藤森栄一先生の生涯

【写真2】藤森栄一
1935〜1973)

 藤森栄一先生は明治44年長野県諏訪市に生まれました。諏訪中学校在学中から考古学にめざめ、卒業後、森本六爾先生主宰の東京考古学会に入会し、考古学の研究を本格的に始められました。森本六爾先生の数多くの弟子たちのなかで一番六爾先生のかわいがられておられたかたです。六爾先生の死後は杉原荘介、小林行雄氏らとともに東京考古学会の運営を一手に引き受けるとともに、葦牙書房(あしかびしょぼう)という出版社を経営され、森本六爾先生の遺稿集である『日本農耕文化の起原』を出版されました。昭和18年に出征、九死に一生を得て昭和21年ボルネオより復員されました。昭和21年に出版された考古学随筆集『かもしかみち』は多くの人々に考古学への道をひらきました。生涯を在野の考古学者として過ごし、数多くの考古学をわかりやすく解説された読み物を世に送り出されました。森本六爾先生の提唱された地域考古学実践論を実行され、諏訪という地域を舞台に活躍されました。その中でも、昭和25年に提唱され、一生かかって証明につとめられた「縄文農耕論」は八ヶ岳山麓の井戸尻遺跡から出土する遺物の性格ががあまりにも弥生的であることから導き出されたもので、多くの人々の共感を呼びましたが、学界では素人の思いつきとして相手にされませんでした。しかし、近年の三内丸山遺跡など多くの遺跡の発掘資料からその存在は確実視されています。また、諏訪考古学研究所を組織され、戸沢充則・松沢亜生・桐原健・武藤雄六・林茂樹氏らの数々の弟子を育てられました。昭和48年に62歳でおなくなりになられましたが、先生の灯された心の灯は多くの人々に守り継がれています。また、現在諏訪市を拠点に活動している諏訪考古学研究会は諏訪考古学研究所の志を受け継ぐもので、活発に活動が続けられております。


栄一先生と六爾先生

昨今の酷暑いかかですか。

貴君の御稿を小林君とで「山国飾玉集記」と勝手に題して了って甚だ恐縮。

但し、僕は校正も何もかも小林君任せなので貴稿を拝見したのは出来上がってからでした。今度のものは、ますますよろし。題は珠玉を散乱せしめたり。貴君の感覚は、僕の年少の友人の中にあって、或は最大ならむ。この感覚を更に悟性と併行せしめて貴君が磨きなば、吾が学界のよき異色たらむ。至嘱の貴君は、かいて、かいて、かいて、光って行く。貴君は最後の勝利をもぎとるでせう。・・・・・・  (以下略)

昭和11年夏、六爾先生から栄一先生へ宛てた手紙(部分)
所蔵 諏訪考古学研究所
 現在諏訪市博物館藤森栄一記念室にて展示中

 

 現在諏訪市博物館には二階に藤森栄一記念室があります。先日私が見学した際に栄一先生と六爾先生の交流をあらわす手紙が展示されておりましたのでその一部をご紹介いたします。この手紙から六爾先生がいかに栄一先生の感性をたたえ、将来を嘱望されておられていたかがわかります。

 昭和十年の晩秋、この頃は三日にあけず信濃の私を訪れてきてくれた森本さんの手紙が、あの峻厳な気象にも似ず、しだいに人なつかしげにあたたかい、ちょうど秋の夕空の赤トンボのような美しいよわよわしさを持ってきた。これは触れればかならず人をきるような森本さんの書きものには、たえてめずらしいことであった。そして、私のそのころ書いたいくつもの石器の論考にたいし最大級の讃詞を、おそらく貴兄の感性は私の知るかぎり学界随一のものでしょう。その美しき感性をもってさらに高き知性をみがかれんことを、そんな意味の言葉を下さったりした。(藤森栄一『かもしかみち』学生社 より)

【写真3】森本六爾1903〜1936)

 森本先生と藤森先生の出会いは、昭和5年、一通の葉書が藤森先生のところに森本先生から寄せられたことがきっかけでした。そのとき、藤森先生19歳、森本先生26歳でした。信濃の山のなかで逼塞しがちであった藤森先生は考古学がやりたい、という大きな悩みを抱えていました。そうした、藤森先生に森本先生からの葉書は大きな力を与え、昭和8年に上京し本格的に森本先生の教えを受けるようになります。その森本先生に藤森先生はわずか6年間しか教えを受けることが出来ませんでしたが、その影響は生涯にわたって藤森先生の生き方を決定づけています。この森本先生との出会いがなかったら、考古学者藤森栄一は誕生することはなかったと思います。


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