梓が奏でる狂詩曲(ラプソディー)

たからもの

最終章




「梓!」
 耕一はがばっと顔を上げると、目の前で説教を続けている楓を見た。
「楓ちゃん、やっぱり梓だよ。まちがいない、梓が助けを呼んでる!」
 楓は大きくため息をついて耕一を見た。
「またですか、耕一さん。いいかげんなこと言わないでください」
「いいかげんじゃない。確かに梓は助けを呼んでるんだ! なんでわかんないん
だよ!」
 立ち上がった耕一は楓の肩を強くつかんで揺らした。
「聞こえない? 楓ちゃん、俺よりテレパシー能力あるんだろ? だったら梓が
助けを求めるテレパシーが聞こえるだろう!?」
「残念ですけど、梓姉さんはほとんどテレパシーなんて使えませんよ。私だって、
梓姉さんがよほど強く念じてくれても、その声が聞こえる範囲はせいぜい半径5
メートルぐらい。だから梓姉さんのテレパシーなんて聞こえるわけないんです。
梓姉さんだけじゃありません、遠く離れても会話できるのなんて、私と耕一さん
ぐらいのものです。きっと耕一さんが聞こえたのだって空耳です」
「そんな……」
 耕一は助けを求めるように初音を見た。
 しかし初音も黙って首を横に振るのみだった。
「でも、俺は確かに……」
「耕一さん、もしかして私の話を聞くのがいやになったから、そんなことを言っ
てるんじゃないんですか? だったら本気で怒りますよ。だいたい耕一さんとき
たら――」
 再びこんこんと説教を始めた楓の声を聞きながら、耕一はぎゅっと拳を握りし
めた。
「……やっぱり、違う」
 耕一はくるっと楓に背を向け走り出した。
「あれは、空耳なんかじゃない!」

「楓お姉ちゃん、本当に何も聞こえなかったの?」
 走っていく耕一を見ながら、初音が楓にたずねた。
「さっき言った通りよ」
「じゃあ、どうしてお兄ちゃんはあんなことを?」
「さあ。ただの空耳か、それとも」
「心?」
 初音の言葉に楓は何も答えず、静かに目を閉じた。

 耕一は自分の勘を信じて、がむしゃらに走り続けた。
 ――どこだ梓。どこにいるんだ。
 ――あの女のために、なぜそんなに懸命になるのだ、柏木耕一?
 突然脳裏に響いた声に、耕一はぴたりと足を止めた。
「な、誰だてめぇは!」
 耕一はあたりを見回した。
 だが、どこにもそれらしい影は見えなかった。
「空耳? ……ちっ、むだな時間を!」
 耕一は小さく舌打ちすると再び走り出した。
 すると、再びさっきの声が聞こえてきた。
 ――おまえにとって柏木梓という女はいったいなんなのだ? それほどまでに
こだわる必要のある、大切な存在なのか?
 ――うるせえ! いったいてめぇは誰なんだ!
 ――質問に答えろ。
 懸命に走りながらも耕一はその声の問に心の中で答え続けた。
 ――てめぇには関係ねえだろ! こだわるも何も、あいつは今助けを求めてる
んだ! 従兄妹が危ないってのに助けに行かないでどうする!
 ――本当に危ないのか? おまえの気のせいではないのか?
 ――あいつは確かに助けを呼んでいた! 絶対だ!
 耕一はぴたっと立ち止まると、きょろきょろとあたりを見回し、人気の少ない
方へ走っていった。
 ――なぜそっちへ行く?
 ――あいつの声が、こっちから聞こえたような気がした。それだけだ。
 ――そうか。では、百歩ゆずって柏木梓が本当に危険だとしよう。なぜおまえ
が助けに行くのだ?
 ――なんだと?
 ――柏木梓は腫れ上がるほどにおまえの顔を叩いた存在だぞ。
  ――あれは俺が悪いんだ。俺が、あいつを泣かせたから。
 ――では、その泣かせた罪滅ぼしでこのようなことをしているのか?
 ――違う! 泣かせたのは、あとできっちり詫び入れする! 泣かせたとか、
そんなの抜きで、俺はあいつを助けに行くんだ!
 ――柏木梓が助けを求めるほど相手は強いかもしれないのだぞ。なのに、危険
を冒してまで、おまえは行くのか?
 ――いちいちうるせえぞてめぇは! 相手が誰であろうと、邪魔するやつは
ぶっ飛ばすだけだ! 差し違えてでもあいつだけは助ける!
 ――頼まれても守ってやらないのではなかったのか?  おまえは柏木梓を守る
価値のない存在だと思っていたのではないのか?
 ――いいかげんにしろ! 俺はあいつを守るんだ……誰が相手だろうと、どん
なことがあろうと、俺が、俺が梓を、護るんだ――――!!

「まったく、普段からそうやって素直でいればいいのに」
「どうしたの、楓お姉ちゃん。瞑想?」
「ううん、ちょっとした試験」
「へ?」
「わからなければ、それでいいのよ」
「ふーん」



「んしょっと、ふぅ。これで準備オーケーです」
 自分のバッグから取り出した大きなタオルケットを床に敷いたかおりは、梓を
その上に移動させ横たわらせた。
「これで先輩の体が汚れる心配もなくなりましたね。こんなときのために持ち歩
いていてよかったです。でも……」
 かおりは部室の中をぐるっと見回すと、頬に指を当てた。
「初めての場所は、やっぱりベッドの上の方が私もよかったんですけど……。ま、
仕方ないです。背に腹は代えられませんしね。それに、こういうシチュエーショ
ンも、なんかいいかな、とも思いますし。先輩はどう思います?」
 かおりは梓の方を向いた。
 だが梓はなんの反応も示さず、ただぼうっと天井を見つめているだけだった。
「……ま、いっか。よくよく考えたら、絶対に邪魔が入らないってだけでも十分
すぎる場所ですよね、ここ。そう、たとえ誰であろうとも、絶対に、邪魔はでき
ない。あの男だって……。んふ、んふふふふふふ」
 分厚い鉄製の扉を見て含み笑いを始めたかおりは、身じろぎ一つしない梓の側
にしゃがみ込んだ。
「先輩」
 かおりは笑みを浮かべたまま、梓の頬を指でそっと触った。
「先輩の頬、白くって、柔らかくって、すべすべして本当に気持ちいい。このま
まずっと触っていたい気分です。んふふ、この頬や肌がとうとう私のモノになる
日が来たんですね」
 かおりはうっとりとした表情で梓の頬を触り続けた。
「そう、とうとう来たんです、私と先輩が他人じゃなくなるときが。先輩の全て
が私のモノになるときが。これがその第一歩」
 梓の体をなめ回すように見ると、かおりはそっと梓の顔に手を添えた。
「さあ、まずは私の唇を奪ってください。んふふ、もうじたばたしないんですね。
いい娘ですよ、先輩」
 かおりは目を閉じると、ゆっくりと唇を梓に近づけていった。
 梓はかおりの唇が目前に迫ってくるという現実に耐えられないかのように、
ぎゅっと目を閉じた。

 ――やだ、これ、ほんとのことなの? 夢じゃないの? あたし、ほんとにか
おりと、女同士で、好きでもないやつと、こんなことするの? 誰か夢だって
言ってよ。あたしの目を覚まさせてよ。あたしを起こしてよ。やだ、やだよ、誰
か助けてよ。助けてよ、助けてよ……。

 だがどれだけ梓が嫌がろうが、彼女の体はほとんど動かすことができなかった。
 その間にもかおりの唇はどんどん梓に近づいていった。



 ――……たすけて…………こういち…………。



「梓――――!!」
 ドカ――――ン!!
 だが、かおりと梓の唇が触れ合う寸前、突然響いた大きな音と共に、鉄製で頑
丈な部室のドアが吹き飛んだ。

「誰!」
 かおりは立ち上がって、きっとドアを睨みつけた。
「ふ……は……」
 梓もほとんど動かない頭を必死で動かしてドアの方を見た。
「梓、無事か」
 そこに立っている人物は、上げていた右足を下ろすと肩で息をしながら梓を見
た。
 その人物こそ、梓が心からこの場所にいて欲しいと願った人物だった。
「こ、――いち――」
 梓はほとんど動かない口で、必死でその名前を呼んだ。
「柏木、耕一」
 かおりは殺気と怨念がこもった視線を耕一に向けた。

「何、やってんだ、おまえら……」
 耕一はドアの残骸を踏みつけながら、ゆっくりと部室の中に入ってきた。
 かおりは悔しそうな顔を一瞬浮かべると、ぱっと表情を変え勝ち誇ったような
顔になった。
「み、見ればわかるでしょ。私と先輩が互いの愛を確かめ合ってるところよ」
「んだと?」
「聞こえなかったの? ふん、聞こえなかったのならもう一度言ってあげる。私
と、先輩が、愛を、確かめ合ってるところ。互いの体を重ね合わせて一つになる
ことによってね。それにしても、あなたこそ何しに来たわけ? みっともなく顔
なんか腫らしちゃって。おおかた痴漢でもしてひっぱたかれたんでしょ? なに
しろ、変態の痴漢だから」
「…………」
 かおりがゆっくりと大きな声で話すのを耕一は黙って聞いていた。
「さ、これでわかったでしょ。私と先輩はもうすでに他人じゃないの。あなたみ
たいな変な顔腫らし痴漢男が付け入る隙なんて、これっぽっちもないわけ。わ
かったら、早くどっか行け……!」
 かおりは出した自分でもぞっとするほど冷たい声で最後の言葉を言うと、耕一
に手で追い払うような仕草をした。
 だが耕一はじっと梓を見つめていた。
 かおりはその様子にいらいらしたように声を荒げた。
「早く行けって言ってるでしょ! わかんない男ね。あなたは振られたの! い
つまでも私たちの邪魔しないでよ!」
 だがそれでも耕一はその場を動こうとしなかった。
 かおりは顔を引きつらせながら耕一を見た。
「ふーん、どうしても動かないつもり。あ、なるほど。私の言った言葉を疑って
るのね、あなた。そう、なら、証拠を見せてあげる。さ、先輩、私たちの愛の深
さを見せつけてやりましょう。いつもやってるみたいにすれば、きっとこの男も
あきらめがつくでしょう」
 かおりは梓の頬に手を添えると、先ほどと同じように唇を近づけていった。
「やめろ!」
 そのとき耕一が思わず出した大声に、かおりはぴたりと動きを止めた。
 かおりは耕一を見ると、嘲る(あざける)ような顔をした。
「あら、やきもち? 男の嫉妬はみっともないわよ。それにね、どうあがいても
あなたは振られたのよ。私たちの愛の営みを見たくないのなら、さっさと消えれ
ばいいでしょ」
「本当なのか、梓」
 耕一は低くはっきりとした声を出した。
「は? 何言ってるの? そんなの当然でしょ」
「どうなんだ、梓。この娘の言ったことは、本当なのか?」
 耕一はかおりを無視して、梓の顔をじっと見つめた。
 ――耕一……。
 梓はじっと耕一の目を見返した。
 しかし、その目からはなんの感情も伺えなかった。
 ――やめてよ。そんな目、しないでよ。かおりの言ったことなんて全部うそな
んだから、そんな目で、あたしを、見ないで。
 梓は誤解を解きたい一心で、未だうまく動かせない唇を必死で動かそうとした。
 だがその動作はとても小さく、耕一にその動きが見えることはなかった。
「ち――う――」
「ほら、先輩は何も言わないじゃない。あなたの言葉を否定してるのよ!」
 さらにそのほとんど動かない口から必死に発せられた小さな否定の言葉も、そ
れを遮るように出されたかおりの大声によって、耕一に届くことはなかった。

 ――違う。違うよ。あたしは、そんなことしてない。信じて、耕一。

 どうしようもない哀しみが梓の心を覆ったそのとき、梓の頬を、一筋の涙がつ
うっと流れた。
 そしてその涙は窓から射し込む夕日を反射させて、耕一の目に一瞬だけ光を見
せた。

 ドクン。
 そのとき、耕一の心臓が、一際大きく脈打った。

 耕一はぎゅっと拳を握ると、再び低い声を出した。
「離れろ」
「は?」
「梓から離れろ」
「な、何言ってるのよ。なんであなたなんかに命令されなきゃいけないのよ。し
かもそんな命令、聞けるわけないでしょ!」
 かおりは強気な態度で叫んだが、内心言いしれぬ恐怖を感じ始めていた。
 だがかおりはそんな恐怖を払いのけるように叫び続けた。
「先輩はあんたの言葉を否定したのよ、あんたなんかじゃなくって私を選んだの
よ、あんたになんの権利があってそんなことが言えるのよ!」
 かおりは手元にある物を、次から次に耕一に投げつけ始めた。
「ここから消えなきゃいけないのはあんたよ! 今すぐ先輩の目の前から消えて
よ! 先輩の心からいなくなってよ!!」
 ひとしきり叫び、物を投げつけ、はぁっはぁっと荒い息をつき始めたかおりに、
耕一はゆっくりと近づいていった。
「悪いが、俺は今マジで頭にきてる。なんでこんなに頭にきてんのか、自分でも
よくわかんねえんだけどな。とにかく、いつ爆発してもおかしくないくらい、本
気でムカついてんだ。嫉妬とでもなんとでも、勝手に言ってろ。俺はおまえの言
葉なんざ、死んでも信じない」
 ――耕一……。
 梓の瞳から、再び一筋涙が流れ落ちた。
 耕一は一歩一歩、ゆっくりと近づいていった。
「おまえが力の弱い、普通の女だってことは頭じゃわかってる。けどな、そんな
こと、もうどうでもよくなってきてるんだ、正直言って。いいな、これが最後だ」
 耕一はぴたりと立ち止まった。
「今すぐ、梓から離れろ」
「…………」
 かおりは顔を引きつらせながら、わずかに首を横に振った。
「はなれろ……!」
 耕一は爆発しそうになる殺気を必死で押さえ込みながら、低くはっきりした声
を出した。
「くっ……!」
 耕一の殺気に押されたかおりは、よろよろと後ずさり、部室のロッカーにべた
んと背中をくっつけると、そのままずるずるとへたり込んだ。

 かおりが梓から離れたとたん、一瞬で殺気を消した耕一は、梓の側にしゃがみ
込んだ。
「あ、あの、梓……」
 だが、梓の涙を見たときの激情に任せてこのような行動をとったものの、結局
自分が何をするべきなのかや、事の是非すらもよくわかっていなかった耕一は、
困ったように梓に声をかけた。
 虚ろな目をし続けていた梓は、耕一が自分の側に来たことが確認できると、
ゆっくりと口を開いた。
「こ、いち――」
 耕一を見つめる梓の瞳から、ぽろぽろと涙が溢れてきた。
 さっきの一筋の涙どころではないそれを見た耕一は、頭がパニック状態になり
かけた。
「あ、え、いや、あの、その、俺、も、もしかして、なんかまずいこと、した?
え、うそ、いや、も、もしかして、あの娘の言ったことって、ほん――」
「あり、が、と――」
「へ?」
「うれし、い――。あ、りがと――」
 止めどなく涙を流しながら礼を言う梓に、混乱した耕一の心も急速に落ち着き、
その顔にも穏やかさが表れた。
「そ、そっか。よかった。無事、みたいだったし。……ん?」
 そのとき、耕一は梓の両手が後ろ手になっていることに気づいた。
「おまえ、手、どうしたんだよ。……これ!」
 梓の両手に巻き付けられた鎖とそれを止める南京錠を見た耕一の顔が、さっき
以上に嶮しくなった。
「おまえ、こんなもんつけられてたのか! 待ってろ、今すぐこんなの外してや
るからな」
 耕一は鬼の力を解放しながら両手に力を込めた。
「でえぃ!」
 バキン!
 派手な音を立てて、耕一は南京錠ごと梓の腕に巻き付いていた鎖を引きちぎっ
た。
「さ、これで……くっ、ご丁寧に鎖の下は手錠かよ」
 梓の手首に鎖がちぎれた手錠がかけられてたのを見て、耕一の顔はさらに嶮し
くなった。
「ちょっと痛いかもしれないけど、我慢しろよ」
 ベキ!
 耕一はなるべく梓の手首に衝撃が来ないように注意しながら、手錠も壊した。
「手錠に鎖。こんなもんで梓を拘束してたのか。ん? あれは……」
 耕一は梓の側に落ちているスプレーの缶を拾った。
 訝しげな顔をした耕一はそのスプレーを手の甲にかけると、その臭いを嗅いだ。
「んげ、なんだこの臭い。すっげーキツイ。刺激臭ってやつか。てことは、まさ
か……」
 ぺろっと手の甲を舐めた耕一は、急にしかめ面になって口の中の物を吐き出し
た。
「うぇ、舌がしびれる。そうか、そういうことか」
 口を拭った耕一はすっと目を細めた。
「気が、変わった……」
 耕一はゆっくりと首を回して、未だロッカー前に座り込んでいるかおりを見た。
 かおりの姿を確認した耕一は、きっと彼女を睨みつけた。
「…………」
 かおりは何も言わず、必死な形相で耕一の視線を受け止めた。
「日吉、かおり……」
 耕一の全身から殺気が炎のようにほとばしった。
 その量、激しさ共に、昼間の梓や楓の比ではなかった。
「ひぃっ……!」
 がたん。
 普通の生物ならば、すぐにでも正気を失うであろう、耕一の殺気を浴びたかお
りは、少しでもこの場を離れようと、背後のロッカーにへばりついた。
「…………」
 かおりは歯をがたがたと鳴らしながら、耕一を睨んだ。
「よくも、よくも梓こんなひどい目に遭わせやがったな! 日吉かおり!! 
てめぇ、ただで済むと思ってんじゃねえだろうな、こらぁ!!」
 耕一の叫びと共に、その体からほとばしっていた殺気が一気に爆発した。
「……あ……あぐ、ひ、ひぐ……」
 本当に、それだけで人を殺せるかもしれないほどすさまじい耕一の殺気にあて
られたかおりは、目を見開き、恐怖の形相を顔に貼り付けたまま、ただひたすら
がたがたと震えていた。
「てめぇが女だからって、絶対容赦しねえぞ!! いいな、てめぇが梓に遭わせた
苦しみ、何億倍にもして俺が返してやら……あ、ずさ……」
 怒りのままに立ち上がろうとした耕一だったが、動けないはずの梓が彼の手を
ぎゅっと握ったため、思わず動きを止めてしまった。
 耕一は梓をじっと見つめた。
 梓は震える手で耕一の手を握りながら、瞳を潤ませて耕一を見つめ返していた。
 その梓の口から小さな声が聞こえてきた。
「だめ――だよ、こういち――」
「だ、だめって、おまえ何言ってんだ。あの女にこんなひどい目に遭わせられた
んだぞ。それにもし俺が来るのが少しでも遅れてたら、もっとひどいことになっ
てたんだ。わかってるのか?」
 真剣な顔で梓を諭そうとする耕一だったが、梓は瞳に涙をいっぱいに溜めなが
らふるふると首を横に振り続けた。
「それで――も、だめ――よ。か――おりは、女の、子――んだ――よ」
「そんなことは言われなくてもわかってる! けど女の子だからって許せること
と許せないことがあるだろうが! あの女は絶対やっちゃいけないことをおまえ
にやったんだ! 許せるわけねえだろう!!」
「男が、女の――に、乱暴なことしちゃ――だめ、だよ。絶――にしちゃ――め
だ、よ」
「だけど……」
「……ほしくない。耕一に――んなこと――してほしく、ない。どんな――わけ
があっても、女――子に手を上げるな――て、耕一に――してほしくない。あた
しなんか――のため、に――耕一にそ――んなことして――ほしく――ない。い
つも――の優しい、耕一に――」
 梓の瞳からは再び涙が流れ始めていた。
 一方、耕一の顔は悔しさとどうしようもない怒りで、いつの間にか真っ赤に
なっていた。
「っか野郎、ふざけんなよ。誰のため……って、おまえだから、俺は……バカ野
郎……いつもいつも人のことばっかり……それじゃおまえの気持ちは……少しは
自分のことも……っくしょ……っくしょ……っくしょ――――!!」
 グシャッ!
 耕一は先ほど梓の手首に巻かれていた鎖と南京錠を左手でつかむと、一息で握
りつぶしてしまった。
  その瞬間、部室の中を静寂が覆い、耕一の殺気も徐々に小さくなっていった。
 耕一の殺気が消えると同時に、かおりは壊れた人形のようにがくんとうなだれ
た。

 完全に殺気が消え呼吸も落ち着き始めた耕一は、つばをごくりと飲み込むと、
目を閉じて大きく深呼吸をした。
 そしてゆっくりと目を開くと、穏やかな表情で優しく梓の髪をなで、そっと指
で梓の涙をぬぐった。
「帰ろう、梓」
「こう、いち――」
 疲れているのだろう、先ほどよりもさらに小さい声を出した梓に、耕一は今の
自分にできる精一杯の笑顔を返すと大きくうなずいた。
「おまえの涙は、さすがにもう見たくない。お前に泣かれる方が、よっぽど辛い
んでな」
「あ――りが、と……」
 途切れ途切れにつぶやくと、緊張の糸が切れたかのように梓は気を失ってし
まった。
 気を失った梓の顔をじっと見つめながら、慈しむようにその髪をなでた耕一は、
すっと梓の背中と膝の裏に手を添えて彼女の体を抱きかかえると、そのままゆっ
くりと立ち上がった。
 ――本当に、本当に無事でよかった。
 慈しみの感情に彩られた優しい笑みを浮かべると、耕一は梓を起こさないよう
にゆっくりと部室の入り口に向かった。

 かおりは何をするでもなく、感情の色が全く存在しないその瞳に梓たちの様子
をぼうっと映しこんでいた。
 しかし部室の入り口に向かう耕一と梓の姿がその瞳に映し出されたとき、一瞬
にして感情が蘇った。
 ――センパイガ、イナクナル。
 ――アノオトコニ、ワタシノ、センパイガ、ウバワレル。
 部屋を出ようとする耕一の行動が、梓と自分の永遠の別れを産み出す物のよう
に思えたかおりは、心に浮かんだ感情のままにゆっくりと行動を起こし始めた。
 ――ケサナキャ。
 ――ワタシノセンパイヲ、ワタシカラウバウ、アンナオトコハ、ケサナキャイ
ケナイ。
 ――ケシテ、センパイヲ、タスケナキャイケナイ。
「オトコ、キエロ……」
 耕一の殺気を浴びたせいもあり、既に正常な判断力を失ってしまっていたかお
りは、側に落ちていた自分のウエストポーチに手を入れると、彼女が護身用とし
て持っていたバタフライナイフを取りだした。
 焦点の定まらないままゆらりと立ち上がったかおりは、ナイフの刃を出し両手
で柄をしっかり握ると、狂気にとらわれたような引きつった笑みを浮かべた。
「キエロ……キエロ……キエロ――!!」
 抑揚のない声で叫ぶと、かおりは耕一の背中に向かって突進していった。

 パキーン!
 だがかおりの凶刃が耕一に届く前に、何かの壁に遮られたかのようにナイフの
刃は折れ、柄と共に床に落ちて乾いた音を立てた。
 耕一が繰り出した後ろ回し蹴りが、かおりのナイフを的確に捉えていたのだ。
 耕一は手を押さえてうずくまっているかおりに、背を向けたまま言い放った。
「これでわかったろう、無意味なことはやめろ」
 その声に反応するかのように、かおりはキッと耕一をにらみつけた。
「梓の頼みである以上、俺はおまえを傷つけない。それに、俺を刺すことによっ
ておまえが犯罪者になることも、梓は望んじゃいない。だから、これ以上何もす
るな」
「……ウルサイ。ダマレ。オトコ、キエロ……キエロ。キエロ、オトコ!」
「いつまで梓に嫌われることを続ければ気が済むんだ、おまえは」
「…………!」
 折れたナイフを拾おうとしていたかおりだったが、耕一の言葉に体をびくっと
震わせるとそのままがっくりと床に両手をついた。
 耕一はそれ以上何も言わずに部室から出ていった。

 耕一たちが部室から出ていったとたん、緊張の糸が切れたかおりはぽてっと床
に倒れ込んだ。
「はは、は、ははは……結局、先輩に嫌われちゃっただけか……」
 のろのろと起きあがったかおりは、自分のポーチをがさごそとあせりだし、定
期入れを取りだした。
「先輩」
 かおりは定期入れを開いてそこに入っている梓の写真を見つめた。
 それはこの間行われた陸上の大会で梓が優勝したときの写真で、梓の晴々とし
た笑顔が写っていた。
 それはかおりの知っている中でも最高の梓の笑顔だった。
 だからかおりはこの写真を常に携帯し、宝物のように扱っていた。
 しかし、かおりは今日、この写真以上の梓の笑顔を見てしまった。
 しかもその笑顔は決して自分に向けられることのない物。
 いや、もしかすると彼女に向けられるチャンスはあったのかもしれない。
 だが彼女は自らの手でそのチャンスを潰してしまった。
 もう二度と、決して梓がかおりにこの笑顔を向けてくれるチャンスは訪れない
だろう。
「先輩……」
 かおりの脳裏を梓との思い出が次々によぎっていった。
 初めて梓に出会った日のこと。
 マネージャーとして梓のクラブ活動に携わった日々のこと。
 学生生活の中で、何かにつけて梓と関わろうと奮闘した日々のこと。
 それらの日々の一瞬一瞬が、かおりにとって、何物にも代え難い大切な思い出
だった。
 そして、その一つ一つが思い出されるたびに、かおりの瞳からは一筋、また一
筋と涙が流れ始めていた。
「せん、ぱい……」
 その瞳を流れる涙は止まるどころか次々とその量を増やしていった。

 そして。       

 耕一に髪をなでられているときに梓が見せた、安心しきった穏やかな顔が脳裏
をかすめた瞬間、かおりは堰を切ったように大声で泣きだした。
「う……あ……うわあぁぁぁ――――!!」

 このとき、かおりは笑顔を失った。
 そんな彼女に笑顔が戻ったのは一ヶ月後。
 この事件以来、初めて梓がかおりに話しかけた日のことだった。



「……ん? あれ、あたし、何してるの? それに、ここどこ? どうしてこん
な所にいるの?」
 しばらくして体に感じる上下の揺れで目を覚ました梓は、寝ぼけたようにきょ
ろきょろとあたりを見回した。
「お、やっとお目覚めか、お姫様」
「……お目覚めって、耕一、あんたどうしてあたしに背中向けてくっついてる
の?」
 梓は自分の目の前にいる、と言うよりもくっついてる人物、耕一に話しかけた。
 梓の質問に、耕一は大きくため息を一つつくと、やれやれといった調子で答え
た。
「見たまんま。俺がおまえをおぶってるから」
「なるほど。そう言えば」
「で、おまえは今家に向かって帰ってるところ。つまりここは帰り道。質問の答
えは、こんなもんでいいか?」
「いいと言えばいいんだけど、簡潔すぎて……。ね、悪いんだけど、最初っから
ちゃんと説明してくれない? あたし、眠っちゃったあと、どうなったわけ?」
「ああ。ま、簡単に言うとだな、おまえが眠ったあと、すぐに俺は眠ったおまえ
を楓ちゃんたちの所に連れてったんだ。ほんとは保健室に連れて行くべきだった
のかもしれないが、根掘り葉掘り聞かれるのもまずいと思ったんでな」
「ごめんね、かおりのことで気使わせちゃって」
「気にするな。で、まずおまえの体のことが気になったんで、楓ちゃんに状況を
説明したあとであのスプレーの缶を渡して、おまえが大丈夫なのかどうか聞いた
んだ。そしたら大丈夫だって楓ちゃんが。なんでもあの薬を嗅ぐと、長くて二、
三時間体の自由が利かなくなるだけで、後遺症も何もないらしい。ま、あの日吉
かおりの目的は、おまえの体をしばらくの間自由にすることだったんだろうから
な。そう考えれば、当然かもしれない」
「そう……」
 梓は耕一のかおりに対しての呼び方に少し悲しさを感じたが、当然といえば当
然なのであえて黙っていることにした。
「それでもしばらくはおまえの体の自由は利かないわけだし、おまえも眠ってる
し、仕方ないからおまえの担任に早引きするって連絡して、こうして帰ってるっ
てわけだ。まあ、早引きって言っても、もう夕方になってるがな」
「楓と初音は?」
「おまえの替わりに今日は自分たちが夕食を作るって言って、買い物に行った」
「そうなんだ、ありがと、色々迷惑かけて」
「そう思うんだったら、もうちょっと気をつけろ。あの日吉かおりと付き合うな
とは言わないが、用心ぐらいしておけ。いつも俺がついててやれるわけじゃない
んだ」
「うん、そうする。でもさ、耕一が側にいるときは、気をつけなくてもいいんだ
よね。耕一が守ってくれるから」
「んぐっ」
 梓は耕一のあわてた様子を見て、おかしそうにクスクスと笑った。
「冗談」
「お、おまえな……」
「ごめん。あれ、そう言えばさ、気のせいかもしれないんだけど、あたしあんた
にものすごく恥ずかしい抱き方って言うか、ぶっちゃけた話『お姫様だっこ』さ
れてたような気がするんだけど。あたしの気のせい?」
「…………」
 耕一は何も答えなかった。
 だがその機嫌が確実に悪くなったのだけは、背後の梓にもはっきりと見て取れ
た。
「事実なんだ」
「……悪いが、その事にはあまり触れないでくれ。嫌なことを思い出す」
「……楓たちに見られたんだ」
「うん……」
「で、さんざからかわれたんだ」
「うん……」
「バカだねー。そんなことするからじゃないか。大方、後先考えずに行動したん
だろ。あんたのことだから、とにかく一秒でも早くあたしを楓たちの所に連れて
行かなきゃ、とだけ考えてさ。まあ、見られたことはあたしも恥ずかしいけど、
からかわれたのはあんただけだし、とりあえずは良しとしとこうかな。うん」
 けらけらと笑う梓に対して、耕一は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「その、悪いんだが……おまえのクラスメートと名乗る女性にも、見られた……」
「へ? うそ?」
「残念だが本当だ。セミロングの眼鏡をかけた娘と、ショートカットの小柄な娘」
「え――――!!」
「すまない」
「うそぉ、よりによって一番たちの悪いあの二人に……。きっと今頃もう噂広
まってるよ……。あぁ、明日からどんな顔して学校に行けばいいんだか……」
 がっくりと頭を下げた梓に耕一はまじめな顔をして答えた。
「それについては心配するな、明日は振替休日で休みだ。それに人の噂も七十五
日」
「あんたが言うな!」
 ポカ!
「あた!」
 耕一のあまりの無神経さに腹を立てた梓は、思わずその頭を叩いていた。
「……まったく、この粗忽者(そこつもの)は」
「謝ったんだから殴らなくったっていいだろう」
「うるさい」

 そうこうするうちに家まであと1キロといった場所まで帰ってきたところで、
ふと梓が耕一に話しかけた。
「耕一、ちょっと休憩していかない?」
「休憩?」
「うん、ずっとあたしをおぶってて疲れたんじゃないかなっと思って」
「別に大して疲れちゃいないが……ま、いいか。で、どこで休憩するんだ?」
「そこを曲がったとこに公園があるから、そこに行こう」
「公園か。了解」
 耕一は梓をおぶり直すと、道を曲がって公園に向かった。

 公園の中央に来た耕一は背中の梓に言った。
「じゃあ、あのベンチにでも座るか。いけるか、梓?」
「うん、もう大丈夫だと思う」
「よし」
 ベンチの側に来ると、耕一は注意深く梓をそこに座らせた。
 だが梓が倒れないのを確認しても、耕一はじっと梓の顔を見たまま座ろうとは
しなかった。
 梓は訝しげな顔をした。
「何やってんの? 座れば?」
「梓、ちょっとここで待っててくれ」
「いいけど、何する気?」
「いいから待ってろ」
 耕一は公園から走り去った。

 数分後、公園に戻ってきた耕一が見たのは地面に立ってジャンプをしている梓
だった。
「おまえ、何やってるんだ! おとなしくしとけよ!」
 大声を出した耕一に、梓はばつが悪そうな顔をした。
「ご、ごめん。でも体、大分治ってきたから。ちょっとリハビリでもって思って」
「治ってきたのは結構だが、無理するな」
「うん」
 梓は再びベンチに腰を下ろした。
「そう言えば耕一、さっきはいったい何を――」
「ほら」
 耕一は梓に、手に持っていた物を渡した。
 梓はその手の物を見てなんとも言いようのない複雑な表情になった。
 それは、レモンティーの缶ジュースだった。
「耕一、これ」
「そ、そのさ、ひ、昼間は、おまえの分だけ、買えなかったから、色々あって、
さ。その、だ、だから、なんだ……と、とにかく、おまえの分だ」
「……ありがと」
 梓は複雑の表情のままレモンティーを飲み始めた。
 半分ほど飲んだ頃、梓は自分の顔をじっと見つめている耕一の視線に気づくと、
頬を少し赤らめた。
「ど、どうしたの、人の顔なんかじっと見て。恥ずかしいじゃない」
 だが耕一は、梓の動揺なんかまるで気にしていないかのように深刻な顔をして
いた。
 そして急に深々と頭を下げた。
「ごめん梓! 昼間は、からかったりして、ほんとにごめん! 俺、おまえがあ
んなに傷つくなんて思ってなかったから。その、ほんとに、ほんとにごめん!」
「耕一……もう、いいよ」
「よくよく考えたら、さっきおまえが大変な目に遭ったあのことにしたって、元
はと言えば……って、何。いいって、ほ、ほんとにいいのか? だって、おまえ
泣いてたし、それに……」
 困惑する耕一に、梓は静かに首を横に振った。
「ほんとにもういい。耕一があたしをからかうのは今に始まったわけじゃないし、
あれはあたしが過剰反応しただけ。かおりのことも関係ない。それに今、ちゃん
と謝ってくれたから、もういい」
「梓……」
「……でも、ほんとのこと言うと、ああいう冗談、耕一にだけは、してもらいた
くなかった、かな」
 そう言いながら寂しげに微笑んだ梓を見て、耕一は再び深々と頭を下げた。
 しかし梓からはなんの反応もなかった。
 不思議に思った耕一が頭を上げると、梓は素知らぬ顔でレモンティーを飲んで
いた。
 レモンティーを飲み終えた梓は、いつもの軽い調子で耕一を見た。
「何まぬけな顔していつまでも立ってるの? 座れば?」
「あ、ああ」
 梓の言葉に毒気を抜かれたかのように耕一は彼女の隣に座った。
 だがやはり暗い表情を浮かべ続ける耕一を見て、梓はいらいらしたような風で
口を開いた。
「耕一、あんた何いつまでもうじうじしてるわけ? あんたはあたしに謝った。
あたしはそれを許した。それでもういいんじゃないの? あんたはこれ以上何が
したいわけ?」
 そこまで一息で言うと、ぱっと梓は表情を明るくした。
「ね、これでもうこの話はおしまいにしよ。暗いのなんてあんたには似合わない
し、もちろんあたしにだって似合わない、ね!」
「……そうだな、サンキュ、梓」
 耕一は笑顔を浮かべた。

 しばらくの間二人は何もするでもなく、何を話すでもなくただ静かにベンチに
座り続けた。
 ふいに、梓がやや上目遣いになって耕一を見た。
「ねえ耕一」
「なんだ?」
「あのとき、あんた、どうやってあたしを助けてくれたの?」
「は? どうやっても何も、あの部屋のドアを蹴破って、鎖を外してに決まって
るだろう」
「そうじゃなくて」
「もちろん、あの部屋までは走ってきたに決まってるぞ」
「だから違うって!」
「じゃあ、何が聞きたいんだ、おまえは? 変なとこでもあるのか?」
「うん。だから、変って言うかさ、不思議だな、と思って」
「何が?」
「だって、あたしがかおりにその、お、襲われてるって、どうしてわかったの?
それに場所だって」
「え……」
 耕一はほんの少し顔を引きつらせた。
「あたしに何が起こってるかなんて、あんたにわかるはずないじゃない。なのに
あんたはあたしが危ないってことを察知して、あたしを助けに来てくれた。それ
に声すら出してないあたしの居場所までちゃんとあんたにはわかっていた。ねえ、
どうしてわかったの?」
「そ、それは、だな……えと、おまえのテレパシー、とか……」
「あたしのテレパシーが届く範囲は半径5メートル。それにあんな体力じゃテレ
パシー自体出てなかったと思う。楓から説明受けてるから、それぐらい」
「うぐぐ」
 しれっと言った梓の言葉に耕一は言葉を詰まらせた。
「耕一、もしかしてあんた……」
 梓は困った顔をする耕一を見て、驚いたような表情になった。
「あたしへの愛の力であんなことできたの!?」
「ぶっ!」
 耕一は思い切り吹きだした。
「て、てめぇ、何を……」
 真っ赤な顔をして自分を睨む耕一を見て、梓はけたけたと笑いだした。
「冗談だってば、冗談! 誰もそんなこと本気で思ってるわけないんだから!」
「てめぇ、けが人のくせに、ほんとにいいかげんにし――」
「理由も方法も、ほんとは別になんだっていいよ。だって、耕一は、あたしを助
けに来てくれた。あたしのことを想って、本気になって怒ってくれた。これはみ
んなほんとのこと。耕一が、誰でもない、あたしのためだけに、してくれたこと」
「…………」
 笑い顔から一転、完全に真面目な表情になった梓に、耕一は言葉を失った。
 頬をほのかに赤らめた梓は、耕一に向かってこの日一番の笑顔を向けた。
「あのとき耕一が来てくれて、あたしほんとに嬉しかった。ありがとう」

 かああぁぁぁっっ。
 梓の笑顔を見た瞬間、耕一はがたっとベンチから立ち上がって顔をそらした。
「か、か、かか、帰る! 俺は帰る! おまえはもう歩けるんだから、一人で帰
れ!」
 早鐘を撞くように高鳴る心臓を抑えながら、耕一はすたすたと公園の入り口に
向かっていった。
 そんな耕一を見て、あわてて梓は耕一に駆け寄ろうとした。
「ちょ、待ってよ耕一……あっ!」
 しかし、やはりまだ体が治りきっていなかったためだろう、梓はつんのめり、
バランスを崩した。
 梓は倒れるのを覚悟した。
 だが梓が受けたのは、ぼふっという軽い衝撃と柔らかなぬくもりだけで、痛み
自体を感じることはなかった。
 梓は不思議そうに顔を上げた。
 そこには憮然とした顔で梓の体を抱きとめている耕一の姿があった。
「まったく、手間かけさせやがって」
 耕一は梓を立たせると、くるっと背を向けた。
「じゃーな」
 再び歩きだろうとした耕一だったが、突然左手をがしっとつかまれたために歩
くことができなかった。
 耕一はゆっくりと振り返り、左手とそれをつかんでいる手を見、そしてつかん
でいる人物の顔をじっと見つめた。
 ぶんぶんぶん。
 耕一は左手を振って、それをつかんでいる梓の手を振り払おうとした。
 だが梓の手が離れることはなかった。
 顔を引きつらせた耕一に対して、梓はにこーっと笑みを浮かべていた。
「また、助けてくれた。ありがとう」
「か、きき、く……」
 再び顔を真っ赤にした耕一は、今度はゆっくりとした歩調で公園の入り口に向
かいながら、梓の手をぐっと引っ張った。
 耕一が自分の手をぎゅっと握りしめたのを感じた梓は、満面の笑みを浮かべな
がらそのあとについていった。

「ふふふ」
「な、何ニヤニヤ笑ってんだよ、気持ち悪いな」
「別に。ふふふ」
「なんでもないんだったら、いいかげん笑うのやめろよ」
「どうして?」
「それは……と、とにかくやめろ!」
「うん!」
「やめてないだろう! 恥ずかしいからやめてくれ!」
「うん!」
「頼むからそれ以上俺に笑顔を向けるな!」
「うん!!」
 家に着くまでの間、耕一は散々梓に怒鳴り続けた。
 だが夕日のせいでは決してない耕一の真っ赤な顔と、ぎゅっと自分の手を握り
続けているその左手を見ながら、梓は自分の心が穏やかな温かい光で満たされて
いくのを感じるのだった。



<お終い>


〜あとがき〜

初音「読んでくださった方、本当にありがとうございます。……って、思いっき
  り久しぶりだよねー、このセリフ言ったの」
楓 「一年以上経ってるものね、第二話ができてから……というわけで、一年以
  上ぶりのコメント、いってみましょう!」
初音「はい、コメントいきます。とは言っても言うことは一つ、やっぱりかおり
  さんの結末について。楓お姉ちゃん、ほんとによかったと思う、この結末
  で?」
楓 「結末の是非。つまり、この話でかおりさんが受けた報いは、耕一さんによ
  る威嚇と梓姉さんによる一ヶ月間の無視とあとは失恋ぐらい。これで本当に
  よかったのかって言うこと?」
初音「うん、やっぱりかおりさんが梓お姉ちゃんにしたことって、言い訳なんて
  できないくらいひどいことだと思う。なのにあの程度で済んじゃっていいの
  かなっと思って。だって、結局一ヶ月後には梓お姉ちゃんと仲直りできるん
  だよ。失恋にしたって、あれは報いとはまた別の話だもん。なんかやりきれ
  ないって言うか、胸の奥で何かもやもやしてるって言うか」
楓 「なるほどね。でもね、それ以上を求めてしまうと、かおりさんを本当に殴
  るぐらいしか選択肢は残ってないわよ。そんなのがいい結末だとは思えない
  わ」
初音「それはわかってるよ。わかってるんだけど。でも、やっぱり……」
楓 「溜飲が下がらない?」
初音「うん。梓お姉ちゃんが受けた心の傷を考えるとどうしても甘いと思う」
楓 「そうね……。でも、私はやっぱりこの結末でよかったんじゃないかなって
  思うわ。だって、耕一さんが女性を殴るところなんて、私は絶対見たくない
  もの。それとも初音は、怒りにまかせてかおりさんを殴るような耕一さんな
  んて見たい? そんなの、耕一さんらしいと思う?」
初音「……そうだね。やっぱり怒りを抑える方が耕一お兄ちゃんらしいよね。う
  ん、やっぱりこれでよかったんだ」
楓 「でしょ。というわけで、この話を読んでくださったとっても優しいみなさ
  ま、できましたら感想をお願いします」
初音「掲示板でもメールでもどちらでも、必ずお返事は返させていただきますの
  で、ぜひぜひお願いします」
楓 「ちなみにメールの宛先はこちらです。」
初音「非難でも中傷でも、どんな内容でも結構ですよー。今現在、作者は、どん
  な非難をされてもこれ以上へこめないくらいすでに色んな意味で落ち込んで
  ますからー」
楓 「落ち込んでるってどのくらい?」
初音「楓お姉ちゃんと耕一お兄ちゃんが結ばれてラブラブって話が書けないくら
  い」
楓 「…………(ムカムカムカッ)」




 ☆ コメント ☆ 綾香 :「あらら、この話のかおりは完璧に悪役になっちゃったわねぇ」(^^; セリオ:「かおりさんの行動も分からなくはないんですけどね。      恋愛感情は時として冷静な判断力を奪ってしまうものですから」 綾香 :「そうね」 セリオ:「とは言え、今回のかおりさんの行動が許されるものではないのも確かですからね。      さすがに薬と手錠はやり過ぎですし。相応の報いは受けて然るべきかと」 綾香 :「まあ、かおりも今回の件で反省したでしょうし、今後は暴走はやめるでしょ」(^^) セリオ:「そう思います」 綾香 :「かおりには頑張って新しい恋を見つけて欲しいものだわ」(^^) セリオ:「そうですね、全く同感です。かおりさん、ファイトです。      きっと何時の日か梓さん以上に素敵な女性が見付かりますよ」(^^) 綾香 :「ちょっと待てぃ。何故に女性と限定するか」(−−; セリオ:「……え? なにか変ですか?」(・・? 綾香 :「……」(ーー; セリオ:「……」(・・? 綾香 :「いいけどさ、別に」(ーー; セリオ:「……」(・・? 綾香 :「ところで、ガラッと話は変わるけど、この話の楓っていい性格してるわよねぇ」(^^; セリオ:「そ、そうですね」(;^_^A 綾香 :「なんだか、妙に強そうだし」(^^; セリオ:「ええ、耕一さんと梓さんが無条件降伏してしまうくらいですから」(;^_^A 綾香 :「うーん、是非とも手合わせしてみたいわ」(^^) セリオ:「て、手合わせって……。結局はそこに行き着くんですね、綾香さんの場合」(−−; 綾香 :「え? 強い者がいたら挑む。世間の常識でしょ?」(・・? セリオ:「……。      これだからバトルマニアは」(ーー; 綾香 :「失礼ねぇ。あたしはバトルマニアなんかじゃないわ」(^^; セリオ:「そうですかぁ?」(¬_¬) 綾香 :「そうよ。あたしは、三度の食事よりも戦うことが好きだって程度。全然マニアじゃないわ。      そんなディープな連中と一緒にしないで欲しいわね」(^^; セリオ:(……うう。突っ込み所が満載すぎて……どうしたらいいのやら……あうぅ)(ーー;
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