昭和15年、奈良県五條市で生まれる。地元の小、中学校を卒業後、
プロ野球選手に憧れ、大阪の浪商に進学、野球部に入部する。同期の張本勲氏(元プロ野球選手)らと甲子園を目指す。
しかし、部員の不祥事などで一年間公式試合出場停止となり、夢破れる。
生来の負けず嫌い、一本気な性格から、
ゴンタ(硬派の不良)でも鳴らし、大阪の高校生の間で名前が知れ渡る。
卒業後、故郷で寿司屋と
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寿司屋時代の数少ない1コマ
1964年頃奈良県五條市野原町にて
たった一週間の修行の後、開店。
もっぱら出前に駆り出されたのは
当時の智弁野球部員達であった。
(右端が山本集)
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庭石屋を営みながら、
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寿司屋と同じ時期にやっていた
庭石業 幼なじみや、ご近所の方々と
(手前 右から3人目が山本集)
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庭石業
作業風景
運搬用トラックやクレーン車などもそろえ
川からせっせと吊り上げ、運ぶ。
当時を振り返って山本は言う
『 よう、儲かったで〜 』
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智弁学園(奈良県)の初代野球部監督に就任する。
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智弁学園野球部員と 当時の野球部員の中には
今もアトリエを訪ねて来る者もいる
(手前 左から3人目が山本集)
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浪商仕込みのシゴキで部員を鍛えたが、そのシゴキが問題化し、一年半で監督を退任せざるを得なくなる。
練習の成果もあり、智弁学園は翌年甲子園初出場を果たす。
教え子の晴れ姿を喜びながらも、失意の底にあった山本は店をたたみ、
男になりたいの一心で大阪の諏訪組系淡路会に入る。
男気一本で極道社会で頭角を現し、昭和48年、33歳の若さで諏訪組系山本組を旗揚げする。
大阪では武闘派として恐れられ、約10年の刑務所生活も送る。
浪商の同級生だった谷本勲氏から、いつまでもヤクザであることを諭され、
又、好きだった絵を描くことを勧められ、組事務所で絵を描き始める。
絵を描くうちに、純な子供の頃の思い出が次々に脳裏に浮かび、キャンバスに形となって現れた。
悩んだ末にヤクザをやめ、堅気になることを決意。平成元年、組を解散し正式に堅気となる。
以来、叙情的かつ壮大な画風で全国に多くのファンを持つ。
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| 『 雄 渾
』 500号 縦3600mm 横2700mm 平成六年九月四日関西国際空港
開港記念 寄贈
国際線出国ロビーに乗員乗客の安全を祈るかの様に
滑走路に向け真っ赤な雄姿を横たえる
構想から完成まで実に半年はしごを組んで死ぬ気で描いた
出来上がって困った、大きすぎてアトリエから出せない
運び出す手段を考えていなかった
しかたなく壁板をぶち抜いてやっとの思いで運び出した
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| 『 赤富士
』 200号 縦2150mm 横2800mm 平成十二年九月八日
毎日新聞創刊130年記念
『 富士山再生キャンペーン
』 寄贈
同年八月
東京銀座東急ホテルにて個展を開催した際
毎日新聞担当記者から記念事業の一環として
社会問題にもなりつつある富士山の現状をふまえた
『 富士山再生キャンペーン
』に共感、寄贈の運びとなった
毎日新聞本社地下1階
「毎日ホール」常設展示されている
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『 赤富士
』 100号 縦1320mm 横2150mm
平成十八年二月十六日神戸空港
開港記念 寄贈
入室が制限されるVIPルームでの展示のため
一般の方に観賞していただく機会はほとんどないと伺いました
この場にてお楽しみいただければ幸いです
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などの代表作がある。
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