題目   『 雨 〜 松原葵 〜 』




『・・・私、姫川琴音と言います。』
 小鳥の囀りにも似た涼やかな声が私の耳に届いた。

(・・・姫川・・・琴音・・・ちゃん?)

 耳に残った言葉を一つづつ拾い集めて、やっとそれが、私の目の前に立っている女の子の名前である事が判った。
 でも、私の目の前に立っているその少女が、私と同い年の、同じ女の子だって事が信じられなかった。
 まだ、たまたま天上界から降りて来た天使です、って紹介された方が信じられる、そんな気さえした。

「松原・・・葵です。」
 どうにか、自分の名前だけは名乗る事が出来た。
 でも、それだけ。後は突然舞い降りた天使に目を奪われ、次の言葉を繋ぐ事が出来なかった。
 私は、汗を拭くふりをして、スポーツタオルで顔を隠した。

 自分で驚くほど胸が高鳴り、頬が紅潮しているのが判った。
 彼女を前にして、こんな無様に動揺した姿を曝け出す自分が、物凄く哀れで恥ずかしい存在に思えてきた。
 出来るなら、直ぐにでも駆け出し、この場から逃げ出してしまいたかった。
 そうでもしないと、もっと情けない姿を彼女に見せてしまう、そんな得体の知れない危機感が私を襲った。
 でも・・・。

 その場から逃げ出す事も出来ず、スポーツタオルの端から彼女を垣間見た。
 透き通る程白く透明な肌に、触っただけで折れてしまいそうなほど華奢に見える容姿。
 西洋アンティークドールを連想させる、ふわふわで綿菓子のような髪が背中まで伸び、そよ風が吹く度に気持ち
 良さそうに宙を舞っている。
 有名画家の手による宗教画や、人物画の巨匠と謳われた人達だって、こんなに美しく描き上げる事は叶わない。 
 だって、”可憐”って言葉は、彼女のためにのみ作られたって思えるほど、彼女の美しさは完壁だったから。

(なんて綺麗なんだろう・・・。)

 気がつくと、彼女は頬を僅かに紅潮させ、何やら真剣に話掛けてくれている。
 初めて見た時の影の有る表情も、こうして微笑む姿も絵になっている。
 小首を傾げ、時折困った顔をしたりするのも実に良い。

 当然の如く、話の内容なんて殆んど耳に入っていない。
 たとえ、その言葉の一つ一つが漏れなく耳に入ったとしても、それを繋ぎ合せて文章化するなんて離れ業、
 少なくとも今の私に出来る筈はなかった。それくらい今の私は、"彼女を見る"と言う行為に没頭していた。

「・・・ちゃん? 葵ちゃん?」
 気がつけば、目の前に藤田先輩の顔が迫っていた。

「きゃ!」
 短く叫んで、後ろに飛び退いてしまった。
 だって、ホントに驚いてしまったから。

「どうしたんだ?」
「・・・あ、いえ、別に、何でも有りません。」
 心配顔で問い掛けてくれる藤田先輩に、しどろもどろで、あやふやな答えしか返せなかった。
 それでも、私の『何でも有りません。』って言葉を信じてくれたのか、藤田先輩は何時もの笑顔を私にくれる。
 何時もなら、その笑顔を見るだけで幸せな気分に浸れたのに、今日に限っては胸がちくりと痛んだ。
 だって、ほんの少しだけ、藤田先輩に嘘をついたから。

 だって、私が驚いたのは、藤田先輩の顔を間近に見た為じゃない。
 本当は、琴音ちゃんに見とれてしまい、声を掛けられるまで、藤田先輩がそこにいた事にさえ気付かなかったから。

(・・・あ!)

 藤田先輩の手が、琴音ちゃんの肩にかかり、私の前に押しやるように進ませた。

 ずきっ!

 また胸が痛んだ。
 でも、この胸の痛みが、誰に対する痛みなのか、既に判らなくなっていた。






(・・・それが、これだもんなぁ。)

 私の目の前では、ビーズのクッションを抱きかかえ、体をくねらせている少女が一人。
 妄想って言うのかな。突然、にへら〜って笑ったかと思えば、あっちの世界へと逃避行しちゃっている。
 流石に初めて見た時はびっくりした。何事!って感じで。
 でも、今じゃ日常茶飯事だから、特に驚きもせず『また〜。』みたいに思えてしまう。
 慣れって言葉は、ホトホト恐ろしい物だと実感している。

 実は今、琴音ちゃんの家に遊びに来ている。
 本当は、折角の休日、何時もでは出来ない様な練習とかもしたかったし、何時もより長めのロードワークもしたかった。
 しかし、早暁から降り続く雨は一向に降り止む気配を見せてはくれない。
 雨が降っていても、雨合羽を着てロードワークは出来るけど、何故かそんな気分にはならなかった。
 自室で、筋トレ中心に2時間ほど汗を流した時、琴音ちゃんから電話があった。
 遊びに来ないか、って。
 私は2つ返事でOKした。

 だって、昼からの予定は全く入っていなかったから。
 それに今日は、藤田先輩と神岸先輩さんのデートの日。そんな日に、自分だけ一人っきりなのは辛すぎたから。

(それにしても、ちょと・・・。)
 今日の琴音ちやんはちょっと・・・いや、かなり刺激的。
 流石に始めて会った時の様な新鮮さは無いにしても、琴音ちゃんの魅力は充分健在なわけで、琴音ちゃんの
 可愛さ、可憐さが些かでも目減りしただなんて考えてもいない。
 しかも、今日の琴音ちゃんは、白地に小花模様が可愛いキャミソールに、膝下丈でキャミソールとお揃いの生地の
 フレアスカート。
 当然のように、胸元とか、スカート裾なんかにはふんだんにフリルが施されている、と言う可愛さ満点のいでたち。
 冗談じゃなく、玄関口で私を迎えてくれた琴音ちゃんを見た時、思わずカバンを落としそうなになったくらい。

 そんな娘がさ、ほら、身をくねくねって捩じったりするんだな。 見てて恥かしいくらいに。
 それは別に良いんだけど、身を捩じったりする度に、スカートの裾がひらっとして、白い太腿が見えたりとかさ、
 ブラひもがちらりと見えたりするのは、ちょっと・・・・。今、この部屋2人っきりだし。

 大体私達は女の子同士なんだから、そんな事で動揺したり、ドキドキするなんて変だって事くらい判っている。
 こんな目で琴音ちゃんを見る事自体、琴音ちゃんに対する冒涜だって事も充分理解してる。
 理解しているけど。
 ・・・でも。

(・・・ごくっ。)

 さっきから、何故か無性に咽喉が渇いて仕方ない。
 胸のドキドキだって、もう、爆発寸前。
 冷静でなんて居られなかった。
 手を伸ばせば届きそうな所に琴音ちやんがいる。
 ちょっとだけ勇気を出せば、琴音ちゃんを押し倒す事だってわけは無い。
 でも、それが取り返しのつかない事だって事も、琴音ちゃんの心を汚す愚かな行為だって事も判る。
 
 しかし、ここで自分の欲望の赴くまま、琴音ちゃんを力づくで押し倒してしまえば、真珠の様な瞳も、桜貝の様な唇も、
 あの桜色の柔肌も、しなやかでガラス細工の様な繊細な腕も、子振りながらも形の良く整った胸も、細くて華奢な
 首筋も、綺麗なラインを描いた肩や鎖骨も全てが私のモノになる。
 



(私どうしたら良いの? もう、我慢の限界だよ!)
 伸ばしかけた右手を、左手で掴んで押し戻した。
 両手を胸の前で留めながら身を固くし、自分自身を抑え込んだ。

 本気で泣きたくなった。

 今、ここに居る事を。
 そして、琴音ちゃんを好きになった事を。

(ダメ! 止めさせなきゃ!)
 最後に残った、ほんの僅かな良心を奮い立たせ、琴音ちゃんをこっちの世界に引き戻した。
 多くの後悔を伴いながら。




 ○  ○  ○  ○  ○  ○




( え! なんで! うそ!)
 私は酷いパニックに陥っていた。
 だって、気がついたら、琴音ちゃんの肩を掴んで押し倒していたんだから。

(えっと・・・・。えっと・・・・。)
 私は、途絶えた記憶をたどった。
 どうして、こうなちゃったんだろう、って。

 確か私は、すんでの所で思い留まったはず。紙一重だったけど。
 何とか、あっちの世界に行ってた琴音ちゃんを、こっちの世界に引っ張って来たまでは良かったんだけど、その後で確か琴音ちゃんが、真珠の様な涙を零しながら、私に、にじり寄って来たんだ。
 ただの友達じゃ嫌!とか言いながら。

 そう。その姿が可愛くて、愛しくて。もう、自分の気持ちに嘘も我慢も出来なくて、押し倒しちゃったんだ。
 あ〜あ、何て事しちゃったんだろ?
 琴音ちゃんの気持ちも考えないで、自分の気持ちだけを押し付けちゃう様な真似をして。
 もう、ダメ。 今までの二人になんて戻れない。琴音ちゃんの側に居させて貰えなくなっちゃう。

「ごめん!」
 琴音ちゃんの側にいて、琴音ちゃんの姿を目で追って、琴音ちゃんの声を聞いて、琴音ちゃんとお話できれば、
 それだけで、そんな些細な事だけで、幸せを感じられたのに。
 それなのに、こんな事するだなんて・・・・。

「ごめん! 琴音ちゃん。あの・・・・。これは・・・・。」
 私は何を言おうとしてるんだろ?
 言い訳なんて以ての外。100万回の謝辞だって、この行為を償う事なんてできっこない。
 琴音ちゃんの前から消えてなくなるしか、術は無いことくらい判っている。
 でも、自分の想いをぶつけてしまった今では、それすらもままならない。

 しかし、琴音ちゃんは微笑みながら私を許してくれた。
 しかも、こうなる事を夢見ていた、なんて言いながら。
 私の首に回した、ガラス細工の様な手で、私を抱きしめてくれた。
 自然と涙が溢れてきた。
 今流れている涙の意味は判らなかったけど、そんな事、もうどうでも良かった。
 私は琴音ちゃんの胸に顔を埋めると、肩を震わして泣いた。
 琴音ちゃんは、私を包み込むようにして私を抱きしめてくれる。
 その温もりと優しさが伝わって来て、また涙が零れ落ちて来た。

 これが許されない行為だって事くらい判っているけど、琴音ちゃんと一緒に堕ちて行くなら、それでも良いと思った。
 世界中を敵に回しても、傍らに琴音ちゃんが居てくれれば、それだけで良いと思った。

(・・・ごめんなさい。)
 薄れ行く意識の中、そんな言葉が脳裏に浮かんできた。
 誰に対して謝っているかなんて判らない。

 判らないけど、涙の先に、藤田先輩の顔が一瞬浮かんだ。
 私を咎めるような顔が印象的だった。




                                           お わ り




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あとがき

最後まで読んで頂きましてありがとうございます。
ばいぱぁです。

最後までお付合い下さいましてありがとうございます。
葵ちゃんサイドです。
琴音ちゃんサイドを書きながら作りました。

どうも、こういった百合っぽいものの気持ちが判らない所が有るので、
(稚筆もありますが)伝わり難い所があったかとは思いますが、ご容赦下さい。

ホントは、同シリーズで、智子と綾香も作ってたんですが、季節柄、流石に辛いんで
おねんねしてもらう事にしました。

                                       おわり






 ☆ コメント ☆

綾香 :「自分には無い物への憧れ、なのかしらね?」

セリオ:「なにがです?」

綾香 :「琴音が葵に、そして葵が琴音に惹かれた理由。
     琴音は葵の前向きな所やひたむきさに憧れを抱いたんだと思うし、
     葵は琴音の清楚で可憐……」

セリオ:「なぜに言葉を濁しますか?」

綾香 :「……深い意味は無いわよ。
     えっと、葵は琴音の『清楚に見える可憐っぽい』部分に憧れたのよ、うんうん。
     ほら、琴音って黙ってれば深窓の令嬢って感じだし、黙ってれば」

セリオ:「何気に無茶苦茶言ってる気もしますが……納得しました。
     確かにそういう面はあるかもしれませんね。
     誰だって自分が持っていない物を持ち合わせている人には憧れを抱いたりしますから。
     もちろん、わたしだって例外じゃありませんし」

綾香 :「あら、そうなの?
     それじゃ、セリオは誰に憧れてるの?」

セリオ:「綾香さんです」

綾香 :「え? あたし?」

セリオ:「はい」

綾香 :「そ、そうなんだ。え、えへへ。面と向かって言われるとなんか照れちゃうわね」

セリオ:「本当に憧れています。
     綾香さんの熊をも一撃で殲滅する破壊力、世紀末救世主すらも凌駕するバイオレンスっぷり。
     わたしの様なか弱い乙女では、どう頑張ってもとてもとても……。
     そんな物を標準装備している綾香さん。本当に本当に憧れてしまいます」

綾香 :「……………………」




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