ある日曜日の朝。
 すでに時刻は十時を過ぎていたが、青年、柏木耕一は学校が休みということも
あって、ひたすら惰眠をむさぼっていた。

  ゆさゆさ、ゆさゆさ。
「耕一、耕一」
「……くー……むにゃ……」
 突然、誰かが耕一の体を揺すったが、そんなことで起きるほどこの青年のグー
タラは並ではない。
 耕一はごろんと寝返りをうつと、すやすやと寝息を立て続けた。
「耕一、いいかげんに起きろよ!」
「…………」
 さらに強く耕一の体は揺すられたが、やはり彼は起きなかった。
「耕一! いいかげんに、起きろ――!」
 声の主は我慢の限界に達し、とうとう耕一の布団をはぐという強硬手段に出た。
「……う、うーん……うるさい、梓。俺の安眠の邪魔をする……な? なななな
なな!」
 耕一はうっすらと目を開けたかと思うと、一気に布団から飛び起きた。
「なななななななんで、お前が、ここに!」
 耕一は自分の目の前に座って、シーツを体に巻き付けた女性、梓を指さし騒ぎ
出した。
「耕一……」
 梓はそんな耕一をじっと見つめると哀しそうにうつむいた。
「なんでって、もしかして耕一、覚えてないの?」
「は? 何をだよ」
「昨日……」
「昨日?」
「こっちに遊びに来たあたしに、あんたは……」
「は? 俺が何をしたんだ」
「だから、あたしが部屋に入るなりあんたは、無理矢理……その、あたしを、押
し倒して……」
「へ?」
「覚えて、ないの?」
「ええっと……」
 耕一は目を閉じて、自分が昨日とった行動を必死で思い出そうとした。
「思い、出した?」
 やがて、梓がおずおずと耕一に声をかけた。
 だが、耕一はゆっくりと首を横に振った。
「いや、全然。それ以前にお前が昨日来たことも知らん」
「じゃ、じゃあ、あたしに『愛してる』って言ったのも?」
「…………」
 耕一は何も答えなかった。
「じゃあ――」
「待て、梓」
 耕一は梓に近づいて、その顔をじっと見つめた。
「な、に?」
「本当に昨日の夜、そんなことをしたのか、俺は?」
 梓は恥ずかしそうにこくんとうなずいた。
「ほう、じゃあもう一度やろうぜ」
 耕一はニヤリと笑った。
「え?」
「だから、もう一度。いいだろ、どうせ今日は日曜日だし朝からやったって。一
度互いの全てを見せあった仲だったら、できるよな。それともいやなのか? う
ーん、そいつはおかしいな、本当にやってるんなら、できるはずだ」
「え? あんた、何を……」
 耕一はふっと笑った。
「よくよく考えてみたらおかしいんだよ、矛盾だらけだ。さっきまでは寝起きで
頭がはっきりしてなかったからわからなかったが、やっと頭もはっきりしてきた。
だいたいだな、俺がお前に『愛してる』なんて言うわけないし、お前みたいな乱
暴な女がおとなしく俺に押し倒されるわけもない。それに俺が服をきちんと着て
いるしな。他にもおかしいところはいろいろあるぞ」
「…………」
 今度は梓が何も言わない番だった。
「こら、梓。お前がなんでここにいるのか知らんが、俺がそんな程度の話にだま
されるとでも思ったのか? おい、何が目的だ?」
 耕一は梓に詰め寄った。
「ほら、なんとか言ったらどう、だ。あ、ず、さ……」
 耕一は思わず言葉を詰まらせた。
 梓の瞳にうっすらと涙が浮かんでいたからだ。
 梓は耕一の眠っていた布団のある一点をすっと指さした。
「あたし、何もたくらんでなんか、ないよ。服だって、耕一が寒いだろうと思っ
て、さっきあたしが起きたときに着せたんだ。それに、それ……」
「え? ええ!?」
 梓の指さした先には、布団の上についた赤いしみがあった。
「ま、まさ、か、あれは……」
 耕一の顔からすうっと血の気が引いていった。
「あたし、初めてだったのに。でも、相手が耕一だったから、痛くても、我慢し
たのに。あたしのことを愛してるって言ってくれたから。だから、だから……。
なのにひどいよ、なんにも覚えてないなんて。あたしが何かたくらんでるなんて。
ひどいよ、耕一! あたしのこと、もてあそんだだけだったんだ!」
 梓の瞳から涙があふれ出した。
「え、え、え……ぇえええ!!」
 耕一はしばらく呆然としていたが、ようやく事の重大さに気づき、あわてて土
下座した。
「ごめん、梓! ま、まさか本当にそ、その、やってたなんて。でも俺、本当に
なんにも覚えてなくて、その、いまさら言ってもどうしようもないんだけど、本
当にごめん!」
 耕一はただひたすら平謝りを続けた。
「ごめん、本当にごめん。こ、こうなったら、俺もお、男として、きちんと責任
は取ら、せ……ん? どうしたんだ?」
 耕一が頭を上げると、そこには笑いを必死でこらえていた梓の姿があった。
 すでにシーツを下に置いていた梓はもちろん、服を着ていた。
「あ、あ、ず、さー。お前えぇ、もしかしてぇ」
 耕一は怒りで顔を真っ赤にして梓をにらんだ。
 その様子に、ついに梓は大笑いを始めた。
「梓、お前いったいどういうつもりだ!!」





梓が奏でる狂詩曲(ラプソディー)

どうせい





 二十分後、耕一は梓の作った少し遅い朝食をとっていた。
 一方、すでに朝食をすませ何もすることのない梓は、耕一の対面に座って彼の
食事風景を眺めていた。
 しかし二人の様子は正反対で、必死で笑いをかみ殺している梓に対して、耕一
は顔全体で不満という感情を表現していた。
 しばらくの間、二人の間にはなんの会話もなかったが、とうとう梓がおかしさ
にたえきれなくなって笑いだした。
「はははははは! さっきの耕一、おっかしかったよなあ。マジになっちゃって。
何考えてるんだよ、まかり間違ってもあたしがあんたに体を許すわけないだろ!」
「…………」
 耕一は何も言わずに食事を続けた。
 そんな耕一を無視して、梓はさらにしゃべり続けた。
「でもなかなかだったろ、あたしの演技力も。ほら、ほめてほめて!」
「どういうつもりだ」
 食事を終えた耕一は、茶碗をテーブルに置いて梓をにらんだ。
「何が?」
 梓はにこにこしながら耕一を見た。
「どういうつもりかと聞いてるんだ! あんなふざけたまねしやがって。よくも
純真な青年大学生をからかってくれたな! 本気であせったんだぞ!」
「やっぱり?」
「当たり前だ! それになんなんだ、あの赤いしみは!」
「ああ、あれ? なかなかいいアイデアだったろ? ほんとあれがなかったらば
れてるところだったもんね。いや、それにしても、起きたばっかりのあんたの頭
があそこまで回るとは思わなかったな、うーん、感心感心」
「質問に答えろ!」
 なおも怒鳴る耕一に、梓は耳を押さえながら話しだした。
「うるさいな、もう少し静かにしゃべれよな、まったく……あのしみはインクだ
よ」
「インク? お前なんてことすんだよ、一度付いたインクはなかなか落ちないん
だぞ!」
「布団はあたしが洗ってやるよ。それならいいだろ?」
「まあ、それならクリーニング代も浮くし……って違うだろ! 俺が聞きたいの
はなんであんなまねをしたのかだ!」
「おもしろそうだったから」
「やっぱり……」
 がっくりと肩を落とした耕一に対して、梓は得意満面といった顔をした。
「…………」
 耕一はしばらく頭を抱えたまま何も話そうとしなかった。

「……で?」
 しばらくたってようやく復活を遂げた耕一は、ゆっくりと口を開いた。
「でって?」
「だから、なんでお前が東京にいるんだ?」
「隆山から出てきたから」
「何しに来た?」
「休みを利用して、来年受ける大学の見学」
「どこの大学?」
「あんたとおんなじ」
「志望学部は?」
「あんたとおんなじ」
「志望学科は?」
「あんたとおんなじ」
「……なんでこの家にいる?」
「今朝ここに来たとき、鍵が開いてた。不用心だね、まったく」
「入った方法じゃない。この家にお前がいる理由だ」
「東京に滞在する一週間、ここで世話になるつもりだから」
「そう、ここに……え!? おい、梓。それはどういうことだ! 世話にってここ
に泊まるつもりなのか?」
「そうだよ。だめなの?」
「だめもいいも、お前このこと千鶴さんは知ってるのか?」
「うん。耕一さんによろしくって言ってたよ」
「よろしくって千鶴さん、何考えてるんだよ……」
 再び頭を抱え始めた耕一に、梓は不安そうにたずねた。
「耕一、あたしがここに泊まると、なんかまずいことでもあるの?」
 耕一は疲れた表情を浮かべて梓を見た。
「まずいってなお前……お前一応女だろ。若い男女が一つ屋根の下ってのはどう
考えてもまずいだろうが!」
「そう?」
「当たり前だ!」
「あたしは別に気にしないけど」
「俺が気にする!」
「なんで?」
「なんでって」
 梓はまったく意味が分からないような顔をして、首を傾げていた。
 逆に耕一には、梓が何を考えているのかがまったくわからなかった。
「耕一だってあたしの家にちょくちょく来るだろ。それはなんともなくて、あた
しがここに来るのはまずいっていうわけ?」
「いや、そういうわけじゃなくて」
「そういうわけじゃないんなら……うん? もしかして、耕一、あんた」
 梓は耕一を見てニヤリと笑った。
「な、なんだよ」
「ス、ケ、ベ」
 梓の言葉に耕一の顔は、一瞬で真っ赤になった。
「な、なに言ってんだよ、お前は!」
「だって、それ以外考えられないもんな」
「ぐっ」
 図星をつかれた耕一は言葉を詰まらせた。
「まったく、何考えてるんだか。さっきも言っただろ、まかり間違ってもあたし
とあんたがそういう関係になることはないって」
「ま、まあな」
「だいたい、そんなことして千鶴姉にばれたらそれこそヤバイだろ。あ、それ以
前の問題か。あんたにあたしを襲う度胸、あるわけないもんね。あー、ムリムリ」
 そう言うと、梓は大笑いを始めた。
 その笑い方にカチンときた耕一は思わず大声を出した。
「なんだと! んなこと言ってると、本当に襲うぞ! いくらお前が乱暴な女で
も、俺が本気を出せば押し倒すぐらいなんてことないんだ!」
「おもしろい、やれるもんならやってみろよ! なんだよ、これだけ言われても
あたしになんにもできないくせに偉そうに! 悔しかったらキスの一つでもやっ
てみせろよ!!」
「…………!」
 梓の言葉が、耕一の心にある一つの感情を芽生えさせた。
「……そうか、わかった」
  耕一は梓の肩をぐっとつかんだ。
「な、何するんだよ」
「有言実行」
「え?」
「目ぇ閉じろー!」
「きゃっ!」
 耕一の声に、思わず梓は反射的に瞳を閉じた。

 耕一は目を閉じて、梓の唇に自分の唇をゆっくりと近づけていった。
 その事に気づいた梓は緊張で体をこわばらせた。
 しかしそこまでだった。
 耕一はそれ以上何もしようとせず、ただじっと梓の震える唇を見つめていた。
「こういち……?」
 耕一が何もしないので、不審に思った梓はゆっくりと目を開けた。
 彼女の目の前には、じっと自分を見つめる耕一の顔があった。
「耕一……」
「ちっ……!」
 梓と目があった耕一は小さく舌打ちすると、梓に背を向けて畳に座り直した。
「やめた」
「え?」
「やっぱりやめた!」
 梓はしばらくきょとんとした後、少しずつ乾いた笑いを始めた。
「ほ、ほほ、ほら見ろ。やややっぱり耕一にそんな度胸、なかったろ……はは」
「そんなんじゃない」
 耕一は梓から視線を逸らしたままつぶやいた。
「……じゃあ、なんで?」
「だから、その、こういうことは、その……」
「だから、なんなんだよ」
 少しずつ落ち着いてきた梓は、なぜだか腹が立ってきていた。
「その、やっぱり、相手が好き、な人じゃないと、こういうことは、だからその、
絶対に、やっちゃいけないと、俺は、思う、から……」
「え……」
「それに、やっぱり、今のやつだと、無理矢理、だし」
「むり、やり……」
「そんなの、絶対、やっちゃいけない……」
 梓はその言葉に目を伏せ、自嘲的な笑いを浮かべた。
「そう、そうだよね。やっぱり、あたしじゃいや、だよね。やっぱり、千鶴姉や
楓や初音の方が、耕一は、いいんだよ、ね」
「お、おい……」
「それにさ、今のだと、あ、あああたしが無理にけしかけたりした、みたいだも
んね。う、うん、そうだよ、あたしがあんたに無理言ったんだもんね。ご、ごめ
ん、耕一……」
「そんなこと言ってないだろ!」
 耕一は梓の方を見て怒鳴った。
「え!?」
 驚いた梓から耕一は再び目を逸らせ、言葉を絞り出すように話し続けた。
「いや、だから、俺が、いや、と思うかじゃなくて、これはお前の、その、気持
ちの問題、だから……」
「え……」
 梓はあまりにも意外な耕一の言葉に、何も言うことができなかった。
「だから、お前が嫌がってる、と思ったから、俺は」
「あたしが、いや、がってる……?」
 耕一はこくりとうなずいた。
「だってさ、その場の勢いって言ったって、嫌がってるお前にキスなんかしたら、
やっぱり、だめだろ?」
「…………」
 梓は何も答えなかった。
「だから、お前が、その、いやじゃないんだったら、俺は、キス、するのは……」
 耕一はそれ以上何も言わずに黙ってしまった。
「…………」
 一方、梓もうつむいたまま黙ってしまった。

 先ほどよりもさらに長い沈黙が流れた。



 柏木耕一と柏木梓。
 今まで兄弟のように接してきた二人。
 九年間の別離と再会。
 その歳月が、互いを兄弟ではなく、兄妹でもなく、一人の男と一人の女に変え
てしまったことに気づいた二人。
 最も心を許せる異性であり、最も心を見せあえない異性である二人。
 だが、やはり二人は仲のよい従兄妹のはずだった。
 今、このときまでは。

 静かな居間で互いに背を向けて畳に座る二人。
 体の距離がわずか20センチにも満たないことはわかっていても、心の距離が
どれだけ離れているかはまったくわからない二人。
 とても近いようでいて、とても遠いようでいて。
 なにかあれば、いくらでも変わってしまうような曖昧なもの。
 それが二人の心の距離だった。
 互いにそんなこと、気にもとめていなかった。
 いつまでもその曖昧な距離が保たれると思っていたから。
 だが、曖昧なものがいつまでも保たれるはずはない。
 どんなものになろうとも、何かがきっかけとなって、いつか曖昧なものは確か
なものへと変わる。
 そのきっかけが、今起こってしまった。
 二人の心の距離は、少しずつ確かなものへと変わろうとしていた。
 それは、耕一が隆山にいるとき、つまり千鶴たち、梓と耕一以外の人間もいっ
しょにいるときには、決して起こるはずのないことだった。



「…………」
  重苦しい沈黙が続いた。
 お互いに何も行動を起こさなかった。
 二人とも先ほどの自分たちの会話の内容を、ずっと頭の中で反芻(はんすう)
していた。
 そして、何もできなかった。
 耕一も梓も先ほどの自分たちの会話の意味がわからないほど、愚かでも鈍いわ
けでもない。
 いや、十分すぎるほどわかっていた。
 わかっていたからこそ何もできなかった。
 二人はこれまで感じたことがないほど、互いの存在を強く意識していた。
 同時に互いへの自分の感情も。

 沈黙が始まってから、すでに十分がたとうとしていた。
「あの、梓……」
 何かを決意した耕一がすっと梓の手に触れた。
「あ……!」
 梓は思わず手を引っ込めようとしたが、なぜか体が動かなかった。
 動いてはいけないような気がしたから。
 耕一もまた、それ以上何もしようとしなかった。
 二人は再び黙り込んでしまった。

 突然、ごくり、と耕一がつばを飲み込む音が部屋に響いた。
 その音にはっとなった梓がゆっくりと口を開いた。
 誰も知らない、梓自身にすらはっきりとはわからない、彼女の心の奥底にある
曖昧で大切な想いに突き動かされるかのように。
「あの、あたしはその、いやじゃ……」
 語尾の方は小さくて、耕一には何も聞こえなかった。
「…………」
 だが耕一は何も答えなかった。
 無言で梓に続きを促した。
「たぶん、あんたと同じように、あたしも、そのあんたとなら……あっ」
 そのとき、耕一は梓の手を強く握った。
「こう、いち」
 梓も耕一の手を強く握り返した。
 二人は何も言わず、しばらく手を握りあっていた。
 互いに緊張で手が汗ばんでいたが、二人にとってはなぜかそれが心地よかった。
 手を握る、という単純な動作を通じて感じられる互いの緊張が心地よかった。
 やがて小さくうなずくと、耕一は梓の方を向いた。
「梓」
 耕一は梓をじっと見つめた。
「耕一」
 梓も耕一を見つめ返した。
 二人の瞳には、互いの顔だけが映っていた。
「なんとなく、なんだけど、たぶん俺は、お前の事が……」
「あたしもなんとなく、なんだけど、たぶんあんたの事が……」
 そう言って二人はどちらからともなく目を閉じ、顔を近づけていった。
 トクン、トクンという心臓の鼓動が、しんと静まった部屋を支配していた。
 少しずつ近づいていく二人の唇。
 雰囲気に流されるのではなく、こうすることがごく自然だというように二人の
唇は近づいていった。
 そして、二人の唇の距離は、ゼロに――。

 トゥルルルルルル――!
 突然、けたたましい電話の音が鳴り響いた。
 その瞬間、耕一と梓ははっとしてお互い離れてしまった。
 そのまま二人とも真っ赤な顔をして黙ってしまった。
 しかし電話はその雰囲気を壊すかのように鳴り続けていた。
 梓がぽつりと声を出した。
「で、電話、だよ」
「……わかってる」
「で、出ろよ」
「わかってる」
 耕一はのろのろと電話に出た。
 その様子を見つめながら、梓は食事のあとかたづけを始めた。
「はい、柏木です。あ、千鶴さん?」
 電話の主は千鶴だった。

『耕一さん、すいません。妹が突然押し掛けてしまって。ご迷惑でしょうが、よ
ろしくお願いします』
「はい。い、いやそんなことは。俺も梓がいてくれれば食事のこともあるし、助
かるから。ですからこれから一週間、責任を持って妹さんをお預かりさせていた
だきます」
『そうですか、そう言っていただけてうれしいです。それはともかく、あの、耕
一さん?』
「は、はい?」
『私の気のせいかもしれないんですけど』
「な、なにかな?」
『電話に出るのがちょっと遅かったですよね』
「そ、そうかな? はは」
『それに、気のせいか呼吸も荒いみたいですし、声もうわずってるような気が』
「き、きき気のせいだよ、はは、はは」
『そうですか。あの耕一さん』
 突然、千鶴は真剣な声を出した。
 その声に耕一は思わずつばを飲み込んだ。
『私は耕一さんを信頼して梓を任せているんですよ』
「うん」
『ですから、あの、無責任なことはしないでくださいね。私、まだ『おばさん』
と呼ばれたくありませんから。だから、せめてキスぐらいまでにしておいてくだ
さいね。くれぐれも最後までは――』
「ち、千鶴さん、何を!」
『ふふふ、冗談です』
「え」
『あら、もしかして図星だったんですか?』
「い、いや、そそそそんなことはないよ、うん。絶対、絶対、絶対、天地神明に
誓って、ぜーったい、ない!!」
『……そんな力一杯否定しなくても。まあとにかく、梓のこと、お願いしますね』
「うん、わかったよ。じゃ、さよなら」
 耕一は電話を切ると、大きく息を吐いた。
「はあ、千鶴さん、なんであんなに勘が鋭いんだろう……」
 耕一がうんざりしたように頭を振っていると、台所で洗い物をしていた梓が、
耕一に声をかけた。
「耕一、千鶴姉なんだって?」
「お前のことをよろしくってさ」
「それだけ?」
「ああ」
「ふーん。あ、そう」
 梓は再び洗い物を始めた。
 耕一はいまだに火照っていた顔を冷やすため、洗面所に行った。

「ふー、さっきのあの雰囲気。なんなんだ、いったい?」
 顔を洗った耕一は、ぽそっとつぶやいた。
「なんか変な雰囲気だったな。でも、あれって俺からやろうとしたんだよな……」
 耕一は右手を見た。
 先ほど、梓の手を握った手だった。
「あいつ、いっつも俺を殴ってるからあまり気にしてなかったけど、指、細いん
だな」
 耕一は台所のある方を見た。
「あいつ、普通に話しかけてきたよな。気にして、ないのかな、さっきのこと。
あいつって俺のこと、どう思ってるんだ? いや、それよりも、俺はあいつのこ
とを……」

 耕一が考え込んでいる頃、梓はぼうっと台所に立っていた。
 洗い物はすでに片づいており、する事がなかったのだ。
 しかし、なんとなく居間に戻る気にはなれなかった。
 耕一の顔をまともに見ることが出来なかったからだ。
「うー、なんなんだよ、さっきの雰囲気。耕一の奴が変な事言うから。でも……」
 梓は自分の唇を指先で軽く触れた。
「あたし、あいつとキスしようとしたんだよな。まだ、誰ともしたことないのに、
耕一としようとしたんだよな。いやじゃ、なかった。それってやっぱり、あたし
があいつのことを……」
 梓は顔を真っ赤にさせて頭をぶんぶんと振った。
「そ、そんなことあるわけないよな。うん、あるわけない、よ、たぶん……」
 梓は居間のある方を見た。
「あいつ、千鶴姉と普通に話してた。さっきのこと、全然気にしてなかったよう
な感じだった。あいつってあたしのこと、どう思ってるんだろう。あいつにとっ
てのあたし、あたしにとってのあいつ……」

 その後気持ちを落ちつけた二人は、まったく同じタイミングで居間に入ってき
た。
「梓……」
「耕一……」
 お互いほんの少し顔を見たあと、離れて畳に座った。
 しばらくお互い何も話さなかった後、沈黙を壊そうと視線を逸らせたまま耕一
が口を開いた。
「梓」
「何?」
「お前、今日これからどうするんだ。予定とかないのか?」
「うん、これといって。大学には明日、案内してもらうつもりだから」
「そっか」
「耕一は、なにかあるの、予定?」
「いや、別に」
「…………」
 二人は再び黙ってしまった。
 梓はしばらく目を閉じた後、何かを決意したようにうなずいて立ち上がった。
「よし!」
「ん?」
「耕一!」
「は?」
「出かけよ!」
「え?」
「だから、どっか出かけよ!」
「出かける、ねえ」
「うん、今日はあたしに東京を案内してよ。どうせやることないんだろ?」
「ああ、それはそうだが」
「じゃあ、行こう! ね、いいだろ?」
 そう言って梓は期待を込めた目で耕一を見つめた。
 耕一はしばらくその梓の顔を見つめた後、ゆっくりと立ち上がった。
「……ま、いいか。じゃ、今日は梓につきあいますか。今から行くと、ちょうど
昼飯時だな」
「うん!」

 しばらくして、一足先に準備の終わった耕一は玄関口で梓の準備が終わるのを
待っていた。
「おい梓、まだかー?」
「ごめん、もうちょっと」
「早くしろよ」
 耕一は軽くため息をついた。
「まったく、どうしてこう女ってやつは準備に時間がかかるのかね。たかがどっ
か出かけるぐらいなのに……待てよ、これってもしかして、デート、なのか?」
 耕一は再び右手を見た。
 先ほど梓の手を握った手。
 なんとなく、まだそのときの感触が残っているようだった。
 耕一はゆっくりとその手を握りしめた。
「梓と、デートか……何考えてるんだか。らしくないな、俺」
 耕一はふっと苦笑した。
 そのとき、
 ピンポーン。
 呼び鈴を鳴らす音が、耕一の部屋中に響いた。
「ん? 誰だ、いったい?」
 思考を中断された耕一は不機嫌そうに玄関を開けた。
「はいはいはい、いったいどちらさ、ま……あ、小出さん」
 玄関に立っていたのは、はっと目を見張るほどの美人だった。

「こんにちは、柏木クン」
 その女性はきれいな微笑みを浮かべた。
「小出さん、どうしたの、いった――」
 耕一が女性に話しかけようとしたとき、家の奥から梓があわてたようにやって
きた。
「おまたせ、耕一。ん? 誰、お客さん?」
「ああ、大学の友達だ」
「友達?」
「ああ。だから悪いけど、ちょっと待っててくれ」
 そう言うと、耕一は女性の方を向いた。
「で、どうしたの小出さん。何か俺に用?」
「うん、柏木クンとさ、映画にでも行こうかと思って」
 女性はポケットから取りだした映画のチケットをぴらぴらと揺らした。
「映画? 俺と小出さんが?」
「うん。せっかくの休みなのに、どうせ柏木クンなら部屋でゴロゴロしてるんだ
ろうな、と思って」
「大きなお世話だよ」
 耕一は苦笑した。
「で、その何もすることもなくて部屋でゴロゴロしてる柏木クンに、この心のや
さしーい私が一日付き合ってあげようかな、と思ったというわけ」
「そ、そりゃどうも」
「だから、ね、映画、行こ!」
 女性はにっこりと微笑んだ。
 だが耕一は困ったような表情を浮かべた。
「いや、その悪いんだけど、俺、今日は珍しく用事があってさ」
 耕一はちらりと梓の方を見た。
 その視線に気づいた梓はぷんと目を逸らした。
「いいよ、別に。そのきれいな人と出かければ。あたしは一人でもいいから」
「おい、そういうわけにはいかないだろ」
「いいって言ってるだろ」
「よくないだろ!」
「いいってば!」
「だめ!」
「いい!」
「ねえ……」
「何!!」
 二人は声をそろえて、遠慮がちにかけられた声の方を向いた。
 声をかけたのは、先ほどの女性だった。
「ねえ、柏木クン。そちらの方は? ずいぶん親しいみたいだけど」
「ああ、こいつ? こいつは俺の従兄妹で、名前は梓。来年うちの大学を受ける
みたいでさ、休みを利用してその見学に来たってわけ。で、一週間、俺の家に居
候」
「ふーん」
「は、はじめまして。柏木、梓、です」
 梓はぺこりと頭を下げた。
「梓、こちらの女性は俺の友達、小出由美子さん」
「小出由美子です、よろしく」
 由美子は微笑みながら梓にあいさつをした。
 梓はそんな由美子をじっと見つめていた。
 すらりと伸びた手足。
 艶やかな髪。
 小さな顔。
 大きな瞳。
 めがねをかけたその女性は、十分美人と呼んで差し支えなかった。
「私の顔が、どうかしたかしら?」
 梓の視線に気づいた由美子が梓にたずねた。
「あ、す、すいません」
 梓はあわてて由美子から視線を外した。
 由美子はそんな梓の様子をさほど気にしたふうもなく、耕一の方を向いた。
「……で、どうするの、柏木クン」
「え?」
 急に話を振られた耕一はまぬけな声を出した。
「だーかーらー、映画、行くの、行かないの?」
「あ、ああ、映画ね。えっと、さっきも言ったとおり、悪いけど今日は――」
「行って来ればいいだろ、耕一」
 梓がぽつりと声を出した。
 耕一は軽くため息をつきながら梓を見た。
「だから、さっきから何回も言ってるだろ。そういうわけにはいかないんだよ」
「どうしてだよ。いいじゃないの、行って来れば。あたしは、今日はいいよ」
「わかんないやつだな。だから、俺は今日はお前と――」
「いいの!」
「梓……」
 大声を出した梓に、耕一は言葉を失った。
 二人の会話が中断したのを見計らって、由美子が会話に参加した。
「柏木クン、ごめんなさい。私、今日はもう帰るわ。従兄妹さんと仲良くしてね」
「小出さん」
 由美子は寂しげな表情を浮かべた。
「私だって、ほんとは柏木クンといっしょに映画、行きたいわよ。でも、やっぱ
り柏木クンは今日、従兄妹さんに付き合うべきだと思うの。柏木クンの彼女とし
て、私は、それが一番いいことだと思うの」
「…………!」
 その言葉を聞いた瞬間、梓は目を大きく見開いて耕一を見た。
 その目には大きな動揺と、ほんの小さな落胆の色があった。
 一方、耕一も驚きで目を丸くしていた。
「ちょちょちょっと、何言ってるの小出さん!」
「何って? 私、変な事言ったかしら?」
 由美子は首を傾げた。
「変も何も、なんだよその彼女ってのは! 俺たちただの友達で付き合ってなん
かいないだろ!」
「またまた、照れちゃって」
「照れてない! 間違ってる事を間違ってるって言ってるだけだろ! だいたい
俺と小出さんが付き合ってるなんて話、どこから出てきたんだよ。互いの家も知
らないぐらい、なの、に……あれ? どうして小出さんが俺の家、知ってるの?」
 耕一の言葉に、由美子は大きくため息をついた。
「何言ってるのよ。付き合ってる相手の家を知らない人がどこの世界にいるって
言うのよ。従兄妹さんもそう思うでしょ?」
「…………」
 由美子は梓を見たが、彼女はその視線に気づかず、虚ろな目でただひたすら耕
一を見つめていた。
 由美子は再び耕一の方を向いた。
「それに私の家を知らないなんてよく言えたわね、柏木クン」
「ん? それ、どういう事だよ」
「柏木クン、私の両親が留守のとき、よく私の家に泊まりにくるじゃない。そん
な事してて、よく私の家を知らないなんて言えたものね。ねえ、従兄妹さん?」
 由美子は再び梓を見た。
「誰がいつそんな事したんだよ! そんなめちゃくちゃな嘘八百冗談でまかせな
迷信に梓まで巻き込まないでくれ! おい梓、信じるんじゃないぞ。これは全部
小出さんの冗談なんだからな。おい梓、聞いてるのか!」
「あ……」
 今までぼうっと耕一を見つめていた梓は、耕一の声にはっと我に返った。
 我に返った梓は顔を伏せると家の中に走っていった。
「梓?」
 しばらくして梓は自分のバッグを持ってゆっくりと家の中から出てきた。
「梓、どうしたんだよ、そのバッグ」
 梓は耕一の質問には答えず、顔を伏せたまま、ゆっくりと玄関の外へ出た。
「梓、返事しろよ!」
 梓の様子にいらだった耕一は梓の肩をぐっと掴んだ。
 肩を掴まれた梓は立ち止まり、耕一の方を向いてゆっくりと顔を上げた。
 顔を上げた梓はにっこりと笑みを浮かべていた。
 だがその笑みはどう見ても無理をして作っている笑みだった。
「あ、あんたに恋人がいたなんてね。それもこんなきれいな人なんて、お、驚い
たよ。な、なん、なんであたしたちに、一言も言って、くれなかったんだよ。水
くさいじゃないか、耕一」
「梓、ちょっとお前何を――」
「そうとわかってれば、あたし、ここに来たりしなかったのに。お邪魔になるん
だから。そ、それに誤解されたら大変だろ? ほんと、ご、ごめんね、迷惑かけ
て。あたし、ここ出ていくよ。どっか、安いホテルでも探すからさ」
 梓は由美子を見た。
「え、えと、あたしと耕一は、ただの従兄妹でなんの関係もありませんから誤解
しないでください。それから、耕一ってばだらしなくてずぼらでスケベでどうし
ようもないやつだけど、探せばいいところも結構ありますから見捨てないでやっ
てくださいね、お願いします。ほんと、耕一のこと、よろしくお願いします!」
 梓は由美子に頭を下げるとアパートの階段に走っていった。
「梓!」
 耕一の大声に梓は一瞬立ち止まり、耕一の方を向くと彼に大声で話しかけた。
「耕一、あたしなんかより恋人を大事にしなくちゃだめだろ! じゃ、二人とも
ごゆっくり!」
 そう言うと、梓は階段を駆け下りていった。
「…………」
 由美子はそんな梓を冷ややかな視線で見つめていた。

 しばらく呆然としていた耕一は、やがてはっと我に返ると梓の後を追って走り
出そうとした。
 そのとき、由美子が耕一の腕をぐっと掴んだ。
「ちょっと待ってよ、柏木クン」
「離してくれ。梓を追わなくちゃ!」
「いやよ」
「何言ってるんだよ。冗談はもういいかげんにしてくれ」
「私がいつ冗談を言ったって言うの?」
「さっきからずっとじゃないか」
「冗談なんかじゃないって言ってるでしょ」
「何わけわかんないこと言ってるんだよ。とにかく、この手を離してくれ」
「……いやよ」
「くっ……もう、いいかげんにしてくれ!」
 耕一は由美子の腕をふりほどいて、キッと由美子を見つめた。
 由美子は耕一の視線に一瞬ひるんだが、気を取り直して耕一をじっと見つめた。
「別にいいじゃないの。あの従兄妹さんだって、子供じゃないのよ。泊まる所ぐ
らい自分で探せるでしょう。柏木クンが彼女のことをそこまで気にする必要が本
当にあるの?」
「梓は俺がきちんと面倒見るって預かったんだ。いいかげんなことはできないし、
したくない」
「それはそうね。でも、ここで彼女を追うってことは、柏木クンと彼女、二人は
一つ屋根の下で一週間過ごすってことになるのよね。さっき彼女は否定したけど、
ねえ、もしかして、あなたたちってそういう関係なの?」
 由美子の声はわずかに震えていたが、耕一はそれに気づけなかった。
「ち、違うよ! 俺と梓はそんな関係じゃない。ただ一番仲のいい従兄妹ってだ
けだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「じゃあ、どうして彼女を追うの? 好きあってるわけでもない若い男女が一つ
屋根の下。それこそおかしいじゃない。どうしてそんなこと引き受けたの?」
 耕一は下を向いて黙ってしまった。
 由美子の言い分にも一理あったからだ。
「それは、そうだけど……」
「ほら、言ってみなさいよ。なんで彼女にそこまでこだわるのか、早く言ってみ
なさいよ!!」
 由美子は自分でも気づかないうちに、責めるような口調で耕一に話しかけてい
た。
 耕一は、初めて見た由美子の意外な姿にとまどったが、あえてそのことには言
及せず、先ほどの由美子からの質問にだけ答えた。
「あいつは、いっつもそそっかしいから。それに東京だって全然慣れてなくて不
案内だから、やっぱり俺がついていてやらないといけないから。それに」
 耕一は由美子に寂しげな微笑みを浮かべた。
「やっぱり、なんとなく俺はあいつをほっとけない。ここで梓を追いかけなかっ
たら絶対いけないと思うんだ。だからごめん、せっかく映画誘ってくれたのに。
また今度、じゃあ!」
 耕一は由美子に向かって手を挙げると、走って階段を駆け下りていった。

 由美子は悔しそうな顔をして耕一の背中を見つめていた。
「まったく、どういうつもりよ、柏木クン。私よりあんな小娘の方がいいって言
うの? いくらあの小娘が幼なじみだっていったって、今まで柏木クンの一番そ
ばにいたのは私じゃない。どうしてあの小娘を選ぶのよ。どうして私じゃないの
よ。こんなの、絶対、納得いかない……そうよ、絶対、絶対、絶対、ぜーったい、
納得いかないわ!」
 由美子は顔を真っ赤にして、耕一が下りていった階段を見つめながら怒鳴った。
「私が柏木クンとここまで親しくなるのに、どれだけ時間がかかったと思ってる
のよ……それをあの小娘、ちょっとかわいくてスタイルがいいからって……まあ、
ちょっとじゃないのが悔しいけど……やっぱり冗談じゃないわ! ……でも」
 そこまで言って、由美子は頬に指を当てた。
「確か柏木クンとあの従兄妹さんって、九年ぶりに会ったって言ってたわよね。
九年前っていったら二人はまだ子供。つまり、柏木クンとあの従兄妹さんの大人
になってからのつきあいは、まだそんなに長くはないってことよね」
 由美子はニヤリと笑った。
 あまりにもおぞましいそれは、耕一に絶対見せてはならない表情である。
「それにさっきのあの二人のやりとりからすると、二人の関係は恋人というより、
極端に仲のいい友達といった方がいいような感じだった……ふっふっふ……つけ
いる隙はまだまだいくらでもあるわね」
 由美子の笑いは少しずつ大きくなっていった。
「ほーっほっほっほ! まだいけるわ! 見てなさいよ小娘、柏木クンは、絶対
私の男にしてみせるわよ、ほーっほっほっほっほっほー!」

「ねえ、お母さん。あの人何してるの?」
「こら、近づいちゃいけません。かみつかれますよ」
「あんなに若くて美人なのに、かわいそうに」
「柏木さんとこ、朝から美人を二人もつれ込んで。若いもんはいいのう、わしも
昔を思い出すよ」
「おじいさん。その話、もう少し詳しく教えてくださいな」
「へ……? げ、ばあさん! お前、いつからそこに!」

「ほーほっほっほっほ! 見てなさい小娘! 正義は必ず勝つのよ、ヒロインは
私よ!」
 テレビの悪役じみた由美子の高笑いはしばらくの間続き、近所の人の噂になっ
たことはいうまでもない。



 夕方。
 梓が家を飛び出してから、すでに五時間が経過しようとしていた。
 しかし耕一の懸命の捜索にも関わらず、梓は未だ見つかっていなかった。

 耕一は額の汗を拭いながら、ある商店街の中を歩いていた。
「くっそー、梓のやつ。いったいどこ行きやがったんだ……ばっかやろう、小出
さんの冗談なんかまともにとりやがって。ああー、それにしても腹減ったなあ」
 ぐう、と鳴るお腹をさすりながら耕一の愚痴は続いた。
「本当にどこ行ったんだ。絶対に見つけて夕飯作らせてやるからな! ああ、絶
対見つけてやる!」 

 一方そのころ、梓はとある公園のベンチに座っていた。
 耕一の家を飛び出してから五時間、意味もなくあちこちを歩き回って疲れ果て
ていた梓は、ここで休憩を取っていたのだ。
 しかし休憩と言っても彼女は何をするでもなく、ただ虚ろな目をしたままベン
チに座っていた。
「あたし、何やってるんだろう。こんな事、してる場合じゃないのに」
 梓は立ち上がろうとした。
 しかし結局立ち上がれず再び座り直した。
「だめだ、なんにもする気が起きない」
 大きくため息をつくと、梓は今日起こった出来事を回想し始めた。

 わくわくしながら家を出た朝。
 ドキドキしながら耕一の部屋のドアノブに手をかけた瞬間。
 すやすやと眠っている耕一を見てとっさに思いついたいたずら。
 怒る耕一。
 笑う自分。
 二人きりの食事。
 些細な意地の張り合い。
 思いがけない耕一の行動。
 何かを期待する自分。
 耕一の言葉。
 自然な行動。
 触れ合わなかった唇。
 突然の来訪者。
 耕一の友人。
 知ってしまった真実。
 思わず逃げ出した自分。

 嬉しい事と哀しい事が同時に起こった一日だった。
 梓はぽつりとつぶやいた。
「耕一、あんた、彼女いたんだ。ふふ、ばっかみたい。結局あたし一人が騒いで
ただけじゃない。ほんと、ばっかみたい……」
 梓はそっと自分の唇に指先で触れた。
「耕一、彼女いるんだったら、なんで、あんたはあたしにあんなこと、しようと
したの? あんたが自分で言ったんじゃないか、好きな人としか、あんなことし
ちゃいけないって。なのに、なんで?」
 梓の足下を見つめる視界がぼやけ始めた。
 やがて、ぽたっぽたっと、雫が膝の上でかたく握った手に落ちていった。
「あんたが、何考えてるのか、全然わかんないよ……」
 梓の手を濡らす雫の量はますます増えていった。
「耕一、耕一……」
 梓のつぶやきはとどまるところを知らなかった。
「こういちぃ……」
「なんだ?」
「え?」
 ふいに梓の前から人の声がした。
 梓にとって今もっとも聞きたく、そしてもっとも聞きたくない声だった。
 梓はゆっくりと頭を上げた。
 信じられなかったが、そこにはやはり、今もっとも梓の心が求めている人物が
立っていた。
「あ、あんた、なんで……」
 梓にはそれだけを言うのが精一杯だった。
 あとは言葉が詰まってうまく言えなかった。
「やっと見つけた。ったく、苦労させやがって」
 梓の目の前の人物、耕一はそんな彼女の態度に気づかないかのように話し続け
た。
「お前の早とちりのせいでこっちはいい迷惑だったぜ、まったく。梓、お前その
短気な性格、少しは直す努力しろよな。少しは人の話を聞く努力をしろ」
「あ、あ……」
 梓はまだ軽い放心状態で何も言えなかった。
「お前が『安いホテルを探す』なんて言うから、カプセルホテルとかさんざん探
し回ったんだぞ。それでも見つからないから隆山に帰ったのかと思って、千鶴さ
んにも連絡したんだぞ。そしたら案の定、千鶴さんからはさんざん注意されるわ、
楓ちゃんからは冷たい声で非難されるわ、初音ちゃんからは思いっきり怒鳴られ
るわ、ほんとお前の早とちりのせいで今日一日さんざんな目にあったぜ」
「いち、にち?」
「ああ、そうだ。今日一日、走り回ってくたくただ」
 その言葉にしばらくきょとんとしていた梓だったが、やがて何かに気づいたか
のように、耕一に怒鳴りだした。
「あんた、じゃあ、あのきれいな人はどうしたんだよ!」
「小出さんか? 帰ってもらった」
「帰ってもらったって……な、何考えてるんだよ! 恋人ほったらかしにしてあ
たしを捜すなんて!」
 耕一は怒鳴る梓を、目を細めてじっと見つめた。
「梓」
「なんだよ!」
「お前まだ勘違いしてるのか? さっきから言ってるだろ、俺と小出さんはただ
の友達で、付き合ってるわけでもなんでもないって」
「嘘!」
「嘘じゃない」
「じゃあ、なんであの人はあんな事を!」
 梓の質問に耕一はやれやれといった様子で頭を振った。
「だから、俺をからかってたんだよ。あの人、たまにああいう事言うんだ。それ
で俺があわてるところ見て楽しんでるんだ」
「そんな事言われたって、簡単に信じられるわけ……」
「難しくても信じろ、これが本当なんだから。それにちょっと考えればわかるだ
ろ、俺なんかに彼女ができるわけないってことは。そういうのは、俺自身よりも
お前の方がよくわかってると思ってたんだけどな」
「そ、そりゃ確かに、あんたに彼女作る甲斐性なんてないけど。でも……」
「でもじゃない。まったく、小出さんのあんな冗談真に受けて、家を飛び出しや
がって」
「じょう、だん……?」
 梓はしばらく黙った後、耕一に聞こえない程度の声でぽつりと言った。
「たぶん、冗談なんかじゃないよ、それ……」
「ん? なんか言ったか?」
「ううん、なんでもない」
「……そっか」
 梓の態度が少し気になったが、あえて耕一はそのことに触れようとはしなかっ
た。
「あんた、あの人のことどう思ってるの?」
「小出さん? とってもいい友達だぞ」
「それだけ?」
「ああ。うん? 好きかどうか聞いてるのか? いや、そう言われてもな。小出
さんって確かにきれいな人だけど、俺あの人に好きとか嫌いとか考えてないから
な。それに、あの人みたいな美人が俺のことをどうこう思うわけもないしな。ま、
考えるだけむだだろ」
「そっか……」
 梓は下を向きながら、ほんの少しうれしそうな表情を浮かべた。
 耕一は梓のそんな様子を見ながらニヤリと薄笑いを浮かべた。
「どうした、梓。もしかしてお前、妬いてたのか?」
 耕一のせりふに梓はあわてたように大声を出した。
「ば、バカ言うなよな、なんであたしがあんたなんかに嫉妬しなきゃいけないん
だよ!」
「ほう、そうか」
「そうだよ」
「じゃあなんでお前はあのとき、俺ん家を飛び出したんだ?」
「そ、それは……」
「お前が俺と小出さんの関係を誤解して俺に嫉妬した、と考えれば行動に納得が
いくんだが?」
「そ、それはだから……」
「だから? ほらほら、言ってみろ」
 耕一は梓に耳を近づけた。
「だから……わっ!!」
 突然、梓は耕一の耳の側で大声を出した。
「あが、が……」
 耕一はキーンと響く耳を押さえながら梓をにらみつけた。
「な、何するんだ、お前」
「くだらないこと聞くからだろ? あのとき言ったろ、あんたたちの邪魔したく
ないって。それが理由だよ。まったく、うぬぼれるんじゃないよ」
「悪かったな、うぬぼれてて。まあ、それはともかく」
 耕一は梓のバッグを担いだ。
「あ、何するんだよ」
「何するって。お前、どうせどこも泊まるとこ探してないんだろ?」
「うん」
「だったら、俺に罪滅ぼししろ」
「罪滅ぼし?」
「そう。お前は今日、俺に四つの大罪を犯した。だから、罪滅ぼしをしてもらう」
「なんだよ、その大罪って」
「俺の安眠をあんな手の込んだいたずらで邪魔した。俺を五時間も走り回らせた」
「五時間って、じゃあ、あたしがあんたの家を飛び出してからずっと?」
「そう。それから、そんだけ走り回ったために俺の昼飯がふいになった。おかげ
で今腹ぺこだ。それから最後、今日のデートを台無しにされた。この四つだ」
 梓は耕一が話している間ずっと申し訳なさそうな顔をしていたが、耕一の最後
の言葉を聞いた瞬間、とても辛そうな表情を浮かべた。
「デートを台無しって、やっぱり耕一、あの人と……」
 耕一はあきれた顔をして梓を見た。
 しかしその目はとても優しげだった。
「バーカ、何言ってんだよ。今日俺はお前とデートするはずだったんだろ? そ
れがお前の勘違いで台無しになったんだろ?」
「あたしとの、デート……?」
 梓は惚けたように耕一を見た。
「なんだよ、あっけにとられたみたいに。ん? 今日のやつってデートじゃない
のか? 俺はそうだとばっかり思ってたんだが。まあお前がそうじゃないって言
うんなら、別にそう言わなくていいけどな」
 やや不満そうにそう言った耕一の言葉に、梓はふるふると首を横に振った。
「ううん、いい。デートでいい。そっか、今日あたし、あんたとデートに行くは
ずだったんだ。そう、だったんだ」
「そう、お前との、デートだ。まあ、それはそれとして、とにかくお前は以上四
つの罪を犯したんだ。だからその罪はお前に償ってもらうぞ」
「え?」
「お前には、今日から一週間、俺の家で寝泊まりしてもらって、家政婦代わりに
家事一切をやってもらう。それが、罪滅ぼしだ」
「それって……じゃ、じゃあ、あたし、あんたの家に世話になってもいいの?」
「ま、まあな」
 耕一はわずかに頬を染め、横を向いた。
「あの人にはなんて説明するの?」
「あの人って、小出さんか? 関係ないだろ」
「でも……」
「あのな、梓。俺はなんにもやましい事はしちゃいないんだ。人に言い訳したり、
説明したり、人に後ろ指さされるような事なんて、なんにもしちゃいない。もち
ろん俺が小出さんに説明する事だってなんにもない。だから、俺は自分が一番正
しいと思ったことをやる」
「正しいことって?」
 耕一は梓からやや視線を逸らしながらすっと右手を差し出した。
「一週間、お前を家で預かること。さ、もう帰るぞ。腹減ってしょうがないんだ」
「……うん!」
 梓は笑顔でその手を握った。



 耕一の家への帰り道、梓はさっきからずっと気になっていたことを聞こうと思
い口を開いた。
「ね、耕一。一つ、聞いてもいい?」
「なんだ?」
「あのさ、その、今朝、さ」
「ん?」
「だから、あんた、なんで今朝、あたしとあんな事しようと、したの?」
 耕一の動きがぴたりと止まった。
「あ、あんな、事って?」
 耕一はぎぎぎ、と壊れた人形のように梓の方を振り向き、きわめて冷静なふり
をして問い直した。
 だが、わずかな声の震えとその動作が彼の動揺を明確に表していた。
「だから、その、キス、しようとしたこと」
「あれは、その……」
「あんた言ったよね、好きな人としかやっちゃいけないって」
 梓は熱いまなざしで耕一を見つめていた。
「あ、あうう……」
 一方耕一は脂汗をだらだら流して、必死で意識を保っていた。
「それにあんた、あたしと、その……や、やっちゃったって、勘違いしたとき、
『責任取る』って言ったよね?」
「おぼぼぼ、覚えてた、のね……」
「ああいう言葉って、嫌いなやつにはいくらなんでも言わないよね? あんたの
性格だと、特にさ」
「だだだから、その、あれは、えと……う、あううう……」
「それってやっぱり、あたしのこ――」
「梓!」
 耕一は梓の肩に乱暴に手を置いて大声を出した。
「な、何?」
「その、お前、緊張してるよな!」
「え? 別に緊張なんて……」
「してるよな!」
「だから……」
「し、て、る、よ、な!!」
「……う、うん」
 目を大きく見開いて大声を出した耕一の迫力に押され、梓はぎこちなくうなず
いた。
 梓がうなずいたのを見た耕一は、ゆっくりと二度うなずいた。
「よーし、よーし。じゃあ、深呼吸だ」
「深呼吸?」
「そう。はい、目を閉じて大きく息を吸って」
 すぅぅ。
「吐いて」
 はぁぁ。
 梓は耕一の言う通りにした。
「はい、もう一度吸って」
 すぅぅ。
「吐いて」
 はぁぁ。
 それからも耕一は何度も梓に深呼吸をさせた。
 訝しげに深呼吸を繰り返していた梓も、だんだん耕一のかけ声なしで自発的に
深呼吸を繰り返すようになっていった。
「ねぇ、耕一」
 十回ほど深呼吸を繰り返した梓は、目を閉じながら耕一に話しかけた。
「いつまで、これやっとくの?」
 だが、耕一からの返事はなかった。
「耕一? あれ?」
 梓が目を開けたとき、彼女の目の前に耕一の姿はなかった。
「あれ、耕一、どこ……? あ」
 梓が家の方向を向くと、そこには耕一が荷物を持って走っている姿があった。
「耕一、あんた何やってんだよ。……ん? ああ、逃げたな!」
「悪い梓、勘弁してくれー!」
「ふざけるな! 待て、この卑怯者――!!」



 こうして、梓と耕一のいつものけんかが始まるかと思われた。
 だが、なぜかその後すぐ梓が耕一への追求をやめてしまったため、けんかは起
こらず事の真相までもがうやむやになってしまった。
「ふう、助かった。なんだかよくわからんが梓もあきらめたようだし、いや、よ
かったよかった」
 問題を回避できたと思った耕一は、ほっと胸をなで下ろすのだった。

 だが、耕一もいつか気づくだろう。
 自分の気持ちをはっきりさせなければいけない日。
 その日は、いずれ必ず来るのだということに。

 なぜなら、彼女はもう、すでに少しずつ――。

 ――やっぱり、まだ本当の気持ち、聞くの怖い。だから、今はまだ、このまま
でいい。あんたも、その方がいいんだろう? でもね、あたしはいつか、絶対決
心する。いつか絶対、覚悟を決めて、あんたの本当の気持ちを聞かせてもらう。
絶対そうするって、決めたから。だから、お願いだからそのときだけは、ごまか
さないで本当のことを教えて。わかってる? 絶対ごまかさないでよ。もし、ご
まかしたら……絶対に、あんたを許さない!



<お終い>


〜あとがき〜

二人「パンパカパーン!」
初音「いつもキュートな初音と」
楓 「……い、いつも可憐な楓があなたに贈る」
二人「『初音と楓のあとがきでポン!』のコーナー!」
初音「さて、前回に続いてまたわたしたちがあとがきを担当することになりまし
   た。皆様、よろしくお願いします」
楓 「お願いします」
初音「というわけで、この話にコメントをつけたいんですが……ちょっと不満で
   す」
楓 「不満? あなたが全然出てこないこと? それなら私だって」
初音「違うよ、由美子さんのことだよ。なんかこのお話、由美子さんが悪い人み
   たいになってるでしょ? それがね、ちょっと」
楓 「どういうこと?」
初音「だから、梓お姉ちゃんに意地悪した由美子さんを、本当に悪い人って言え
   るのかなと思って」
楓 「…………」
初音「だって由美子さんからすれば、今までずっと好きだった人を突然見知らぬ
   女の人に取られちゃったわけでしょ? わたしだって由美子さんと同じ立
   場にたったら、相手の女の人に意地悪したくなるよ、きっと」
楓 「……そうね、確かにそう言えるかもしれないわね。でもね初音、だからと
   いって、由美子さんがしたことって本当に意味のあったことなの?」
初音「え?」
楓 「ああいうことをしたって、結局耕一さんは梓姉さんを選んでしまった。う
   うん、むしろ耕一さんの由美子さんに対する不信感を芽生えさせてしまっ
   たかもしれない。結局、他人を陥れようとする人って、どこかでそのツケ
   を自分で払わなくちゃいけないんじゃないかしら」
初音「…………」
楓 「きれいごとかもしれないけど、由美子さんにはもっと別の方法で耕一さん
   を振り向かせる努力をしてもらいたかったわ、私は。それに、目的のため
   に他人を陥れるような人を、耕一さんは絶対好きにならないと思う」
初音「そっか。そうだよね。うん、わかったよ、お姉ちゃん。そうだよね、由美
   子さんも言ってるように、まだ耕一お兄ちゃんと梓お姉ちゃんって友達の
   関係の方が近いもんね。うん、いくらでも逆転のチャンスはあるよ。それ
   にこの一件でたぶん由美子さんのこと、少しはお兄ちゃんも意識するだろ
   うしね」
楓 「そうよ、まだまだチャンスはあるわ。今度は正々堂々がんばってね、由美
   子さん!」
初音「(そして、お兄ちゃんの気持ちが梓お姉ちゃんから離れた隙に、そこをわ
   たしが……)」
楓 「(耕一さんの気持ちが二人の間をさまよい始めたときこそ、私が漁夫の利
   を得るチャンス……)」
二人「くっくっくっくっくっ……」

 ご意見、ご感想などはこちらまで。



 ☆ コメント ☆ 綾香 :「布団にインク、か。今度、あたしもその手を使ってみようかな」(^〜^) セリオ:「…………(それやって効力があるのは処女の方だけですって)」(¬_¬) 綾香 :「そうしたら、浩之驚くかも」(^〜^) セリオ:「…………(すぐにばれますよ)」(¬_¬) 綾香 :「『綾香、ごめん』なんて言っちゃったりして」(^〜^) セリオ:「…………(言いませんって)」(¬_¬) 綾香 :「今夜、さっそく実行してみよーっと」(^〜^) セリオ:「…………(返り討ちにあうのがオチですね)」(¬_¬) 綾香 :「うふふふふふ」(^〜^) セリオ:「…………(ご愁傷様です)」(−人−)



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