東 京 大 空 襲
T ・ S昭和20年当時、私は東京の江東地区に住み、高等女学校の4年生でした。
女学生の服装は、国民服にモンペ、そしてゲートルを巻きました。肩には救急袋と防空頭巾を掛けて、胸には住所氏名、血液型を書いた名札をつけていました。
この年に入ってからは、敵機B29が昼となく夜となく、飛んできました。したがって、一晩なりともぐっすり眠ることができません。寝るといっても、モンペをはいてゲートルを巻いたままで、床の中に入っていたのです。
すると必ず、毎晩のように、時計が「ボーン、ボーン、ボーン…」と九時を打ち終わらないうちに、サイレンが「ウーウーウー…」と夜空に鳴り渡ります。ラジオからは「東部軍管区情報……空襲警報発令」と流れてきます。「それ来た」「また来た」と言いながら起きあがり、家族は防空頭巾をかぶり、救急袋を肩に掛けて防空壕に駆け込む毎日が続いていたのです。3月にはいると、夜だけでなく、昼間でもひんぱんにB29がやってきました。3月2日には、授業中に空襲警報が発令されました。机の下にもぐり込みました。B29の飛んでくる「グーン、グーン…」という音、機銃掃射の「バリバリ…」という音は、本当に不気味でした。みな体を小さく丸めて、頭を両手で抱え込んで息をこらえて、B29の遠ざかるのを待つばかりでした。でもその日は、ひとりの怪我人もなく、被害も受けず、一日無事に終わって下校することができました。
ところが二日おいた3月4日のことです。今度は登校の途中、都電(路面電車)のなかで空襲警報が発令されました。電車から降ろされたものの、学校へ行こうか、家に帰ろうか悩んだ末、北砂町の自宅に駆け戻りました。家に着くが早いか、B29が頭上に飛んできて、焼夷弾が降ってきました。母と二人で庭の防空壕へと駆け込みました。と、その時でした。防空壕のそばに、「パン、パーン」と焼夷弾が一発突き刺さったのです。……
幸い不発だったので、二人の命だけは助かりました。B29の音が静まったので防空壕から出てみると、庭にはネズミ花火のようにパチパチと火の玉が飛び散っています。家の中には4発の焼夷弾が打ち込まれていました。押し入れの前、トイレの前、風呂場の前のそれぞれの廊下に火の手が上がりました。もう一発は、二階の瓦屋根を突き破って店先のコンクリートで破裂していました。そのとき母は、別の押し入れから枕を取り出し、二人で枕を使って消火に当たりました。そこへ近所の方が応援に駆けつけてくださり、わが家の火は消すことができたのですが、その方の家は燃えてしまったのでした。
わが家の周囲はみな被害を受けていました。翌日は学校へは行かずに、疎開の準備に取りかかりました。ひとまず、津田沼の伯父の家にお世話になることに決め、5、6日は荷造りをしました。
3月7日のことです。いつものように、午後九時にB29がやってきました。
この日は、近所の工場に爆弾が投下され、爆風でわが家のどの窓ガラスもめちゃくちゃに割れ、破片が飛び散って大変でした。近くの馬小屋からは、爆風に驚いたのか、何十頭もの馬がドッドッドッと電車道を一目散に走ってきて、立っていることができませんでした。父は、鉄兜を飛ばされていました。爆風でひもが切れてしまったのです。B29はその後に焼夷弾を投下し、わが家の周りは、7軒を残して焼け野原となりました。覚悟を決めて、9日朝に引っ越すことに決めました。
3月9日早朝、父と兄は、すぐに必要なものだけを荷車に積み、出発しました。母と私は、電車で津田沼の伯父の家へ行きました。父と兄は、午後8時ごろ到着しました。
庭先に荷物をおろし、やれやれと食事をご馳走になって間もなく、ラジオから空襲警報発令の声が流れました。夜半には、東京下町の方角の西の空はあちこちから火の手が上がり、見る見るうちに真っ赤な火の海となって行きました。私たちは空襲から逃れられたものの、焼け残った7軒の隣組の方たちは今頃どうしているかと案じながら、明日10日には様子を見に行くことに決め、休みました。3月10日早朝、わが家は残っていると信じて、母と出かけました。市川までは電車が動いていました。その先は線路の枕木に沿って歩きました。私たちと同じく、わが家が残っているかと心配しながら行く人、親戚の安否を確かめに行く人、友人を捜しに行く人たちが、列をなし、先を急いで歩き続けていました。下り千葉方面に向かう人々は、アリの行列のように後先が見えないほどの行列でした。被害にあった人たちの行列でした。顔はすすで黒ずみ、頭巾は焦げたり、水を被ってぬれていたり、手にバケツを持っていたり…、家を失ったり、家族とはぐれた人たちの列だったのです。
行き先のある人はよいけれど、当てもない人たちは、いったいどこまで歩き続けたのでしょうか。そんなことを考えながら歩いていると、女学校で一番仲のよかったお友だちと、ばったり出会ったのです。お友だちが、あの長い行列の中にいたのです。線路をはさんで名前を呼び合っただけでした。列から離れて話のできる状態ではありませんでした。9日夜から10日朝までどう過ごしたのでしょうか。50余年間、再開できずに来ました。小岩の辺りまで来ると、こげくさい匂い、くすぶった匂いが鼻についてきます。歩くといっても焼け野原ですから、目印になるものもありません。一軒として残っている家もなければ、草木一本もありません。電信柱も一本もないので、道を自分でつくって歩いて行くより他ないのです。行く先ざきで、人が裸で重なり合って死んでいました。お母さんが子どもを抱え込んで下向きで死んでいる姿も見ました。まだ苦しんでいる人もいました。声をかすかに出している人、動いている人などさまざまな無惨な姿を見ました。人間だけではありません。犬猫だって人間と同様の姿です。馬が用水桶に顔を突っ込んだまま、息絶えていました。 こんな状態ですから、わが家も形すらありませんでした。水道の蛇口から、水がタラタラ流れ出ていました。バラバラに7軒の家が残っているだけで、近くに燃えるものもありませんでしたから、わが家は残っているに違いないと信じていました。その願いも破れ、下町の焼け跡を見て、帰路を急ぎました。
9日の夜は、B29が同心円の外側から中心へ向かって、低空から焼夷弾で波状攻撃をかけたということです。東京の町を、人を、よくもこんなに跡形もなく、焼き尽くしてくれたものです。ただただ、B29を恨むだけでした。これから先、伯父の家で世話になるとしても、津田沼には鉄道連隊があります。だから爆撃される危険があるので、結局母の実家(千葉県市原郡五井町)に疎開することに決めました。
4月末に家族4人で、大きいものは後で取りに来ることとし、持てるだけ持ち、背負えるだけ背負って五井に向かいました。五井の家は農家ですから、十分とはいえないけれど食糧があります。広い庭の一角にある物置を改造し、床にござを敷いたり、手を加えて住めるようにしてもらいました。
5月になると兄に召集令状が来ました。大分県にある大刀洗飛行隊へ出征して行きました。もう負け戦は明らかで、8月15日に終戦となりました。玉音放送は、なぜか父の実家のある市原郡内田村で聞きました。しかしその時でもB29が、グーン、グーンと山の上を飛んでいました。
10月、兄が突然、軍服姿で帰ってきました。出征してからほとんど便りはありませんでしたが、弾が胸に当たり、病院に入っていたとのことでした。やっと4人全員揃ったものの、生活して行く上で一番困ったのは、衣類のないこと、また収入のないことでした。
戦争に負けたために、どんなに苦労し、どんなに辛い思いをして、どんなに悲しい思いをしている方々がいることでしょう。
もう二度と戦争はごめんです。そのうえ、食糧、着るもの、寝るところもなく、浮浪の旅をしていた人たちもたくさんいたのです。
いまの平和な日本が、いつまでも戦争のない、世界の国々と手を取り合って生きて行きたいと思います。 (未完)<補>筆者は戦後、小学校の代用教員となりました。視察か何かで進駐軍兵士が学校へやってくる日の 朝、子どもたちと一緒に震えていました。戦争中「アメリカ軍兵士は鬼畜生だ」と教育されていたから でした。
投稿ありがとうございます。
T ・ Sさん,貴重なお話ありがとうございました。
T ・ Sさんとその息子さんに感謝して。