も答えなかった。
 ただじっと和樹を見つめていた。
 和樹もじっと瑞希を見つめ返していた。
 やがて、瑞希の瞳から一滴の涙が流れ落ちた。
「あんたって、本当――にバカ、だね」
「だな」
「あたし――の気持ち、全――然、わかってない――じゃない」
「……そっか」
 和樹が答えた瞬間、瑞希は和樹の胸に飛び込んだ。
「そうよ、全然わかってないわよ! あたしがあんたのこと、嫌いになれると思っ
てたの? そんなの、なれるわけないでしょ! 昨日のことぐらいであんたのこと
嫌いになれるんなら、あんなに涙が出るわけないじゃない、あんたが好きだって言っ
てくれたこと、こんなに嬉しいわけないじゃない!!」
「…………」
 和樹は何も言わず、瑞希の体をぎゅっと抱きしめた。
「許す、今までのことなんか、全部許す!! だから和樹、お願いだから、ずっとあ
たしのそばにいて!! あたしだけを、ずっと見てて。お願い、和樹!!」
「それは、瑞希以外の女の子を絶対見ないでくれってことか?」
 瑞希は和樹の胸に顔を埋めながら、こくんとうなずいた。
「好きなの、和樹のことがどうしようもないくらい大好きなの。だから、和樹にも
あたしのことを好きでいてほしい、あたしだけを、見ててほしい」
「瑞希……」
「だめ、かな……。こんな、わがまま」
 瑞希は不安そうに和樹を見上げた。
 和樹はゆっくりと首を横に振った。
「難しいけど、努力する。もう俺は、瑞希を哀しませたくないから」
「……和樹ぃ」
 瑞希は再び和樹の胸に顔を埋めた。
 瑞希の瞳からは止めどなく涙が流れ続けていた。
 だがそこには哀しみの色は一欠片もなかった。

「瑞希」
 やがて和樹は瑞希の体を離すと、その瞳をじっと見つめた。
「和樹」
 瑞希もじっと和樹を見つめ返すと、静かに瞳を閉じた。
 和樹も瞳を閉じると、瑞希の形のよい唇にそっと自分の唇を重ね合わせた。

「まったく、同士和樹め。いったいどういうつもりなのだ、我が輩を殴るだけでは
飽きたらず、あんなところに捨てるとは。人権侵害も甚だしいではないか。よし、
今日は同士瑞希共々、天賦人権論や世界人権宣言について徹夜の講義でもしてやる
か」
 その頃、無事にこの世への生還を果たした大志は、ぶつぶつと独り言をつぶやき
ながら和樹と瑞希を捜していた。
 そして大志はようやく公園へとたどり着いた。
「それにしても、いったい二人はどこへ行ったのだ? ……ん? あれは」
 公園の入り口に入った大志は、めざとく和樹の姿を見つけた。
「あの二人、あんなところにいたのか!」
 大志はニヤリと笑みを浮かべると、二人に文句を言うべく近づこうとした。
「おい、どうしかず、き……」
 だが二人の様子に気づいた大志は、くるっと踵を返すと足早に公園から出ていっ
た。
「ふふ、今日はやたらと我が輩を邪険に扱っていると思ったが、ああいうことだっ
たとはな。仕方がない、今回ばかりは同士和樹の一連の行動、目をつぶることにし
よう」
 軽いため息をつきながら大志は歩き出した。
「そうか……」
 公園が完全に視界から消えた頃、大志はすっと空を見上げた。
「あの二人、とうとう……。よかった。本当に、よかったな。瑞希、和樹」
 そうつぶやいて笑みを浮かべた大志の顔は、世界征服をたくらむ変態のものでは
なく、友人の幸せを心から祝福する一人の男のそれだった。



「――というわけで、同士和樹は同士瑞希に永遠の愛を誓ったの――ハブゥ!」
 ゴスッ!
「大志ぃぃ、いったい、何を、話していたのかなぁ?」
 グリ、グリグリ。
「お、おおう。そ、それはもちろん、まいぶらざーとまいしすたーの愛のメモリー
をだな……うおぅ! ど、どうでもいいが和樹よ、我が輩の頭にめり込ませたその
げんこつ、グリグリさせるのをいいかげんやめてくれないか? このままだと頭蓋
骨にきしみが発生し、まかり間違うと我が輩は精神に異常をきたすやもしれん」
「うるせえ! 命を取られんだけマシだと思え! それにてめえの精神は元々異常
だ!」
 ガン!
 和樹は大志の頭を大きな音を立ててもう一度殴ると、大志の胸ぐらをつかんだ。
「人が席を外してる間に、何くだらないことしてんだてめえは!」
「くだらないとは心外だな。我が輩はおまえたちの新しい人生のスタートという、
このめでたい日を盛大に祝おうと思ってだな、こうして来賓の方々にすばらしい余
興として」
「俺と瑞希の恥ずかしい話を暴露しまくってたというわけか!」
「何をそんなに恥ずかしがっているのだ。全て事実ではないか」
「事実だからこそ、なお恥ずかしいんだよ!」
「まあ、まあ、和樹。それぐらいで勘弁したり。せっかく着とるタキシード、あん
まり暴れると台無しになってまうで。それに、こいつかって悪気があったわけやな
いんやし。このアホはアホなりに、あんたらのことを祝ったろうって思っただけな
んやから……まあ、ちょっと悪ふざけがすぎとった、とは思ったけどな」
 和樹は、困った顔を浮かべながらそばで自分を抑える、友人かつ来賓の一人であ
る猪名川由宇にジト目を向けた。
「どこがちょっとだ、どこが! あのときの話をこれでもかっていうぐらい事細か
に身振り手振りや声帯模写まで交えて再現して! 第一なんでこいつがあんなこと
まで知ってるんだよ? あのとき、こいつはほとんど関わってないはずだぞ!」
「そんなん、ウチが知るわけないやん。まあええやん、そない気にせんとき。それ
にウチはあの話、結構おもろかったで」
「そうであろう、あの話は我が輩も情報を入手するのにかなりの労力を要したとっ
ておきの話だったからな。だがな、同士由宇よ。実を言うと、この話にはさらなる
追加オプションとして、和樹のプロポーズの話なども用意されているのだ。聞きた
いか?」
「ほんまか? そらおもろいな!」
「いいかげんにしやがれ大志! 由宇もこんなバカを乗せるな! 俺は全然おもし
ろくない!!」

「あの三人、またやってる……」
  瑞希は、部屋の外に出て大声で言い合いを続ける和樹と大志、そして由宇の声を
あきれ顔で聞いていた。
 そんな瑞希の頬を、彼女の友人の一人がつんと指でつついた。
「こんな日になに辛気くさい顔してんのよ、瑞希」
「も、もう、何よそれ、辛気くさいなんて。あたし、そんな顔してないわよ」
 困った顔でその友人に反論する瑞希に、別の友人が助け船を出した。
「そうよ、瑞希がそんな顔するわけないじゃない。なんたって今日は、愛しの千堂
くんとのウエディングの日なのよ。そんな日に辛気くさい顔なんてするわけない
じゃない、ねぇ、瑞希」
「う、うん」
 瑞希は頬を紅く染めてうなずいた。
「ま、それもそうか。それにしても……」
 頬を染めた瑞希を見て、先ほど瑞希をつついた方の友人がほうっとため息をつい
た。
「やっぱり千堂くんは瑞希なんだ。あーあ、残念だな。わたし、千堂くんに憧れて
たんだけどな……」
「へ? ちょ、ちょっとあんた、何言ってんの?」
 そのつぶやきに、もう一人の友人が目を丸くした。
「だって、千堂くんって、ルックスはいいし、優しいし、やるべきことはきちっと
やるし、今や立派な人気マンガ家だし、ポイント高いよ。そう思わない?」
「そ、それはそうかもしれないけど……って、何言わせるのあんたは! 今日結婚
しようかっていう友人の旦那を、あんたどういう目で見てるわけ!?」
「まあそれなりに」
「意味わかんないわよ!」
「具体的に言うと不倫したい人、になるのかな。他の言い方だと……略奪愛」
「いいかげんにしなさい!」
「いいよ、別に。和樹に何したって」
「は!?」
 ぎゃーぎゃーと言い合いを続けていた二人だったが、その言い合いは瑞希の一言
によってぴたりと止まってしまった。
「い、いいの、瑞希? わたし、本当にやっちゃうよ!」
「うん、いいよ」
「瑞希、あんた何バカなこと言ってんの! 自分の旦那に他の女がモーションかけ
るの認めてどうするのよ!」
「だって」
 瑞希はにっこりと微笑んだ。
「和樹だから、大丈夫だよ」
「はい?」
 瑞希の言葉に二人の友人は声を合わせて驚いた。
「だって、和樹。あたしのことをずっと見ててくれるって約束してくれたもの。こ
れまでだってずっとそうだったし、これからだってそう。どんなことがあっても、
和樹があたし以外の人を見ることなんてない。あたし、和樹のこと、信じてるから。
だから、誰が何をしたって平気」
 瑞希は自信たっぷりに断言した。
「で、でもね、瑞希。まさかっていうことがあるかもしれないじゃない」
「ううん、大丈夫。和樹ってもてるから、今までだって色んなことがあったの。で
も和樹はちゃんとあたしだけを見ててくれたんだよ」
「いや、だから――」
「そうそう、この間だってね――」
「全然人の話聞いてないし……」
「この間だってね、和樹のすっごいファンだっていう娘が、町中でいきなり和樹に
抱きついて告白したことがあったの。もちろん、あたしがいない時を狙ってね。あ、
ちなみにどうしてあたしがそんなことを知ってるのかって言うと、その娘が和樹に
抱きついたときに、あたしの乙女の第六感にピピンと反応があったの、和樹のピン
チだって。で、これは一大事、と急いで現場に駆けつけたあたしは、物陰にさっと
隠れてこっそり事の成り行きを見守ることにしたから、一部始終をみんな知ってい
る、というわけなんだけど、まあ、そんな些細なことはこっちにおいといて」
「些細なことかしら……」
「でねでね、和樹ったらどうしたと思う? 普通男性だったら、いきなりでもなん
でも、女性から好きだって言われて抱きつかれたりしたら、悪い気なんてしないは
ずじゃない。そう思うでしょ? でもね、和樹は違うんだよ。なんと、和樹ったら
いきなりぐっとその娘の肩を押して、自分から離したの。それでその娘をじっと見
つめて『俺が愛する女性は、どんなことがあっても、瑞希ただ一人なんだ。瑞希以
外の女性が、俺の目に映ることはない。だから、君の気持ちには絶対に応えられな
い』ってきっぱりと言って、毅然とした態度でその娘に自分のことを諦めさせたの。
もう、そのときの和樹ってばすっごくかっこよかったんだよ! ああ、二人にも見
せてあげたかったな」
 瑞希は両手の前で手を組んで、瞳を潤ませ始めた。
 反対に友人たちは顔を引きつらせ始めた。
「で、そのときあたしは改めて思ったの。やっぱり和樹はどんなことがあっても、
あたしだけを見つめていてくれるんだって。そう、世界中であたしだけを……」
 瑞希は瞳を潤ませたまま上を見上げ、夢見る乙女のような表情のままぴくりとも
動かなくなってしまった。
「……不倫、する?」
「……やる気失せた」
「そう、よかった」
「うん」
「……そろそろ、式場の方、行こっか」
「……そだね。あ、そうだ。瑞希、ちゃんとブーケはあたしに向かって投げてよっ
て……聞いてないか」
 友人たちは大きくため息をつくと、部屋から出ていった。

「どうした瑞希、そろそろ時間だぞ」
「あ、和樹」
 数分後、瑞希はいつの間にかそばに立っていた和樹の声で我に返った。
「大志はもういいの?」
「ああ。本当は簀巻きにして川にでも流してやろうかと思ったんだがな、ま、あい
つも悪気があったわけじゃないしな、許してやることにした。そ、それに、こんな
日にそんな事したら、おまえ、哀しむと思ったし……」
「そう、ありがと」
 瑞希は優しい笑みを浮かべた。
「ま、まあ、そんなことより、本当にもうすぐ時間だ。そろそろ行こうぜ」
「うん……ねぇ、和樹」
「どうした?」
「なんか、夢みたいだね」
「冗談じゃない、これが夢だったら困るぞ。俺は現実でこうしていたいんだ」
「そう、だね。うん、あたしも、その方がいい」
 ニッと笑う和樹に、瑞希はにっこりと微笑み返した。
「そうさ」
 和樹は瑞希の頬にそっと口づけた。
「こんなに素敵な瑞希と、ずっといっしょにいられることが夢のままだなんて、俺
は絶対にいやだ」
 和樹は純白のウエディングドレスを着た瑞希をじっと見つめた。
 瑞希は頬を紅く染めてうつむいた。
「ば、バカ……」
「いいんだよ、バカで」
 和樹はくるっと後ろを振り向いてドアノブに手をかけた。
「おまえとずっといっしょにいられるなら、バカでもなんでも、な。じゃ、またあ
とでな」
 和樹はドアを開くと部屋から出ていった。
「夢の、まま、か……」
 和樹の出ていったドアを見ながら、瑞希はそっと頬に指を当ててつぶやいた。
「そうだよね。夢じゃ、ないんだよね。あたし、やっと、和樹と……」

 高瀬瑞希。
 彼女が愛する人に想いを告げてから数年たった、今日、この日。
 彼女は想い人、千堂和樹と、結婚する。



<お終い>


〜あとがき〜
 まず最初に――
「玲子は和樹のことを『千堂くん』と呼んでいる」というつっこみは書いた本人も
わかっているのでご遠慮ください。
 ――というわけで、読んでくださった方、ありがとうございました。

 前回話を一本仕上げてから十ヶ月。ようやく一本話を書くことができました。正
直言って、ピタッとくる表現が書けないということがこれほど辛いとは思いません
でした。ブランクやたらあるくせに文章くどい癖も治ってないし。いやはや……。
 それはさておき。
 この話、「ベタというよりどこかで見たような展開」というつっこみの他にも、
個人的にはつっこみどころ満載です。「タイトル意味不明、というより初期プロッ
ト用のタイトルだろ、これ」「オープニングで大風呂敷広げすぎで、しかも本編と
合ってない」等々。
 けど、それでも私、この話好きなんです。書くときも楽しんで書けました。
 ですから、読んだ方が少しでも楽しいと思っていただければ幸いです。
 それにしても、ほんと、女性の心理って描くのが難しいです。今回もかなり悩み
ました。「女性ってこういう考え方するのかな?」って。でも、結局は私の理想の
範囲に留まってしまいました、今回も。あんまりこういうごまかしはいけないんで
すが、ついつい。困ったものです。
 次はもう少しましになればいいんですが、こればっかりはどうもね……。
 でも、いつかはリアルな女性の心理を描ききってみたいです、はい。

 というわけで、この話を読んで何か思うことのあった方、よろしければご意見、
ご感想などをこちらまで送ってください。
 それでは。


 ☆ コメント ☆ あかり:「やっぱり、近すぎる関係だと、逆に結ばれるのが難しくなるのかもね」(−−) セリオ:「な、なんと言いますか……あかりさんが言うと、異様に説得力がありますね」(;^_^A 綾香 :「まったくだわ」(^ ^; あかり:「でもでも、結ばれるのが難しい代わりに、無事に結ばれた後は      それまでの反動で、すっごくラブラブな関係になれたりするんだよ」(^0^) セリオ:「そ、それも説得力がありますね」(;^_^A 綾香 :「うんうん」(^ ^; あかり:「瑞希さんもそのパターンだったみたいだね」(^^) セリオ:「ですねぇ。瑞希さんも結ばれるまでは苦労しましたが……」(;^_^A 綾香 :「その分すっごい反動が来たもんね。最後なんて完全にトリップしちゃってるもの」(^ ^; セリオ:「しっかし、あの凄まじいまでの惚気。友人方にしてみれば災難でした」(;^_^A 綾香 :「本当よね。あたしだったら切れてるわよ、あんなのを聞かされたら」(^ ^; あかり:「え? そう? あれくらい普通でしょ?」 セリオ:「…………へ? ふ、普通……ですか?」(−−; 綾香 :「あ、あれが?」(−−; あかり:「うん」(^^) セリオ:「え、えっと……わたしは全然普通じゃないと思いますが……」(−−; 綾香 :「あたしも」(−−; あかり:「そっかなぁ? うーん、そう言われてみれば確かにそうかも」 セリオ:「そうですとも」 綾香 :「うんうん」 あかり:「そうだよね、普通じゃないよね。あれじゃ抑えすぎだよね」(^0^) セリオ:「……はい?」(−−; 綾香 :「……いや……あの……そうじゃなくて……」(−−; あかり:「もっと惚気てもいいのにね。もう、瑞希さんったら慎ましいんだから」(^0^) セリオ:「……………………」(−−;;; 綾香 :「……………………」(−−;;;




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