森本六爾と原始農業


はじめに

 森本六爾の学績の筆頭としてよくあげられるのは、原始農業の着想についてであり、端的に説明すれば 「弥生時代に稲あり」ということである。現在のようにどの社会科の教科書をのぞいてみても、弥生時代から稲作農耕が始まる。という事実がのっているが、その提唱者である、森本六爾や山内清男の名前は全く登場しないのである。これは、現在の社会科教育の手落ちである、といえるし、本来の意味での六爾氏の学績の完全評価の実践ということにもつながるのである。(もっとも、社会科教科書上に登場する考古学者はモースのみである。坪井正五郎、浜田耕作の名前も登場しない。)

いつごろから原始農業の着想をもっていたか

 ごくまれに、森本六爾の原始農業の着想は山内清男の考えを横取りしたものである、という話を聞くことがある。これについては、本ホームページ上で明らかにさせなければならない重大な使命である。そこで、各種の文献、論文などからその過程をたどってみたい。

 山内清男による農耕論の提唱は「石器時代に稲あり」(『人類学雑誌』40-5、1925年)が最初である。それは、山内が、長谷部言人が宮城県枡形囲貝塚で発掘した土器を整理中に籾痕のある土器を発見したことで、石器時代における稲作の存在を想定し論証したものである。しかし、この山内の論文は長谷部が添削をおこない、よって山内の当初意図した通りの論旨で発表されなかったため、その当時の学界に対する影響は少なかった。しかし、森本はその論文によって大いに目を開かれ、以後鮮やかな形で、彼の手によって弥生農耕論が展開された。森本は、山内が冒していた致命的な誤りについて、早い時期から気がついており、その点を鋭く論証することによって、森本流の農耕論を築き上げていった。すなわち、弥生農耕論における山内の致命的な誤りである、文化の本質を捉えずに、個別の事象の解釈に終始したその研究方法は評価できる多くの優れた点を持ちながら、文化の本質を捉えることのできた森本に対して一歩も二歩も劣るものであることは明らかであろう。
 しかし、山内の不滅の学績である縄文層位編年の確立は森本の目指した弥生様式編年とは明らかに違っていた。本来ならば両者が相助け合って研究を進展させるべきであったが、ともに強い個性の持ち主でもあり、そのようには展開しなかったことは惜しまれる。
 森本の学績の大部分は弥生時代の生業問題に関するものであった。弥生農耕論についても、小林行雄、藤森栄一、小林行雄、杉原荘介、藤澤一夫、坪井清足といった愛弟子によって完成し、我々にその成果が伝えられている。森本の蒔いた一粒の籾は決して一粒の籾のまま足り得ず、大きな実りの秋を迎えることが出来たのである。

 


小林行雄 編 『論集日本文化の起源』1・考古学 の解説から見た原始農耕問題

 森本六爾の学問的な後継者であった。小林行雄はこの論文集の解説の中で原始農業問題について次のような研究史を発表している。森本の共同研究者でもあり、その良き理解者でもあった小林の考えこそ森本の弥生農耕論の真実を言い当てているように思われる。少し長くなるが参考にされたい。

 

  日本における農業起源論は二つの流れから出発した。その一つは、弥生文化を稲作農業の初期の段階として性格づけようとする動きであり、他の一つは、縄文文化のうちに食用食物栽培の形跡を立証しようとする試みであった。前者を原始農業論、後者を原始農耕論とよんで区別するのも一つの方法であろう。ただし前者は、古墳文化を確実な稲作農業文化とする前提に立つが、その証明は考古学によらず、「記紀」の記事をもって疑問の余地のない問題と考えた時期があった。

 考古学上の資料を用いて、早く古代の農業に言及したものに、八木奘三郎『日本考古学』(明治35年)がある。八木は原始時代(古墳時代)の食物として、土器に「穀類を印せる」もののあることと、古墳の副葬品に鉄鋤のあることをあげて、農業の存在の証明とした。現在から見れば、資料の不足は驚くほどであった。ただし八木が、弥生式土器の項に「なほこの土器の外には焼米あり、また籾を印せし品あれば、石器時代と見ること、むろん誤謬たるをしるべし」と述べたのは、重要な事実に気づいていたものといえよう。

 それとは対照的に、縄文文化の遺物のうちに農具の存在を説くものがあった。すなわち、遺物の用途を未開民族の器具から類推する方法の流行によって、縄文文化の打製石斧を台湾の石鍬と同じく農具とすれば、「耕作の道も、また行はれたるなるべし」と説いたのは、沼田頼輔『日本人種新論』(明治36年)であった。縄文文化に農耕の存在を認めなかった鳥居竜蔵『諏訪史』(大正13年)は、打製石斧を土掘り用具とするにとどめたが、柴田常恵『日本考古学』(大正13年)は、むしろ積極的に打製石斧を農具とする原始農耕の発生を考えようとした。柴田の論旨は、広大な貝塚の存在から多人数の定住を推定し、「種子を蒔きて耕作に従事するごときことなしとするも、自然に初期の農業を発達せしむることとなり、植物の根を掘るようなことも起ったと思われる」と説くとともに、打製石斧の刃の磨滅状態を「地面を掘りしためかと認めらるる」と述べるなど、たんなる打製石斧の用途論にとどまるものではなかった。

 このような推論が散発していた時期に、画期的な資料を提出したのは、山内清男「石器時代にも稲あり」(大正一四年であった。これは、宮城県桝形囲貝塚から出土した土器片の底面に、稲実の圧痕が四個あることを報告し、それを「いわゆる弥生式土器には加え難き石器時代土器」と断定したものであった。しかも、桝形囲貝塚を石器時代の末期に近い遺跡と認めながら、彼らがいかに古くより稲を有したるやは今なお不明であるが、(中略)必しも末期時代に至りて始めて稲を培養せりとはいい難きように思われる」とカ説した。この桝形囲貝塚の土器が、じつは弥生式土器であることが判明するまでには、なお若干の年月を必要とした。

  (中略)

ようやく山内清男『日本遠古之文化』(昭和七年)にいたって、弥生時代を「大陸との著明な交渉を持ち、農業の一般化した期間である」と性格づけ、「この時代に入ってはじめて食料が「生産」されるに至ったのである。栽培された植物は主として稲であったらしく、黒焦げの米、籾殻が当時の住居から発見され、また土器の底部等にその圧痕が残っていることもある。これと同時に農具と見るべき器具もまた出現しているのは偶然でない。片刃石斧は鍬として使用され、石庖丁は鎌のごとき用途な持ったであろう」と述べて、弥生文化の農具に言及した見解があらわれた。この前後の時期には、唯物史観によって日本の右代史を研究しようとする風潮が、しだいに高揚しつつあった。そののちには、渡部義通「日本原始共産杜会の生産及び生産力の発展」(昭和六年)のごとく、古墳時代の鍬形石を「主要な農耕要具」と誤認して議論を展開したものがあった。木村靖ニ『原始日本生産史論』(昭和七年)もまた、その努力にもかかわらず、随所に同種の誤認をふくんでいた。しかし木村の著書は、森本六爾に多くの刺激をあたえ、『日本原始農業』(昭和八年)の編著を発表する動機となった。森本は同書の巻頭に「弥生式文化と原始農業問題」、「低地性遺蹟と農業」のニ論文を掲載し、前者において、穀物・竪穴・耕地・農具・土器における形態変化・芸術の六つの問題をとりあげて考察を試み、弥生文化は「原始的農業社会に生れた文化」であることを力説した。ただし、この段階では、森本もまた、片刃石斧を農具とする山内説を踏襲した。

 森本の発表は考古学界に賛否両様の反響をよびおこした。考古学者の多数は、大勢として弥生文化における稲作の普及を、否定できないことを悟った。しかし、それを原始農耕のていどにとどめて、原始農業とまではいうべきでないとする慎重論もでた。あるいは、大山柏「日本石器時代の生業生活」(昭和九年)のように、稗、粟などの粒子の小さな穀物は検出が困難であるから、縄文時代の遺跡から出土した実例がないとしても、ただちに縄文文化に農耕なしと断定するのは早計であると反論するものもあった。なお森本六爾は、さらに『日本原始農業新論』(昭和九年)の編著によって、論旨の拡張と資料の増補を行なった。

 しかし、より堅実な意昧で弥生文化農業論に大きな前進をもたらしたものとしては、奈良県磯城那田原本町唐古遺跡と静岡市敷地登呂遺跡との調査をあげるべきであろう。前者は末永雅雄・小林行雄・藤岡謙ニ郎「大和唐古弥生式遺跡の研究」(昭和一八年)によって詳細な発表を見たもので、弥生文化の耕作具として木鍬・木鋤が、脱殻具として木杵があったことや、稲の収穫は穂摘みの方法によったことを、遣物の検出によって実証した。後者は日本考古学協会編「登呂」(前編・昭和ニ四年、本編・昭和ニ九年)などの報告書によって、また鍬・杵などのほか、田舟.田下駄などの木器や、高床倉庫の遺材にいたるまで、豊富な資料を提供した。さらに登呂遺跡では、水田の畦畔や、堰をそなえた水路の遺構の発見によって、弥生文化の耕地の問題にも、はじめて具体的な資料をくわえた。大場磐雄「古代農村の復原」(昭和ニ三年)が、登呂の水田面積に大小ニ種の規格があると直感して、それを「田令」に記す男女によるロ分田の広狭に直結して考えようとしたのも、登呂遺跡の調査が考古学界にもたらした興奮状態の所産であった。


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