男は片膝をつきネクタイの襟元を緩めた。
「――好色だな」
 闇にでも溶け込みそうなスーツから皺くしゃのシャツを覗かせ、足下をうかがい見る。
 横たわる精気のない抜け殻。歳はまだ二十代半ばだろうか。
 そこから無数の羽が空へと舞い上がった。
 羽は連なり合い、流体となって収束し、宙で渦を巻く。
 やがて『それ』は透明な人形《ひとがた》となって男の横に現れた。
「跡があるようです」
「……そうか」
 タイトな黒のスーツに身をつつみ、金色の髪が夜風に流れる。
『それ』は慎ましくも一歩、二歩、男の後ろへと下がって立った。
「もう四人になります。未だ三人が所在不明。いずれもこの塾の生徒とだけ分っていますが、狙いを絞ってるのでしょうか?」
「そうだな……派手には動いてくれないようだが」
 男は周囲を見渡した。
「マスター、今後は」
 求めを受けてマスターと呼ばれた男は判断をなす。
 彼女は瞳を閉じて応えた。




――透明なチェーンコンタクト――



第一章 困惑の遭遇



      1話  メイド少女クラン

 ズレた黒縁眼鏡を押し上げ、楠見水樹《くすみみずき》は目を留めた。
 つばの広い麦わら帽子、白いワンピースにリュックを背負った女の子が、門戸のインターホンに背伸びをしながら「あのぉ〜あのぉ〜」をしきりに繰り返している。
 旅行用トランクを持った姿から親類関係? 誰なんだろうかと、また汗でズレ落ちそうになる眼鏡を指で押し上げ、汗一つ見えない涼しい色の彼女に問いかけてみる。
 スピーカーの反応がないのにも関わらず、「あのぉ〜すみませ〜ん」と、弱々しくもめげずに粘っていたらしい女の子は、”何か用?”ようやく聞こえてきた声に、体を”はっ!”と身震いさせた様子で、
「あ、あのっ、私、ご出張なさっているご両親様から、水樹様の身の周りをお世話するように言われまして、この度派遣されましたメイドのク、クランと、も申しまっち」と、後半どもりつつも、
(今、噛んだだろ……)
 見る限り、女の子はまだまだインターホンに背伸びをくり返す気らしい。
(父さん達の知り合いの娘なんだろうか? まったく聞いてないけど……)
 思い当たるふしがなく訝しげる。両親が出張中なのは確かであるが、自らメイド、家政婦、お手伝いなど頼んだ覚えもない。
(何しに来たんだろう?)
 今年高等部に入ったばかりでまだういういしさの残る水樹に対して女の子はさらに幾分か幼く、背丈は百四十あるかないか。さすがに一人暮らしをターゲットにした新手の勧誘、セールスレディではないだろうと思ったが、
「おい」
「あっ! あの、私、メイドのクランと申しまして」
 また反応を貰えたことに身構えたようで女の子は条件反射ぎみに返すも、相変わらずつま先立ちでスピーカーへとボケ通す。
「いやいやこら、こっちだって」
 お約束じゃあるまいしと水樹はイラ立ち混じりに「おいって!」
 かなり語尾を強めた。
 女の子は体をビクつかせ、ようやく気付いたのか、少し離れた位置に立つ人物とインターホンとを交互に見返して、最終的にはちょこんと気恥ずかしそうにはにかんだ。
「誰だよ、俺の両親の知り合い?」
「ええと……あ、はい。お世話を言い使いまして、今日からお世話になります」
 女の子はそう言って笑むと、ペコリと頭を下げる。
(お世話されるのは自分なのだから、言うなら、お世話させていただきますだろ)
 水樹は点を見るような薄目で女の子を睨んだ。
「聞いてないなあ、何かの間違いじゃないの?」
「いえ、あのっ……」
「ちょっと待ってて」
 学校の鞄から携帯を取り出し、女の子を横目に電話を掛ける。
「もしもし? 俺だけど」
『お? おお! 水樹じゃないか! 久しぶりだな、なんか用か?』
「あ、父さん? なんか用かじゃないよ。家の前に変なの来てさ、私メイドですとか言ってんだけど。なんか父さん達から派遣されたって」
「おお! クランは無事に着いたのか」
 それからしばらく『まあそう言うな』「だから聞いてないって!」そんなやりとり続く。結果、納得はしていないが、とりあえず現状の把握ができた水樹はしぶしぶ電話を切り、疲れたといった表情で溜息をついた。
 どうやら自分は、これからこの娘と生活を共にしていくことになるらしい。この妙な少女の言うことは本当らしいと観念せざるえない状況に愕然としていた。
「あのっよろしくお願いします。水樹様」
 そんな彼の気など知ってか知らずでか、クランと名乗る少女はあどけない笑みをこぼす。子供のような目線でペコリ。またペコリ。丁寧なお辞儀を返した。


 ノートに黙々とペンを走らせる。
 学校では勤勉。家でも日課として予習復習を欠かさない。その成果もあって水樹は学年でもトップの成績をおさめている。「何故そんなに真面目なの?」稀にそう冷かされたりもするが、それは彼の家庭環境によるところが大きい。
 両親はこと勉学に大してはよき先生だったと言える。彼の幼心に抱く好奇心、探究心からの疑問を解き明かし、ときに道具を使って彼に満足のいく答えをもたらしてきた。そんな学びに習ったのか似たのか今に至るのだが、
 それがひとえに幼い彼への『愛情』そう呼べるものかどうかは分らない。
 水樹は両親がどんな仕事に携わっているのか一切知らない。知らされてもいない。重要な研究とは聞かされているもの、勤め先がどこかなど知らないでいる。
 幼い頃から父、母のどちらかは出張。家にいたとしても自室に篭り論文をまとめる日々であり、幼い水樹は扉の隙間から小さい顔を覗かせるだけで、両親から遊んでもらった記憶はほとんどなかった。
 小学校も高学年になると一人で過ごす時間が増えていく。今では両親が家に帰ってくるのも年に一日、二日あるかないか。授業参観も欠席の記憶しかない。
 それでも恨んだことは一度もなかった。定期的に連絡をくれれば誕生日にはカードを送ってくれる。
 だからこそ、それが両親の仕事なんだと割り切っている。
 それに『誰にも干渉されない生活』
 というのも、慣れてしまえば気楽なものだった。幼馴染みからは「家で口煩く言われないから、ある意味恵まれてるわよねえ」そう羨ましがられたりもしたものだ。
 自身もそんな束縛ない自由な生活はまんざらでもなかった。
 しかし、それが今日――
「水樹様ーご夕食の用意が整いましたよー」
「いや、頼んでないんだけど……」
 ドアの向こうにそっけなく言い放ち、水樹は頬杖をついた。
「とは言いましても、あの、美紗絵《みさえ》様から習ったんですよ。水樹様大好物のカレーです」
「カレーって……」
 美紗絵とは母の名であるが、おかしいかな料理は得意でなかったと記憶している。レパートリーも卵焼きや目玉焼き、とき卵、ゆで卵、卵かけご飯? 確かにカレーは大好物だが、逆に大好物でない人を探す方が難しいほどの大好物の帝王ではないだろうかと、水樹はそれみよがしに突っ込みが浮かぶ。
「あの……水樹様……」
(様付けか……まあメイドだしな)
 一人増えたところで相手はただの使用人。隔てられた者であり、親しい誰かではないのだし親しくななりようもない。基本的に”他人なのだから”と、そう思うことにする。
「分かったよ」
 同時に(ふん、まあいいか)とも悪づいた。

 真向かいには白いエプロンドレスに紺色の、いわゆるメイド服という使用人装束をまとった女の子が座っていた。ヘッドドレスという物は付けておらず、少し茶かかったセミロングをして、座ってくれたことにほっとしたような笑顔をみせている。
 テーブルには、皿に盛り付けられた見た目も匂いも、ごく普通のカレーがあった。
「水樹様、どうぞ召し上がってください」
「え、ああ……」
 気のない返事をして、水樹は置かれていたスプーンを手に取った。
 真向かいで少女が恋人でも見るかの満足げな笑みをたむけているために、水樹はいちいち見るなよとでも言いたげな上目つきを返してから、顔を逸らしがちにカレーを口にする。そして――
(うえぇ……なんだコレ……)
 スプーンをくわえたまま唇をひん曲げた。
 カレーは酸味と甘味が七対三で混じっている。甘酸っぱい。ある意味、斬新な味だった。いや、それならまだ妥協してふた口目を運んでいただろう。しかし、後からきたのはとんでもなく強烈な苦味。粉薬にも似た、辛みではなく苦味が襲ってくるカレーだった。
 みるみる顔が歪んでいく。口を押さえ、込み上げてくる嗚咽に目元を潤ませた。
「こ、これ、何いれたんだ……」
 とりあえず味覚を洗い流してしまいたいと思ったが、テーブルにそれらしき物は置かれておらず、
「おい、水!」
 少女は「あ、お水……」と、グラスも用意していないことに気付いたようで、あたふたと水を注いで持ってくる。彼女は「はい、水樹様」と両手で差し出そうとしたグラスをテーブルの角にぶつけてしまい、おもいっきり水樹の顔へぶちまけた。
「おわあ、お前、何やってんだよぉお!」
「ああ! す、すみません水樹様。えっと、タオル」
 水は膝まで垂れていた。
 クランがしゃがんで拭おうとしたが、水樹は「自分でやる」と、手で彼女を押し退けるようにしてそれを拒否した。
 湿り気を拭い取る。彼女のボケをモロに面で食らったせいか、舌の苦味はすっかりそれで掻き消されてしまっていた。気を取り直してみれば、少女が席でほっとした笑みをこぼしている。
 水樹は「おい、これ味見し」そう言いかけた矢先、
「あ、あの、水樹様。水樹様のこと色々教えて下さい。私、まだ色々勉強中なんですけど……きっと喜んで頂けるように頑張りますから」
 そう割り込んで喋る彼女に出鼻を挫かれた。人の気心も読めてないのか、彼女が瞳を綻ばせて見つめてくるたびに気分が悪くなる。そんな少女が水樹の瞳には憎たらしく映っていく。
「あのなあ……んなこと……お前一人で勝手にやってろって」
 声も必要以上に大きくなった。
 クランは怒鳴られた理由が分らないのか、瞳をまばたきさせきょとんとしたが、少ししてまた微笑んだ顔を見せた。
「……あの、水樹様、おかわりもありますのでお夜食にでも」
 水樹はテーブルに平手をついた。食器が揺らぎ、椅子が音を立てる。
 理解できてるふしのない彼女との温度差に不快指数が限度を超えていた。
「え、あ、あの……」
「お前、メイドのくせに毒味もしないのかよ。毒入りだろそれ」
 彼女を尻目に吐き捨てる。ダイニングの扉が無造作に開かれた。
 一人残された少女は、食べかけのカレーをしばらく眺め続けていた。
 二人で食べようとしていたのだろう、彼女の前には手付かずのカレーがあった。
 しばらく見つめて結局手を付けることはしなかった。
 彼女はやっと椅子から降りると、おずおずと残された二つを生ごみ用の袋へ流し込む。
 キッチンの蛇口から水の滴る音がした。そんな光景など、すでにダイニングを後にした、いや、ダイニングにいてもいなくても、水樹には関係のないものだった。
 それから、しばらくののち、さらなる災いが彼を襲う。
 自室でノートを片付け、ひと息付いていると、真下からズドンッと重く落雷にも似た音がする。水樹は思わず、椅子からひっくり返り落ちそうになるも、慌てて階段を降り、脱衣所の扉を開ける。途端、立ち込める煙に「ごほっごほっ」と咳き込んだ。
 そして目にした先。洗濯機のドラムが黒煙を吐いていた。
 水樹は即座に廊下の収納から消化器を引き出し、慣れぬ手つきで消化剤を噴射する。
 まさか彼も、家庭用の消化器を実戦で使う日が来ようなどとは考えてもみなかっただろう。
 黒煙は白煙と混じり「ぐほっぐほっ」と今度は白粉に咳き込む。お陰で洗い物は漂白剤ではなく消化剤で真っ白に染め上がってしまった。
 座り込んでいたメイドらしき少女が、白粉まみれに水樹を見て、瞳をうるうるさせている。
 彼は少女を冷ややかに見下ろしてから、確実に故障してるだろう洗濯機を眺め、
「どうすんだ、これ……」
 消化器を床に付いて、脱力してしまった。
 もはや呆れるしかなかった。
 バスタブからは津波が発生し、キッチンでは暴発音、瓦礫が燦爛した。
 それから先も、四六時中ドッタンバッタンの音が絶えず(スベったり転んだりしているのである)目障り、耳障りが限界にまで達し、かといって水樹には、もうどうする事もできずに、
「頼む、もう……休め……」
 最終的には上擦った声でなだめるしかなかった。自分をである。
 やがて、終わったのか、沈静化したのか、自滅してくたばったのか――
 布団のなか、やっと静かになったと思った頃に、冷静に考えをまとめる採算がついた。
(明日、クレームを入れてやる。クーリングオフだ!)
 そう心に決め込んだ彼は、ようやく眠りにつくことができた。

『どうだドジっ娘は』
 翌日早々、携帯で呼び出した父親の第一声はそれだった。
「ドジっ娘どころじゃないだろ! 身のまわりのお世話係じゃないのかよ! なんなんだよあれは! トラブルメーカーか! 欠陥品にもほどが――」
『まあまあ落ち着け、実は、母さんと相談して永らく帰れないでいる代わりに、せめて妹みたいな存在がいれば、お前も寂しさが紛れるんじゃないかと思ってな』
 分かっている。自分が一人だったのは両親の怠慢ではなく、仕事の忙しさからなのだと理解している。
 それでもあんなことがあれば、何をいまさらとも思ってしまう。
「慣れてるからいいよ、でも、なんでメイドなんだよ、あんな衣装着せたりして」
『嫌いか?』
「……いやいや、そういう問題じゃ」
『美沙の奴もクランを娘のように可愛がっていてな、お前さえよかったら妹として扱ってやってほしいんだ。とはいえ、本当は急にこんな事を頼むわけにもいかない建て前、家政婦として向かわせたわけなんだが』
 水樹にとってクランと呼ばれる少女が自分の両親とどんな関係で結ばれているのか多少気になるところではあったが、まあ何かの知り合いなのは違いないだろうと、それ以上追求することはしなかった。あの少女に興味をもつこと自体、煙たかったといってもいい。
「どっちにしても、困るよ突然だったし……」
『家事は美沙の受け売りだしな、うまくこなせないだろうとは思ってたが他は大丈夫だから』
「こなせないったって程があるだろ」
『あ、すまん。またこっちから掛ける。とにかく、よろしく頼むな』
 唐突に漏れてくる慌ただしい声のやり取りで、親子のスキンシップは終了してしまった。
 水樹は渋々身支度を整え、玄関で靴を履く。
「おはようございます水樹様……あの、朝食はとられませんか?」
 背中の少女に昨日のような明るさは感じられなかった。「いい」そう一言呟き、水樹は彼女の顔を見ることもなく玄関の扉を開いた。