ドイツ軍の野戦陣地の構造

 この小文では、ドイツ軍の陣地構築について概観する。
 まず、歩兵用の塹壕について取り上げる。
 歩兵用の独立したいわゆる「たこつぼ」は、たいてい中の深さが2段になっていた。教則では深いところは1.8ないし2メートル、浅いところは1.4メートルであった。浅いところで射撃し、深いところで身を隠したり、戦車をやり過ごしたりする。Gajkowskiが1940年から42年にかけてのドイツ国防軍のマニュアル類をもとに記述するところでは、戦車は対戦車砲や対戦車ライフルに任せて、その後に続く歩兵を(奇襲して)攻撃することを第一義とするよう指示が出ていた。
 ハート型ないしL字型で、両端に浅い射撃位置が来るたこつぼも標準的なものである。私はてっきりこれを2人用だと思っていたが、Folksteadによるとそうとも限らず、時間があるときはたこつぼはL字型に掘るものであったらしい。ソビエト戦車がドイツ兵の壕を見つけた場合、キャタピラで壕ごと踏みにじり、生き埋めにすることが多かった。L字型の壕は一度に全体を踏み潰すことができないので、這い出て逃げるチャンスがわずかながらあるのである。
 機関銃用の壕は逆で、中央に浅い部分が続き、2脚架の動く範囲は20センチだけ半円形に掘り下げてある。Fleischerは右半分や左半分が浅いパターンも示している。
 これを狭く深い連絡壕でつないだものが典型的な塹壕である。連絡壕は深さ2メートル、幅は一番下でわずか40センチ、上でも60〜80センチと狭いので、スコップを振るうときすら注意が必要である。Fleischerに載っている実物の写真では、細い丸太を塹壕の側面に縦に並べて、崩れにくくしてある。
 この連絡壕は10〜15メートルおきにジグザグに曲げてある。敵に飛び込まれたとき、短機関銃などで一気に制圧されないための用心であると、30年ほど前のタミヤミニニュースで読んだ記憶がある。
 それぞれの直線部分の中央に浅い射撃位置が作られている。曲がり角からはさらに連絡壕が延びていて、その先には個人用たこつぼがある。つまり主抵抗線である連絡壕の手前に、複数方向から死角のない弾幕を張れるようになっている。側面からの射撃を広い範囲に加えるために、塹壕の端には機関銃が置かれている。Gajkowskiによれば、後方の広い範囲をカバーできる位置に重機関銃を置いて、弾幕に切れ目の出来た部分を支援させるのが望ましいとされていた。
 連絡壕の所々には、丸太などで天井を補強した待避壕が掘られていて、それぞれひとり程度が飛び込むことが出来る。手榴弾などへの用心であろうか。
 後方へ延びる連絡壕や、階段や梯子のある昇降場所もFleischerに図示されている。

 このように死角を作らないことは陣地構築の基本であった。言い換えれば、火力で敵を退けることが防御の基本的前提であった。鉄条網や地雷は、それで敵を食い止めるというよりも、敵の移動を制約して火力を活かすことを重視して配置されたようである。従って鉄条網は、機関銃の射程内ではあっても、機関銃の位置からかなり離れていることもあった。Buchner(ドイツ軍の小編成#1参照)によると、工兵隊はストレート鉄線と有刺鉄線の両方を標準装備として持っている。

 U.S.War Dept.には陣地の構築例が多く載っている。中隊あるいは小隊が一定の範囲に展開すると、それを囲むように鉄条網や地雷の帯が作られ、側面からの奇襲や、強引な正面突破を掣肘した。
 農場の柵のように3〜4メートル間隔の支柱で支えられた鉄条網は、最も単純なタイプである。おそらく敵の工兵が鉄条網を切り開くのを遅らせるためであろうが、支柱を十字に組み合わせて針金の直方体を作ったり、正三角錐に組んだ支柱を結んで針金の三角柱を作ったりして、さらにそれに有刺鉄線を巻き付け、何本も針金を切らないと突破できないようにしたタイプも、Fleischerに図示されている。
 地面を覆うようにストレートの針金が網のように敷かれ、それに有刺鉄線が巻き菱のように不規則に絡み付いたタイプのものもあった。


 U.S.War Dept.は、'Tobruk'とドイツ兵たちが呼んでいる地下陣地にかなりの行数を割いている。様々なタイプの'Tobruk'に共通している点は、ひとつの開口部を残して戦闘室は完全に地中にあることと、開口部が円形であり、しばしば鉄のリングがはまっていることである。
 Fleischerの復刻した冊子は野戦築城マニュアルであり、コンクリート製の構築物は取り上げられていない(代わりに前哨地点に置くイグルーの組み立て方は載っている)が、同じ基本構造を持った野戦陣地は掲載されている。コンクリートで地下の壁面や天井を固めたTobruk陣地には形式番号らしきものが打たれている。固定陣地についてはRegelbauと呼ばれる標準設計図が多数存在したが、それらのすべてを網羅的に示した本にはまだお目にかかれず、いくつかの本で断片的に平面図を見ることができるだけである。ただFleischerには'Tobruk'という表現は登場しないので、これは公式書類には書けない俗称、または一部の部隊によるローカルな呼称なのであろう。U.S.War Dept.はアフリカ戦線の戦訓からこのような陣地が編み出されたと書いているが、トブルク攻防戦でドイツ軍が手痛い経験をしたかどうかは不明である。リングシュタンドとはU.S.War Dept.にも記載があるように、リングを設置した場所というような意味である。
 Fleischerの図には開口部のリングに形式番号のついているものがあり、このリングにも規格があったと思われる。代表的なリングは、機関銃の固定部をレールに沿って360度回転させられるようになっている。ただ必ずしも機関銃座として用いられたわけではなく、指揮所や前哨地点もこの形式を取ることがあった。なお代表的なリングの開口部直径は80センチである。
 U.S.War Dept.によると、ドイツ軍のマニュアルは「Tobruk陣地の天井をコンクリートで作るのは発見されやすくなるので避けるべきである」と指示していた。ただ海岸砲台に隣接するTobruk陣地には、コンクリート製の天井にさらに土をかぶせたものもあったようである。
 野戦陣地ではいかだのように木を組んで天井を作ったが、急ぐときには側板のついたそりのようなものを作って塹壕部分に差し渡し、その中央にリングを据え付けた。
 こうした構造の陣地に戦車の砲塔が据えられることもあった。Fleischerにもその種の陣地の絵図面が載っているが、開口部の内径は据え付けられる砲塔に合わせること、と注釈がついている。U.S.War Dept.にはルノー軽戦車の砲塔がよく使われると書いてあるが、実際には1944年2月時点の大西洋防壁に限って言えばII号戦車の砲塔が最も多く、38(t)、次いでI号戦車の順であった。パンテル戦車の砲塔も1944年以降まずイタリア戦線で、次いで西部戦線で陣地用に使われた。いわゆるパンテルカノン(70口径75ミリ戦車砲)を搭載したコンクリート製砲塔も使われた。
 もっとも、現存するこの種の陣地の写真には確かにルノーの砲塔が多いので、間際になって多数の陣地が構築された可能性はある。フランス軍自身、ルノー軽戦車の砲塔や車体を多数、国境要塞に配していた。マジノ線の最も防御の硬い部分でも、大掛かりな要塞の隙間を埋めるように大小の陣地が構築されており、そうした陣地では装甲があってないような軽戦車の砲塔でも、貴重な戦力だったのである。
 基部と砲塔がセットになった、いわばプレハブ(最大装甲厚44センチの鋼鉄製砲塔をそう呼ぶことがふさわしいかどうかは分からないが)の機関銃砲塔も作られていたが、Hahn(「欧州戦記資料」レビュー#1参照)によると総生産数は各種合わせて数千で、戦線のどこでもお目にかかれるものではなかったと思われる。
 このほかの典型的な機関銃陣地としては'Schartenstand'があった。これは重機関銃の射線に合わせて末広がりの銃眼を作り、敵歩兵の近接を防ぎながら、広い範囲に弾幕を張ろうというものである。


 81ミリ迫撃砲陣地を上から見ると、ポケモンのイシツブテによく似ている。茶筒のように掘り下げた円形の壕(深さ1.6メートル、底の直径1.8メートル)に迫撃砲を収め、両翼にかもめの羽のように折れ曲がった塹壕(両端が深さ2メートル、付け根の深さは1.4メートル)をつけている。後方に前方後円墳のように浅い切り欠きを作っているのは入り口の階段のつもりであろうか。
 両翼の塹壕には'Panzerdeckungsloch'という注釈がついており、ここで戦闘をする壕というより、戦車をやり過ごす避難壕らしい。
 120ミリ迫撃砲の場合、円形壕の直径が大きく深く(直径3.55メートル、深さ2メートル)なるだけで、基本的な形は変わらない。切り欠きの代わりに、内部に台のような高いところが後部に作ってある。
 歩兵砲や対戦車砲の場合、円形壕の後ろが地表からなだらかな坂になり、迫撃砲の場合よりも壕全体が浅くなる(対戦車壕の部分は変わらない)。予備弾薬を置くために、左右斜め後方10メートルほどのところに浅い壕が掘られる。歩兵砲の場合、砲の真後ろに20センチほど盛り上げた部分を作る。多分砲が反動で後退するのをここで止めようというのであろう。
 榴弾砲になると、砲座自体がかなり大きな物になる。掘り下げた壕の敵側の縁は敵弾からの死角になるので、砲前方の左右に壕を切り欠いた部分を作り、ここに予備弾薬を置く。壕全体は円形というより、台形に近いものになる。この場合もやはり対戦車壕は必要になるが、砲自体の壕とは別に後方に小さな壕を並べる場合もある。


 陣地の様子を秘匿することは重視された。このため防衛線では、主防衛線より前に前哨地点(Vorposten)が設けられ、防衛線の戦力の規模に応じて、中隊、小隊あるいは分隊がそこに詰めた。前哨地点は歩兵砲や迫撃砲の支援を受けられる程度の距離にあったが、敵との距離が大きい場合には、さらに一部が(師団砲兵の射程内で)前進した。
 前哨地点の部隊は、それ自体が観測班として敵の情報を得ると同時に、敵の偵察隊を退けて主防衛線の秘密を守り、ダミーの塹壕などを用意して敵に誤った情報を与えることが任務であった。(Gajkowski)有力な敵に攻撃されれば退却しなければならないが、その際も主防衛線の前方に留まって任を果たすよう、予め退却路と次の前哨地点を用意しておくのが良いとされていた。主防衛線からの火線を遮らないよう、退却路は慎重に選んでおく必要があった。
 例えば村を防衛する場合、主防衛線はわざと村の内側に敷いて位置を隠し、村はずれの民家には前哨部隊を配置するのが良いとされた。

参考文献

'Feldbefestigungen des deutschen Heeres 1939-1945:Ein Typenkatalog'
Wolfgang Fleischer
Podzun-Pallas

ISBN 3-7909-0653-0

 この本のほとんどは、1944年6月1日から国防軍工兵・要塞総監の責任で交付された「新訂陣地構築図面集」の復刻図面で占められている。説明も当時のものなので一部筆記体でまったく読めない。伝え聞くところでは著者は当時の戦場へ行って陣地跡を掘り起こし、塹壕の各部分の長さを実測したりするそうで、その知識の広さと深さには舌を巻く。

 このほか、GajkowskiやU.S.War Dept.も適宜参照する。それらの書誌情報については「ドイツ軍の小編成」#1に示した通りである。
 Folkstead William B. [2000],'Panzerjager: Tank Hunter',White Mane Pub.Co.
ISBN 1572491825

Back