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─私の中の信心とは─

◇結論
一人ひとりが、自分の中にある他を思いやる神様の心で、他を思いやることの出来ない自己中心的な心を見つめ直し、素直に反省して改まり新たな生き方に現していく、今を大切にして前向きに生きる力を日々求めていくことです。
◇ありがちで間違いなこと
・家の中で誰かが信心をしていると、家族の者の中には、それで家族全員が助かるように思っている方が多い。
・家の中に難儀な辛い問題事や、病気や怪我が起こった時に、家族の中で信心している者を責めることも多い。
・神様に願うだけで、どんな悩み苦しみも起こってこないように思う人も多い。
・神様に願うだけで、努力もなく運だけで成功したり、助かるように思っている人も多い。
・自分達だけが得をすることを神様に願うだけでおかげになると思っている人も多い。
・教会や信仰するところで、そこで教え導いてくれる人に、自分の願い事を伝えるだけでおかげになると思っている人も多い。
・信心してもどうにもならないと思っている人も多い。
・目にも見えない物に祈ることなどバカらしいと思っている人も多い。
・自分の考えが一番正しいと思っている人も多い。
・悪いことが起きると何でもかんでも先祖や親のめぐり神様の罰と決めつける人も多い。
◇本来の信心の力とは何か
そもそも人間とは個の生き物と言われているように、ともすれば自分中心になるものです。
他を従えて自分が強く偉くなったように思い何でも出来るように錯覚する。
あるいは家族なり団体の集団に甘えることで、少しでも楽をしようと思ったりする。
けれども、よくよく考えてみると人間一人の出来ることなどは無いことに気づくのです。
どんなに偉いと言われている人でも、神様と言われている人でも、その人が死んだからと言って世の中全てが止まることも終わることもなく、世の中は時の流れと共にどこまでも生き続けていく。
世の中は甘く優しいだけの世界ではなく、強引なまでの厳しさや苦しさを味わうこともあるのです。
そう言った善だけでなく悪だけでなく、きれい事だけの世の中はまずありえない。
基本的には、全てを含んだ混沌としたものが世の中であるのです。
人間であっても同じ事、善い心もあれば悪い心もあるのが人間なのです。
その中にあっての信心の求めるところとは、善い心を持つように努力をすることだと思うのです。
その為にはまず自分の無力さを知るところから始めることだと思うのです。
なぜなら無力であるからこそ、生きる上には常に努力も必要であり、願い祈りを持ち続けなければ流されることにもなるのだと思うのです。
その中で様々な自分を取り囲むものに生かされている自分であることを知らなければならないと思うのです。
そして一人ひとりの願い祈りが少ない者同士が寄り集まり、努力をすることで願い祈りは現実のものとなり生きることが出来る。
教会や信仰するところとは、願い祈りを明らかにして、互いの祈りが現実のものになるように努力(修行)をするところなのです。
そのために、本気で信心させて頂いている人は、信心のおかげを受けることが出来ます。ですが信心させて頂いている人の家族であっても教会に参ったことも話を聞いたことも、努力(修行)したことの無い人が信心のおかげを受けることは出来ないのです。
教会に参る参らないは関係なく生かされる中に生きる全ての人は、どう受け取るかは別にしておかげを受けております。
ただ信心のおかげとはまた別物なのです。
家族の者が信心のおかげを受けられないというのは、一人ひとりが信心して、日々努力していないからおかげを受けられないのです。
金光教は話を聞いて助かる道であります。
道と言うことを考えていけば判ると思うのですが、目の前に助かりに向けての道が付いていても、そこを助かるまで一歩一歩、自分から歩いて行かなければ到着することはないのです。
「信心していてもおかげがない」と言う人は、目の前の道が助かりにつながっていることは教えられて知っていても、自分から歩く努力をしていない人であると思うのです。
その事が、体験したり、実感として取り組めている人は、信心のおかげとは何かが判って参ります。
そのためか本当に信心させて頂いていると「無理をしないが諦めない心」が育って参ります。
信心を本気で取り組んでいくと信心させて頂くことや生きることが楽しくなってきます。
信心が難儀の元になっている人は、取り組み方や、心のありようが間違っていることも考えられます。
それと金光教では、願ったりするのは人間の方だけではありません。神様から願われている人間でもあるのです。
助かる助からないは本人の心しだいであります。
人間は誰しも神様の心も持っています。それを生かすも殺すも心しだいなのであります。
他人のことを祈らせて頂く、それと共に自分自身も人であるので大切にしていく。
神様の心を考えていくことが信心の大切なことのように思います。
自分一人ではない「天地の中にある大いなるものの命(神様)」と共にあるというのが実感できることが、信心としての一番の力ではないでしょうか。
一昔前の時代には、ほとんどの人が感じていたことですが、命とふれあうことの少ない現代では実感できる方が少ないのかも知れません。
難儀なことが起きてくると、すぐに何かの因縁ではないか、先祖が悪い神が悪い親が悪いという人が多いものであるが、本当にそう思うのか?悪いのはそう思う自分自身であることがほとんどであります。
自分自身の悪いところを見つめていく稽古が必要である。棚ぼたや一攫千金を狙うような生き方が間違いの元である。
普段の気がつかないところで神様にどれだけのご無礼をしているのか、またおかげを頂いているのか、それにどれだけ御礼を申せているのか考えてみることも必要であります。
人に悪いことをしないのと神にご無礼をするのとは別ものであります。
心して油断のなきように信心の稽古をさせて頂かなければならないと思うのであります。

◇編集長より
まだまだ私の信心は未完成であり現在進行形ですので、ここには今の段階での思いを書いているに過ぎません。
また、これが正しいとも言い切れませんが、今の私はおかげも受けておりますので、突飛に間違っているとも思いませんので、読まれた方で何か思うことがありましたら、神様にお願いさせて頂いた上でおかげを受けて実行に移されて下さい。

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