藤森先生の一番の親友は、明治大学教授の杉原荘介先生だった。栄ちゃん、荘ちゃんの仲だったそうです。二人は、鳥居龍蔵先生の紹介で杉原先生が森本六爾先生の東京考古学会に入会してきて出会い、その交流は終生続きました。特に、二人の戦前の青年時代の交際は、非常に親密で、しかも暖かいものでした。このころの舞台であった、旧杉原商店は日本橋区小舟町にありました。そして、藤森栄一先生の葦牙書房は最初は、この杉原商店の二階を無償で借りてはじまったのです。そうした二人の友情の遺跡をたどってみました。

  社長の身で明大夜間部入学から、たった一夜も欠かしたことのないコース、杉原商店――葦牙書房――夕食――明大夜学――後藤教授の学識の吸収――実地できたえ抜いた実力で上級生や講師連中へのつき上げ、と、その一日の日程が時計の針のように正しく続けられた昭和十七年ごろのことは、私は出征していて、彼が十八年に応召し、南京の酒保部隊でマンジュウ作っていたということしか知らなかったが、とにかく、二十一年の夏には、そういうポストをつかんでいた。かつてアマ仲間だった私とかれの間には、もう越えがたい溝ができていた。(『考古学とともに』より)

かつて杉原商店があった日本橋区小舟町1−1は現在中央区日本橋小舟町8−11となっていた。

ここは、右の写真の場所でトンカツ生駒となっています。

  私は、そのまま東京へとびだしていった。それから、日本橋小舟町1−1の杉原商店の二階を無償で借りて、帰ってきた雑誌の編集をはじめた。しかし、そのときは『考古学』はすでになく、『古代文化』だったわけである。私は長いこと、いまも、その精神的苦痛を負いつづけている。
毎日、小舟町に通い。杉原君と昼を食べ、夜もたいていは御徒町か須田町あたりで飲んで遊び、夜更けて帰った。(『かもしかみち以後』より)

葦牙書房のあった神田区岩本町3−2は通称「柳原土手」といわれた地区です。現在は柳原通りといいます。

現在の柳原土手の岩本町3−6、この周辺がかつての葦牙書房であった。

その残金をもとにして、神田岩本町3−2の柳原土手の、もとつるし店街の真中の洋服店のあとを借りた。小舟町のころは、杉原君のいいなりで、発掘や調査に走りまわって夜は飲んで遊んでいたが、今度はそういうわけにはいかない。(『かもしかみち以後』より)

このうちのビルの一つがかつて葦牙書房のあった場所に建っているのかも知れない。

いまも変わらない和泉橋。大正五年三月の完成である。

柳原土手のいわれを示す看板。

和泉橋からみた、明治大学リバティタワー、ここが荘介先生の最終目的地だった。神田川沿いに建っていることがわかる。

柳原土手でみつけた、昔ながらの商店街。おそらく、葦牙書房もこのようなたたずまいを見せていたに違いない。


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