藤森栄一を知る上でもっともふさわしい場所として諏訪市博物館藤森栄一記念室があります。展示内容について諏訪市博物館発行『常設展示パンフレット』よりご紹介いたします。 なお、挿入文献写真は全て当館所蔵のものです。 (資料提供 諏訪市博物館)

 

諏訪市博物館正面入口


考古学とともに・藤森栄一

 長野県を代表する考古学者藤森栄一は、明治44年諏訪に生まれ、昭和48年に没するまでの62年間その激動の人生を考古学とともにひたすらに生き抜いた。このコーナーでは、諏訪考古学研究所から提供された資料によって、「生きる」「科学する」「守る」「育てる」の四つの側面から、今も息づく藤森栄一のことばに耳を傾けて見たい。 (資料寄託・諏訪考古学研究所・藤森みち子)


――生きる――「かもしかみち」

「深山の奥には今も野獣たちの歩む人知れぬ路がある。ただひたすら高きへと高きへと、それは人々の知らぬけはしい路である。私の考古学の仕事はちょうどそうした、かもしかみちにも似ている。」 (『かもしかみち』より)/「若さというものは心に灯をともせるたった一度のチャンスである。」(『心の灯』より)
自然と文化を愛し人の温もりのある考古学を求める藤森栄一の心の灯は、彼の著作を通じて全国の考古少年たちに熱く受け継がれていった。


暗中模索ノート

 暗中模索ノート…「こうした暗中模索は二年続いた。書きぬきはノート四百頁に達するものになった。私はそれに暗中模索ノートと題字を書いた。」(『銅鐸』より)/日記…「最後に焼き捨てようとは思わぬ。その位なら書かない。何れだれかが読んで正直な私を知って呉れることは、今思うだに楽しみだ。」(『藤森栄一の日記』より)/戦時郵便…出征先から、みち子夫人と子供たちにあてて出した戦時郵便。


茶臼山遺跡出土の石器類

 茶臼山遺跡出土の石器類・・・「ああ、黎明の茶臼山人よ。君たちはどこから来て、どこへ消えた。君たちの受難の命を、赤土のオカリーナのようにでもいい、聞かせてくれ」(『旧石器の狩人』より)/茶臼山遺跡の蛇紋岩製局部磨製石斧・・・「はじめ茶臼山文化のうちから抹殺されていた。日本旧石器文化には研磨の技術があったらしいという考えは、もう否定しがたくなってきた」(『縄文の世界』より)


――科学する――『縄文農耕』

  藤森栄一の最大の業績のひとつは縄文農耕論の展開であった。井戸尻遺跡群の調査で「縄文時代に農耕あり」との確信を深めた藤森は、学界の定説に対し大胆に挑みかかる。/「縄文農耕が立証されたというのではなく、きっと私の存命中は、いや永遠に仮説として終わるかもしれない。ただ私という人間が生きて、ただひたすらに生きて、迷ってさまよっていたことは、まぎれもない事実なのである。」(『考古学とともに』より)


有孔鍔付土器(新道遺跡1号住居跡)

 有孔鍔付土器 (新道遺跡1号住居跡)・・・「これは明らかに蓋をつけた貯蔵形態である。何を貯蔵したか。鳥獣肉や魚でないことはたしかである。ではなんだ。農耕はしばらくおくとしても、植物嗜食でなくて、なんだ。」(『考古学とともに』より)馬上杯形のカップ(新道遺跡1号住居跡)・・・「何を飲むか、水とは考えにくい。やっぱり儀式としての飲酒であろうというほかないのである 。」(『縄文の世界』より)

 


土偶(海戸遺跡)  

  土偶(海戸遺跡)「土偶は首か脚か手、とにかくどこかむしりとられて、うめ殺され、もう何処へも行けない死の姿でかくされる。万物の新霊を産みつづける地母神の憑代である。」(『縄文の八ヶ岳』より)/報告書『井戸尻』の図稿類…「土器面という円筒形の、不自由のカンバス上に限られた短い時間をとらえ、自由で奔放で、しかも力強く、伸び伸びと、しかも喰い違いも行きすぎもない」(『信濃の美篶』より)


――守る――『霧の子孫たち』

 故郷の自然と文化を愛し、考古学研究者としての責任を自覚した藤森栄一は、仲間たちとともに、曽根遺跡や、霧ヶ峰高原と旧御射山遺跡などの保存運動に取り組み成果をあげた。「文化財は正しく次代に継承されるべき社会の遺産である。今われわれが壊していいとか悪いとかいうこととは違う。」(『考古学とともに』より)/「45年4月、四回目の発作で倒れる。5月5日、自然文化財保護の念、黙しがたく。担がれて壇上に据えられる。」(『考古学とともに』) 


旧御射山遺跡保存運動

 旧御射山遺跡保存運動…霧ヶ峰旧御射山遺跡の中央を道路が貫くことに成った。しかし、大きな市民運動の結果、予定ルートの変更が実現した。新田次郎は旧御射山を守った仲間たちの活動を小説『霧の子孫たち』に著した。/「遺跡は、地に眠らせておいても、一向に差支えないのである。すでに掘った資料に正しい価値づけもすまぬのに、次を次をと掘りまくる必要はないのである。」(『信濃の美篶』より)


曽根遺跡保存運動

 曽根遺跡保存運動…謎の湖底遺跡、曽根。この貴重な遺跡を埋め立てや浚渫からまもる運動が展開され、現状のままの保存が実現した。
曽根遺跡の石鏃と装着復元図…「私はかなり長い間、これを考えた。そしておそらく万を遙かにこえる大量の石鏃は、一本一本矢のさきにつけられたものではなく。柄にすげられたギジャギジャ銛の刃だったに相違ないと考えついた。」(『旧石器の狩人』より)
写真は藤森栄一作詞 諏訪市立城北小学校校歌歌碑


――育てる――『二粒の籾』

 藤森栄一と、その魅力ある考古学を育てた多くの人々があった。そしてまた、彼を慕う人たちが集まり、新しい個性が弾みはじめる。出会いの持つエネルギーの大きさは計り知れない。
 森本六爾は藤森が師と仰いだ在野の考古学者。学界の疎外をはねのけ弥生時代が農耕社会であることを主張した。藤森の著作に、森本六爾伝『二粒の籾』がある。


三沢勝衛(みさわかつえ) …諏訪中学の地理学教師。独自の教育理念と地域研究の方法「風土論」をもって、藤森のほか多くの科学者を育成した。
両角守一(もろづみしゅいち)…諏訪市の銀行家。長野県の草分け的考古学研究者で、藤森を考古学の世界へと導いた。
伊藤富雄(いとうとみお)…中州村(現諏訪市)出身の元長野県副知事。中世古文書解読の専門家で、藤森に銅鐸や諏訪神社研究のきっかけを与えた。


諏訪考古学研究所

 昭和23年、藤森栄一みち子夫妻によって、諏訪考古学研究所が開設された。以後、ここには多くの人々か゛集まり、研究所の暖かい懐で考古学を学び、そして巣立っていった。/うれしい時は一緒に笑う…藤森栄一とみち子夫人はいつも二人三脚で歩んだ。とくに研究所の運営については、みち子夫人の努力によるところが大きい。


諏訪市博物館

〒392 長野県諏訪市中洲神宮寺171-2
TEL 0266-52-7080 FAX 0266-52-6990

諏訪市博物館は諏訪の時間、自然、信仰の散策をテーマとしています。

(2階) 御柱祭に代表される諏訪信仰の発生と変化、諏訪湖を取り巻く自然の中に生きる人々の暮らしぶりを象徴的に展示。資料だけでなく、音響や映像、アニメなどにより展示を楽しく体験できます。細かい情報はコンピュータ「諏訪百科」のボタン一つで楽々検索。
(1階)テーマに合わせ、年数回の企画展示を実施。他に世界のチョウ1000頭を特別展示しています。

ご利用案内

開館時間  午前9時から午後5時
休館日  月曜日、祝日の翌日
観覧料  一般    310円(210円)
     小・中学生 150円(100円)
     ( )内は、団体20名以上料金(消費税込み)

交通案内

中央高速諏訪ICより車で5分。
JR上諏訪、茅野駅より、バス約20分、「上社前」下車。
諏訪大社まで徒歩1分。
大型バス10台、普通車60台駐車可(無料)


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