資料・旧石器時代名称論
旧石器時代の研究史をここでまとめてみたいと思いますが、もう少し時間がかかりそうなので、とりあえず時代名称の変遷をまとめて研究史の一部としたいと思います。
昭和24年岩宿遺跡発見
相沢忠洋さんは岩宿の発掘の際、何度も旧石器に間違いないのか杉原先生にたずねたという。しかし、先生は旧石器であるという断定をその場では避けた。戦前から旧石器の研究を積極的にされておられ、所蔵するヨーロッパの原書の量では大山柏先生に次いで多かったとされる、杉原先生はどうしても完全に断定することはできなかった。しかし、新聞記者への発表の際には「岩宿の旧石器」と発表せざるを得なかった、このことが後に大きな問題となるのである。
相沢忠洋さんの発掘を非難した人々の中には、発掘の素人と相沢さんを呼んだ人もいたという。相沢さんの学問を一番理解した芹沢長介先生はその著書のなかでたびたび、相沢さんの発掘技術のすばらしさを絶賛している。最初に旧石器と発表されたものが、その発表者によって別の呼び名がつけられることに至ったのには、日本における旧石器時代の研究の苦難の道のりがあらわれている。
杉原荘介の先土器時代の提唱
縄文時代以前の文化を現す用語として、無土器、旧石器、岩宿文化、プレ縄文、など様々な名称が創り出され、統一をみることがなかった。そこで、かねてから学術用語の統一を唱えていた杉原荘介は1963年に
「日本における縄文時代以前の土器を持たない石器文化は、また同時に大陸の旧・中石器時代的様相を暗示しようというのであるから、先土器時代という名称をこそ用いるべきだ。」(『考古学集刊』2−1)という考えを発表している。そして1965年河出書房から『日本の考古学』シリーズが刊行された際に第一巻を先土器時代にあてた。そのなかの第一章に「日本における縄文時代以前の研究が発足して、まだ日は浅い。それが、どの石器文化までは中石器時代、どの石器文化からは旧石器時代というような、すでに名目のみとなって、考古学の本質からはなれた論争に、われわれの研究をひきこみたくはない。われわれが、先土器時代という名称をもちいる理由の大きなものは、ここにあるのだとかんがえていただいてもよいのである。」という理由から先土器時代を提唱したのである、という巻頭論文があげられている。これは前期旧石器時代はなかったとする杉原仮説の問題も含め多くの学者の論議を呼ぶこととなるが、高等学校の日本史教科書などでは一般的に先土器時代の名称が用いられるようになる。現在、「岩宿時代」の普及とともにこの「先土器時代」は忘れられようとしているが、杉原の先土器時代提唱の精神は永久に忘れられてはならないであろう。(坂詰秀一先生『日本考古学の潮流』 学生社 1990年)前期旧石器時代の否定
「”SUGIHARA’S HYPOTHESIS”を破ってほしい」とは旧石器時代の研究史の中でも忘れてはならないのが、前期旧石器時代存否論争である。肯定論は芹沢長介先生、否定論は杉原荘介先生、かつての先生と教え子の間に戦わされた激しい論争であった。この論争をふりかえった杉原先生の弟子の戸沢充則先生の解説を紹介しよう。
杉原仮説の真意について
しかしその仮説が「定説」となることは、杉原先生の本当の望みでなかったことは事実である。なぜならこの論文の題名がずばり示すように「杉原仮説を破ってほしい」というのが真意である。
この論文をきっかけにして学界では「前期旧石器存否論争」が本格化し、その否定論の旗頭は杉原先生であると論評された。そして近年、学界や一般の話題をさらい、「前期旧石器」に関連して、学界の多数もその古さを認めた宮城県座散乱木遺跡の石器についても、先生はついに死を迎えるまで、その評価については慎重であるべきだと言っていたと伝えられる。したがって少なくとも慎重論の旗頭が杉原先生であったことは事実であろう。
ただし前述の通り、先生は研究の芽を摘もうとして論争をおこしたのではない。論争を進めることによって問題点が深まっていく中で、真に日本列島の最古の歴史を担った人類とその文化と認められる資料の発見を期待していたのであるとみるべきであろう。
こうした論争でわかるように、一見、「敵をつくる」とみられるような強烈な問題提起の仕方は、生涯を通じての杉原荘介先生のまさに個性の強さのあらわれであり、それはまた学問的真実へのひたむきな情熱の発露以外のなにものでもなかったと見る。
破ってほしかった杉原仮説
座散乱木以後ようやく定着しつつある日本の前期旧石器文化を容認し、小林達雄は、日本旧石器文化の三時期区分を整理した。戸沢充則は、「読んでいて以前の(加藤註、杉原・芹沢)両先生の仕事に帰るような錯覚さえおこさせ」ると評したものの、丹生に関わるとともに、無土器文化の研究をナィフ形石器の追究を軸として推進し、東京都野川遺跡の調査を皮きりに、立川ローム期の後期旧石器文化の全貌に迫る基盤を築いた研究者の時代区分論として聴くべき点もあろう。同時にまた、杉原・芹沢の両先駆者が拓り開いた分野の深さをも知る。
”SUGIHARA’S HYPOTHESIS”は「破ってほし」かったのである。加藤稔「日本旧石器時代存否論」『論争・学説日本の考古学』2先土器・縄文時代 雄山閣 1988年南関東ローム層の中から初めて前期旧石器時代の石器群を発見
87.06.16 東京本紙朝刊 7頁 社会 写図有 (全1459字)
東京都稲城市の多摩ニュータウン建設予定地の埋蔵文化財を発掘調査している都教委と都埋蔵文化財センターは十五日、「南関東ローム層の中から初めて前期旧石器時代の石器群を発見した」と発表した。少なくとも三万年以上前の前期旧石器とみられる石器は東北や九州でも発掘されているが、考古学界には「前期」の石器は日本にはないとする説も根強く。大論争となっていた。地層の年代に定説がある南関東ローム層での発見で、考古学者間の永年の論争は事実上、終止符が打たれた。
この遺跡は、標高百三十メートルの丘陵尾根にある「多摩ニュータウンNO471―B遺跡」。発見された石器は、流紋岩製の尖頭器(ポイント)掻(そう)器(スクレイパー)、石核(コア)など九点と、砂岩製の敲(たたき)石(ハンマー)一点の計十点。地表から約二・五メートル掘り下げた東京軽石層(厚さ十五センチ)の直上のローム層中にほぼ一列に並んでいた。
東京軽石層は、約四万九千年前後の箱根地方の火山活動で噴出した火山礫(れき)灰がたい積してできた。東京周辺では、多摩丘陵、狭山丘陵など古い地層だけに残っており、出土遺物の年代を決める上で、「決定的な基準」となる。同層の直上から発見されたことで、今回の石器群は「古くて五万年前、新しくても三万年以上前に使われていたのは確実」と都教委は説明している。
人類は、猿人(オーストラロピテクスなど)―原人(ホモ・エレクトゥス)―旧人(ホモ・ネアンデルターレンシス)―新人(ホモ・サピエンス)の進化をたどってきたとされるが、今回発見の石器を使っていたのは旧人たち。多摩丘陵の先住民たちは、流紋岩製のヤリのホ先や皮はぎ器を使い、落とし穴やワナで、オオツノシカやナウマンゾウなどを狩猟していた、と見られる。都教委は「黒曜石の交易が広く行われていた旧石器時代後期の新人たちとは、異質の文化があった」と、想定している。
考古学界を二分した論争にようやく決着がついた。「前期旧石器はある」と主張し続けてきた東北大名誉教授の芹沢長介さん(六七)=仙台市在住=も発掘に立ち会い、前期旧石器を自分の目で確かめた。
発掘現場の広さは約三百平方メートル。芹沢さんは教え子からの連絡で今月八日、同ニュータウンに駆けつけた。長さ約五センチの土まみれの尖頭器を手にした芹沢さんは「間違いない。旧人の文化のあかしです」と喜んだ。
都教委は今回の現場を、遺跡とは見なさず、未調査のまま今月下旬、建築工事に引き渡す予定だった。しかし、芹沢門下の「石器文化懇話会」のメンバーが調査を都教委に迫り、歴史的発見につながった。
日本の旧石器研究は昭和二十四年、相沢忠洋氏が群馬県の「岩宿遺跡」(後期旧石器)を発見したのが始まり。旧石器文化はどの時代までさかのぼれるか。杉原荘介・明治大学教授(故人)は、昭和三十年代に青森県・金木遺跡などの調査をもとに、「日本の旧石器文化は三万年前が上限。旧人による前期旧石器時代は存在しない」と発表。これに対し、芹沢氏は三十九年に、大分県・早水(そうず)台遺跡出土の石器を「前期旧石器文化の証拠」と主張し論争を巻き起こした。
杉原説を支持する一部の学者は「地層の年代が確立している南関東地方で発見されなければ、信頼できない」と反論してきた。
二十三年にわたる論争の終結に、杉原氏の後継者の戸沢充則・明大教授(五四)=考古学=は「杉原仮説が敗れたのは確か。しかし、先生は、地層解釈がしっかりしている関東ロームでの発見に、十分納得され、あの世で喜んでおられるはず」と語った。