『 題目   試 合 前 』

 怖い!

 泣き出したい気持ちを抑え様としても、自然と涙が落ちてくる。
 手や足の震えが一向に止まらないし、身体が石の様に重くて他人の身体みたい。
 何時もの試合前の高揚感は無く、失意と失望と恐怖と戦慄。
 出来る事なら、一刻も早くこの場から逃げ出したかった。

 独りっきりになりたくて逃げ込んだ選手控え室。 
 考えれば考えるほど、落ち込んでマイナス思考に囚われて行く。
 呼吸を整える事も出来ず、雑念を払う事すら出来ない。
 私は、試合前に、既に試合に負けていた。


 甘かった。 いや、甘すぎた。
 エクストリーム初代女王にして、国内無敵無敗を誇り、”最強”の称号を得て臨んだ初めての世界大会。
 日本代表として、来栖川綾香として、恥かしく無い戦いをしたいから、この日のために厳しい練習を重ね
 てきた。 常に110%の私を目指し、明日の私に勝つために。

 だから、決してこの大会を舐めていた訳では無いし、軽く見ていた訳でも無い。
 私より強い存在を忘れた訳でも無いし、否定した訳でも無い。
 しかし、公開練習を見た私の素直な印象は、「何よ、このクマやゴリラは!」だった。
 
 体格差にして優に2回り以上あるゴリラやクマの群れ。
 圧倒的な体格差だけで無く、パワーも体力も遥かに私を凌駕し、更には、その体躯に似合わないスピード
 や、技の切れを持ち合わせている。
 リングに上がる前から結果は判っていた。
 彼女(?)達に小手先の技なんて通用しないし、ましてや根性や気力でカバー出来る様な相手じゃない。
 エクストリームが無差別級だって事を、心底恨んだ。




 トントン。

「・・・綾香お嬢様。」
 ビクッ!っと私の体が跳ね上がる。 
 セリオが私を呼びに来た・・・もうそんな時間?

「・・・すぐに行くわ。」
 ゴシゴシと涙を拭いてから、躊躇いがちに重い腰を上げた。
 身体は鉛の様に重く、気合なんて全く入らない。

「綾香お嬢様、まだ試合時間ではありません。」
「じゃ何? 試合時間になるまで、独りにしてって言ったでしょ!」
 扉の向こうのセリオに怒鳴り散らす。
 セリオは、扉を開けようともせずに、返事を返して来た。

「はい。 ですが、綾香お嬢様に電話が入っておりますので。」
「切りなさい! 集中したいの!」
「はい。 ・・・しかし、お相手は藤田様ですが。」
「へ? 浩之なの?」



   ○   ○   ○   ○   ○   ○   ○   ○   ○


「・・・で、どうだったの? ママ。」
「ん? どうって?」
 興味津々って顔で、愛娘の沙夜香が聞いてくる。
 それは、童話を読み聞かせていた頃の、まだ幼かった沙夜香の瞳そのもの。
 私はにっこりと微笑むと、堂々と胸を張って言った。

「当然優勝!・・・・・なんて出来るはずも無く、準々決勝で敗退しちゃった。」
「な〜んだ。 優勝できなかったんだ。」
 何もそこまでって言うほど、思いっきり肩を落として見せる沙夜香。
 
「折角パパが応援してくれたのに・・・。」
「まさか! 浩之は、応援とか激励なんてしてくれなかったわよ。」

「え? どうして? 電話って・・・激励の電話でしょ?」
「ううん。 浩之はね、ただ一言、『怪我するなよ。』って言ってくれただけ。」
「なに? それ?」
「勝つとか負けるとか、そんな事浩之にとってはどうでも良い事なの。 そんな事より、私の体の事を
第一に考えてくれたってこと。」
 沙夜香の髪をそっと梳きながら、ゆっくりと言って聞かせた。
 沙夜香の瞳は、更に輝きを増した。

「パパらしいわね。」
「・・・でしょ。」
 どちらとも無く吹き出して、2人して肩を震わせながら笑った。

「優勝なんてただの結果よ。 ママはそこで負けたからこそ、翌年は3位、翌々年は2位になれたの。」
「うん。 判った。」


 コンコン。

「沙夜香〜! あ、ここにいたのか、準備は良いのか?」
 扉を開けながら、浩之が顔だけ出して言った。
 姿を消した愛娘を探して、かなり走り回ったのか、額にはうっすらと汗がにじんでいる。
 私が、軽く手を上げると、沙夜香が手を合わせてきた。
 パン!って、心地良い音が響く。

「うん! 大丈夫だよ、パパ!」
 沙夜香は勢い良く立ち上がると、私の元から離れて行った。

「じゃ、行って来るね。」
「あ、沙夜香・・・。」
 手を振りながら、浩之のそばを駆け抜けて行く沙夜香を、浩之は躊躇いがちに呼び止めた。

「・・・どうしたの? パパ?」
「その・・・・なんだ。 気をつけてな。 怪我とかするんじゃないぞ。」
 不思議顔の沙夜香に向かって浩之が、鼻頭を掻きながらポツポツと言った。

「・・・・・ぷっ!」 
 きっちり3秒ほど立ち尽くしていた沙夜香が、吹き出し、お腹を抱えながら笑った。
 ちょうど、あの時の私の様に。

「な、何が可笑しい!」
「ごめん、ごめん。 じゃ、今度こそ行ってくるからね!」
  目に溜まった涙を拭きながら、元気良く駆けて行く沙夜香。

「あぁ、行って来い!」
「怪我しないでねぇ〜」
 愛娘の後姿に、2人して声を掛ける。
 私達の声が聞こえたのか、振り向きもせず、手だけを上げて応えている。
 私は浩之の手をとると、浩之の肩にちょこんって頭を寄りかけた。

「・・・大丈夫かな・・・あいつ。」
「・・・大丈夫よ。 きっと。」
 控え室で膝を抱え、顔面蒼白だった沙夜香は、今はもういない。
 心臓のドキドキを押さえられず、手の震えを止められないでいた沙夜香は、今はもういない。
 あれだけリラックスできれば、何時もの力を、ううん、何時も以上の力を出せるはず。

「さ、観覧席で、娘の雄姿でも見るとするか。」
「そうね。 セコンドはセリオに頼んだし。 ゆっくり見ましょ。」
 沙夜香の初めての世界大会。
国内無敵無敗を誇り、エクストリーム界の若きプリンス、エクストリーム界のサラブレットと呼ばれる
 様になった沙夜香。
 常に私と比較され、極度のプレッシャーと戦い、勝つ事を余儀なくされ続けてきた沙夜香。
 私が現役を退いた後、あの小さな身体で、エクストリーム界を一身に背負ってきた沙夜香。

 だからこそ、今日は負けてらっしゃい。

 あの時の浩之のように、今度は、浩之と私の2人で、いっぱいいっぱい慰めてあげるから。



                                                        おわり





---------------------------------
あとがき

最後まで読んで頂きありがとうございます。
ばいぱぁと申します。

今回は、「たさい」の設定を借用してしまいました。
Hiroさま、申し訳有りません。 この場をお借りしてお詫び致します。

さて、今回は、綾香が良い”ママ”になってます。
試合を前に、震える我が子に、自分の経験談を交えながらリラックスさせています。
(ここで、”頑張ってね。”とか言わない所がミソです。)
一人で戦っていた綾香には、こんな言葉をかけてくれる人、居なかったんでしょうね。





 ☆ コメント ☆

綾香 :「うんうん。あたしって良いママしてるわね。
     まさに良妻賢母♪」

セリオ:「…………」(ぽかーん

綾香 :「ん? どうしたのよ、セリオ?
     呆けた顔しちゃって」

セリオ:「い、意外です」

綾香 :「なにが?」

セリオ:「綾香さんが……あの綾香さんが……
     いつもいつもわたしやセバスチャン様に気苦労を負わせまくっていた『あの』綾香さんが
     まともな母親に成長しているだなんて」

綾香 :「…………おい」

セリオ:「これは夢なのでしょうか?
     ――そうですね。そうに違いありません。そうに決まってます。
     夢です。これはあくまでも夢なんです」

綾香 :「勝手に夢にするんじゃない!
     なによ。あたしが立派な母親をしてるのがそんなにおかしいの?」

セリオ:「それとも、これは何かの前触れでしょうか。
     大地震発生? 巨大隕石衝突? ガディム襲来?」

綾香 :「……シカトかい。
     つーか、何気にすっごく失礼なこと言ってるわね」(怒

セリオ:「それだけ意外だってことです」

綾香 :「なによぉ。だったらセリオは、あたしがどんな母親になると思ってたの?」

セリオ:「そうですね……例えば……」

綾香 :「例えば?」

セリオ:「呂后と則天武后と西太后を足して3.14で割ったっぽい母親?」

綾香 :「……どんな母親よ、それは?
     っていうか、あんた……あたしを一体なんだと……」(汗





戻る