#7 対戦車中隊/戦車猟兵中隊/戦車駆逐中隊の編成
対戦車大隊の編成
1940年まで
初期の対戦車大隊には、大隊本部(通信小隊を含む)、3個中隊、段列があった。Buchnerが取り上げた1940年の歩兵師団では、各中隊は37ミリ対戦車砲3門と軽機関銃1丁を持つ4個小隊から成っていた。後年のような4門×3個小隊ではない。37ミリ砲チームは各6名、軽機関銃班は3名であった。
対戦車砲用の榴弾は、28ミリ砲口漸減砲についてすら生産されていて、たいていの場合徹甲弾よりも生産数は多い。ただしこれは、おそらく戦車砲(KwK)と略同型の対戦車砲(PAK)を合わせた数字であって、対戦車部隊に榴弾が供給されていたことを必ずしも示さない。Buchnerは、37ミリ砲については榴弾も供給されていたが、75ミリ砲では供給されなくなったと述べている。50ミリ砲については、Fleischerらによれば、榴弾の使用は自衛用に限るとされ、供給は限定されていた。
この他、ほぼ同一の編成の対戦車中隊が各歩兵連隊にあったから、1個師団は都合72門の37ミリ対戦車砲を持っていた。
第1波と呼ばれる、最も早い時機に動員された歩兵師団は、第4中隊として20ミリ対空砲12門を持っていた。対戦車大隊に対空砲中隊を置くという発想は、対空戦闘が重要さを増した大戦中期以降に復活することになる。
Fleischerらは開戦当初の装甲師団は48門の対戦車砲を持っていたと書いている。対戦車連隊には36門の対戦車砲があったはずだから、自動車化歩兵連隊には6門ずつしかなかったことになる。各大隊の重装備(機関銃)中隊に3門ずつの対戦車砲班を置くのが原則ではなかったかと思う。
自動車化歩兵連隊/装甲擲弾兵連隊は、対戦車中隊を(ある時期には)持っていた連隊もあるが、しばしば実際には配備されていない。再建などの際に後回しにされるのであろうか。後に、37ミリ砲を持つSd.Kfz.251/10が小隊長用車両として(つまり大隊に3両)配置されたことが想起される。
この他フランス戦においては、14個の軍直轄対戦車大隊が戦列にあった。7個大隊は37ミリ砲36門を備え、第521、616、643、670対戦車大隊はチェコ製47ミリ対戦車砲のI号自走砲18両を装備し、残りの第525、560、605対戦車大隊は12門の88ミリFLAK18、6門の自走型FLAK18を持っていた。(Fleischerら、p28およびp45)この自走型というのは12トンハーフトラックにFLAK18を載せたもので、大日本絵画の「ジャーマン・タンクス」などで模型ファンにはおなじみである。なお牽引式の
中隊では、牽引車として12トンハーフトラックが使われた。
Hahnによれば、開戦時にドイツ空軍は2459門の88ミリ対空砲を持っていた。しかしこれら重対空砲のほとんどは都市や軍事施設の防御用に固定されていて、ケッセルリンクの回想録によると、大戦初期には陸軍部隊を直接援護する野戦対空部隊はほとんど用意されていなかった。このため陸軍も対空砲の供給を受けるようになったが、Hahnによれば陸軍に88ミリ対空砲が空軍から最初に割愛されたのは1941年5月である。では上記の88ミリ砲は何であったのか? Fleischerらは終始上記の砲を88ミリ対戦車砲と表記しているから、どうも書類上は「これは対空砲に見えるが対戦車砲である」ということにしてしまったらしい。Fleischerらによると、陸軍への重対空砲配備に先立って、射撃データを得るために数十門の88ミリ対空砲が陸軍に割愛されていて、これが上記の88ミリ砲のようである。ともあれフランス戦には、空軍所属の88ミリ対空砲と、陸軍所属の88ミリ対戦車砲が参加した。
1941年〜1942年
Fleischerらによると、1940年7月1日現在、50ミリ対戦車砲PAK38の先行生産型(Oシリーズ)が配備可能で、Hahnによればこの月に17門が初めて配備された。50ミリ砲は高価な砲であった。60口径の細長い一体成型の砲身が生産性の障害だったのではないかと筆者は推測している。ともあれ、1941年6月1日現在で陸軍は14459門の37ミリPAK35/36を持っていたのに対し、50ミリPAK38は1047門しかなかった。
高橋慶史先生のご教示によれば、対戦車中隊の編制定数表では、50ミリ対戦車砲の小隊あたり定数は少なくとも3門であった。しかしFleischerらによれば、上記のような状況では、50ミリ砲は中隊中の1個小隊にだけ、それも2門だけ配備された。 37ミリ対戦車砲のための有名な前装式の巨大な成型炸薬弾は、Hahnによれば1942年2月に配備が始まり、1943年で生産は終了している。もっともFleischerらが紹介している第1歩兵師団からの使用報告によると、「この弾薬の射撃には対戦車近接戦闘よりも神経を必要とする」とある。
1942年夏から、フランス製の旧式75ミリ野砲をPAK38の砲架に載せたPAK97/38が配備されるようになった。この兵器についてはディテールアップIFで詳しく取り上げたので、兵器自体の解説は省く。この砲も上記の50ミリ対戦車砲と同様に、当初は対戦車大隊の1個中隊にだけ、それも2門だけ配備された。ちなみに、75ミリ成型炸薬弾が用意されるまでは、フランス軍の榴弾や、この砲をやはり採用していたポーランド軍の徹甲弾が使われた。
有名なソビエトの76.2ミリ野砲は、ドイツの75ミリ砲弾が撃てるように改修されたとよく書かれているが、実は砲弾のほうも専用のものを作らなければいけなかった。Fleischerらによると、薬莢の大きさを変える必要があったらしい。この専用砲弾は1942年2月に登場した。
75ミリPAK40の供給は1942年夏から本格化したが、弾薬の不足が年内いっぱい続いた。また、この重い砲を牽引できる3トン・ハーフトラックの生産も追いつかなかったから、フランスの捕獲車両はもとより、オペル・ブリッツトラック、果てはクルップ・ボクサー(大戦初期に37ミリ対戦車砲の牽引によく使われた小型トラック)までもが無理をして使われた。
Fleischerら(p.93)によると、1942年の歩兵師団の対戦車中隊は、次のような構成になっていたという。
歩兵連隊の対戦車中隊は、50ミリ対戦車砲2門の2個小隊と、37ミリ対戦車砲3門の2個小隊。
対戦車大隊の対戦車中隊は、76.2ミリ対戦車砲2門の2個小隊と、37ミリ対戦車砲4門の2個小隊。
すでにマルダー系列の76.2ミリ対戦車自走砲は登場していたが、戦車師団の対戦車大隊に1個中隊(6両とあるから、2両×3個小隊であろうか)が制式化されているに過ぎなかった。
もっとも一般に、ドイツのこうした編制定数表は何種類も用意されていて、定数レベルでも何種類もあると思われる。同じ本の別のページ(p94)には、旧来通りの37ミリ対戦車砲12門の中隊編制の他、第4小隊を20ミリ対空砲4門に置き換えた1942年12月の編制も示されている。
1943年
1943年には75ミリ対戦車砲の供給は増加してきたが、まだ対戦車大隊に36門を揃えるには至らなかった。Fleischerらによると、1943年4月に出された指針では、対戦車大隊の各中隊に重対戦車砲6門と軽対戦車砲4門を配備することとなっている。この時点で対戦車中隊は3個小隊編成となった。歩兵連隊の対戦車中隊については、次のような構成を1943年4月に第2戦車軍司令部が推奨した記録がある。PAK40または97/38を2門、PAK38またはソビエトから捕獲した45ミリ対戦車砲を2ないし4門、37ミリPAK35/36を6門。
1943年になると、この他にふたつの事情の変化が生じていた。まず、月間100両の突撃砲が機甲兵総監に配分され、戦車連隊の再建のほか、対戦車戦闘を司る戦車猟兵のためにも使えるようになった。また、ドイツの制空権が東部戦線でもいよいよ怪しくなってきて、歩兵師団にもまとまった対空兵器を配分する必要が生じてきた。1943年に国防軍の装甲師団は相次いで固有の(空軍所属でも軍直轄でもない)対空大隊を持つようになったが、歩兵師団や山岳師団は2つほどの例外を除いて、対空大隊を持っていなかった。なお1943年までの過渡期に、いくつかの装甲師団の対戦車大隊は、第4中隊として対空砲中隊を持っていた。
東部戦線に展開する装甲師団の多くには、クルスク戦に先立ってマルダー系列の車両がかなり配分されていた。それをにらんで、1943年11月の編制定数表では、戦車師団の戦車猟兵大隊はマルダー系列の自走75/76.2ミリ対戦車砲45両を持つことになった。この車両は後に可能な限り4号駆逐戦車や突撃砲で置き換えられることになるが、この点については大日本絵画から次々に翻訳されているシュピールベルガーの著作に詳しい。
さて、東部戦線に展開する歩兵師団の戦車猟兵大隊については、1943年7月15日付のOKH指令で、次のような構成を取ることになった。
本部、通信小隊
第1中隊 牽引式対戦車砲12門
第2中隊 対戦車自走砲、または突撃砲14両
第3中隊 牽引式20ミリまたは37ミリ対空砲12門
第2中隊は同年10月以降、指揮の柔軟性を保つために突撃砲大隊として独立した例も多い。この点について、有名な戦車兵科と砲兵科の突撃砲の奪い合いが影響したのかどうか、Fleischerらは明確に述べていない。
1944年以降、突撃砲がヘッツァーに置き換えられることが多くなった。第1中隊と第2中隊の両方に自走砲があてがわれる例も(編成表には)あった。突撃砲やヘッツァー14両の割り当てが後に10両に減らされたことはシュピールベルガーの著作に詳しく書かれている。
37ミリ対空砲が配備される場合、中隊の定数は9門とされた。
1944年以降
1944年になると、歩兵連隊の対戦車中隊は、次のような4個小隊構成となった。
パンツァーシュレック各18基を持つ2個小隊
3門のPAK97/38を持つ1個小隊
6門のPAK38(のち3門のPAK40)を持つ1個小隊
パンツァーシュレックを持つ部隊は、Panzerzerstoerer(戦車駆逐)部隊と呼ばれた。1個分隊には6基のパンツァーシュレックがあり、半個分隊(3基6名)が最小の戦術単位とされた。1945年に入ると、合計54基のパンツァーシュレックを持つ3個戦車駆逐小隊がこうした歩兵連隊の対戦車中隊を構成するようになる。U.S.War Dept.によると、国民擲弾兵連隊の場合、1944年からこうした構成が取られていた。
同様の構成の独立戦車駆逐中隊や、3個戦車駆逐中隊を持つ戦車駆逐大隊が、軍直轄部隊としていくつか存在した。
Gajkowskiによると、1944年11月には、装甲擲弾兵中隊本部にパンツァーシュレック3門を持つ対戦車班が置かれている。ある意味で、戦車に随伴することを任務とする装甲擲弾兵が対戦車兵器で自衛することは、もはや戦車の支援を当てに出来なくなったことを象徴している。
いろいろな写真集によく収められている、第3装甲擲弾兵師団のパンツァーシュレック搭載ブレンガンキャリアーは、同師団の戦車猟兵大隊のものと思われる。第3自動車化歩兵師団はスターリングラードで包囲され全滅したが、フランスで再建された第3装甲擲弾兵師団は、最初のうち戦車猟兵大隊をまったく欠いていた。ようやく1944年6月になって新しく編成された戦車猟兵大隊は、異例の第4中隊として戦車駆逐中隊を持っていた。
ディオラマビルダーのために付け加えておくと、本国で第3戦車猟兵大隊が編成されたころ、師団はイタリアでローマからヴェローナにかけて退却していた。8月にはフランスのナンシーに移動し、G軍集団・第47装甲軍団の指揮下に属している。10月にはアーヘン周辺まで後退し、アルデンヌ攻勢ではクリンケルト・エルゼンボーン方面で第2SS戦車軍団と共に戦い、1945年3月にはレマゲン鉄橋を渡ってきたアメリカ軍への反撃に参加した。終始西部戦線で戦い、4月にアメリカ軍に降伏している。
原則として対戦車砲兵は砲兵ではなく戦車兵の一部ということになっていた。ただ長砲身88ミリ対戦車砲PAK43だけは、一部が砲兵所管になったのではないか、と思われる。Zitteringによると、ノルマンディーにはいくつかArtillerie-PAK Abteilung (bodenstaendig)というタイプの部隊がいて、装備は例外なくPAK43であった。bodenstaendigというのは機動性が限られているという意味で、27門のPAK43に対し、牽引車は14両しかなかった。PAK43を装備する戦車猟兵大隊もあった。
参考文献
Die Deutsche Panzerjaegertruppe 1935-1945
Wolfgang Fleischer & Richard Eiermann
Podzun-Pallas
ISBN 3-7909-0613-1
薄い本ゆえ限界はあるが、編成表を多く含んでいてハードデータが多い。
Niklas Zittering
'Normandy 1944'
J.J.Fedorowicz Pub.
ISBN 0-921991-56-8
ノルマンディーのドイツ軍部隊それぞれについて編成定数と現況を述べ、戦力評価を行った本。軍直轄部隊についての記述が多いのは出色。