#8 工兵大隊・架橋段列の編成と火炎放射器の運用
Buchnerによると、1940年当時の歩兵師団工兵大隊では、工兵分隊は分隊長を含めて15名であった。これはやや多い数字である。もともと第4中隊か各中隊の第4小隊が存在したものを改編し、分隊の定数を増やしたためかもしれないし、兵科の特質上大人数が必要なのかもしれない。
工兵中隊には歩兵中隊と同様に、中隊本部班と各種の段列があった。このレベルで歩兵部隊と違っているのは、中型トラック3台から成る弾薬・器材隊を持っていることである。これらのトラックはエアー・コンプレッサーを運ぶトレーラーを牽引していた。
各中隊には軽機関銃9丁、対戦車銃3丁、火炎放射器3基が宛がわれていたとBuchnerは記している。歩兵分隊と同様に、工兵分隊にも1丁ずつ軽機関銃があったことになり、歩兵と同様に攻撃の先頭に立つことが期待されていたことが良く分かる。
工兵大隊には、歩兵大隊が持っている各種の段列に代えて、軽工兵段列が置かれていた。軽工兵段列は各中隊に対応して3個小隊に分かれている。トラックと馬車が混在しているため「歩兵部隊の段列より輸送のキャパシティが大きい」と言えるかどうかは即断できない。歩兵大隊の段列と同様に、武器などを修理するスタッフもここに属していた。
このほか工兵大隊には、通信小隊があった。歩兵大隊の通信隊が下士官に率いられているのに対し、工兵大隊の通信小隊は士官に率いられ、規模もわずかながら大きかった。
工兵大隊には28名という大規模な大隊音楽隊があり、連隊音楽隊と同様に、戦時には負傷者の世話を手伝った。
Buchnerが取り上げたような歩兵師団では工兵大隊は半機械化部隊で、第3中隊と架橋段列は自動車化されて馬車がいなかったが、第1中隊と第2中隊は荷物のほとんどを馬車に運ばせていた。
架橋段列B
歩兵師団の工兵大隊には、架橋段列Bがひとつ含まれていた。架橋段列には架けられる橋の長さや最大重量などでいくつかの種類があり、Bというのはその種別を表わすものである。戦車師団には架橋段列Kがひとつ属しているのが普通であった。各軍団は直轄の架橋段列をふたつ程度持っているのが普通だったようである。
架橋段列Bが架ける橋は、船を並べてその上に架台(橋板)を渡した舟橋と呼ばれるものである。この橋自体も英語ではポンツーンと言うが、橋を作るための舟もポンツーンと呼ばれる。ここではポンツーンと言う言葉を後者の意味で使うことにする。
ポンツーンは半分の長さの舟(ハーフ・ポンツーン)の形で運搬し、現地で継ぎ合わせる方法を取る。
架橋段列Bは士官2名、下士官13名、兵87名から成り、ハーフ・ポンツーン16隻、架台8枚、モーターボート2隻、突撃艇6隻、小型ゴムボート48、大型ゴムボート24を主要装備とする。Buchnerではモーターボートは1隻となっており、ゴムボートの数もそれぞれもっと少ない。どうやらここに挙げたBeiersdorfの数字は、大戦中期以降の数字であるらしい。
突撃艇は小型のエンジンを持っていて、時速30キロで2名の乗員の他に6名の乗客を載せることが出来た。ハーフ・ポンツーンにもスクリューはあったようだが、ポンツーンをくみ上げてしまうとそれは使えないので、突撃艇とモーターボートで押すか、でなければ牽引する必要があった。もっともオールでポンツーンを漕ぎ進めている写真もある。突撃艇のエンジン出力は不明だが、モーターボートのほうは100馬力である。
4隻のハーフ・ポンツーンからポンツーンを2隻組み立て、架台を載せたものを連ねて橋を作っていくのが基本である。
上の説明では省略しているが、橋の基部を構成するための板や小舟も2組、器材に含まれる。
進撃時で橋を組み上げる間も惜しい場合や、ポンツーンが川幅に足りない場合、上記のパーツをそのまま艀として使うこともできた。ハーフ・ポンツーン2隻に架台を載せる場合や、橋を組むためのレールを使って架台を2組つなぐ場合など、いろいろな最大荷重のいろいろな艀が使われた。
最大荷重16トン(のち20トンに変更されたが、そのさい改良が加えられたという記述は見当たらず、書類上の仕様変更と思われる)の最もしっかりした橋の架けかたをした場合、架橋段列Bひとつで54メートルの橋を架けることが出来た。同じタイプの架橋段列が複数協力すれば、長い橋を架けることが出来る。Buchner(p.181)は1941年にドニエプル川を渡る際、ドイツの3つの工兵大隊とルーマニア軍1個工兵中隊が協力して、43の架台を連ね、約500メートルの橋を架けた例を紹介している。
ところで、ゴムボートの上に細い板をかけ渡せば、歩兵が渡れる程度の橋が出来る。突撃艇やゴムボートで対岸に橋頭堡を確保した後、とりあえず歩兵を増援するために、このような橋が架けられることがあった。
装甲工兵大隊用の架橋器材Kは、架台が薄い箱のように組み上げられていて、いちいち架橋器材Bのようにレールで補強する必要がなかった。川岸の地形が凸凹していても、その上に橋を乗せるように設置でき、戦車部隊を迅速に向こう岸に渡すのに適していた。特に、橋が破壊されて基部だけが残っている場合に、その両岸の基部を活用して橋を架けることが出来た。もっとも最大荷重は架橋器材Bと同じ16/20トンである。ポンツーンを使わずに架橋する場合は、必要に応じ、支柱などで中央部を支える。なおこの架橋器材のパーツは、2号架橋戦車や4号架橋戦車と構造が似ているが、支柱のデザインなどが明らかに異なっている。
ドイツ軍での火炎放射器の使用は、ある工兵士官の実験に始まる。従って、第1次大戦時の火炎放射器の製造は、すべて軍が直接行っていた。第2次大戦でも決定的なデザインの変更はなかったので、軍の試験・開発スタッフは基本的な生産技術を熟知していて、必要に応じてそれを生産企業に教えたものと思われる。
先に述べたように、各工兵中隊は3基、つまり大隊で9基の火炎放射器を持っていた。Kochには「工兵大隊の第4中隊には第4大隊として火炎放射器小隊があって、9基の火炎放射器を持っていた」(p.26)という不思議な記述がある。第2次大戦のドイツ軍に関する筆者の持っている本には、工兵大隊に第4中隊などはないし、どの中隊にも第4小隊はない。これは想像になるが、ドイツ国防軍は初期にはKochのいうような編成を取っていて、大戦勃発前に工兵大隊を改編し、各中隊に3基ずつ火炎放射器を分けたのかもしれない。Buchnerも、火炎放射器は必ず複数で投入され、相互に支援し合ったと書いているから、全小隊に均等に1基ずつ配分されたのではないと思われる。
その後、火炎放射器の配備は増やされたようである。U.S.War Dept.によれば、1943年以降のほとんどの師団に所属する工兵大隊は、それぞれの工兵中隊に6基ずつ、そして工兵大隊本部にさらに2基の火炎放射器を備えるようになっている。これなら各小隊が2基ずつでチームを組める。
見落としそうなところでは、装甲偵察大隊の重火器中隊に工兵小隊があって、これが6基の火炎放射器を持っている。
自動車化歩兵連隊や装甲擲弾兵連隊には、工兵中隊が付属していた。おそらく自動車化部隊は道路や橋の補修の必要が頻繁に生じることが第一の理由だと思われるが、もともとこの部隊には火炎放射器は配備されていなかったようである。ところが1943年型装甲師団から、これらの工兵中隊と連隊本部中隊にそれぞれ6両のSd.Kfz.251/16を配置することになった。Kochによると、当初これらは2基の火炎放射器の操作員と指揮官でもあるドライバーの3人で運用されていたが、無線通信と操縦を分担する要員がいないと連携に齟齬が出ることが分かり、4、5名の乗員で運用するようになった。6両で1個小隊として扱われているのは、当初1台あたりの人数が少なかったことによるものであろう。
参考文献
'Flamethrowers of the German army 1914-1945'
by Fred Koch
from Shiffer
ISBN 0-7643-0264-7
'Bridgebuilding equipment of the wehrmacht 1939-1945'
by Horst Beiersdorf
from Shiffer
ISBN 0-7643-0571-9
いずれも対象を絞り込んだ薄い本である。こんな本まで買ってしまう自分自身
に苦笑しながら買い込んだ覚えがある。