古代の古墳の真空パック浅田3号墳

 群馬県子持村中郷に所在する浅田遺跡で、五世紀後半とおもわれる円墳(浅田3号墳)が築造当時の姿で出土した。墳丘の頂上には四十五個の埴輪が直径約八メートルの円を描いて並び、近くの利根川の河原石を用いて作られた石室の存在も確認された。古墳が風化や盗掘などを免れ、ほぼ完全な形で発掘されるのは珍しく、当時の埋葬形式を知る上で貴重な古墳である。  

 調査した子持村教育委員会によると、古墳の上には六世紀中ごろの榛名山の噴火による軽石が一メートル以上積もっていたようである。
 3号墳は直径約二十メートル、高さ約二・五メートル。頂上には東西南北の四カ所に朝顔形の埴輪が一個ずつ、西側には、にわとり形の埴輪も一個置かれ、その間にほぼ等間隔で円筒埴輪が四十個立っていた。埴輪の高さは朝顔形が約五、六十センチ、円筒形が約四十センチ。古墳の上部には土留めのふき石も崩れずに残っていた。

ちょっと寄り道 関東の古墳王国「群馬」

群馬古墳研究の父、尾崎喜左雄先生

 かつて、毛野の国といった群馬県は関東の古墳王国といわれています。特に、精美な埴輪が多く出土することで知られています。この古墳王国の研究の先鞭を付けられたのが、尾崎喜左雄先生です。尾崎先生は黒板勝美先生の弟子で、毛野国解明のためわざわざ当時群馬師範学校いわれていた現在の群馬大学に着任されたのです。その、尾崎先生によって群馬県の古墳についての基礎的な研究がまとめられています。特に、横穴式石室の変遷過程を解明し、東国における古墳編年の基礎を作られました。また、上毛三碑の調査を通じ、初めて被葬者の明らかな古墳として、山の上古墳を紹介されました。終末期古墳の性格解明にも尽力され、宝塔山古墳、蛇穴山古墳の石室構造から、仏教寺院との関連を指摘されれています。先生は、地域の研究者を数多く育てられ、岩宿遺跡発見以前から相沢忠洋先生を応援されたことでも知られています。

ロクジの現場レポート (くわしい現場の写真がありますのでこちらをクリックしてください。)

突然、群馬に行くことになりました。それも、午後からです。関越自動車道を平均120キロほどで約1時間で渋川・伊香保インター着。しかし、遺跡の場所が全くわからない。そうだ、子持村役場で聞いてから行こう。

無事、役場の文化財室にて地図と参考資料をいただき、一路浅田遺跡へと向かう。子持村は赤城山と榛名山の間に挟まれた谷間の村です。遺跡へと向かう道は細く、まだ工事中のところが多かったが、親切に曲がり角ごとに目印があったので間違いなく役場から5分ほどで到着。

平日なので、誰もいないだろう、と高をくくっていたら、10台ほど車が止まっていた、しかし、さすがに他県ナンバーはなかったなあ。六基発見された古墳のうち現在公開されているのは埴輪が出た3号墳のみである。今日は古墳の見学は出来るが、職員による説明は出来ないと言うことなので、自分の目が頼りである。でも、ここら辺の土層の状態の予備知識がないので、さっぱりわからず、途方に暮れる。

3号墳は主体部の調査中であった。埴輪についてはほとんどがシートをかけてあったが、鶏が出た部分のみが公開されていた。見学者は地元の方ばかり10人ほどであった。調査補助員のおばさんがみんなに説明をされていた。私もしばしその話に聞き入る。そのうち、カメラを2台かかえた遺跡ファンと思われる方を発見、話しかけるが素っ気ない応答。よく見るとカメラの裏に上毛新聞のシールが「新聞社の方だったのか。道理で、素っ気ないはずだ。」(-_-;)

そのうち、少しずつ見学者が入れ替わる、ふとよく見ると財団法人群馬埋蔵文化財センターのジャンバーを着た方が見学をされている。チャンスと思い、話しかけることにする。

「ずいぶんと、たくさんの埴輪が出たのですね。」(^o^)
「そうですね。」(^_^)

「ちょっと、質問してもよろしいでしょうか。」m(_ )m
「私で、わかることでしたら、お答えいたしますが。」(^_-)

「こちらの古墳の年代はいつごろでしょうか。7世紀代でしょうか」(@_@)
「いいえ、もっと古いものです。六世紀、いや、もっと古いでしょう。あそこにFAと呼ばれている火山灰が見えますから、FAが六世紀中頃ですから、それ以前ということになります。新聞などにある通り、5世紀の後半だと思います。」(ロクジ失敗する。7世紀などといってボロを出してしまった)^^;

「そうですか」

(ロクジ名刺を出して、自己紹介する)

「相沢記念館のホームページを作っているものですが。」(^_^)v

「そうなんですか。」(T_T)

「確か、埋文センターにもホームページを作っておられる方が、いらっしゃったはずですが。ちょっと、お名前はすぐ思い出せませんが。」^^;

「矢口さんかなあ。」('_')

「ああ、思い出しました、矢口さんです。何回か、メールをいただいたことがあります。」(^O^)!(^^)!
「私は、南雲といいます。名刺は持ち合わせありませんが」

「よろしくお願いいたします。ちょっと、質問したいのですが。こちらの埴輪を焼いたと思われる窯あとなどは出てきているのでしょうか。」(~o~)

「この近くでは、窯あとは見付かっていません。ただ、この北毛地区以外では4カ所ほど見付かっています。」
(このあと、しばし埴輪の雑談をする、太田天神山のちかくから出たこどもの乗った馬の埴輪の話など、相川考古館の話など)(^_^)(^^)(^o^)

「ここら辺の、埴輪祭祀の終末はいつごろでしょうか」

「基本的には、六世紀の後半頃でしょう」

「そうすると、下総などの場合と一致いたしますね。」

「どうも、ありがとうございました。主体部の調査でなにか出土するといいですね、今日は。大変ありがとうございました、矢口さんによろしくお伝えください。」m(_ _)m

(ロクジ現場を後にする、もっと見学したかったのですが、とても寒くておなかが痛くなってきたので、そそくさと帰り道に着いたのでした。)

帰り道の途中で

どうも、寒い中に立っていたせいか、おなかが痛い。そして、寒い。そういえば、すぐ近くに温泉があったはずであるが。

あるある、子持村の公衆浴場がありました。入館料300円タオルは中で100円で売っていました。お湯も熱くなくぬるくなく、ちょうどよい湯加減でした。

赤城山と榛名山の間に落ちる夕日を背に帰り道に着いたのでした。

ロクジの現場レポート (くわしい現場の写真がありますのでこちらをクリックしてください。)


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