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公判の経過

    1990.11.  9 五人の原告団により、東京地裁に賠償額計500万円で提訴。
    1990.12.20 第1回公判で法廷大混乱、原告・傍聴人に退廷命令。

           その後、裁判長忌避による約一年間のブランクを経て公判再開。

    1995.  3.19 原告の見津毅急逝により、のち原告は四人となる。
    1996.10.16 第一審判決で勝訴、被告東京都に賠償額計180万円の支払命令。
    1997.11.13 控訴審(第二審)も勝訴、東京都側の上告断念により結審。


最終尋問の記録(1993年10月)、および終意見陳述(1996年)をどうぞ。
はっきりいって長いです。 文字も小さいです。 全部読むのはシンドイです。
でも、コレで裁判ってモノがよぉくわかります。
時間と気持ちの余裕がある時、じっくりと腰をすえておつき合い下さい m(__)m
なお、プライバシーやわかりやすさを考慮し、一部修正・削除済。

主尋問

1993年10月7日 live at 東京地裁民事631号法廷
原告(こちら)側弁護人と原告高橋よしあきとの質疑応答、つまりは訴える側の主張です!

反対尋問

1993年10月28日 live at 東京地裁民事631号法廷
上記を受け、被告(警察)側弁護人が原告高橋よしあきに的外れな質問を浴びせる茶番劇。

最終意見陳述

原告高橋よしあきによる、最後の能書き。<カッコつけ過ぎか?
■ 資 料 編 ■
1990年1月15日、逮捕一年後同現場でのギグ
「原宿ホコテン X-DAY裁判が始まるぜ!」by 高橋よしあき 『DOLL』1990年12月号掲載

「天皇Xディ報道で黙殺された反天皇イベント」by 坂手洋二 『噂の真相』1989年3月号掲載

グラビアページ  本文特集記事1  本文特集記事2


以下、勝訴決定時に書いた記事の転載です。



「原宿X-DAY裁判」地裁で原告勝訴

「原告の訴えを棄却する。 理由は“愛”が足らないからである…」

 当初の判決予定日であった6月19日の直前にみた夢のワンシーンである。“愛”が足らないとはずいぶんなことをいうなあ……じゃあ、警察には十分愛が満ち溢れてるとでもいうのかよ!怒りのあまりに目が覚め、呆れてるうちに再び眠りについた。今度は、「やっぱり、原告の訴えを認める……」ときた。 我ながらふざけた夢だ(笑)。

「権力の暴走」を止めたくて

 現実の判決は、その後の三度におよぶ延期で拍子抜けさせられていた分、あっけなかった。賠償額は訴えの約半分(一人100万円の請求に対して判決は一人が30万円、他の者が50万円)で、内容的にはこちら側の主張がほぼ全面的に認められた形で、何かキツネにつままれたような気分。まあ、考えてみれば当り前のことが当り前に認められただけのことで、提訴から実に六年、こんなに時間かけなくたって簡単に出せる結論じゃないか!事実は一つなんだから……と判決内容に目を通してみて、あらためて思った次第だ。

 正直にいえば、提訴した当初、個人的には裁判の勝ち負け自体はどうでもよかった。もちろん、争う以上は勝つにこしたことはないけれど、「国賠訴訟」という合法的なマナ板にのせることで、警察の無法ぶりを風化させないということがまず頭にあった。天皇制に関わった事件は、ただでさえ黙殺・封印されがちなのだから、僕らが警察から受けた「氷山の一角」でしかない屈辱を、一人でも多くの、リアルタイムで知らされていない人々に知ってもらいたかった。そのことが、今後も繰り返されるであろう「権力の暴走」の歯止めに少しでもなれば……と願って。

<秋の嵐>とは?

 この訴訟に対する一般的な認識は、反天皇制を主軸とする「新左翼(死後!)」系の亜流グループ(笑!)<秋の嵐>が闘争の場を原宿ホコテンから東京地裁という法定へと移し、ホコテンでの急激なバンドブームと、提訴を前後によりエスカレートした警察の弾圧・逮捕によってその活動の低迷を余儀なくされたことで、「国賠での勝利」によってなんとかグループとしての存続をはかろうとしてきた。

 おそらくこんなところではないかと思う。判決後の記者会見でも、<秋の嵐>の現在の活動は?などと質問され苦笑したが、残念ながら遠からずといったところか。原告本人が雑誌にこんな第三者的な調子で書いて、その通りだとうなずく者もいれば、彼に書かせるべきじゃなかったと憤慨する者もいるだろう。

 たしかにこの訴訟の原告全員が、昭和天皇Xデー状況下、<秋の嵐>の名で行われたいくつかの「場」に居合わせたことは事実だが、当時お互いの認識すらない者もいたし、提訴の時点では、五人のうち二人は音楽、一人は芝居がその生活の主たる活動になっていた。

 実際<秋の嵐>という名前は、使いたい人が自分の勝手な思い入れで使っていたのが正直なところで、警察が考えているような「反体制グループ」としての姿などは結果的に生まれたものにすぎず、名前だけがその大言壮語な響きによって現在も一人歩きを続けているのである。

 <秋の嵐>はその正式名称を「反天皇制全国個人共闘<秋の嵐>」といった。「反天皇制」というスローガンと「個人共闘」というとらえどころのない理念が、「全国」という“ローカルな響き”の接着剤で繋がるところにこの冠の気恥ずかしさがある。その上で、地方の前衛劇団のような「秋の嵐」というネーミングなのだから、名前のインパクトでは敵なしであった(笑!)。

社会を揺るがす民衆のエネルギーはまだある

 88年秋に昭和天皇ヒロヒトが病床に伏してからの自粛強要のXデー状況の中で、相変わらず型通りのデモや集会という手段でしかリアクションを起こせない諸セクト・運動体にしびれをきらし、何とか活路を開きたかった「はみだし者」たちは、その闘いの場を原宿ホコテンに求めた。竹ノ子族・ローラー族に始まり、バンドの青田刈りの場とまでなったホコテンに、「反天皇制」というスローガンは決してミスマッチではなかった。

 それは、隣接する明治神宮が明治天皇を奉った場所だったという立地条件ゆえだけではない。「天皇制」に裏付けられた抑圧的な管理教育とタテ型社会により鬱積した若者たちのエネルギーは、その方向性が定まらず発散を繰り返してはいるものの、それはきっかけを自ら作り出せないというだけで、ひとたび強力なカンフル剤が打ち込まれれば、社会を底辺から揺るがすであろう可能性を秘めていた。

 誰もが疑問を抱きつつもやりすごしていた「自粛」に対し、それを風刺した芝居やパフォーマンスに拍手が沸き起こり、パンクビートにのったメッセージは、普段はおとなしい子供たちの秘めたる炎に油を注いだ。駅頭で手渡されればゴミ箱直行のアジビラも、あっという間に配られて、教科書から削除された歴史の真実を中高生らに伝えることができた。

 かつての全共闘世代が、「革命」への舞台をキャンパスから街頭に移していったのと同じように、時として湧き起こる民衆のエネルギーのカオスに(その質はともかく)、当時居合わせた者たちは「天皇制」の呪縛から逃れる光明を見たことだけはまぎれもない事実だ。

 公判の尋問の中で被告側(警察=東京都)は、原告をなんとかして「反体制グループの活動家」に無理矢理仕立てあげようと苦心していたが、それも考えてみれば、警察という組織の中で、「国家」という枠組みの上でしか人間同士の関係性を理解できないがゆえのことだ。

 ちょっとしたきっかえさえあれば、民衆のエネルギーは爆発し、その繰り返しが歴史を動かすのだという事実を、彼らは絵空事ぐらいにしか思ってないのだろう。「全国個人共闘」という大風呂敷な冠は、未だ出会えずにいる、世界中にいるであろう多くの同じ思いを抱く者たちへの“愛”のメッセージであったのだ(笑!)。

 裁判長は、その“愛”を感じとれる人だったということだ。警察官諸君も“愛”を大事にしてね!

(1996.10 記)
 

「原宿X-DAY裁判」とは

1989年から90年にかけ、東京・原宿で天皇制を批判するグループ「反天皇制全国個人共闘<秋の嵐>」の活動に参加していた五人が、警察官に違法に逮捕されたり暴行を加えられたとして、東京都を相手に総額400万円の慰謝料を求めた訴訟。
東京地裁は(96年)10月16日、原告側の主張を認め四人に計180万円の支払いを命じた。東京都は即日控訴。
なお、原告の中心メンバーだった見津毅氏は95年3月死去のため同年6月訴えを取り下げ、原告は四人となった。
(『週刊金曜日』編集部記)

そして控訴審は↓


祝!フランスW杯出場&

原宿Xデー裁判二審勝利

 勝った!ついに、フランスワールドカップへの切符を手に入れた。

 思えば、この最終予選が始まった9月から二ケ月余り、その一戦一戦に一喜一憂し、投げた紙クズがゴミ箱に入らなかっただけで「ああ、次の試合はゴールが決まらない…」と落ち込み、願掛けで試合ごとにスキンヘッドにした。

 だけど、そんな悲壮感ばかりじゃない。日常あらゆる場面で、それまでと決定的に違い楽しかったこと、それはサッカーの話がどこでも誰とでもできるということだった。およそサッカーには興味のなさそうな人の口から、「あんな負け方情けないよ」とか「相手がやる気ないから勝てたんだよ」とか…。そしてW杯出場権を獲得した今、日本中の全てのマスコミが無責任な祝賀報道一色。

 これって何かに似てる。そう、あの時と同じだ。「W杯出場を祝わない奴は日本人にあらず。」「天皇の死を悲しまない奴は日本人にあらず。」喜びと悲しみは表裏一体、ヒロヒトの下血情報を毎日たれ流し、意味なく自粛・服喪を強要された九年前のXデー状況と…。

 喜怒哀楽は押しつけるもんじゃない。まず、それぞれが皆個人の動機で喜び、個人の動機で悲しむ。その上で、共有できる者との出会いを求めるだけだ。一般市民(!)のインタビューで象徴的な答えがあった。

「ふだんはサッカーなんて興味ないんですが、ナショナリズムを刺激されますからね…。」

 実に、多くの日本人が語る「ナショナリズム」なんて、この程度のものなんだ。悪いって言ってるんじゃない。強固な「愛国心」を確信してる連中ばかりだったら、住みにくくてしょーがないからね。でも、きっと彼らは、あの時、ナショナリズムを刺激されて喪に服してしまったんだろうなぁ。

 勿論、俺は今めちゃくちゃうれしい。代表チームをずっと応援してきたし、フランスでの本選に行ったら、是非とも決勝トーナメントに進んでほしい。だけど、それは国の為でも日の丸の為でもない。サッカーから享受するエネルギーを自分自身に反映させていきたい、だけのことだ。

 日の丸をふり、君が代を歌って応援する奴がいてもそれはそれでかまわない。ただ、それを強要してほしくはない。代表選手自身だって、十人十色なんだからね。そして、日の丸をこよなく愛するベテランFWが不調続きで途中交代させられたのに対し、「日本の為に戦ってるわけじゃない。自分を高める為…」ときっぱり言い放つ、20才の天才MFが最後のイラン戦の3ゴール全てをアシストしたという事実をクールに受けとめてほしいな、とつくづく思う。

 ところで、Xデー裁判の控訴審だが、当然のごとく「勝訴」した。二審の経過から考えて、ほぼ確信していたけど、やはり、何がどう転ぶかわからないのが裁判だ。実際、判決の言い渡しは15分も待たされ、見津の遺影を下げるよう注文がつくなど、いやな気配もあったからね。おかげで、せっかく剃りたてのスキンヘッドで予定の1時半ジャストに法廷に入り場内を沸せたのに、その余韻がさめてしまった。

 さて、判決の内容を要約すると、「(警察側証人の)宮坂、松田ともに、逮捕当日の1月15日に高橋の住所・氏名を知らなかったはずはなく、1月8日の見津逮捕の報告書作成や翌9日のガサ入れという事実から判断して、彼らの証言は信用できない」よって「本件控訴は理由がないからこれを棄却する」ということ。

 あらためて何も言うことはない。警察のメンツの為だけに控訴したものの、矛盾だらけの証言で、さらに墓穴を掘り下げただけのこと。むこうの弁護士も当日の判決前から、上告をするつもりはない旨伝えてきたらしく、事実上これで結審。あしかけ八年の裁判闘争は勝利で終ったと報告してよさそうだ。

 Xデー状況から数えれば、あしかけ十年だ。正直なところ、当時の怒りをそのまま持ち続けているわけではない。一審判決後の記者会見ではテレビカメラもまわったが、今回は月並な記事が新聞に掲載されただけだ。当時その場に居合わせた人達にとってさえ、すぐには思い返せない過去の記憶である。

 当時、なぜ提訴にふみきったのか?風化されず、未来の教訓にする為だったはずだ。アキヒトのXデーは、すぐに来そうにはない。だけど、いつ何が起こるかわかったもんじゃない。大事なのは、今後も頭はクールに、心は熱くファイトし続けることかな。ねぇ、岡田監督!

(1997.11 記)
 

〜『靖国・天皇制問題情報センター通信 No.233』より転載

もっと詳しく知りたい方は ▼

国賠ネットホームページ 

見津 毅「獄中体験記」 

「裁判の中の天皇制」