◆大阪府立弥生文化博物館・弥生カルチャーフォーラム

「弥生研究の先覚者たち」

1月25日(日)
 「登呂遺跡の鬼才・杉原荘介」小林三郎・明治大学教授
2月8日(日)
 「刻苦勉励の人・梅原末治」田中琢・奈文研所長
2月11日(水)
 「鋭利緻密の人・小林行雄」田辺昭三・京都造形美術大学教授
2月15日(日)
 「度量博大の人・水野清一」樋口隆康・橿考研所長
2月22日(日)
 「東京考古学会のサムライたち・森本六爾、藤森栄一」
  坪井清足・大阪府文化財調査研究センター理事長


 どんたくさんの奇襲

 弥生博物館で一通り展示を見終わり、いよいよ講演会を待つばかりになったとき、かおるさんがぺこりとある紳士に頭を下げた。その紳士が、かのゆうめいなどんたくさんでした。前日にメールをいただいていたので、ご挨拶が済むといきなり、私の質問に答えていただく。

「本日、朝六爾先生のお墓参りをしてきたのですが、やはり六爾先生と杉原荘介先生のお墓のデザインが同じですね。」(ロクジ、リブレットを出して杉原先生のお墓の写真を見せる、『森本六爾伝』の中のお墓の写真と比べる)

「そっくりですね、それでは藤澤一夫先生にさっそく電話でうかがってみましょう。」

(どんたくさん、電話をかけにいかれる。ロクジ感謝の念でいっぱいになる。)

「藤澤先生はご在宅でしたので、お話をうかがってきました。」

「どうも、ありがとうございます。」

「藤澤先生がおっしゃるには、六爾先生のお墓のデザインはたしかに、私がしたが、杉原さんのお墓についてはデザインした覚えがない。六爾先生のお墓は静岡の池上年さんの作であるから、もしかしたら、杉原さんが六爾先生のお墓をみて同じ池上さんに頼んだのかもしれない。というお答えでした。」

「なるほど、その線が濃厚ですね。杉原先生は六爾先生のお墓参りにも何度か行っておられるし、そのときの写真も残っておりますしね。これは、あとは坪井先生にうかがってみるしかありませんね。」

 坪井清足先生は言うまでもなく森本六爾のスポンサーでもあり、東京考古学会の創設者の一人である坪井良平先生のご子息である。したがって、この稿ではオヤジといえば、坪井良平先生のことを指します。

 

いよいよ講演開始

 

そんな話をしているうちに司会の先生登場。

<長々と坪井先生の紹介が続く>

全面調査の方法を学際調査方法を確立、国道26号の池上曽根で新しい調査方法の確立をなさった方でございます。それでは、坪井先生よろしくお願いいたします。

<坪井先生の登場>

<拍手>

 

 このようなところでお話をするには、本来ならばきちんと準備してからお話すべきなのですが、準備が間に合いませんでしたので思いつくまま、お話しさせていただきます。

今日の演題は「東京考古学会のサムライたち」でありまして、弥生文化の研究に関わる東京考古学会の森本六爾・小林行雄・杉原荘介・藤森栄一といったサムライたちの中で、森本六爾、藤森栄一にスポットライトをあててお話ししたいと思います。

 

森本六爾先生について

 

 まず最初に森本六爾についてでありますが、人間というものは年齢とともに記憶が薄れていくものでありまして、年齢と同じパーセンテージウソをいうという、本人はウソをいっていると思っていいのでありますが、私は76歳なので信頼度は25パーセントということになるわけであります。先輩の方々のお話などでも、様々のウソになっているわけであります。

 現在、森本六爾については弟子の藤森栄一やその又弟子の明治大学学長の戸沢充則君あたりが、いいところばかりを言って回っているので、伝説上の人物になっているかと思います。それから、さらに森本六爾はたまたま松本清張が最初に芥川賞を取った小説で原題は『風雪断碑』といい、その後『断碑』と変えた小説のモデルとしても知られています。

 ただ、松本清張は森本六爾の夫人でありましたミツギさんの生家の方で生家は小倉でありまして、松本清張が小倉で仕事をしていたときに奥さんの里の方のいろいろな情報でこの小説を書いた訳でありまして、その奥さんの里の方、あとで話に出てくると思いますがそちらの方でいろいろ噂があったようなことに基づいて小説を書いたようであります。

我々としては森本さんの側としては直接知っているイメージとは違うものですから面食らったというような記憶がございます。

 皆さんにお配りいたしました。表の最初に森本六爾の略年譜が出ております。明治36年に森本家の長男として生まれました。現在もし、森本六爾が生きておりましたら96歳という年齢であります。しかし、32歳でなくなりましたから、いまから100年ぐらい前に生まれた人物であります。畝傍中学、現在の畝傍高等学校でありますが奈良県の高等学校としては二番目に出来た学校でありますがそこは、高橋健自先生が若い頃勤められた学校で、最近は聞きませんが、以前は考古学者を輩出した学校であります。

 

國學院大學に合格するが入学せず

 

 畝傍中学を卒業して、國學院大學を受験して森本六爾はなぜか入学できなかった訳であります。どういうことかわかりませんが、それで中学を卒業してから奈良県下の小学校の代用教員をやっておりました。都と村の小学校にも出ていたことがあります。現在安閑天皇陵と考えられている古墳の近くの横穴で砲弾型の埋葬施設朝鮮半島の南の方では博物館によくございますが、日本ではめずらしいものを発掘しております。そういう合わせ甕というべきものが発見され、考古学雑誌に報告を書いております。ここには書いてございませんが、森本六爾は唐古の弥生式土器に書いてある絵画を最初に学会に報告したという人ととして評価してもいいと思います。図録を編集して中央の学会に紹介した、このことが森本六爾の弥生研究の根底にあるといってもよいかと思います。

 

森本と梅原末治の交流

 

 森本六爾の家は三輪山麓の櫻井市の大泉というところの農家の長男でありまして、大正13年に上京しています。東京高等師範学校の三宅米吉先生の副手としてしばらく仕事をしていました。しかし、中学卒の学歴しかない森本にとって考古学の研究をするということは在野的なことになります。それでも、金鎧山古墳の研究、川柳村将軍塚古墳、などの調査を行い、梅原末治先生の跡を一生懸命なぞっていたようであります。梅原先生はその当時佐見田の新山の古墳の研究を出しました。森本所蔵のその本を見ますといっぱい書込があり、自身がそのあとを追いかけて一生懸命調べたあとが伺えます。その本の行方でありますが森本六爾の死後、小林行雄先生がその本を引き継がれておりまして、私も見た記憶があるのですが、現在大阪大学の考古学研究室に入れたはずなのですが、現在紛失しておりまして、このような貴重な本が何冊か紛失しております。その時に森本六爾の書いた字が非常に梅原末治先生に似ているという事実がございます。このことは梅原先生の古墳の研究になんとか追いつこうということの現れではないでしょうか。そして、森本六爾自体も変わった字を書き始めるようになった、それは梅原末治先生の字をまねたのではないだろうかということであります。

 考古学者というのは時々そういう人が現れるわけでありまして、今奈良大学の学長をしております水野正好君も若い頃、森本六爾に惚れ込みまして、そっくりな字を書いていた時期がございました。人間というのはあこがれると字までにてきてしまうという現れではないでしょうか。そういうことで、一方で、古墳時代の研究に非常に熱意を燃やしていたわけであります。川柳村将軍塚というのはこのごろ長野県で復元工事が完成いたしました森の将軍塚の川を隔てて反対側にある古墳でございまして、森の将軍塚と似たような形で、鏡が出土しております。森本六爾は地元へ行って調べて、研究報告書を作り上げたという仕事になろうかと思います。そのほかに、森本六爾が日本で出土する青銅器の問題に関心を示しておりまして、その研究の成果がここにあります、昭和4年に岡書院から出版いたしました『日本青銅器時代地名表』でございます。そこには三百何カ所の地点の報告がございます。その、少し前に多紐細文鏡の研究を発表しております。日本で出土しています一番大型の多紐細文鏡の報告をしています。このように、研究の方向が弥生時代の方へと進んでいく訳であります。

 

森本と坪井良平の出会い。

 

 日本梵鐘年表をもらいに森本が三宅先生の使いとして坪井のところにやってきたことが出会いであった。坪井も専門の学歴がない、榧本亀次郎も大正13年に森本を追っかけて上京した。3人は東大で日本考古学会の例会を聞いたあと、本郷の喫茶店で気炎を上げていたようであります。

 

森本と坪井良平の出会い。考古学研究会の結成

 

 日本梵鐘年表をもらいに森本が三宅先生の使いとして坪井のところにやってきたことが出会いでありました。坪井も専門の学歴がありません。そして、榧本亀次郎も大正13年に森本を追っかけて奈良から上京しました。3人は東大で日本考古学会の例会を聞いたあと、本郷の喫茶店で気炎を上げていたようであります。そのほかのメンバーに三輪善之介さん<かわだしょう>さんこの方は終戦後まで大阪の住吉で開業医をやっていたそうでありまして、柳田国男先生の御弟子さんとして有名であります。この方が東大の医局におられた当時に仲間になった訳であります。その次ぎに八木光之介、これで森本、榧本、坪井、三輪、川田、八木の六人で在野の談話会、見学会などを行っておりました。それが、昭和2年に森本六爾の提案で「考古学研究」という雑誌を発刊することになります。

 

運命!!ミツギ夫人と森本六爾の出会い

 

 川崎の万葉寺というところに仏像の調査にいくということもやっております。それで、そういう研究会をたびたびやっておりました。その中で昭和3年に2月5日に見学会として上総の国分寺へ行くという集まりがございました。この考古学研究会の面々が両国の駅で集まって、そのとき三輪善之介さんの紹介だったと思うのですが、浅川ミツギさんがはじめて参加された訳であります。いろいろ上総の国分寺の調査を行い、その晩八木さんの家で食事をしたりして、森本六爾とミツギ夫人が大いに意気投合いたしまして、一週間ほど経った2月11日に二人は結婚してしまいました。それで、その時に小倉の出身で、宮内庁の仕事をしておられました、中島利一郎さんが宮内庁の役人でありますから、えらく格式張った人なのでありますが、森本さんの実家が農業を営んでいたということで、田夫野人と野合したということをいわれて大いに物議を醸したということであります。その時代は戦前は履歴書にも士族であるとか平民とか書かされた時代でありますから、宮内庁の役人なとどというものは平民の出である森本と士族の出であるミツギ夫人がろくに連絡もしないで同棲してしまったということに仰天してしまったということでありましょう。この結婚については、ミツギ夫人の両親も大変反対し、中島利一郎さんに詰め寄ったそうですが、新婚旅行か何かで一週間ぐらい二人が行方不明であったときに、もし反対して二人が心中でもしたらどうなるんだ、といった話も伝わっています。その時のいきさつをまとめたものをオヤジが持っていたのでありますが、手書きのものでありますが、それを森本さんが亡くなる直前に、あとで出てくる藤澤一夫氏が森本さんに見せたら、森本さんが目の前でピリピリとそれを破いて捨ててしまったという話があります。したがって原本がのこっておりません。

 あとで、また思い出してもう一度オヤジが書いたのでありますが、その時のものとちがってトーンが鈍っております。ミツギ夫人は東京女学館に勤務しておりました。森本六爾は何も収入がございませんで、そうした状況で東京考古学会を運営していくということに非常に苦労している様子が、雑誌「考古学」に日誌が出て参りまして、そちらのほうに載っております。これは、世間の方々が名文であるといっております。

 

東京考古学会の旗揚げ

 

 そういった、苦労をしながら運営していくのですが、「考古学研究」が5冊ほどでダメになったのは、八木光之介さんがスポンサーだったわけなのですが、その方が、なくなられたか何かだと思います。折しも昭和の初めの大恐慌の中でありまして、もっとも、最近も異様に不景気、不景気といっているわけでありますが、やっぱりそのようなことがあったのかもしれませんが、その当時のことはあまり私もよく覚えておりません。そういったことで、昭和4年で雑誌がダメになったわけであります。さらに、その前の昭和3年に私のオヤジの会社が倒産してしまいまして、東京の商事会社に勤めていたものが、大阪に引っ越すことになりました。その間に森本六爾が東京考古学会というものを旗揚げいたしまして、雑誌「考古学」を発刊することになるわけであります。 

 

森本六爾フランス留学する

 

 ところが、その少し前に梅原末治先生がヨーロッパに留学するということがありました。これは、浜田耕作先生の命令で行かれたわけですが、梅原先生は革命直後のロシアのレニングラードで青銅器の整理を行い、着々と実績をあげたというようなことをやっております。それを聞いた森本六爾はなんとかそれに追いつこうと、あせったのであります。そして、梅原先生の後を追いかけるようにして、パリに留学するわけでありますが、それには、そうとう無理をしてお父さんが田んぼをを売ってお金を工面したという話も伝わっております。そして、シベリア鉄道経由でパリに到着したわけであります。ところが、パリではフランス語もろくにしゃべれない森本さんでありますから、大変苦労したらしいのです。その当時、パリには中谷治宇二郎という考古学者が留学しておりまして、大変親しくしていたというわけであります。中谷治宇二郎というひとは中谷宇吉郎という有名な物理学者で漱石の弟子あられたあの方の弟さんでありまして、早くになくなられた方でありますが、『日本石器時代提要』という著作がございます。この本については、小林行雄先生が一生懸命復刊のお手伝いをされたという話もございます。ということで中谷治宇二郎というひとがパリにおられて森本と交流があった訳でございます。

パリでの林芙美子との交流

 森本はパリでたまたま作家の林芙美子女史と出会われまして、異国で日本の若い女性とあったもので、すっかり森本六爾がうつつを抜かしまして、

<笑い>

 林芙美子にバラの花を贈ったりしておった訳であります。それで、これも現在どこにあるかわからないのですが、森本がパリに滞在中の日誌がございまして、この日誌の中にバラを一輪贈ったなどということが書かれておりまして、何遍か遭っていたようであります。林芙美子の方が先に日本に帰ったのですが、調べてみると林芙美子の方には全然その気がなかったようでありまして、パリで日本語がしゃべれると言うことで一緒にめしを食ったというような関係であったと思われるのですが、そういうことがありまして、森本さんにしてみればまあ、不倫であったわけでありまして、そういう資料があったわけでありますが、どこへいってしまったかわかりませんで、一生懸命さがしている人もいるようでありますが、そういう資料があったんでありますが、私も見たことがあったのですが、小林先生が遺されたもののなかにはございませんでした。私は小林先生のところで見た記憶があったのですが、現在なくなっております。そういうことで、森本六爾がパリから帰ってくる訳でございます。

 

昭和初期の考古学界について

 

 森本六爾がフランスへ行く直前に小林行雄先生が「弥生のすべて」という論文を書いて森本六爾にわざわざ会いに行っている。この論文は、弥生の編年的な考え方を弥生の研究に持ち込んだ大論文でありますが、それについて森本六爾は非常に触発されたのであろうと思います。日本の考古学で言いますと、大正末年に東京のひとたち、のちに山内清男先生の縄文土器の研究というものが編年の軸になっているのでありますが、甲野勇・八幡一郎という人々らの手によって編年的な研究が行われている。今まで、縄文土器というのが厚手、薄手といっていたのが、大正のはじめに森本六爾と中学で同級生であった大場磐雄先生も、厚手式土器よりも古い土器として、諸磯式土器の研究を始めます。この諸磯式の研究では早くに亡くなられた京都大学の榊原政職という方の研究が非常にすばらしかったわけであります。さらに、その研究を甲野さんらが大山史前学研究所におられたときに、諸磯以前ということで、いわゆる繊維土器の研究をされておられました。縄文時代のさかのぼった研究が行われていたわけであります。そして、今でも縄文早期の土器として知られている、三戸式とか、田戸式とかいう土器の研究が行われていたものであります。

 

森本六爾の弥生式土器機能論の提唱

 

 森本六爾は「弥生式土器に於ける二者」で、弥生式土器というものに、実用的なものと、祭祀的なものがあることを提唱いたしました。このことは、甲野勇先生をして、戦後「森六にやられた」といわしめたほどのすばらしい着想でありました。ところが、甲野先生は「シビンにも機能がある。」と切り返されたということでした。私は、その話を戦後武蔵野郷土館で直接甲野先生からうかがったことがございます。

 

つづく

感想

「シビンにも機能がある」と切り返されたという話がでたとたん、場内は大爆笑でした。私も、(@_@)(@_@)(@_@)(@_@)だったです。さすが、口達者で歯に衣を着せない甲野先生だなと思いましたが、負けず劣らず、坪井先生も飽多禮ぶりですねえ。(^_^)甲野先生は『縄文土器のはなし』という名著のなかでここら辺のことを優しく回想しておられます。ちなみに甲野先生はあだ名を付ける名人で、「森六」というのは先生の命名によるものであることをここにご紹介しておきます。


入り口に戻る