方墳研究史


方墳の定義

 方墳については前方後円墳などと違って、非常にシンプルな形をしている。従って、その定義についても非常に簡明なものが多い。これまで、編集された考古学辞典には次のような定義がある。

@墳丘の平面形が方形の古墳をいう。(杉山晋作「方墳」『考古学小辞典』1983)
A
墳丘の平面形が方形に作られた古墳。ピラミッドのような方錐形のものも方墳と言えぬこともないが、ふつう頂部が平らになった戴方錐形のものを言う。中国では秦漢時代に方墳が一般的であり、高句麗の石塚、土塚にも方墳がある。」(小林行雄「方墳」『図解考古学辞典』1959)
B
古墳の一形式。方形の高塚をなしている。本来、方墳は、大陸の古代墓制の基本的な形態でもあるが、日本でも各地にみられる。前期方墳にも指摘されるが、とくに後期や終末期のものも多く、横穴式石室をそなえ、家形石棺のものも多い。なお、方墳と弥生時代の方形周溝墓との関連性の問題も、新たな研究の課題であるが、方形周溝墓から方墳への発達というように、直接、結びつけることは無理であるようである。」(斉藤 忠「方墳」『日本考古学用語辞典』学生社 1998)
C
墳丘の平面形が方形を呈する古墳。方墳の平面形は基本的には正方形であるが、長方形をした長方墳もまれに存在する。(中略)方墳は古墳時代の前期から終末期の全期間にかけて築造されているが、数は円墳などに比べさほど多くはない。また方墳の性格や築造の史的背景も各時期によって異なると考えられる。」(戸沢充則・大塚初重編『最新日本考古学用語辞典』柏書房 1996)

 以上のように多くの考古学辞典の方墳の項目を最大公約数的にまとめれば「平面形が方形である古墳の総称。」であるということになる。

方墳研究の起原

 現在、一般的に知られている日本における古墳の外形区分としては、前方後円墳・帆立貝式古墳・円墳・方墳・前方後方墳・双方中円墳・双円墳・上円下方墳・八角墳の九種類がある。しかし、以前からこの区分がされていたわけではなく、明治時代の八木奘三郎などによればごく簡単に円墳・方墳・前方後円墳の三種類に区分されていたにすぎなかった。その後、高橋健自の登場によって古墳の研究が体系的にまとめられた。そして、昭和初期になると浜田耕作、梅原末治、森本六爾らによって現在の古墳研究の基礎づくりがおこなわれた際に現在の用語に近いものが形作られていくのである。

方墳研究の萌芽

 方墳の研究はすでに江戸時代に蒲生君平によって1807(文化四年)にまとめられた『山陵志』に先駆的なものが見られる。このなかで蒲生は前方後円墳などに比べて、余りにもありきたりな外形であり、また中国や朝鮮半島に数多く見られることから、それらの地域から日本に伝番したものであろう、とする支那墳墓模倣説を主張したのである。しかし、蒲生の研究の成果を利用した幕末の文久の修陵においては、天皇陵は前方後円墳であるとする考えに基づき、桝山古墳などについては前方後円墳形の外形改変がされている。また、この支那墳墓模倣説はその後も多くの学者によって受け継がれていく。

 明治になり、E.S.モースによって科学的な考古学がもたらされたが、方墳研究については明治時代の研究は、蒲生君平の所説の域を出るものではなかった。そうしたなかで、八木奘三郎の、『日本考古学』は、明治時代の考古学の水準をまとめたものとして高く評価されている。このなかで八木は、古墳の変遷について概説し、方墳の起源については新古の別をみとめるという新古存在説を主張している。また、八木はのちに、この『日本考古学』を執筆し、そしてさらに発展させた『墳墓の変遷』などにおいても同様の所説を展開し、明治時代の学界において定説化された。

 しかし、その後八木の考えは高橋健自によって否定され、蒲生君平以来の支那墳墓模倣説に戻ってしまった。この説に刺激されて梅原末治は「果して然らば我が国の方形墳は必ずしも一時的に行われたるに非ずして、之に二種の別あり」と発表し、八木の新古存在説を支持した。その後、浜田耕作は、八木の所説を発展させた「前方後円墳と併存し、新古の別を認めると」する心理作用的発生説を提唱しC、和田軍一も同様の考えを表明した。Dまた、和田は前方後円墳から方墳へと天皇陵が変化したのは、推古朝における墳制の改革によるものであり、推古朝が大陸の文化を積極的に受け入れた結果であるとする現在もほとんど通説化されている考えを発表しているのは特筆される。、

方墳内部の構造論と研究の前進

 方墳の研究を大いに前進させるのが、大正3年頃から始まった棺郭弘論争である。その論争の火付け役となったのが喜田貞吉である。明治45年に喜田は、奈良県にある石舞台古墳の石室を中心とした現況における実測図を掲載し、墳丘が失われた時期を考察し、石舞台古墳円墳説を展開した。(喜田)また、被葬者についても蘇我馬子であるという説を述べている。Eこの喜田の考えを考古学的に検討する試みが、のちに浜田によって昭和8年におこなわれた石舞台の発掘である。
 1931年(昭和6年)に森本六爾の主宰する東京考古学会の機関紙「考古学」に浅田芳朗は「方形墳に関する二三の考察」を発表しこのなかで、
「いまここに記説を試みんとする未熟な卑見は、方形墳の存在及びそれに新古の別の存することを肯認する前提の上に樹つ。即ち、日本上代墓制の中に方形墳の存在せる事実を確認し、それに古式と新式の別があり、各々起源に関しては−大体に於いて−梅原末治氏の所説に賛意を表するものなることを前提とする。」とされて、高橋説を批判し、ついで古式方形墳の起源については浜田耕作の心理作用的発生説に従うとされた。そして新式方墳については、「秦漢以降の支那帝陵に方形を呈するものがあり、其の外形が日支交通の漸く頻繁なると共に輸入されたとする支那墳墓模倣説は否定され難い。むしろ私は賛意を表すべきだと思ふ。然し、かかる単一なる理由のみを以て其の発生を説かんとする試みは「単なる結果論」たるの誹りを免かれ得ないと思はれる。」 とされ、新式方墳の出現の理由は「当時既に墓制は行き詰まりの状態にあり何等かの転換が必要とされたのではないか。」と考察され、それは「即ち荘大整美なる外形と膨大なる封土に比して小規模なるにも拘らず漸く精巧味の加重を見た内部主体の出現とは前方後円墳の進展に行き詰まりをもたらした。」という理由で説明されている。そして、和田軍一の説に賛意を表している。
 この浅田説の発表される少し前の1927年(昭和2年)に後藤守一はその著書『日本考古学』において、梅原末治のとく方形墳の新古の別を認めた上で
「丹波及び日向の如き地方に稀に(埴輪が)あるのはそれより以前に支那のを受けて模倣したが其の風が広まって一世の俗をなすにいたらなかったとみるべきであらう。」「丹波及び日向に支那墳墓模倣の方形墳が発生しながら周辺諸国への伝播を見るに至らずして止み、然して可成り後出的に−しかも前者とは無相関で畿内の諸墳が発生したと解される」という見解を示している。この後藤説は、後藤の師である高橋が提唱した支那墳墓模倣説を継承し、この説に痛烈な批判を加えた梅原説に対する論駁を加えた折衷説となっている。こうした、外形起源論のみで戦わされてきた、方墳研究であったが、昭和8年の石舞台古墳の発掘により、石舞台が方墳であるということが明らかになると、石室内部の構造についても注目され、新たな展開を迎えることとなる。

科学的な研究の開始のきっかけを作った石舞台古墳の発掘

 1933年(昭和8年)に奈良県の石舞台古墳が発掘された。この発掘は浜田耕作、梅原末治らの京都帝国大学考古学教室によって行われたものである。

 その発掘経緯としては「石舞台の石室を清掃して見たいと云ふ考へは、この古墳を訪ねる人が誰でも抱く所であるが、さて此の事の実現は、費用と労力との点から、とかく容易に期せらる可くもなかった。殊に早くから暴露して封土を全く失ったこの古墳の如きものに於いて、内部を清掃したからとて、目星しい遺物の出る筈もなく、ただ其の興味はつながって、石室の構造を顕現する云ふ純学術的意義に存するのみであるから、其の実行はなかなか以て困難を加へるのみであった。」というように、純学術的なものから生じたものであるとしている。これは、喜田貞吉の論文に触発されて行われたものであろう。
 そして、石舞台古墳の年代については、第一に石室の問題を論じ、第二に方形の封土について論じた。その結果
「ここに於いて石舞台古墳の年代は西紀六世紀の末葉から七世紀の後半に至る一百年位の間に限定し得ることとなるのである。而かも孝徳天皇の墳墓制限令が厳格に行はれたと仮定すれば、更に縮少して六世紀の末葉から七世紀の中葉に至る約半世紀間位の間に限定せられることになる。」という見解に達している。これは、須恵器の研究の進んでいなかった当時においては、石舞台古墳が蘇我馬子の桃原の墓であるという前提に立って、文献によって明らかとなっている没年から推定されたものに過ぎず、この当時の考古学の限界を示している。
 その被葬者については、
「是は一つの古墳を以て誰人か歴史上特定の人の墓に擬せんと欲する所謂歴史家の態度であって、我々古墳を主体として研究せんとするものに取っては多少なりとも確証を各点があれば、之を以て仮説の一として認める程度を超越することは出来ないのである。」という立場をとられ、「所詮我々は若し石舞台古墳を歴史上の一定の個人の墓に擬定せんとするならば蘇我馬子の桃原墓とする説を以てもっとも有力な仮説とする外はないであろう。」 と結ばれている。しかし、石室の構築手法について言及し、岩屋山古墳の石室よりも先行するものであるとされた。すなわち、浜田の発掘の成果の最大のものは、石舞台が方墳であることを考古学的に実証し、喜田貞吉以来の疑問を晴らしたということにある。
 この浜田の発掘の実際のまとめ役が梅原であるが、その梅原によって『日本方形古墳集成』がまとめられ 戦前の研究の総括ともいうべきものとなった。

 これまで、述べてきたように戦前の研究においては、最後の後藤守一に代表されるような考えが定説となりつつあった。しかし、その研究のレベルについてはまだ不十分であった。これはその当時の政治体制によるものが大きいといえよう。陵墓の比定に対する批判が全く許されないような状況では学問の前進はないのである。したがって、現在にも続いている陵墓への立入禁止などは学問の前進を大きく阻むものである。そうした戦前の考古学界のなかで、森本六爾の主宰する東京考古学会の清新な活動については特筆に値する。とくに方墳の研究ではないが、藤森栄一が昭和14年に発表した「考古学上よりしたる古墳墓立地の観方」は一つの古墳群の総合的な立地について考察した最初のものとして位置づけられ、立論に不十分な点はあるものの、官学に寄らない在野考古学者の研究として特筆すべきものである。しかし、藤森の方法論が見直され、古墳群を単位とする考古学的な検討が盛んになるのは、昭和39年の甘粕健の登場を待たなければならなかった。

焼け跡の中から再生した考古学と方墳研究

 第二次世界大戦において潰滅的な大打撃をわが国は考古学の面においても大打撃を受けた。それは、数多くの考古学者の戦死や軍需工場建設にともなう遺跡破壊などであり、また空襲による遺物の消失(明石原人の骨の焼失)には目を覆う惨状であった。こうしたなかでの考古学会の復興が始まったのであった。その第一は登呂遺跡の発掘であり、第二は岩宿遺跡の発見であった。そして、戦後の復興の波に乗って考古学ブームとも呼ぶべきものが興るのである。そうしたなかで方墳の研究も進歩していくのである。 そうした、戦後の新しい考古学研究を新鮮にリードしたのが、かつての東京考古学会に所属していた研究者である。そのなかで小林行雄は昭和26年『日本考古学概説』を著しその中で方墳について、後期のものが多くはその一辺をほぼ南面して築かれているのに対して、中期の方墳は必ずしも方向が一定せず、その隅角を南北線上に置くものも少なくないことが指摘し、新たなる研究に向けての指針を示した。
 また、尾崎喜左雄は群馬県の宝塔山古墳についてその石室に関する実測をおこない、その石室の企画についても言及している。そして、石室内の石棺の裾部の格狭間の形状に仏教文化の影響が見られるとした。それは、石室の開口している方角が付近にある山王廃寺の塔跡を向くものであるとする解釈を示された。すなわち、宝塔山古墳の被葬者と山王廃寺の建立者のあいだに関連を見いだすことができると考えたのである。この考えは、方墳の性格、年代を考える上で重要な見解としてその後の学界に長く影響を及ぼした。これは、終末期の方墳と寺院との関連を示唆したものとして注目できる。また、横穴式石室の設計企画について、横と縦の長さの比が1:√2になるという指摘をおこない、設計企画論の嚆矢となった。

 その後、西川宏は1955年(昭和34年)に「方墳の性格と諸問題」のなかで(1.形態と規模 2.数と分布 3.編年 4.古墳群での在り方 5.在り方の地域的特色 6.起源)という区分を用いた。この研究のなかで特筆されるのが、方墳の群集墳内での占地についての考察を試みている。その西川の分類は5種類に分かれ、以下のようになっている。

T 前・中期的な大形独立方墳がそれ自身、或いは前方後円墳、前方後方墳と共に古墳群の主座を占めて、一つの系列に属しているもの
U 中期的な小型独立方墳が、数基まとまっているか、或いは一つの地域内で同一系列に属すると考えられるもの
V 小型方墳が大形方墳の陪塚として存在するもの
W 後期の大形独立方墳が、一つの地域内に同一系列に属して存在するもの
X 後期の小形方墳が群集墳のなかに存在するもの

 そして、竜角寺岩屋古墳、みそ岩屋古墳、下総成東駄ノ塚古墳などはWのタイプにあてはまるとされている。そしてWのタイプの特徴としては「Wは後期群集墳のヒエラルヒーの頂点に立つものとみるには余りに大きすぎるもので、大形方墳自身或いは前方後円墳などの系列に属し、現象的にはWの後出の形態と見られる。後期の各時期を通じて形成された様であるが、末期に巨大なものが出現し、天皇陵として採用された。畿内に集中しているが、類例が辺境の東国の一部にもあるのは、その地域と大和政権との特別な結びつき方の反映であろう。」という考え方をされている。ここで特に問題なのは竜角寺岩屋古墳、みそ岩屋古墳、下総成東駄ノ塚古墳の被葬者の大和政権との結びつきにが論ぜられたということである。この根拠について西川は、これらの古墳が用明、推古天皇陵に類似しているため、畿内から直接移植されたといってもよいであろうとされている。これは井上光貞の「国造制の成立」において古代印波国が伴造的な国造制をとっていたという見解を発表したことに基づいているのである。そして、岩屋古墳に七世紀後半という年代を与えられたが、この根拠は示されていない。この西川の研究は方墳の特異性に注目した論文として大いに評価できる。また、現在は岩屋古墳に次ぐ規模の方墳として認識されている駄ノ塚古墳について最初に大きく取り上げたものとなったが、その後ほとんどの研究者に注目されなかったことは悔やまれる。

古墳の築造が政治秩序の中で果たす役割について

 1961年(昭和36年)西嶋定生「古墳と大和政権」のなかで中央政権、すなわち大和政権が身分秩序の規範として前方後円墳や方墳の築造を制度化したとする所説を展開し、多くの研究者の賛同を得た。また、上田宏範は前方後円墳の設計の企画をはじめて提示した。これらに刺激をうけ、この西嶋説を前方後円墳の設計企画を解明することによって実証しようとしたのが甘粕健である。甘粕は1964年(昭和39年)「前方後円墳の性格に関する一考察」のなかで「前方後円墳が本来天皇家を頂点として大和政権に結集した畿内の豪族の墓として出現したものであり、地方のそれは、県主・国造・伴造などとして大和政権の成員に組み込まれたところの地方豪族の墓であろうということは、早くから説かれてきたところである。前方後円という特殊な墳形が、比較的短期間に全国的に伝播し、しかも地域によって多少のズレを示しつつも、大局的にみればほぼ全国一律な墳形の推移をたどるという現象は、当時の中央と地方の密接な関係が墓制を媒介として顕現し、しかも大王も地方首長も等しく前方後円墳という特殊な墳形を用いているところに、古代連合政権としての大和政権の政治構造の特質が、鋭く反映していると考えられるのである。したがって前方後円墳が当時の社会で具体的にどのような機能を果たしたかをより明らかにすることは、考古学の側から大和政権の政治構造の実体に迫るための重要な道筋と考えられる。」という論旨を展開し、前方後円墳が政治規制の道具として作用したものであることを解明することに取り組んだ。そして、竜角寺古墳群をその研究対象として選定、その中の大形前方後円墳のタイプが畿内のどの天皇陵古墳にあてはまるかを考察した。その結果、

「畿内の特定の地域に伝えられるのは、名代、子代的な支配体制と深いかかわりがあるのではないだろうか。すなわち地方族長が特定の中央首長のゆかりの名を付してその従属関係を表示することとともに、地方族長のために中央首長と同型の古墳が造営するという儀礼を通じて、このような支配服従の関係が当時の地方社会において一つの体制として承認され定着したのではないだろうか。このような造墓は族長の権威を強めるとともに、族長の共同体との関係を中央首長と共同体との関係に擬制的に拡大する媒介となり、大和政権による地方の共同体の支配と収奪を容易にする役割を果たしたものと思われる。そしてひとたびこのような関係が一つの体制として成立すると、中央の首長が崩じた後も亡き族長に奉仕するという形で大和政権に対する服属関係が維持され得たと思われる。こうした関係を再生産するためにも地方族長が当初の型式を継承し維持することが必要とされたのではなかろうか。」というようにまとめられている。

 この甘粕の研究は前方後円墳を研究対象として選ばれたものであるが、竜角寺古墳群という従来注目されていなかった古墳群について、あらためて研究者の注目を集める効果を発揮した。そして、この竜角寺古墳群の盟主的な存在の岩屋古墳の特異性についての問題提起がなされたと考えるべきであろう。そして、この論文によって改めて、岩屋古墳の巨大さが強調されたのである。また、前方後円墳から方墳への推移の過程を古墳群中に求めたものとしては最初の論文となった。

古墳の築造プランを考える

 甘粕の研究以降、前方後円墳の築造がヤマト政権の中で豪族の身分秩序をあらわすものであるとする考えが多くの学者に受け入れられていくことになる。また、上田宏範の設計企画論は、前方後円墳の設計について多くの研究者が自説を展開する契機となった。これは、前方後円墳の設計企画の解明が、ヤマト政権による地方豪族支配の状況の理解に役立つと多くの学者に理解されたからである。しかし、設計企画論は、あくまで、現存している前方後円墳をどのように解釈するかということのみに注目され、実際のその当時の設計についての方法を解明したものとはならなかった。
 そうしたなかで、椚國男は前方後円墳を実際に設計するにあたり、尺度の問題だけでなく、設計が古代中国の設計法である方眼による設計が用いられていることを指摘した。また、実際に方眼設計の源流は碁盤などの設計盤が用いられたであろうことを論じた。そして、角度を求めるために現在の三角定規とコンパスの原型と思われるものが、画像石のなかに登場することから、その当時の設計道具についての復元を試みたのであった。これは、机上のプランのみを追究する設計企画論が実験考古学的な手法も含めて、総合的にその当時の設計について解明された段階に到達したことをあらわすものとして、建築学界などでは大変評価が高かった。しかし、考古学者のなかでは支持は少なく、現在でも定説となるには至っていない。ところが、この椚説は実は古墳時代の竪穴式住居の設計企画を検討している過程において、導き出されたものであった。すなわち、前方後円墳以外の墳形の古墳にも適用できることが考えられる。事実、他の設計企画論者が前方後方墳の設計企画についてはお手上げ状態であるのに対して、設計企画の解明を試みておられる。また、方墳についても韓国の高句麗将軍塚の図面を提示し、等分型同心正方形プランとして紹介していることは特筆できる。

方墳の設計プランの解明への第一歩

 このような状況において、松井忠春は「七世紀の大形方墳について」で現在知られている方墳についての集成を行い、多くの実測図の集成を行った。そして、方墳の設計企画についても言及し、用明陵古墳、推古陵古墳、石舞台古墳、葉室塚古墳、赤坂天王塚古墳、岩屋山古墳、谷首古墳の計七方墳は同一プランのもとに築造されたものであるという考えを示した。またこれらの方墳を比較した結果、5つのタイプに大形方墳を分類した。

  1.大形方墳は、正方形を呈さず、長・短辺僅少差の長方形をなす。
  2.大形方墳は三種に規定の基本とする。
  3.用明陵古墳を規定の基本とする。
  4.大形方墳の築造年代が推古治世年間とほぼ一致する。
  5.大形方墳は大和・河内地方の限られた地域にのみ分布する。

 しかし、この松井の研究は方墳の本質をついてはいるものの、あくまで、奈良県を中心とした畿内の方墳のみに注意がそそがれ、地方にある方墳について全く考慮されていないのが残念である。したがって、竜角寺岩屋古墳についても全く触れられていない。

地方の方墳が注目されるきっかけとなった岩屋古墳の調査 

 

 多宇邦雄「みそ岩屋古墳の検討」

 

1980年(昭和55年)

 安藤鴻基「房総七世紀の一姿相」

 安藤は「東国の前方後円墳は、埴輪と大略時を同じくして、あるいはやや遅れて消滅しており、一連の現象と把えられる。埴輪祭祀と前方後円墳の築造は、ともに古墳時代を表徴するものとして、古墳の発生以来、連綿と受け継がれてきたのであるが、ここ七世紀の初葉に至って突如終止する。この時期こそ、東国の古墳時代では最大の画期であり。<埴輪と前方後円墳の時代>であった狭義の古墳時代は終息した。」という考えを示された。また、東国における埴輪祭祀の終了した七世紀の前葉以降を終末期古墳時代と呼ばれた。

また、問題点として「終末期古墳でまず問題になるのは、その築造時期であろう。終末期古墳の出現年代が明らかになれば、その反面で、先に確証の得られなかった前方後円墳の消滅時期についても、有力な手掛かりが与えられる。」という点を挙げられた。

 そして、注目すべきは蘇我氏と東国の関係について初めて言及されたことである。「注釈1」すなわち、「従来ややもすれば、考古学の宿命として、実証性に捕らわれる余り、抽象的・消極的な歴史解釈に終始していた嫌いがある。ここでは憶説の謗は免れ得ないとしても、一つの試みとして、努めて具体的に記述するように心掛けた。今改めてその要旨を示せば、東国の前方後円墳は七世紀の初葉に消滅すること、終末期方墳は七世紀の初葉に出現すること、岩屋古墳の造立者は蘇我氏であること、前方後円墳は蘇我氏の直接支配によって消滅する」という論旨である。

 これまで述べてきた安藤の考えは、その当時の地元研究者の間に広く浸透し、定説化していく、そしてさらに杉山晋作によって一層の深化を見た。(杉山1982)杉山は岩屋古墳の年代を同様に多く方墳が含まれる近隣の公津原古墳群との比較から求めようとした。すなわち、「竜角寺岩屋古墳の年代を公津原古墳群における方墳築造の傾向から推測することが可能であるという前提に立ってみると、公津原古墳群の方墳の一辺が南北方向に近くなるものは、七世紀代でも新しい時期に多いことが理解され、また、横穴式石室の複室構造は七世紀後半に降って見られることが指摘できる。さらに、横穴式石室の使用石材の切石も、七世紀後半代には横長の小さなものへ移行してゆくようである。竜角寺岩屋古墳の一辺は南北方向に極めて近いとは言い難く、並列する二基の横穴式石室も単室構造である点は、上述の公津原における傾向を参考にする限りにおいて、七世紀前半代の特徴を示していると言える。ただ、使用石材が横長の小さな切石に後半代の様相をみると考慮すると、竜角寺岩屋古墳の年代は七世紀中葉に考えておくのが妥当であろう。」という年代観を示された。

 また、畿内古墳の研究を精力的にすすめていた白石太一郎は畿内に所在する終末期古墳の形態分析を試みた。(白石1982)このなかで、白石は岩屋山古墳を標式とする切石造の大型横穴式石室を持つ古墳の年代を七世紀の第二四半期に位置づけられていたが、本論文はそうした考えをさらに発展させ、畿内における古墳の終末を求めようとされている。そして、須恵器による編年との対比を行いながら独自の年代観を示された。八角墳の出現について、前方後円墳の消滅とともに、七世紀における支配者の墳墓に対する墳丘形態の変革によるものとした。すなわち、大王陵の八角墳化は、これまで規模の差こそあれ、他の豪族の首長と同じ墳形を採用していた大王が、大王だけに固有の特殊な型式の陵墓を営むようになるわけで、当然大王の地位の確立と密接に関連するものであろうとされているのである。舒明陵を天皇陵として最初に八角墳化したのは、忍坂に本拠の一つをおく押坂彦人系の大王家及びこれを支える皇親的氏族の息長氏、唐からの帰国留学生、反蘇我系の豪族の首長達らの後の大化改新につながる王権派ともいうべき勢力によるものであるとしている。また、八角墳として野口王墓古墳(天武・持統合葬陵)・御廟野古墳・段ノ塚古墳・中尾山古墳を例として挙げておられ、岩屋山古墳についてもその可能性が高いとされてい

る。

 研究史のまとめ

 

 これまで、日本における方墳研究の歩みについて振り返ってきた。当初は方墳起源論から始まったこの研究史も、やがて方墳という特殊な外形が発祥するに至った原因の究明の方向へ向かっていったこととなった。そして、方墳はその当時の大王権の消長を表すバロメーターであるといえるのではないだろうか。最後に登場した八角墳に至っては、方墳の亜流とも認められないこともないが、前方後円墳と同じく日本独自の墳形であり、その数が極めて少ないということに注目されているが、八角墳の研究はまだ端緒に着いたばかりであり、これからの一層の研究の進展が期待されるのである。