ニフティ、ホームページなどで告知したが期間が短かったので、当初の予定通り松枝氏と六爾の二人のツアーとなる。わたしは、前日から諏訪入り、市立図書館で文献調べ、主として藤森先生の著作中心であるがここにくると読みたい本がいくらでも出でくる、あっという間に四時間が過ぎる。今回のためにリブレットを購入、いつでもホームページが出来るのは嬉しい。南松本泊。


九時 上諏訪駅前にて、松枝氏と待ち合わせ。

 松枝氏は三十代後半の好青年なり。ハザード出していただいたので、すぐわかった。諏訪地方も50年ぶりの大雪とのことである。まるで、山形を見るようである。車の中で本日のコースの打ち合わせをする。雪が思ったより深いので、一番遠くから諏訪へ戻るコースを選ぶこととした。最初は井戸尻考古館へと向かう。雪はかなり深い。


井戸尻考古館にて

 とても寒い、諏訪市内よりもさらに標高が高いのだろう。路面はたいてい凍っている。松枝氏の案内は的確であり、縄文の知識深く、感じさせられること多し。考古館の展示は土器の圧倒的な量に圧倒される。展示方法は他と違って藤森学説に基づいている。いわゆる八ヶ岳山麓に縄文中期に農耕があったという縄文農耕論を実証する全国唯一のものである。様々な農耕具としての石器の復元展示、縄文パンなど文化の展示である。見学終了後、考古館の小林公明先生にお話をうかがう。藤森先生の話が中心となる。きっかけは入り口のところのガラスケースである。なんと、諏訪考古学研究所と書いてあるではないか。そこら辺からまず第一声である。あと、前館長の武藤雄六先生はご定年ということで、藤森先生の直弟子たちの世代交代が進んでおり、これからは孫弟子達の時代であるということだった。小林先生ご自身も高校生の頃から藤森先生のうちには出入りをしていたが、直弟子ではないというお話でした。


諏訪考古学研究所と名前の入ったガラスケースが受付にあった。

六爾「現在も諏訪考古学研究所はあるのでしょうか」
小林「いいえ、現在は活動していません。いつ頃解散したのかは知りませんが、栄一先生がお亡くなりになられた後(江戸家老の)<笑>戸沢先生の発案で研究会は継続したらしいのですが、自然消滅という次第となったようです。」
六爾「それでは、あのガラスケースはどうされたのですか。」
小林「あれは、当館が開館したときに諏訪考古学研究所からいただいたものなのです。」
六爾「すばらしいですね。」
小林「でも、栄一先生は当館の建物が建築中にお亡くなりになられたので残念でしたが。」


藤森先生の思い出 直木賞がとりたかった栄一先生

  

六爾「藤森先生の思い出の中でもっとも印象にのこったことは何でしょうか。」
小林「困りましたね、高校生の頃の話なので、そのうえいろいろと一杯思い出がありますから、、、、そうですね。先生は直木賞が欲しかったとおっしゃられたことがありましたね。」
六爾「先生らしいですね。それでは、一番印象に残った先生の言葉はなにでしょうか。」
小林「それはですね、やりたいことがあって、たとえ、それが出来なくても、じっと心の中に暖めておく、するといつか必ず芽が出ると、おっしゃられていましたね。これが一番印象にのこっています。」
六爾「私も、同感です。私も、その言葉が生きていく上で一番励ましになっています。」

それから、尖石に向かった、雪はだんだん深くなる。


尖石遺跡にて 縄文のビーナスと宮坂英弌先生 

  

 

 井戸尻から尖石に向かう道の雪はさらに深く、ところどころに轍のあとを残すほどであった。路面は凍っており、最悪の状況であったが、ふしぎと空は晴れつつあった。

 栄一先生の援助もあって尖石は完全に守られたのである。そして、今縄文のビーナスが国宝に指定され一躍脚光を浴びているが、このように雪が深い日に来館するものはまれである。ここも、展示館の中はとても寒い。ストーブにあたりながら見学する。圧倒的な土器の展示量である。ただ、様式展示が中心の井戸尻と違ってここは、一般的な編年展示である。完形土器の多さにびっくりする。この寒い日に、井戸尻でも会った女性の参観者にここでも会う。土器を中心に見学されておられたようだが、どのような感想を持たれたのであろうか推し量るすべもない。与介尾根の竪穴住居に入る。外はとても寒いのに中は暖かいのである。これだったら、十分冬でも暮らせると思った。考古館の一室が宮坂英弌先生の記念室になっていた。奥に賞状関係があり、勲四等の盾があった。また、第8回の吉川英治賞の賞状もあった。「尖石遺跡を発見したことによる表彰」であったことは相沢先生と同様の功績からの受賞であり、決して本を出したからではなのである。吉川英治賞というのはそういうものなのである。縄文のビーナスが国宝に指定されている関係で資料館を改築することになるそうである。防火防災の基準が国宝管理にはあるそうである。


神長官守矢資料館にて さなぎの鈴(鉄鐸)をみる。

  

左 サナギ鈴 復元
中 サナギ鈴 拡大 
右 守矢資料館入り口  
写真協力 神長官守矢資料館

 尖石を出てから、諏訪大社に行こうということで市内方面に向かう。ところが、松枝氏ふと何事もなかったったかのように、車で路地に入っていく。古そうな門構えの家である。表札がある、「神長官守矢」とある、「ははあ、ここがモリヤ族の本拠地ですね。」ここにはさなぎという銅鐸の原型があるという。今月は銅鐸フォーラムである。しかし、いまひとつ興味がわかない。ところが、今日このさなぎをみることによって、音を聴くことによって神との誓いをたててしまった以上はやらねばなるまい。(^_^;)ただ、銅鐸と鉄鐸をつなぐものはいまのところ推理と空想でしかない。諏訪盆地のように銅鐸の侵入を拒否してきた地域では果たして、このような推理が成り立つのであろうか。ただ、出雲大社に比べて諏訪大社の神格はまったく劣るものでもないであろう。したがって、特に初期の銅鐸の用途が鉄鐸と同じと考えられる以上、あながち無意味な推理でもないであろう。日本においては鉄と銅の伝来がほぼ同時期であったというのが、最近の学界の共通見解になりつつある。とすれば、銅鐸と鉄鐸のつなぐ線は見えてくるのではないかとした、栄一先生の考えは大場磐雄先生も支持しておられた、という。鉄鐸の音は小銅鐸の澄んだ音に比べて甚だ、野生に満ちているのである。復元銅鐸の音と比べても野性的である。あの時代では唯一の金属製品の音であっただろうか。

この鉄鐸の使用方法は現在までに完全とまでは行かないまでも、かなりの記録が残っている。ところが、銅鐸は使用方法については完全にわからなくなってしまった。鉄鐸の使用の記録として、信濃と甲斐の国境紛争が武田信虎と諏訪氏との間に起こったときに停戦協定を結ぶ誓約に鳴らされたという記録があるが、この停戦は一ヶ月と続かなかったらしい。武田側としては諏訪盆地から持ち出されたことのない鉄鐸が国境を越えたので前例がなくこのような誓いの効力はないということであったらしい。もっとも、武田側としては最終的には諏訪氏を滅ぼしてしまうのだから、何とでもこじつけられると思うが。(写真は神長官守矢家に伝わるサナギ鈴 実物 写真協力 神長官守矢資料館


諏訪大社で御柱をみる。

ようやく、初めての参拝である。重々しい入り口、上社本宮である。ところが、鳥居をくぐる前にふと、見つけてしまいました。なんと、吉良左兵衛義周のお墓があるというではありませんか。赤穂浪士の犠牲者であるとした立て札がせめてもの供養に思われます。神社の四隅には御柱がある。今年は御柱の年ですから、来月は大変でしょう。御柱まつりの起源について、栄一先生はおもしろい説をもっておられました。

銅鐸祭祀の主人公であった騎馬民族であるヤマト族は各地へと勢力を伸ばしていった。そして、かつては栄華を誇ったイズモ族も追われる身の上になった。そこで、かつてから親交のあった諏訪地方を拠点とする農耕民モリヤ族の地にたどり着き、両者は合体してスワ族になった。そして、ヤマト族と戦ったのである。国境の峠という峠には木の柵がめぐらされた。そして、その柵は7年ごとに交換された。戦いは数百年もの間続いたが、5世紀ごろになると次第に和解した。そのなごりが七年ごとにおこなわれる御柱まつりなのである。

 


諏訪市博物館藤森栄一記念室にて

今回は二度目の見学であるが、展示は前回と変化があるわけではない。どうも、官立の博物館はしっくりと行かない、展示が、きれいにまとまりすぎているのである。藤森先生の学風はもっと土のにおいがしたはずであるが、、、。わが、相沢記念館の意義はそこにある。岩宿の博物館に整然と陳列されるよりも、雑然としていても、この方がよい場合もあるのだ。そういった意味でも、いつかは藤森先生の書斎を見学したいのである。もっとも、おそらく感動で涙があふれ、何も見えなくなってしまうであろうが。


松枝氏の「やまのや」旅館宿泊記を聴く

なんと、まあ松枝さんは藤森先生の「やまのや」旅館に宿泊したことがあるというではありませんか。それでは、その時の様子をインタビューしてみました。

六爾「やまのや旅館に宿泊したことがあるそうですが」
松枝「ええ、今から二十年ほど前になりますが、わたしが高校生だったときです。」
六爾「すると、先生がお亡くなりになられたあとですね」
松枝「そうです」
六爾「年譜によれば、先生のお亡くなりになられたあと、三年ほどしてやまのや旅館は閉館したのですから、本当に幸運だったのですね。」「どのような印象がありましたか。」
松枝「そうですね。なにしろ20年ほども昔のことですから、、、、そういえば諏訪湖の名産のなんでしたっけ、何かがおいしかったのですが。」
六爾「なんでしょうか。」「シジミの味噌汁でしょうか、シジミは全滅していますよね。」
松枝「ああ、思い出しました。ワカサギの唐揚げがおいしかったです。あと、一泊して朝に、せっかくだから先生の書斎を見てゆきませんか、ということで書斎をみせていただきました。」
六爾「書斎の様子はいかがでしたでしょうか。」
松枝「机の上にメガネと書きかけの原稿が載っていました。本当に、昨日まで使っていたかのようでした。」
六爾「そうですか、わたしが先日みのもんたの今日は何の日で見たのと同じ状態ですね。あと、そのとき、案内していただいたのは、みち子夫人だったのですが。」
松枝「いいえ、仲居さんだったと思います。残念ながら、みち子夫人には会えなかったのです。」
六爾「今でも、先生の書斎はそのままになっているのですね。」
松枝「それでは、やまのや旅館に行ってみましょうか。」


やまのや旅館のまえにて

松枝「ここが、もとやまのや旅館だったところです。」
六爾「現在の、藤森先生のお宅ですね。わたしも、お手紙で先生の書斎を見学させていただきたいのですか、とお願いしたのですが。お返事がありませんでした。」
松枝「そうですか、ちょうどあそこに見える窓のひさしのあるところが、先生の書斎です。」
六爾「大きな家ですね。わたしも、いまこの場所で感無量です。先生が生きていらっしゃるうちにここに来たかったです。」


教念寺の栄一先生のお墓の前で

ものすごい、急勾配の坂をちょっと登ると、諏訪清陵高校の裏手に出ます。その墓地の一番下に先生のお墓があるのです。わたしが、夏にはじめてきたときには、ただ教念寺墓地とだけしかわからなかったので、この墓地の上から下まで全部探したことを思い出します。なにしろ、諏訪では藤森姓は大変多いのです。ですから、お墓も、藤森、藤森、藤森といっぱいあるのです。ただ、わたしにとっては、神の声ともいうべき確信がありました。考古学者のお墓であるから、きっと五輪塔か、宝鏡印塔だと思ったのです。だから、すぐに見つかると思ったのです。ところが、五輪塔、宝鏡印塔はあるものの裏を返してみると、栄一先生のお墓ではないのです。もう、あきらめて今日は帰ろうと思って一番下まで降りたとき、清陵高校の脇の新しいお墓の一角に「藤森栄一の墓」という立て札があったのです。よく見ると横書きの「藤森家」とだけかかれている御影石のお墓でした。とても、質素なお墓でした、ここを発見した瞬間、頭の中が真っ白になりました。ふと振り返ると、諏訪湖の青い水の色と夏の青い空がくっきりと見えたのでした。足元を見ると、小さな土器のかけらがお供えしてありました。わたしは、線香をあげながら、近くのお店で買ってきた、缶コーヒーをお供えいたしました。ああ、そういえば、先生は命の薬といってコーヒーがお好きだったのです。どうも、缶コーヒーで申し訳ありませんが。
といった具合に、夏の日の感慨にひたりながら、松枝氏とともにお墓の前に来ました。相変わらず、木の立て札はあるのですが、肝心な先生のお墓がありません。おや、なくなったわけはないのですが。ふと、足元をみると一面の真っ白い雪でした。掘ってみると出てきました。全部雪かきしようと思うのですが、完全に凍っているのです。ちょっと掘って断念。雪を掘ってお線香だけ少しあげさせていただくことにしました。ふと、振り返ると真っ白に雪化粧した諏訪湖と町並みが見えました。ホテルの入り口にて松枝氏と再会を期して固い握手をして別れる。本当にご案内ありがとうございました。


ホテルにて今日買った本を読む。

 井戸尻考古館の諏訪考古学研究所のガラスケースに入っていた、由井先生の日記抄は、久しぶりの感動を持って私に迫ってきた。藤森栄一、相沢忠洋、芹沢長介の各先生方と矢出川遺跡を通じて交流のあった氏の日記はおもしろい。おもわず、明日行ってみたくなった。


矢出川遺跡を訪ねる。

 野辺山高原に資料館があるので、そちらを見学するだけでもかなりの、勉強になるに違いない。今日はとてもいい天気であるが、先日来の大雪の影響でさすがに辺り一面真っ白である。資料館も雪に埋もれている。入り口さえ定かではない。ようやく、降り積もった雪の中に一条の道を見つける。
 入館して、展示室へといきなりは、予科練の記念写真である。太平洋戦末期、三重空の分遣隊があったということである。今の資料館のある場所一帯であるらしい。隣の部屋は、常設一般展示室でここには民俗資料がほとんどであったが、考古資料は矢出川関連のものが中心である。
 細石器というものは全くもって小さく、こまかいもので、一様に驚きである。ここでは、ほとんどが黒曜石で石器が作られているが、水晶の産地が近かったため水晶製のものもある。


大深山は断念。

雪深く、信濃川上の駅前の人影はまばらである。タクシーなどはいない。結局断念することにする。次の電車まではかなり時間がある。したがって、これからそのまま電車に乗って佐久平から新幹線で帰ることにした。


釜飯は碓氷峠のあたりを通過中に売りにくる。

横川駅なき今、峠の釜飯はどうなったであろうか。大丈夫、未だに駅弁の王様である。軽井沢駅で売っているのはもちろん、車内販売もやっております。900円です。まいどありー。
税金の無駄遣いではないかといわれた、安中榛名駅に停車、降りる人も、乗る人もいた。よかった。無人駅ではなかったのだ。駅から観る妙義山は絶景である。
 そんでもってすぐにまたトンネルです。でも、街に新幹線がくることはうれしい。この喜びは地元の人でなければわからないでしょう。
 また、あっという間に駅です。高崎到着。町にはおもったより雪は少ないようです。もっとも、山沿いはちょっと雪がありますが、相沢先生はどうしているかな、ちょっと、桐生の方を向いてごあいさつ、。<(_ )>駅前にビブレはありますが、ダイエーはなくなっていました。(;;)


最後は熊谷の立正大学の向こうの富士を眺めて。

東北新幹線は関東平野の真ん中を進むので、非常に眺めがよい。高崎を出てすぐに熊谷です。だんだん懐かしい町並みが見えてきました。立正大学は、、と探すと、なんと二本の巨大なビルが比企の丘陵のなかに見えるではありませんか、そしてその後ろに富士が、沈みゆく夕日が、本日の旅の締めくくりにピッタリでした。

おわり


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