その日、あたし――高瀬瑞希――は、これまでの二〇年あまりの人生の中で、最大の
緊張の直中にあった。

 もう、逃げることはできない――
 なぜなら――
 もう、あたしだけが答を返していないから――
 そして、今日、あたしが彼を呼び出したのは、あたしがこれまでひたすら避けてきた
答えを、伝える為だったのだから――

 彼が、無言のままテーブルの上に置いたものに視線を走らせながら、あたしは自分の
気持ちを落ち着かせる為に、そして彼に伝えるべき言葉を決める為に、この一年の間の
出来事に思いを馳せた。


始まりの日・決意の日 "The day of the day and the determination of the beginning" 千堂家たさい物語・EPISODE:0 Written by うめ☆cyan
「これをもちまして、第……回こみっくパーティーを終了致します」  天井のスピーカから、聞き慣れた南さんの声がホール内に響き、春のこみっくパーテ ィーが閉会した事を告げた。  ぱらぱらと、場内のあちこちから拍手の音が響く。  あたしも、和樹の横に立って、一緒に手を叩いた。  それは多分、ここに来るようになって、初めて心から送った拍手だったと思う。 「まぁ、みな、よう頑張ったわ。なんちゅうか、色々あったけど取り敢えず一区切り付 いたっちゅ〜感じやな」  あたしとは、机を挟んだ位置にいて、拍手する手を収めた由宇ちゃんが、感慨深げに そう呟く。 「そうですの〜、由宇さんのおかげで、すばる、商業誌デビューしちゃったですの〜」  その由宇ちゃんの言葉に、にこにこと笑みを浮かべながら隣に座るすばるちゃんが何 度も相槌を打つ。  だけど、嬉しそうに話す由宇ちゃんやすばるちゃんとは裏腹に、あたしの中には、複 雑な、もやもやとしたものが浮かんでいた。
――アタシハ、本当ニ頑張ッタノ?――
 打ち上げはどこで、などと楽しそうに騒ぐ由宇ちゃんたちの姿を見つめながら、あた しは何故か、自分がずっと遠くに置き去りにされたような、そんな気分を感じずにいら れなかった。 「そいでわっ!」  コップになみなみと注がれたビールを片手に、背筋を反り返らせた由宇ちゃんが声を 張り上げる。  あたしと和樹、それに大志と南さん、雄蔵さんは由宇ちゃんと同じくビールを、千紗 ちゃん、郁美ちゃん、すばるちゃん、彩ちゃん、玲子ちゃん、詠美ちゃん、あさひちゃ んはソフトドリンクの入ったコップを手にして、由宇ちゃんに注目する。 「まぁ、何のかんのでこのメンツが知りおうて一年や。まぁ、この一年ちゅ〜たら、和 樹とすの字は商業誌に行きおるわ、詠美は地獄のどん底垣間見よるわ、瑞希っちゃんは 立派なコスプレイヤーに成長するわ、まぁ、ほんま色々あったけど、退屈はせんかった な」  由宇ちゃんのその台詞に「余計なお世話よバカパンダ〜」とか「ぱぎゅ〜、恥ずかし いですの〜」とか、様々な合いの手が交じる。あたしは……苦笑して肩を竦めながらも、 何故かずっと会場から引き摺っていた心のしこりが大きくなったような気がした。 「まぁ、そんなことはどうでもええ、取り敢えずは今日はお疲れさん、ほんで、又一年 がんばろな、っつ〜ことで。  乾杯っ!」 「かんぱ〜い」  一頻り、コップの打ち合わされる心地よい音の重なりがテーブルの上を行き来する。  それから後は――お約束通りの無礼講だ。  テーブルの上に所狭しと並べられた料理に手を伸ばすもの、この一年――というより も、この数ヶ月で、ようやくあたしにもそれなりに理解出来るようになった話題で談笑 するもの、暫くは、どこにでもあるような宴会の光景が続いていた。  それが、変化を見せはじめたのは――年長組の間に、程よく酔いが廻った、そんな頃 合いだった。 「ところでなぁ……和樹ぃ」  いつの間にか、ビールのかわりに灘の生一本を満たしたコップを手にしていた由宇ち ゃんが、赤ら顔を和樹に向けて言った。 「ぼちぼち……答え、聞かせてくれへんかぁ?……まぁ、ある程度解っちゃあおるねん けど、はっきり口にしてもらう方がすっきりするわ……」  その、由宇ちゃんの台詞に、あたしを含めた全ての女の子がはっと驚きの表情を浮か べて、由宇ちゃんを、そして和樹を見た。  由宇ちゃんは具体的な事は何も言っていない。でも、由宇ちゃんが求めた「答え」が なにを意味するものか、あたしたちの中に解らないものは一人もいなかった。  何事か、これから行われるやりとりの意味するものを恐らくは正確に察知したであろ う、雄蔵さんが、大志に目配せをすると、殆ど無理矢理テーブルから引き剥がすように して席を離れる。  だけど――  その配慮が、あたしにとっては辛いものに思えた。  雄蔵さんが、半ば大志を引き摺るようにして別の席に移ったのを見届けた由宇ちゃん は、再び視線を和樹に戻した。 「お、おい、由宇、お前ちょっと飲み過ぎ……」 「んなもん……言われんでも解っとるわ……けどなぁ……こんな話、素面で出来るかい…… …………酔っとるからこそ、出来る話もあろうってもんやんか……なぁ……」  その言葉に、何故か一滴もアルコールを口にしてない筈の年少組の面々が思わず首肯 く。その姿が妙に滑稽だった。 「はっきり……言うてくれへんか……そうしたら、皆諦め……つくんや……なぁ、頼む わ……和樹……」  ちらりと、あたしの顔に視線を走らせる由宇ちゃん。  一瞬だけ、あたしと由宇ちゃんの視線が交錯し――離れた。  その一瞬に――あたしは見てしまった。  顔は赤らんでいるけども、全く酒精の影響を受けていない、辛そうな瞳を。  そして、その瞳に薄らと滲んでいた涙を。  ちくり。  その瞳を見たとき、あたしの心は何故か途方もなく、痛んだ。
――ドウシテ、心ガ痛クナルノ?――
 あたしの心に、蟠りと共に浮き上がってくる、疑問。  その答を求める前に――由宇ちゃんは再び視線を和樹に向け、更に言葉を続けようと して……止まった。  あさひちゃんに進められて選んだ、中華風の居酒屋。  その壁に埋め込まれた、大きな液晶プロジェクターのスクリーン。  そこに映し出される、古い映画の、セピアの映像に被さるようにして流れる、ニュー ス速報の文字。  由宇ちゃんの視線がその文字を追っていることに気づき、あたしたちもそれに視線を 向ける。  そして――時が、凍りついた。  数日後。 「こっちやこっち、遅いで、瑞希っちゃ〜ん」 「ごめんごめん、履修登録の申し込みが混み合っちゃって……」  みんなと知り合ってから、何度か足を運んだことのあるファミリーレストラン。  その、奥まったテーブルから由宇ちゃんのあたしを呼ぶ声がして、その声に応えるよ うに手を振り返したあたしは、みんなの待つテーブルに早足で歩いて行った。  由宇ちゃんが確保してあったテーブルは、予め話を通してあったのであろう、六人が けのテーブル二つを繋いで全員が一つの席に座れるように配慮されていた。  あたしが、空いている席に腰を降ろすと、すぐに(いろんな意味で)すっかり顔見知 りになったウエイトレスの留美ちゃんがやってきたので、あたしはクラブハウスサンド イッチと、ホットのアール・グレイを注文すると、テーブルの上に無造作に投げ出され ていた、今朝の朝刊の見出しに視線を向けた。  正直なところ、余り新聞とは縁のない――せいぜいが、大学の図書館で料理欄やテレ ビ欄のチェックをする程度だったあたしだが、そこに置かれていた新聞が、駅でサラリ ーマンがよく買い求めているスポーツ紙ではなく、所謂クォリティ・ペーパーと呼ばれ る類の新聞である事くらいは解った。  だから――あたしの目には、そこに映る見出しが、些か現実離れした、何かの冗談の ように思えてならなかった。  そこにはこう書かれていた。 「先進国では初の試み――政府与党、少子化問題解消に具体的動き――  ……日、政府の諮問機関である民法改正小委は条件付きながら、歯止めの掛からぬ少 子化対策の一環として、暫定的な民法七三二条及びそれに付随する関連項目の削除とい う、第一回目の答申を提出した。  これにより、国会審議によってこの改正案が成立した場合、先進主要国では始めて、 制度としての重婚が合法化されるようになる……」 「冗談……じゃ、ないんだよ……ね??」  記事を一読した私が、思わず口から漏らした言葉が、それだった。 「その台詞、瑞希さんで七人目です」  どうやら、自分も同じ台詞を漏らしてしまったらしい彩ちゃんが、複雑な笑みを浮か べた顔でそう言った。 「残念ながら……四月一日はもう一月も前やで、瑞希っちゃん」  同じく――この間のことが嘘のような笑顔で由宇ちゃんが続けた。  と、 「は〜い、お待たせ〜〜」  横合いから声が掛かり、留美ちゃんと、もう一人、顔見知りのウエイトレス(そして、 こみパにおける友人でもある)のつかさちゃんの二人が、オーダーしたドリンクとメニ ューを載せたトレンチをもってやってきた。  その間は、さすがにあたしたちは沈黙を守る。  店の常連だからというより、私的な付き合いの末にあたしたちの好みを熟知してしま った二人は、わざわざ確認を取る事もなく、正確にオーダーしたメニューをそれぞれの 前に並べると、マニュアル的ではない、友人に向ける気安さで軽く頭を下げると、一瞬 ――ほんの一瞬だけ――新聞の見出しに視線を走らせ、その瞳に複雑な表情を浮かべて、 下がって行った。 「留美やんとこも……あとで修羅場やな……」  大袈裟に腕を組んで、(自分たちの事を棚に上げて)溜め息など吐きつつ感慨深げに そういった由宇ちゃんの姿が何かしら滑稽で、私は思わず、苦笑を漏らす。  それから暫く、お昼を未だ食べてなかったすばるちゃんや南さん、それにあさひちゃ んがご飯を食べる事に専念し、その間、あたしたちもそれぞれ注文した軽食をつつきな がら、ひとまずは平穏な一時が過ぎ去っていった。 「さて……そろそろ、本題に入りましょうか」  南さんがそう言ったのは、お昼ご飯組が食事を終えて、留美ちゃんとつかさちゃんが ドリンクのお代わりと、ケーキやアイスクリームといったデザート類を並べ終わった直 後だった。  多分、「邪魔はしないよ」と言う意思表示だったのだろう、留美ちゃんは恐らく規則 違反だろうが、テーブルの上に珈琲と紅茶、それにお冷やの入ったポットを置いていっ てくれた。  そのポットから、グラスに冷たいミネラルウォーターを注いで一息に飲み干した由宇 ちゃんが、表情をきっと改めて、あたしたちを野顔を見渡す。 「皆……これ、見てくれたやろな……」  そう言って、由宇ちゃんはテーブルの上の新聞を取りあげた。  あたしは、その取りあげられた新聞に視線を走らせると、小さく首肯く。いや、南さ ん、あさひちゃん、彩ちゃん、玲子ちゃん、千紗ちゃん、そして郁美ちゃんも全く同じ 仕草をしていた。 「ふ、ふみゅぅぅ〜〜」 「ぱ、ぱぎゅぅぅ〜〜」  ただし、詠美ちゃんとすばるちゃんの二人だけは、目をぐるぐる回していたが……  普通なら、そこですかさずハリセンでの突っ込みが入るところなのだけど、今日は違 った。由宇ちゃんは、予めこの二人がそう言う反応をするのは折り込み済みであったか のように二度三度、大きく首肯くと、言葉を選ぶようにして説明を始めた。 「つまりや……まぁ、細かい事はまだ決まっとらんし、これが本決まりになるかどうか も別れへんけど、要は当人らにその気があるんやったら、そんで、最後まで責任取れる 覚悟があるんやったら、幾らでも嫁さんもろてええ、惚れた男のとこへ嫁に行ってええ、 っちゅう事やな」 「で、でも……そ、それはけ、結婚に関する事で……い、今の私たちの場合……あの、 その……」  由宇ちゃんの、乱暴というか些か簡潔に過ぎる説明から、それでも要点は理解したあ さひちゃんが、当然の疑問を口にする。 「ああ、嫁にいくいかんとかいうのは、牧やんはともかくとして未だうちらには早いか もしれへんわな……けどな、それは置くとしてや……」  一瞬、南さんのこめかみに青筋が浮かんだのを見た由宇ちゃんが、場を取りつくろう ように珈琲を一口口に含んで、更に言葉を続けた。 「うちらは皆、あのアホに惚れとる。せやろ……」  由宇ちゃんのいう「あのアホ」が誰を指すのか、考えるまでもなかった。  ちくり。  あの日と同じように、再び胸に刺さる痛み。  そして、同時に脳裏に浮かぶ、あいつの――和樹の顔。 「正直言ってな、うちは――でも、諦めるつもりでおったんや。あのアホは……確かに、 うちらに優しい。けどな、幾ら優しゅうしてもろても、あかん思たんや」  ずきん。  心の痛みが――増す。  これから語られる事は――きっと、残酷な言葉。 「でも、解ってたんや……いや、解らなあかんかったんや……うちらでは、あのアホの 隣は埋らへんって事を」
――ヤメテ……言ワナイデ……――
「でもな……でも、解ってしもたんや……それでも、うちは……あのアホに惚れとる。 それは、皆同じの筈や……せやから……」  あたしは、咄嗟に目を固く瞑り、耳を塞ぎたくなった。  聞きたくない。  その先の台詞は、聞きたくない!!  ……でも、あたしは、目を瞑る事も、耳を塞ぐこともできなかった。  なぜなら――あたしの中の、相反する二つの感情の鬩ぎ合いが、そうする事を許さな かったから。 「せやから、うちは……」  あたしに向けられる、由宇ちゃんの視線。 「瑞希っちゃんには悪いと思う。思うけど、これ以上、自分の気持ちを護魔化すことは でけへん。うちは……あいつが好きやから」  一辺の曇りもない、決意に満ちた瞳――  今のあたしには、逆立ちしたって真似できっこなさそうな、強い瞳―― 「ある意味で……うちの提案は残酷かもしれへんと思うわ……そりゃ、うちらは女やか ら、女の幸せを掴みたいと思うのは当り前や。  好きな男と添い遂げたい、好いた男と二人して、どこまでも行きたい……そりゃ、そ んな平凡な女の幸せ、うちかて欲しい思うわ。けどな……」  由宇ちゃんの視線が、みんなの顔を均等に眺め渡す。  そして……  由宇ちゃんは、決定的な台詞を、呟いた。 「けどな、うちは同時に、皆の事も好きや。瑞希っちゃんの意地っ張りなとこも、詠美 のアホなとこも、すの字や千紗ちーの頑張り屋なとこも、なんもかんも、みんな好きや。  せやから……皆の辛い顔は見とうない……せやから……うちは、あいつを独占せえへ ん。せや、せっかく、お上も粋な計らいしてくれとんのや、遠慮なく、皆で幸せ掴んだ らええやん、せやろ……」  由宇ちゃんが一気にそう、まくしたてると……私たちの間に重い沈黙が立ちこめた。  千紗ちゃんとあさひちゃん、郁美ちゃんは……落ちつかなげに周囲に視線を走らせ、 彩ちゃんは普段にも増して、貝のように沈黙を守り、詠美ちゃんと玲子ちゃん、そして すばるちゃんは唇を噛み締めたまま俯いていた。  そして―― 「そう……ですね。  私たちは……確かに、同じ人を好きになってしまいました……それは……今までなら、 辛い事だったでしょうけれど……でも、今は違うんですものね……  私は……むしろ、皆さんと一緒に、和樹さんを愛せる事を喜びたいと思います」  重苦しい空気を、押し流すのではなく柔らかく包み込んで解していくように、南さん が優しげな口調でそう語った。  その言葉がきっかけとなって、緊張の糸が解れていく。 「そ、そうよね……ポチきも子パンダも、このちょお天才がいなきゃなんにも出来ない んだし……」 「にゃ……千紗は……お兄さんの事、大好きです……でも、それと同じくらい、お姉さ んたちの事も好きだし……だから……」  沈黙が解かれた事で、少しずつ、みんなの口がいつものとおりに開かれ始める。  まったく、いつものままの闊達さは――さすがにないけれど、それでも、それぞれが あいつへの秘めた思いを打ち明ける事で、気分が紛れたのだろう。表情に明るさが戻っ てきている。  でも――  みんなが素直になればなるほど、あたしの心は逆に重くなっていく。  そして――  がたん。  その音は、あまりにも大きく響いたのだろう。  みんなの視線が――驚きに満ちた視線が、テーブルに手を衝いて立ち上がったあたし と、乱暴に下げられた椅子との間を往復しているのが解る。 「瑞希……っちゃん?!」  驚きの表情を顔に張りつかせたまま、肺の奥底から絞り出すようにして、ようやく、 由宇ちゃんが呻くように呟いた。 「……ごめん……あたし……」  それだけを言うのが精一杯だった。  気付いたとき、あたしは、何故か涙で頬を濡らせながら、店の外へと飛び出していた。  それから、幾許かの時間が流れた。  あたしの回りは、去年と何も変わってないように思える。  でも、それは単なる気のせいに過ぎない。  少しづつ、そして着実に、あたしの周囲では何かが決定的に変わり行こうとしていた。  あのニュースが流れた日から一月ほどは、これという変化はないままに過ぎ去ったの だけど、東京が梅雨の入りを向かえる頃、この一月の間、心の片隅を支配し続けていた、 そして、無理矢理に心の片隅に押し込めていた、あのニュースが、再びメディアを賑わ せた。  それは、あまりにもあっけない結末で、なにげなく見ていたTVのブラウン管の中で、 あの法案はあっけなく衆議院を通過して行った。  最初に提案を持ちかけた由宇ちゃんは――それを知って、すぐに行動に移っていた。 和樹も、当然ながら最初は大いに戸惑ったらしい。でも、あいつの、あいつらしい優し さが、全てを受け入れさせてしまった。 「そんなもん、気にせんでええのに……」  由宇ちゃんは苦笑しながら、そう断ったのだけども、和樹は、 「折角、みんなが勇気を出してくれたんだ……俺だって、それに応えなきゃな」  そう言って、みんなに誓いの証を送る為に、今まで以上に頑張っている。商業誌デビ ューからこちら、金銭的余裕が生れたことと、時間に追われる生活が始まった事で辞め ていたアルバイトも、大志に頼み込んで不定期ながら再開したらしい。  何故、「らしい」かと言うと……あの日以来、あたしはみんなと会うのを避けがちに なっていたからだ。  みんなは、全然気にしてはいないようだけども、あたしは――やはり、今でも土壇場 で逃げ出してしまった事に強い嫌悪感を感じている。何より、あたし自身に。  そして、そんな中ぶらりんな状態が続いたまま、暑い夏が再び巡ってきた。  流石に、ビッグサイトの全館を使って開催される夏のこみパは、サークルの数も一般 のお客さんの数も半端じゃない。半端じゃないから、当然、スタッフも総動員体制が取 られる。無論、あたしにもお呼びはしっかりと掛かっていた。 「おはようございます」 「あ、おはようございます」  濃淡二色のブルーを基調とした、スタッフのユニフォームに身を包んだあたしは、本 部に顔を出すと忙しそうに打ち合わせを行なっている南さんに挨拶をした。 「ごめんなさいね瑞希さん、本当は和樹さんとこの売り子に専念させてあげたかったん ですけど……」 「ああ、いえ、いいんです……今はスタッフしてる方が気楽ですし……」  南さんの瞳の奥に宿る表情が、いつもと全く変わらない暖かなものである事を見たあ たしは、何故か後ろめたいものを感じながら、そう、しどろもどろに返事をするしかな かった。 「ふふ……無理しなくてもいいのに……でも、瑞希さんがいるおかげで準備会も随分助 かるんですけどね」  そう言って、なにげない仕草で口元に手をやり、暖かく笑う南さん。  その指に鈍く輝くものを見たあたしは――言葉を失う。 「南さん……それ……」 「あ、そう言えば……御免なさいね、本当なら……」  あたしの視線に気付いた南さんが、その意味を悟って、自分の手に視線を添わせ、愛 おしそうに指に嵌められた指輪を眺めながら、詫びるような調子であたしに言いかけた。 しかし、 「あれ??南さん、それって婚約指輪ですよね――」 「あ、ホントだ。お相手は誰なんです??ねぇ??」  あたしと同じように、指輪の存在に気付いた何人かのスタッフが、南さんの話すより も早く口を開いた為、続きの言葉を聞くことはできなかった。  そんな賑やかなやりとりから、なんとなくはじき出されたような感じのあたしだった が、誰かの一言で不意庭の中に強引に引き戻されることになった。それは、 「ねぇ、ひょっとして、その指輪の送り主って、千堂先生じゃないんですか??」  その言葉に、南さんは否定も肯定もなく、ただ頬を僅かに赤らめて含羞んでいるだけ であったが、逆にその表情こそが言葉よりもはるかに、事実を雄弁に物語っていた。 「ええ〜っ、参ったなぁ……あたし、千堂先生結構気に入ってたんだけど……」  女の子たちの中から、そんな残念そうな声が上がれば、 「千堂さんが相手じゃ、勝ち目ないよな畜生……」  多分、南さんに思いを寄せてたであろう男性スタッフが、それと泣く地団駄を踏んで いたりする。そんな中、 「でも……意外ですよね。てっきり、千堂先生って瑞希さんと付き合ってると思ってた のに……」  誰かが、ぽつりとそう呟くと、一斉にみんなの目があたしに注がれた。 「そうだよなぁ……ちょっと意外っちゃあ意外だったよなぁ」 「でもそうかぁ……そうすると、高瀬さんてフリーなんだ」  ちょ、ちょっと……  話が変な方向にそれそうになったので、私は慌てて何かを言おうと口を開きかけた。 でも、そのまえに口を開いた人がいる。 「あら、残念ですけど、瑞希さんも既に予約済ですよ」  南さんだ。  屈託のない笑みを浮かべながら、慌てるあたしを尻目にあっさりとそう言ってのける。 「ええっ?!ホントなんですか、それ……で、その相手って一体……」 「うふふ……それは……和樹さんですよ。そうですよね、瑞希さん」  その、南さんの爆弾発言に周囲が凍りついた。  そしてあたしは――なにも言い返すことができないまま、その場に立ち尽くしている。 「ちょ、ちょっと待って下さいよ!!それじゃ、千堂先生って二股かけてるってことじゃ ないですか!!いいんですか、そんなんで……」 「ふふ……二股とか、そういうんじゃないんですよ……そうですね……言ってみれば、 まぁ、独占が愛情の全てだった時代は終わった、と言う事でしょうか……」 「はぁ……」  にこにこと微笑みながら、質問を浴びせていたスタッフを手玉に取る南さん。  その姿を見ながら、あたしは胸が締めつけられる思いで一杯だった。  どうして――  どうして、そんな風にあたしに接することができるの――  あの日――あたしは……自分の我侭で逃げ出してしまったと言うのに――
――解ラナイヨ……――
「渡したいものがあるんだ――」  和樹からの電話があったのは、夏コミが終わり、日差しが柔らかさを取り戻してきた、 そんな秋の日の事だった。  来るべきものが、きたんだ――  和樹の電話、それが意味するものをあたしは正確に悟っていた。いや、悟らざるを得 なかった。  なぜなら、もう残っているのはあたししかいないからだ。  半月後に控えた学祭に、どうしてもと頼み込まれて油絵数点を展示する事になった和 樹は、久々にキャンバスと格闘する為、次のこみパの参加を見合わせていた。そして、 そうであるが故に、比較的今の和樹には時間の余裕があった。  だから多分、和樹にしてみれば特にこの日だからという理由はなかったのだろう。  和樹が会いたいといってきた日は次の日曜日。その日はあたしの方でもこれという予 定はなかったし、会うのに全く不都合はない筈だった。  でも―― 「ん……今週は……ちょっと解んない……予定……入るかもしんないんだ……」 「そっか、まぁ、先約が有ったんだったら仕方ないよな。ま、俺の方の用事はそんなに 時間掛かんないし、夜からでもいいから、体空いたら電話してくれよ」 「うん……解った……そうするね」 「解った。じゃ、おやすみ、瑞希」 「おやすみ、和樹……」  何故――  何故なんだろう――  予定なんて、ないよ――  本当なら、ずっと待ち焦がれていた筈の、嬉しい筈の電話なんだよ――  なのに――  なに……やってるんだろう……あたし――  日曜日。  最悪の目覚めだった。  頭が重く、全身が怠い。  理由は――解っている。  嘘の嫌悪感だ。  それでも、無理矢理ベッドから身を引き剥がす、  そして――目に入ったのは、ソファの上に無造作に投げ出されたままの、携帯電話。  気がつけば、無意識のうちにその携帯電話を拾い上げ、高校生の頃から何度となく掛 け続けて、すっかり馴染みになってしまった数字の羅列を、あたしの目はなぞっていた。  きっと、受話器の向こうではあいつが、あたしからのコールを待っている。  あいつはきっと、あたしからの電話がある事を、信じて疑ってすらない筈だ。  ずきん――  傷む心。
――謝ッチャエバ、楽ニナレルノニ……――
――素直ニナレバ、苦シクナンテナクナルノニ……――
 心の中のあたしが、あたしを責める。  指先は――何度も発信ボタンを押そうとする。  でも……押せなかった。  結局その日、あたしは一日中、枕に顔を埋めたまま、泣いて過ごすしか出来なかった。  学祭は、和樹と、麻生と言う名の一回生の二人展を開催するというので、あたしは和 樹に頼み込まれて、受付の手伝いをする事になった。  久々に見る、和樹の油絵。  忘れかけていた、セピア色の記憶。  その背中に、一杯大切なものを抱えるようになって、始めて見た頃よりもずっと優し さを増した和樹の絵。  和樹は結局、電話をしなかった事を「まぁ、予定があったんじゃ仕方ないもんな」と 笑って許してくれた。  なにがあっても、人のせいには決してしないひと――  誰よりも、常にあたしの事を大切に想ってくれているひと――  あたしは――そんな和樹に、どう応えてあげればいいのだろう。  当然のことながら、いつもの面々も、冷やかし方々学祭に遊びに来た。  流石に、時間の都合もある為、みんな纏めてということはなかったけれども、それで も、和樹はきちんと、一人づつをエスコートして回っていた。  そして、日の落ちる間際にやってきたのが――すばるちゃんだった。 「瑞希さん、お話がありますの!!」  それは、普段のすばるちゃんからは想像もつかないくらい、強く、きつい言葉だった。  と、同時に――その瞳には、精一杯の無理の証が、浮かんでいた。  だからあたしは、素直に首肯くしかなかった。 「天音ちゃんごめん、ちょっと出てくるから、替ってもらっていい??」 「うん、いいよ」  あたしは、麻生君の幼なじみだという一回生の女の子にそうお願いすると、すばるち ゃんを伴って中庭の方に歩いて行った。  流石に、一〇月半ばの夕方は少々肌寒く、中庭には人の姿は殆どなかった。  普通なら、中庭には幾つかベンチが置かれているのだけど、今日は殆ど前庭の方に持 っていかれている為、止むを得ずあたしは、適当に腰を落ち着けられそうな場所を探し たのだけれど、それよりも早くすばるちゃんが 「ここでいいですの!!」  とあたしを呼びとめた為、その声につられるようにあたしはすばるちゃんの方を振り 向いた。  そして――  どすん!!  何が起ったのか、解らなかった。  ただ、解っていたのは、目の前のすばるちゃんの顔がぶれて、一瞬の後、視界一杯に 夕焼けの空が広がっていたこと。そして、背中から芝生に叩きつけられた痛み。  すばるちゃんに投げ飛ばされたのだという事を理解したのは、それから数瞬の後。 「すばるちゃん……いきなり……なにを……」 「なにを、じゃないですの!!」  背中の痛みを堪えながら、起き上がり、すばるちゃんと向き合おうとするあたし。だ けど――  どすん!!  もう一度、情け容赦なく投げ飛ばされた。 「これで――これで、目、醒めましたですの?!」  ここまでが強がりの限界だったのだろう、あたしの瞳に飛び込んできた、すばるちゃ んの目蓋に滲む涙。 「どうして――どうしてですの……」  やっとのことで、辛うじて上半身を起したあたしに、さっきまでの厳しい態度とは裏 腹な調子で縋り付き、鳴き声でまくしたてるすばるちゃん。 「瑞希さんは……ずるいんですの……」 「すばる……ちゃん……」 「和樹さん……待ってたですの……一日中、ずっと待ってたですの……ううん、和樹さ んだけじゃないですの……みんな、みんな瑞希さんの返事を待ってたんですの……なの に……なんで逃げたんですの!!」  何かを――言い返したかった。  でも、言い返せなかった。  すばるちゃんの言葉は、痛みをともなった矢尻となって、易々とあたしの心の壁を打 ち砕いていく。 「誰だって……誰だって不安なんてない筈がないんですの!!誰だって……恐い気持ちは 変わらないんですの……でも……でも……」  不思議だ――  すばるちゃんの言葉の一つ一つは、錆びたナイフのようにあたしの心を抉り、痛めつ ける。  なのに――何故だろう――  すばるちゃんの言葉を受け止める度、あたしの心から、重さが無くなってゆく―― 「すばるは……すばる一人じゃ、絶対今の自分はなかったですの……由宇さんがいて、 和樹さんがいて、詠美さんがいて、みんながいて、初めて今のすばるがあるんですの……」  気がつけばあたしは、胸に縋って泣きじゃくりながら喋るのを止めないすばるちゃん の、綺麗な栗色の髪を朝しく撫でつけてあげながら、すばるちゃんの言葉の一つ一つを、 自分でも信じられないくらい穏やかな心で聞き入っていた。 「すばるだけじゃないですの……詠美さんが自信を取り戻したのも、千紗ちゃんが引っ 越さずにすんだのも、みんな、みんながいたからですの……」 「すばるちゃん……」 「でも、でもそれだけじゃ駄目なんですの……みんなが、みんなでいる為には……何か 一つが欠けても駄目なんですの……和樹さんが……そして、和樹さんのそばに瑞希さん がいなきゃ、駄目なんですの……だから、だから……」  あれ――  どうしたんだろう――  あたしの視界が――霞んでいる……
――アタシ、泣イテイルノ??――
 どうして??
――コタエ、見ツカッタカラダヨ……――
 そうだ――  そうだったんだ――  あたしは、ようやく、今、気付いた。  あたしは……和樹が好き――  そして――  あたしは、和樹が好きな、そして和樹を大好きな、みんなが大好き――  一一月のこみパは、普段に比べるとこぢんまりとしたイヴェントになる。  月頭のCレヴォと、来月の冬コミに挟まれて、丁度大型イヴェントの隙間に挟まる形 になる為、どうしても主立ったサークルはそちらの方に力を注いでしまうからだ。  和樹は一応、一〇月のこみパを欠席した分の穴埋めで申し込んでいるけども、今回は 全体として規模が小さく、スタッフのお呼びも掛からない為、あたしとしては少々手持 ち無沙汰になる。 「に、しても……それでも並ぶ人は並ぶんだよねぇ……」  流石にまだ、面と向かって和樹と顔を合わせるのが恥ずかしいあたしは、随分と久し ぶりに一般で入場するつもりで、ゆりかもめの駅を出てぶらぶらと入場ゲートの方に歩 いていた。  横合いから掛けられた声に呼び止められ、足を止めたのは、一般列の最後尾があると ころまで、後二〇〇メートル程のところ。  声を掛けてきたのは、外警(外周警備)担当のスタッフ女の子だった。 「おはよう……どうかしたの??」  息を切らせながら、私のところへ駆けてきた彼女が、呼吸を整えるのを待ってあたし は口を開く。 「はぁ……おはようございます、高瀬さん……あの……申し訳無いんですけど、すぐ本 部に行って貰えませんか??」 「?!……どうかしたの」  彼女の話によると、今日の混対(混雑対応)スタッフの一人が、急な風邪引きで来れ なくなったらしい。  困った事に、その病欠したスタッフが担当すべきポジションが、外周配置の壁サーク ル、つまり大手などの人が集中するAブロックの担当だった為、代役が必要となったの だが、生憎今日はそんなに人が来るとは想像していなかった為、最小限の人数しか招集 していなかったらしい。  そこで、混対の仕事に心得のある、一般で入場するつもりのスタッフがいるようなら 捕まえて本部につれてこいという南さんからの通達が出ていたのだ。  あたしは冬コミ前のこみパをゆっくり過ごせなくなった事に、内心で溜め息をつきな がらも、それじゃあ仕方ないねと彼女に言って、念の為に鞄に入れておいたスタッフ証 を胸に付けると、その場から踵を返して手近な出入り口から展示場の中に駆け込んで行 った。 「おはようございますっ!!」 「ああ、おはよう瑞希さん……良かったわ、瑞希さんがいてくれて……事情は、もう聞 いたと思いますけど、大丈夫ですね」 「ああ、はい」  本部に駆け込んだあたしを迎えたのは、いつもと変わらない南さんの温かな笑顔。  こんなときでも、焦りの表情を見せない当たりは、さすがだと思わずにいられない。  さすがに、今日は非番だったから制服は持ってきてなかったので、仕方なく南さんか ら予備の無線機とバイザーを受取ると、スタッフ証を改めて目につきやすい位置に付け 直したあたしは、南さんと手早く必要な打ち合わせを行なって、チェックリストを受取 ると足早にホールへと向かって行った。  ホールへと向かう道すがら、チェックリストを見たあたしは、なるほどという納得と 共に、何故か意味も無く引っかけられたのではという気がしてきた。  そこには、こんな固有名詞が並んでいた。     A−二六a  新住所確定     A−二六b  ブラザー2     A−二七ab CAT OR FISH?! 「お、きよったきよった」  案の定というか、スペースの前に移動したあたしを迎えたのは、忙しく準備を進める すばるちゃん、詠美ちゃん、そして和樹と、何故か一緒にいた由宇ちゃん、彩ちゃん、 あさひちゃんだった。  ちなみに、当然というか千紗ちゃんは本の配送作業で駆け回っている最中、玲子ちゃ んは更衣室、南さんは……言わずもがなだ。  そして、郁美ちゃんは心臓の手術を受ける為、先週末、渡米している。順調にいけば、 三ヶ月後くらいには再会できる筈だ。 「来って言うのはいいけど、言っとくけど今日はあたし、スタッフだからね」  どうせ何かよからぬ事を考えているのであろう、にやにや笑いの由宇ちゃんに対して、 そう、先制攻撃を放ったあたしだったが、それは由宇ちゃんの驚きの表情ですかされて しまった。 「ほえ??スタッフ……っちゅ〜ても……今日はとっくに見本誌の提出も済んだし、混対 のねぇちゃんとも打ち合わせ済んどるけど??」 「へ??」  意外な由宇ちゃんの言葉に、思わず目が点になるあたし。と――  ……くすくす  背後から聞こえた、聞き覚えのある声のくすくす笑いに、全てを悟ったあたしは、思 わず顔を真っ赤にして振り向く。 「み、南さんっ?!」 「くすくす……ごめんなさいね、瑞希さん……でも、この他にいい手が思い付かなかっ たんです……」  いつの間にか、くすくす笑いがお腹を抱えての笑いになっている南さんの姿に、すっ かり毒気を抜かれたあたしは、何も言い返すことができなくなってしまったが、それで も嵌められっぱなしのままは癪だったので、両手を腰にあてて、精一杯しかつめらしい 表情を作った。無駄な努力とは解っていたが。 「でも……いつもの瑞希さんに戻ったじゃないですか……」 「あ――」  そうだ――  あたし、今――  なんの衒いも、屈託もなく、今までと同じようにみんなと一緒に話してる――  あれ程までに、心を埋め尽くしていた重いしこりは、どこかへ消え去っている――  あれ程までに悩んだのが、嘘のようにみんなと普通に接することができる――  そして……  あたしは、大事なことに気づいた…… 「あの……えと……みんな……その……ごめんなさい!!」  どうしても言えなかったお詫びの言葉は、いとも簡単にあたしの口から滑り出た。 「あはは……気にせんでええて」 「でも……」  あたしのお詫びの言葉に、あっけらかんと応える由宇ちゃんは、なおも言い募ろうと するあたしを抑えて、更に言葉を続ける。 「まぁ、二年そこいらの短い付き合いやけどな、それでも瑞希っちゃんみたいにはっき りした性格の奴やったら、絶対ああなるて思とったもん。  せやから、気にしとらへん。それに、答え、でたんやろ」 「うん」  あたしの短い返事に、満面の笑みを浮かべる由宇ちゃん。 「せやろ、せやったら何も問題ないやん。これで、又いつも通りや。むしろ、隠すもん 無くなっただけすっきりしてもうたんやんか。ちゃうか??」 「うん……うん、そうだよね」 「それでこそ瑞希っちゃんや。そうと決まったら早いこと中入り。残念やけど、和樹の 左隣に似合うんは、やっぱり瑞希っちゃんしかおれへんねん。もう、こればっかりはう ちらも諦めるさかい、せやけど、右側は譲らへんで」  そう言って、由宇ちゃんはあたしの手を取ると、あたしをスペースの中へと引っ張り 込む。  そんな由宇ちゃんの、強引な優しさにちょっと戸惑ったあたしだったが、それでも、 スペースの内側に入って、みんなの輪の中に入って、何故か不思議と自分がいるべき場 所に帰ってきたんだという、心地よい充足感に心が満たされていく。 「そ、そうだ……瑞希さん……あの、その……、こ、これ……」 「せやせや、忘れるとこやったわ。瑞希っちゃんっちゅ〜たら、コレなしじゃ始まらん わな」  おずおず、と言った感じであさひちゃんが、小振りなスポーツバッグを差し出すと、 それを受取った由宇ちゃんがそれを私の方に押し付けてきた。 「こ、コレって……」 「瑞希っちゃんの自作に比べたら負けるかもしれへんけどな、まぁちぃ〜っとでも悪い っちゅう気があるんやったら黙って着たり。ええやろ」  ああ、やっぱりそういうことか……  全ての事情を察したあたしは、内心で溜め息をつく。  でも、恐らくは鞄の中身を用意したであろう、あさひちゃんの、どこか申し訳なさそ うな、それでいて嬉しそうな表情を見てると、不思議と嫌な気はしない。  だから、 「解ったわよ……まったく、仕方ないなぁ……」  あたしは、スポーツバッグを受取ると、それでも何故か、心をはずませながら、あさ ひちゃんと由宇ちゃんにそういうと、急ぎ足で更衣室へと向かって行った。  神様が――実際にいるのだとしたら、それはきっと、どこか捻くれた性格の持ち主に 違いない。  昼過ぎから降り始めた雪は、日が暮れる頃には聖夜の街並みを白く覆い尽くして、な お降り止む気配を見せなかった。  入稿の関係で、七時までは体が空かない和樹のために、八時の待ち合わせを取り付け たあたしは、和樹が来るまでの間、半ば無理矢理留美ちゃんを捕まえて取り留めの無い 話をしていた。  そして――  時計の針が、八時まで余すところ一二分を示す頃、肩に付いた雪を払いながら和樹が レストランにやってきた。
――モウ、逃ゲナイヨ……――
 あたしは、心の中のあたしにそう言い聞かせると、和樹がテーブルに着くのを待って、 彼の瞳をじっと見つめた。  和樹も――ただ、黙って首肯く。  やがて、注文したディナーが運ばれ、デザートと珈琲が運ばれてくる。  本物のブルーマウンテンから淹れた、本格的な珈琲の微香が鼻を擽る。  あたしは、珈琲を一口啜ると、本題に入る事を和樹に促した。  和樹は首肯き――そして、無言で鞄から小さな小箱を取り出す。  紺色の紗に包まれた小箱の中身は――言うまでもない。  あたしは……ちょっとだけ、その銀色に鈍く光るものに視線を走らせて から、和樹の瞳をじっと見つめた。  二人の間に――流れる、沈黙。  あたしの中でプレイバックされていく時間。  穏やかな笑みを浮かべたまま、じっとあたしの次の行動を待ってくれている、彼。  穏やかに過ぎる、暖かな沈黙。  万の言葉よりも沢山の思いを伝えてくれる、穏やかな沈黙。  それは、束の間の――そして、無限にも思えるほどの時間の出来事。  そしてあたしは――小さく彼に首肯くと、そっと左手を彼に差し出した。 「ありがとう……」  短い、だけど、万感の思いを込めた言葉と共に、彼の手があたしの手に添えられ――  あたしの薬指には、誓いの証が輝いていた。
――ソシテ、ズット一緒ニ……――
 再び、時は巡った。  春が訪れ、暑い夏が駆け足で過ぎ去り、秋を経て、ふたたび巡る冬。  一年前の出来事から、あたしの回りはほんのちょっとだけ、変わった。  あたしと和樹は、それぞれ借りていたアパートを引き払って、みんなで探し出したち ょっと広めの家に住むようになった。もちろん、みんなと一緒に。  家賃はそれなりに高いけれども、南さんとあさひちゃんのお給料や、和樹の原稿料、 それにみんなの同人収入なんかをあわせたら結構なんとかなっている。  この一年で、みんなもそれなりに変わったと思う。  和樹は――本格的な連載を貰ったのに加え、今年になって描いた漫画が、ビデオ化さ れると決まって更に張り切っている。  千紗ちゃんは――高校を卒業して、一応、つかもと印刷の正社員という肩書きで働い ている。千紗ちゃん自身は、いずれその内家業を継ぐ気で頑張っている。  詠美ちゃんは――一年遅れたけど、和樹とは別の雑誌社の目にとまり、そちらの方で 連載を持つ話が進んでいる。その事を知った澤田編集長の悔しそうな顔が見物だった。  由宇ちゃんは――お節介なところは変わらずだけど、その矛先を今度は彩ちゃんに向 けた。「彩ちーを日本一の絵本作家にしたるんや」とは由宇ちゃんの台詞だ。  彩ちゃんは――由宇ちゃんについて作風を拡げる為の勉強をしながら、念願だった絵 本の執筆を始めている。  南さんは――こみパの運営で相変わらず多忙だ。でも、その中であちらこちらと連絡 を取りながら、今度は自分自身が主催する即売会のための準備活動にも余念がない。  あさひちゃんは――春先に、いくらかものわかりのいい事務所に移籍したそうだ。そ して、和樹の漫画が原作のビデオアニメに声優起用されそうだというので、大張り切り だ。  郁美ちゃんは――無事、心臓の手術を終えて帰国した。今は、月に一度病院に通いな がら、高校受験に備えている。  玲子ちゃんは――大好きなコスプレで生計を立てたいといって、現在服飾の専門学校 に通っている。将来はコスプレ専門のブランドを作るつもりだというが、実はあたしも これに一枚噛んでいたりする。  あたしは――みんなの中にあって、何が出来るかを考えた結果、服飾の資格試験の受 験勉強に着手する傍ら、思い切って今年からコスプレ衣装製作を専門にするサークルを 立ち上げた。意外にも注文は順調で、順調過ぎてたまに修羅場を見ちゃったりするのは、 ご愛敬だろう。  そして―― 「和樹、もう時間だよ……」 「おう、いまいく」  あたしは、原稿用紙と格闘していた和樹に声をかけると、コートを着込み、傘を持っ て玄関に立った。  すぐにぱたぱたと言う足音と共に、和樹がやってくるのを確認すると、二人連れ立っ て外に出る。  幸いな事に――雪はすっかりあがり、空には満天の星空が広がっていた。  と、間もなく、低いグラウンドノイズと共に、ヘッドライトの光が横から差し――闇 の中に黒々とした、タクシーの輪郭が姿を表す。  ゆっくりとしたスピードで走ってきたタクシーは、あたしたちの前で停車すると、後 席のドアが開き、中から、大きなボストンバッグを担いだ、小柄な影が姿を表した。  やがて、乗客が降りた事を確かめたタクシーが再びエンジンのうなりと共に走り去る と、その場にはあたしたちと、目の前の人影の3人だけが残される。  静かな街並みに立ちこめる沈黙――  言いたいことは山ほどあるのに、ありすぎてだれもが口を開けない。 「ぱ、ぱぎゅ……」  ようやく、あたしたちの前に経つ人影が、それだけを口にする。  彼女は――実家のしきたりに従って、この一年の間、あたしたちの元を離れ、田舎で の花嫁修業に専念していたのだ。  会えないことは辛かったけど――それでも、再会の日が予め解っているから、耐えら れない訳じゃなかった。  それでも――ふたたびの再会が、これほどまでに胸を熱くするとは、あたしにも和樹 にも、そして彼女にも、予想外だったに違いない――  だから――  言葉が出ないのではない、見つからないのだ。  でも――  そんな沈黙を破るのは、あたしの仕事だと解っていた。  そう、だって、あの日、あたしの心の壁を打ち開いてくれたのは、彼女なのだから。  だから、彼女を迎える為の言葉は、あたしは言わなければならない。  そしてあたしは――言った。 「おかえり……すばるちゃん」  その一言を口にした瞬間、こみ上げたものが溢れ出す。  どさり。  真っ白な雪の上にバッグが落ちた。  一つ……二つ――  雪の上に、足跡が生れ――  そして―― 「ぱぎゅぅぅ〜、ただいまですの〜、瑞希さん、和樹さん!!」  両手を広げたすばるちゃんが、あたしたちに飛びついてくる。  あたしと和樹は、そんなすばるちゃんの体を優しく抱き留めながら、長くて、短い時 間の果てにようやく完成した始まりの物語を、その終焉を愛おしく思ったのである。
――ソシテ、コレカラハ、ミンナ、イツマデモ一緒ダヨ……――
fin.

P.S.Post Script
 何事かを語る前に、先に謝っておきます。  ごめんなさい〜〜ごめんなさい〜〜〜  8・9・10・11・12月と、5ヶ月も引き伸ばしてごめんなさい〜〜〜  すばるの登場心待ちにしてた皆さんごめんなさい〜〜〜〜
元ネタ……………………解る人だけ解れ(笑)
 と、言う事で、謝罪から始まりましたが、難産の末にようやく脱稿致しました。  元々は如何にして既に定着している千堂家にすばるを無理なく組込むか、というとこ ろから始まったこのストーリーですが、終わってみればなんのことはない、結局瑞希の 話になってしまったというのは私の至らぬところといえるでしょう。  さて、たさいシリーズはこれまでに多数が上梓されていますけれども、こういう形で の「始まりの物語」と言うのは他に類を見ないのではないでしょうか。  了承も含めて、多妻家族の成立後の話は数有るんですが、それ以前の話というのはあ まり見た事がないと思いましたので。  拙作としては、了承の方での発表となった、前田家(ぴあきゃろ2)に続いて2作目 にあたりますが、ぴあ2とこみパは様々な意味で、私に取っては最もあらゆる意味で思 い出深い作品ですので、こういう形での執筆機会が有りましたことは、この上ない喜び であるのですが、今後は継続してその他の家族や、未だ見ぬ次のたさい家族のエピソー ドも描ければと思っております。  なにはともあれ、これですばるも晴れて千堂家の仲間入りを果せたと思います。  今後は、従来のメンバーに加えて、すばるも皆さんに可愛がって頂ければと思うので すが……  それでは、また次回作にてお会いしましょう。
20.dec.2001 うめ☆cyan



 ☆ コメント ☆

セリオ:「―――ということで、みなさん幸せになりましたとさ。
     めでたしめでたし。
     ……以上、コメント終わり」(^^)

綾香 :「終わるなーっ!」凸(ーーメ

セリオ:「むぅ。なんですか、綾香さん? そんな大声張り上げて?
     はしたないですよ」(ーー;

綾香 :「やかましいわい。……てか、あたしにも少しは喋らせなさいよ」(ーーメ

セリオ:「…………。
     せっかく綺麗にまとまったっていうのに」(ーー;

綾香 :「しゃらっぷ!
     そもそも、どこが『綺麗に』まとまってるのよ、どこが?
     ただ単に強引に終わらせてるだけじゃないの。
     ……まったくもう」(−−;

セリオ:「ぶー」(−o−)

綾香 :「……ま、いいわ。
     しっかし、それにしても、この話。
     一時はどうなることかと冷や冷やしたわ」( ̄▽ ̄;

セリオ:「ホントですねぇ。
     まさか、瑞希さんがあの様な態度をとるとは思いませんでしたから」(;^_^A

綾香 :「まあ、気持ちは分からなくはないけどさ」(^ ^;

セリオ:「ですね」(;^_^A

綾香 :「しっかし、瑞希さんって変なとこで素直じゃないわよねぇ。
     意地っ張りというかへそ曲がりというか頑なというか」(^ ^;

セリオ:「まったくです。少しは綾香さんの脳天気さを見習っていただきたいくらいですね」(;^_^A

綾香 :「そうそう。
     ……って、こら! 誰が脳天気よ!?」凸(ーーメ

セリオ:「おおっ、見事なノリツッコミ!
     素晴らしいです。完璧です。グレイトです」(^0^)

綾香 :「そ、そう?
     それほどでも……あるけどぉ。おーっほっほっほ」(^0^)

セリオ:「見てますか瑞希さん!
     これ! まさにこれです!
     瑞希さんに必要なのはこの無意味なまでの脳天気さとお気楽さと軽さです!」

綾香 :「…………おい」(ーー;

セリオ:「さすがは綾香さん。
     こういう面に関するお手本をさせたら天下一品ですね」(^0^)

綾香 :「…………うっさいやい」(ーー;




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