考証的に正しい航空戦闘
この読み物では、第2次大戦ヨーロッパにおける航空戦闘とその指揮組織につい
て、ドイツ空軍を中心に解説していく予定は未定(C)岩男潤子である。
この文章の記述の多くは、Garlandら[1998]をもとにしている。
総説
ドイツは日本軍で言う空地分離を早くから実行しており、基地管理と補給はそ
の地域の航空管区(Luftgau)司令部の担当であった。
ドイツは戦闘機と爆撃機の属する航空団を分けており、たいていは航空団の下
の飛行隊レベルで作戦を行った。戦闘機と爆撃機を指揮下に置く最小の単位は、
航空師団か航空軍団ということになる。陸軍と違って、師団や軍団は大雑把に司
令部の規模を示すに過ぎず、航空軍団に飛行隊が直属することはよくあった。
バトル・オブ・ブリテン当時の1940年8月以降、第2(航空艦隊)戦闘機指揮官
(Jagdfliegerfuehrer 2、略称JaFue)が第II航空軍団に、第3(航空艦隊)戦闘機指揮
官が第VIII航空軍団に置かれ、出動が決まった爆撃隊に護衛戦闘機を割り当てる
のはもっぱらこれらの指揮官(いくらかのスタッフを持っている)の任務であっ
た。第3航空艦隊にはこの他に第IX航空軍団がいたが、もっぱら夜間爆撃に従事し
ていて戦闘機部隊がほとんどいなかったので、戦闘機指揮官は置かれなかった。
ただし、コールドウェルによると、1940年5月以降JaFue2と3には指揮官が任じ
られており、組織の実態はちゃんとあったようである。ガーランドらは、航空団
の頭越しに護衛部隊を割り当てるほどの権限を発揮することが8月以降にのみ見ら
れた、と言いたかったのであろう。実際コールドウェル(56頁)によると、この時
期の爆撃機護衛はもっぱら双発戦闘機によって行われており、単発戦闘機はフライ
ヤクトかヤクトシュッツ(後述)に当てられていた。
第2航空艦隊が地中海方面に転出し、ほとんどの戦闘機部隊が東部戦線に転出し
た後も、これらの組織とそれらが管理する通信網は残り、第2戦闘機指揮官は第26
戦闘航空団、第3戦闘機指揮官は第2戦闘航空団をそれぞれ指揮した。1941年以降
レーダーが発達してくると、次第に戦闘航空団の司令部は個々の戦闘を指揮しな
くなり、戦闘機指揮官がレーダーで状況を把握しつつ戦闘を指揮するようになっ
た。ただし、コールドウェルによると早くも1942年夏には、航空団司令部の通信
機能の充実によって、指揮が再び航空団司令部に委ねられることが多くなってい
た。(231〜232頁)
やがて東部戦線を除く他の戦線にもJaFueが置かれるようになった。ノルウェー
では、JaFueの下にトロンヘイムなどにAbschnittsfuhrerが置かれ、当地の戦闘機
を指揮した。
これらのシステムが発展して、1943年には西部戦線およびドイツ・オーストリア
に7つの戦闘機師団(Jagddivision)が編成された。これらの戦闘機師団を統括し調
整する司令部として、ふたつの戦闘機軍団(Jagdkorps)が創設された。戦闘機師団
は原則として基地管理には関与しなかったが、膨大な通信部隊(少なくとも1個空軍
通信連隊)を抱えており、ひとつの戦闘機師団の要員は6000名から7000名に及んだ。
東部戦線では各戦闘機部隊が個々に作戦しており、それをコーディネートする
JaFueは長らく置かれなかった。アメリカ空軍のプロエステ油田爆撃とソビエト空
軍の夜間爆撃激化に対応して、1944年以降、第VI航空軍団にJaFue 6が置かれたが、
JaFueの指揮権は爆撃機の迎撃任務のときに限られた。東欧やバルカン半島にも
1943年以降JaFueが置かれた。
1945年になると、戦闘機師団のコントロール能力が低下した反面、本土の各航空
団の通信能力は向上してきたので、再び航空団や飛行隊に大きな裁量権が与えら
れる例が増加した。
ロッテ、ケッテ、シュヴァルムといったドイツ空軍の小編隊戦術については語り
尽くされた感があるが、少々補足的に記しておこう。
ドイツ空軍の最小の戦術単位はもともと3機編隊(ケッテ)であって、これが密集
して飛ぶのがよいとされていた。しかし1936年のスペイン内乱の戦訓によって、1機
の後方を(技量や経験でやや劣った)もう1機(列機)がカバーするのを基本とする
のが良く、2機編隊(ロッテ)を2つ組み合わせたシュヴァルムが連絡を取り合って
死角を消すことが有効である、というメルダース(後のエースで戦闘機総監)の報
告書が1938年から1939年にかけて提出され、飛行中隊(12機)の編成がケッテ4組か
らシュヴァルム3組に変更された。シュヴァルムは人間の手の指に似た並び方をする
ためフィンガー・フォーとも呼ばれている。(コールドウェル[1996]、28〜30頁)
初期には、個々の戦闘機の性能と技量がまさる敵と戦う西部戦線に、Fw190が優先
的に配備されたとよく言われるが、Price[1997]のデータもこれを裏付ける。1942年
7月27日現在、西部戦線(第3航空艦隊)のJG2、JG26と本国(中部航空指揮官)のJG1
のみがほぼすべての機材をFw190に転換しており、ノルウェー(第5航空艦隊)のJG5
はI/JG5とIV/JG5のみがFw190であった。JG5にはMe110を装備する第13飛行中隊が特
につけられているが、これはおそらくナルヴィク船団の護衛部隊であろう。
1943年になると、東部戦線のJG11、JG51、JG54もJG5と同様にFw190とMe109が混在
した部隊となる。別項で取り上げるように、この間Ju87部隊のFw190F/Gへの転換も
進んでいる。
1944年になると、このうちJG5とJG51はほとんどのFw190を手放してしまう。そし
てJG11(とIII/JG54)は本土防衛航空軍に転属になり、東部戦線のFw190はJG51の
員数外の16機とJG54の2個飛行隊を除くと、すべて地上攻撃機、という状態になって
しまうのである。
ファイター・スイープ/フライヤクト(自由な狩り)
フライヤクトは最も戦闘機乗りに好まれる任務であり、事情の許す限り実行され
たが、ゲーリングや上層部はこれを「目的の明確でない任務」として忌避する傾向
があった。バトル・オブ・ブリテンでのドイツ軍のファイター・スイープはイギリ
ス戦闘機の出撃を誘うため、おとりの少数の爆撃機を伴うことがあった。他に任務
がないとき、JaFueや戦闘機師団が戦闘航空団にフライヤクトを許可すると、航空団
は規模、作戦時間、区域を大雑把に定め、飛行隊に命令した。
フランス戦のころまでは、このバリエーションとしてヤクトシュッツと呼ばれる
タイプの任務があった。特定の区域に出撃し、その区域で出会った味方偵察機や爆
撃機を護衛するのである。(コールドウェル[1996]、56頁)
東部戦線では、全体に空での優勢が続き、戦域の広さに比べて戦闘機部隊は少な
かったので、出撃単位は最大でも飛行中隊(12機)、普通は4機、しばしば2機であっ
た。(コールドウェル[1996]、259頁)
爆撃と護衛
日本海軍において、九六中攻があまりにも成功したために戦闘機不要論が起こ
り、当時の戦闘機・爆撃機パイロットの比率が後者に傾いたために、太平洋戦争
に入って戦闘機部隊の部隊長が不足する一因となった、とする指摘がある。ガー
ランドの述懐によれば、ドイツ軍にも同様のコンセプト(爆撃機は戦闘機より高
速な存在であり続ける)が唱えられる時期があったが、スペイン内戦にMe109が投
入され活躍したため、そのような空気は一掃された。
初期には、2機あるいは4機の小編隊に分かれて爆撃機編隊のすぐ近くを飛ぶ近
接護衛が護衛の中心であった。爆撃機隊はこの種の護衛のみが有効な護衛だと考
える傾向があり、より自由な機動を求める戦闘機隊としばしば対立した。
双発戦闘機によってこの近接護衛を与えるシステムは、バトル・オブ・ブリテ
ンが始まるまでは深刻な問題を引き起こさなかったが、よく知られているように
この戦いでは双発戦闘機に単座戦闘機の護衛がつくに至り、こうした護衛が十分
でないことが明らかになった。
ガーランドがゲーリングに「スピットファイア1個中隊」を要求したというエピ
ソードは、おそらくコリアー「空軍大戦略」による若干の誇張が契機となって、
広く知られている。この議論は、Me109とスピットファイアの性能上の特性を活か
して護衛を行うにはどうしたらよいか、という議論の中で飛び出したものらしい。
(コールドウェル[1996]、134〜135頁)スピットファイアは旋回半径が狭く、高
度差のない空戦では有利だった。これに対しMe109は上昇性能に優れていたので、
高いところから攻撃を加えて離脱するほうが有利だった。護衛戦闘機を近接護衛
に縛り付けることは、高度差のある戦闘を自ら放棄することになる、とガーラン
ドたちは主張したのである。
バトル・オブ・ブリテンの間に、ドイツ空軍は護衛戦闘機隊の約半数に爆撃機
隊より高々度を飛ばせ、接近するイギリス戦闘機隊に空戦を挑んで、有利な攻撃
位置につくことを妨げる戦法を取るようになった。
バトル・オブ・ブリテンの最も困難な時期にイギリス戦闘機隊を指導したダウ
ディングやバークは、バークの後任となったリー・マロリーなどに比べると、戦
力の集中に拘らない傾向があった。つまり、戦闘機隊が待機場所に揃うのを長く
待つことなく、ドイツ爆撃機隊が爆弾を落とす前に迎撃することを優先した。1941
年以降、イギリス空軍が勢力を盛り返してくると、回復した戦闘機戦力をこうし
た近接護衛にできる限り貼り付ける方法が試みられた。ガーランドの回想による
と、初期のアメリカ空軍の護衛法もこの欠陥を共有していた。
連合軍では、やがてこの戦法よりも、いくらかの戦闘機隊を先行させて、戦闘
機隊の飛行場を先に攻撃するファイター・スイープが好まれるようになった。ガー
ランドの回想によると、ドイツ軍でもこの戦法は知られており、好まれていた。
ただしそれを実行するに十分な戦闘機はなかなか揃わなかったようである。1944
年の半ばになると、アメリカ空軍がP-51戦闘機を使ってこの戦法を取るようになっ
た。
1941年になってドイツ空軍のイギリス本土への圧力が減じると、イギリス空軍
はフランス・ベネルクス上空への攻撃作戦を立案するようになった。イギリス側
でルパーブと呼ばれたタイプの攻撃は、最大4機の戦闘機による進入であり、戦闘
機が爆走することもある程度で、地上への攻撃力は小さかった。ロデオはルパー
ブの大規模なもので、初期にはドイツ空軍はこれを無視できた。サーカスと呼ば
れる、ブレニム爆撃機6機前後を伴った攻撃のみが初期の脅威であったが、これも
無視しても損害は小さいと見込まれた。(コールドウェル、181〜183頁)
爆撃機への迎撃に集中するため、ドイツ空軍は西部戦線で、護衛戦闘機部隊へ
の攻撃を禁じた。このことは、出撃しても攻撃のチャンスがないケースをしばし
ば生じさせ、戦闘機部隊に消極的な態度が広がっていることが、1944年には敵味
方に明らかとなった。(コールドウェル、368〜370頁)
東部戦線においては近接支援と上空護衛(Escort Cover)が併用されたが、ソビ
エト空軍の爆撃機攻撃は単機による奇襲のことが多かったので、ファイター・ス
イープは行われるとしても、爆撃とは別の作戦としてであった。
Ju87は東部戦線以外では脆弱すぎる兵器として、早々に戦線から姿を消したが、
そのあまりの低速さは護衛を困難にした。この機体がもっとも危険にさらされる
のは爆弾を投下してから編隊を組み直すまでの間であったから、護衛戦闘機隊は
旋回しつつ上空護衛に当たった。
Hs123複葉機を中心とする地上攻撃部隊であったII/LG2は、当初は護衛なしで作
戦した。バトル・オブ・ブリテンでは、II/LG2はMe109を使った実験的な戦闘爆撃
部隊として、実験飛行隊210とともに戦ったので、当然護衛戦闘機をあてがわれた。
東部戦線に投入されたII/LG2はHs123とMe109の混成部隊となり、隊内でMe109を
適宜護衛任務に当てた。Price[1997]によると、1941年6月24日現在、II/LG2は第2
航空艦隊に属し、Me109を38機、Hs123を13機保有していた。これ以降も基本的に、
東部戦線の地上攻撃飛行隊は、隊外からの護衛を受けることはできなかった。
1943年のクルスク戦時には、Hs129対戦車攻撃機が集中運用されたが、この時は
戦闘飛行隊が特に割り当てられ、護衛任務に就いた。これ以降、従来Ju87を装備し
ていた部隊のほとんどを含め、地上攻撃飛行隊にはFw190系列が装備されるように
なって、例外的なケースでしか護衛はつけられなくなった。Price[1997]によると、
1943年5月17日現在、Ju87を装備していたのは次の部隊である。II〜IV/SG1、
I〜IV/SG2、I/SG3、III〜IV/SG3、I/SG5、IV/SG5、I〜IV/SG77。これらの部隊の
Fw190への転換状況は、同書によれば次の通りである。
1944年5月 1945年4月
SG1 ほぼ半数 全て転換
SG2 半数以上 ほぼ半数
SG3 未転換 全て転換
SG5 ほぼ半数 存在せず
SG77 半数以上 第10(対戦車)飛行中隊のみJu87
1945年4月に、これらの他にJu87を装備しているのは3つの夜間攻撃飛行隊のみ
なので、他の航空団の稼動機もSG2に集められたのかもしれない。
地中海戦線ではこのFw190による地上攻撃隊にもほぼ同数の護衛をつけねばなら
ない状況だったが、やがて連合軍の航空優勢が圧倒的になって、いかなる形でも
地上攻撃は不可能になった。
地上支援・艦船攻撃
ドイツの戦闘機は一般に、第1次大戦の戦訓から、飛行場攻撃などを念頭に置い
て、小型爆弾を吊り下げられるようになっていた。こうした戦闘機の幅広い用途
の一環としての戦闘爆撃任務と、スペイン内戦以来の専門化された地上攻撃部隊
は、並列するように発展し、1943年には地上攻撃専門の航空団が登場するに至っ
た。
混乱した陸上の戦線を直接支援するには、陸軍との緊密な連絡が必要で、地上
攻撃専門の部隊が普通これに当たった。この点はムラーの記述と一致する。
フランス戦以降、慎重にコーディネートされた、狭い意味での地上攻撃任務に
おいては、航空軍団レベルの近接戦闘指揮官(通常、いずれかの航空団司令が兼
ねる)が最終的な権限を持ち、空軍部隊に出撃命令を下した。(ムラー、103頁)
大戦を通じて、偵察機部隊のうち短距離偵察機部隊の多くは陸軍の特定部隊の
戦術的指揮下に入り、その命令に従って飛んだ。陸軍の軍集団・軍司令部には、
コルフト(Kommandeur der Luftwaffe)と呼ばれる空軍士官が配属されてこれら偵
察機部隊を統括したが、コルフトには地上支援のための航空機部隊を指揮する権
限はなかった。
1941年5月以降、フリフォ(Fliegerverbindungsoffizier)と呼ばれる空軍連絡
士官が陸軍の各級司令部(下は連隊まで)に送られ、これが戦況を見ながら、対応
する航空軍団の近接戦闘指揮官と連絡をとって、地上支援の細部を取り決めた。
ただし近接戦闘指揮官自身が航空団司令として多忙であり、自ら出撃すべき立場
でもあったことから、航空軍団司令部がこの機能を肩代わりするのが普通になっ
た。(ムラー、100〜106頁)
ドイツはバトル・オブ・ブリテンにMe109による戦闘爆撃のための実験飛行隊210
(Erprobungsgruppe 210)を参加させていたが、この部隊は独ソ戦を前にして高速
爆撃航空団210(Schnellkampfgeschweder 210)に改編された。主な任務は地上支援
と、小型爆弾による飛行場爆撃であった。1942年になって、SKG210はMe210を受領
するために戦線を離れたが、よく知られているようにMe210は失敗作であったため、
再び戦闘機総監の管轄下に戻ってZG1とZG2の再建のために兵員を提供し、解体さ
れた。ZG1とZG2はMe110の2個飛行隊とMe109の1個飛行隊から成り、地上支援を任
務としたが、1942年から43年にかけての冬に壊滅した。ZG1の一部がフランスでビ
スケー湾の哨戒と船団護衛の任に就いたが、これについては別項を参照されたい。
II/LG2は1940年当時、唯一の地上攻撃専門飛行隊と呼んでよい存在であったが、
バトル・オブ・ブリテンでは戦闘爆撃部隊として実験飛行隊210とともに戦った。
その他のMe109を持つ戦闘機隊も、臨時に爆装し、これらの部隊と編隊を組むこと
があった。
当時は高空からの水平爆撃が主で、飛行場のような大きく見やすい目標があて
がわれたにもかかわらず命中率は低かった。爆撃のための訓練は戦闘機パイロッ
トの教程に含まれておらず、パイロットたちも爆撃任務を嫌った。にもかかわら
ず、(関係者は語っていないが、おそらくロンドンという巨大な目標にはそれで
十分と思われたので)バトル・オブ・ブリテンの末期にはMe109の1/3を爆装する
よう命令が出された。
1942年3月から4月にかけて、西部戦線に残っていたJG2とJG26には、戦闘爆撃専
門の飛行中隊(第10飛行中隊)ができた。初期にはMe109Fの戦爆タイプが配備さ
れていたが、6月にはFw190を受領し、8月のディエップ上陸時にはこの装備で艦船
攻撃任務についた。いわゆるベーデッカー爆撃にはこの戦闘爆撃機も参加するこ
とがあったが、そのようなときには臨時に多くの、時には100機に上る爆装した戦
闘機が参加した。
地上攻撃を司る上級司令部として、リヒトホーフェンの率いる第VIII航空軍団
(ポーランド戦では特殊任務航空軍団と呼称)はほぼ大戦を通じてその特殊な地
位を保った。陸軍と空軍を協力させるという非官僚的な任務がうまくいくかどう
かはひとえに担当者の能力にかかっており、リヒトホーフェンの高い能力はマン
シュタインからも賞賛された。
東部戦線では地上攻撃航空団(SG)が多く編成され戦った。1944年には、ドイツ空
軍はSG1、SG2、SG3、そしてSG77を持っており、それぞれ3つの飛行隊と、第10飛行
中隊として対戦車攻撃中隊を持っていた。もっともPrice[1997]によると、1943年
にはすでにSG5とSG10が活動しているから、Garlandらの記憶に漏れがあったと思
われる。これとは別に、対戦車攻撃専門の飛行隊としてIV/PzSG9が編成されてお
り、最も重要な戦場に集中投入する構想であったが、実際には飛行中隊単位で戦
線の崩壊を食い止めるために投入された。Price[1997]のデータを見る限り、この
部隊は1943年以降Hs129を装備した唯一の部隊かもしれない(1942年時点では
II/SG1にすべてのHs129が集められている)。地上攻撃航空団の中で対戦車攻撃機
の比率を引き上げる努力は終戦まで続けられた。
ドイツ軍の地上支援の戦術は大きく3つに分かれていた。
ひとつは、陸軍の攻勢に先立って、一定区域の敵を集中攻撃して弱めるもので、
砲兵の準備砲撃に相当するものである。
もうひとつは、特定の区域や特定の目標を指示され、これをできるだけ早く無力
化する、というタイプの任務である。進行中の陸軍戦闘に直接介入することになる。
最後のものは、目標も定めず区域の指定も大雑把で、航空機を使って側面援護や
先鋒の戦車部隊支援を行うものである。目標は地上攻撃機が自分で探すことになり、
陸軍で言えば乗車偵察や捜索に相当する。このときは地上攻撃機は最大でも4機編隊
(シュヴァルム)で行動する。
地中海において、いくつかの双発機部隊は地上支援や艦船護衛・艦船攻撃に
活躍したが、連合軍の単座戦闘機が現れるようになると損害が激増し、爆撃機
迎撃任務のための少数を残して地中海戦線から引き上げた。
防空
戦闘機師団のシステムは基本的にレーダーシステムの機械的限界に制約され
ていた。あらかじめ定められた境界を越えても、師団所属機がレーダーに映っ
ている限り指揮と戦闘を継続することが出来たが、境界付近での師団間の迎撃
任務引継ぎは終始難問であり続けた。上級司令部である戦闘機軍団司令部の最
も重要な任務はこの問題の処理であった。
飛行隊や航空団を担当する戦闘機指揮士官はJLO(Jagerleitoffizier)と呼ば
れ、パイロット上がりのこともあり、通信士官のこともあった。
戦闘機師団の指揮官や参謀は第1次大戦時のパイロットであったり、戦闘機に
関する知識を欠いていたりしたため、しばしば問題となったが、パイロット経
験者の不足から改善は困難であった。
1944年の初め頃までは、各戦闘機師団は連合軍爆撃隊を追尾する航空機
(Fuhlungshalter)を運用しており、気象情報も含めた状況把握に役立てていた。
これが連合軍の制空権掌握と共に駆逐されてしまってからは、戦闘機師団司令
部が状況を把握できないままに強い指示権限だけが残ったため、しばしば迎撃
の失敗につながった。
1943年まで、航空管区司令部は観測所の目視報告をもとに独自に空襲警報を
発する権限があった。この情報はしばしば戦闘機師団(のみ)が受け取るレー
ダー情報と食い違っており、混乱を生んだ。1943年以降、航空管区の観測所か
らの生データも戦闘機師団に提供され、戦闘機師団が認定した現況が航空管区
に報告されて、それをもとに空襲警報が出されるようになり、混乱は軽減され
た。
対空砲部隊は戦闘機師団と縦の指揮関係になかったため、誤射を巡るトラブル
が絶えなかったが、統一司令部を作ることはあまりにも指揮上の負担が大きい
ため、いくつかのケースで戦闘機師団司令部に対空砲師団などから連絡士官が
派遣されるに留まった。この協力が成果を上げるかどうかは、担当者の個人的
な資質に大きく影響された。
1942年7月から、海軍の要求により、空軍はJu88C-6双発戦闘機をビスケー湾
に配置して、浮上航行中のUボートをイギリス双発戦闘機から守るための哨戒活動
を行った。これらの戦闘機は当初V/KG40(第40爆撃航空団第V飛行隊)に属したが、
のち1943年にI/ZG1とZG1航空団本部がロリアンに移ったため、II/ZG1となった。
これらの部隊は海軍の要請により、沿岸を航行する小船団の護衛につくこともあっ
た。連合軍の航空優勢が明白になると戦闘機の損害が激増し、ZG1は本土防空のた
め1943年末にこの地域を去った。
1943年夏以降、ドイツ空軍は昼間の本土防空のためにも双発戦闘機を投入し始
めた。
双発戦闘機に37ミリ以上の大口径機関砲を装備することには実施部隊の大きな
反対があったが、司令部の判断で強行された。これらの機体は機首が重くなって
旋回性能が低下し、高空の低温対策が不十分であったため、1連射か2連射でジャ
ミング(弾詰まり)を起こした。
双発戦闘機はMe410なら15機程度、Me110なら20〜30機で編隊を組み、21センチ
ロケット弾を一斉に撃ち放してアメリカ爆撃機の編隊を崩し、前面・側面上方ま
たは背面下方から20ミリ砲で接近するのが標準的な戦法だった。
連合軍戦闘機による損害が目立ってきた1943年末から、爆撃機を迎撃する駆逐
飛行隊には特定の戦闘飛行隊が護衛として割り当てられ、爆撃航空団の統一指揮
下に入ることになった。戦闘飛行隊の3つの飛行中隊は、爆撃隊の側方少し上、
後方少し上、そしてはるか上方に占位した。原則として、護衛戦闘機は爆撃機攻
撃には加わらなかった。この時期には連合軍戦闘機と戦闘になったときの生存可
能性を上げるため、21センチロケット弾は装備されなくなった。
さらに連合軍戦闘機の脅威が増すと、護衛戦闘機と双発戦闘機が一団となって
爆撃機編隊に立ち向かっていく戦法が試された。ところが攻撃を終えて爆撃機編
隊を飛び過ぎると、各種の戦闘機の有機的な連携が取れず、連合軍戦闘機が動き
の鈍い双発戦闘機だけを集中的に狙ってくるために耐え難い損害を被ることが分
かり、(昼間)双発戦闘機部隊は順次単座戦闘機部隊に改編された。
4発の大型爆撃機はシルエットが巨大なため、熟練した指揮官でも目視で高度を
読み誤り、正しい迎撃位置につけないことがあった。戦闘機のサイズをもとに設計
された照準器は、有効射程距離に入る前に重爆撃機のシルエットでいっぱいになっ
てしまい、無駄な射撃のもとになった。また、巨大なシルエットの圧力に耐え切れ
ず早めに攻撃コースから外れる機体が常にあったため、反復して攻撃を仕掛けよう
とすると、そのたびに編隊が小さくなっていった。(コールドウェル[1996]、
250〜251頁)
夜間戦闘
開戦当時、夜間戦闘機部隊は実験途上にあり、5つの飛行中隊がいくつかの戦闘
航空団にまたがって編成され、サーチライトや月明かりを頼りの夜間戦闘訓練を
行っていた。これらをまとめて1939年末に、第2戦闘航空団第IV飛行隊が、初めて
の夜間戦闘専門飛行隊として発足した。この時期には機上のレーダーなどは開発さ
れておらず、装備は単発戦闘機であった。双発戦闘機を夜間戦闘任務につけたの
は、1940年6月に第1駆逐戦闘団第I飛行隊から2個中隊を分遣して、上記のIV/JG2
と共同で夜間戦闘訓練にあたらせたのが最初である。(渡辺、23および25頁)同
月末にこれらを基盤として、単発・双発ひとつずつの2個飛行隊を持つ第1夜間戦
闘航空団(NJG1)が創設された。翌7月には、第30爆撃戦闘団から機材と人員の補
充を受けて、3個飛行隊が揃った。このあと、1個飛行隊分のMe109はMe110に転換
され、装備はMe110が6個中隊、戦闘機型Ju88が2個中隊、同じく戦闘機型のDo17
が1個中隊となった。同月、夜戦航空師団が創設され、カムフーバー大佐が師団長
となった。(渡辺、25〜31頁)
1940年夏の段階では地上からのサーチライトと月明かりに頼った戦法を採る
しかなく、これを補うために、英国本土の飛行場を襲撃し、夜間発進のため照明
灯をつけた滑走路や、爆撃を終えたイギリス機が着陸している最中の早朝の滑走
路を狙うことが試みられ、かなりの成果を上げた。ヴュルツブルク・レーダー
はまず一部のサーチライトや高射砲とリンクされたあと、双発戦闘機の誘導も試
みられ、1940年10月に相次いで撃墜の成果が上がり、フレイヤ早期警戒レーダー
と組み合わせたヒンメルベッド・システムが組織されていった。
夜間戦闘の初期、ドイツ空軍の夜間戦闘機部隊のほとんどは、カムフーバー
少将の第XII航空軍団(1941年8月創設)に属していたため、航空軍団司令部が事
実上夜間戦闘司令部でもあった。1942年に第XII航空軍団のもとに、昼夜間戦闘機
部隊を統一的に指揮するオランダ・ルール地域戦闘機指揮官が置かれたが、これ
はアメリカ空軍の昼間爆撃強化に対応するものであった。
リヒテンシュタイン機上レーダーの実地試験は1941年8月から始まった。実戦部
隊への配備は1942年2月から始まり、その普及に伴って搭載能力に余裕のあるJu88
夜戦型の比重が増していった。
Price[1997]によると、1942年7月27日現在、NJG1〜NJG4の配備機の内訳は次のと
おりであった。
Me110 187
Do217 62
Do215 6
Ju88 20
計 275
1943年5月になると、NJG2は完全に機種転換し、Ju88のみを30機保有しているが、
地中海戦線(第2航空艦隊)に転出している。中部航空指揮官に属するNJG1、NJG3〜5
はまだJu88を合計40期保有するに過ぎず、主体はまだMe110である。1944年5月には、
本土防衛航空軍に150〜200機(うち96機はNJG2)、フランス・ベネルクス(第3航空
艦隊)に20機前後のJu88が野戦用として配属されていた。
1942年7月、連合軍によるレーダー妨害によってヒンメルベッド・システムの有
効性が低下した状況下で、「ヴィルデ・ザウ」と呼ばれる戦術が小規模に試され、
一定の効果を上げた。これはMe109やFw190といった単発戦闘機が都市上空の低空
に敢えて侵入し、高射砲のためのサーチライトや敵機の照明弾で浮かび上がるイ
ギリス軍重爆のシルエットに攻撃を仕掛けるというものである。特に編成された
第300戦闘航空団(実戦力は1個飛行隊程度)がもっぱらこれにあたった。後に、
JG301、JG302も編成されて、同様の任務についた。
この戦法は、「個機をレーダーで捉えつつ誘導する」ヒンメルベッド・システ
ムを放棄し、各種情報を総合した大雑把な誘導を行う、という眼目を活かし、部
隊の移動範囲をより広域的にした「ツァーメ・ザウ」戦法に模様替えされて、
1943年8月以降他の夜間戦闘機部隊に全面的に取り入れられた。敵機来襲が告げら
れると、迎撃部隊は順次発進して灯火や電波ビーコンを目当てに集結し、連合軍
機の目標が明らかになった時点で集中的に襲い掛かるのである。(渡辺、181〜
209頁)この時点では、機上レーダーの普及率や信頼性も向上しており、まったく
の目視射撃への逆行でなかったことは注意すべきであろう。
後方支援要員
Garlandらによると、戦闘機1機に対し、整備員2名、武器係1名、エンジン整備員
2機に1名というのが原則であった。その他の支援要員を含め、大戦初期の12機編成
の飛行中隊は100名、大戦後期の16機編成のものは130名程度のグランド・クルーを
持つことになっていた。
各飛行中隊にはOffizier Z.B.V.(zur besenderen Verwendung)と呼ばれる士官が
いて、中隊の行政面を取り仕切った。原則として大尉であったが、軍務を司る性質
上、軍歴の長い曹長が士官に昇進してこの職に就くこともあった。
飛行隊本部には通信小隊、輸送小隊、修理小隊から成る本部中隊が置かれており、
それぞれの小隊長は本部の幕僚でもあった。このほか衛生士官、情報士官、文官の
行政官(Beamter)が加わった。ドイツ本土の飛行隊の場合、文官の気象予報官が配属
された。
パイロットとしてシュヴァルム(4機編隊)に加わる飛行隊長と副官の他に、本部
中隊長も兼ねる参謀大尉(Hauptmann beim Stabe)がいた。文字通り参謀本部スタッ
フとして前線と参謀本部を行ったり来たりしている士官が当てられ、自分では飛ば
ないがしばしば作戦上の相談に乗った。輸送小隊長はやはりOffizier Z.B.V.と呼
ばれており、参謀大尉を補佐した。
航空団本部もこれに管理小隊が加わった構成であったが、通信小隊がレーダーの
情報を取り扱うようになり、戦闘機指揮官など通信相手も増加したため、1941年以
降は通信中隊に昇格し、各種の行政任務も(本部で一番人手があるので)この中隊
がかなり行うようになった。管理小隊はそのまま存続している。
これに戦技士官が加わっていたという記述もある。それによると、戦技士官は当
初は特に訓練を受けたパイロットを当てていたが、自分でも飛びたがって本務をお
ろそかにするケースがあまりにも多かったので、パイロットとしては引退した士官
や熟練した整備士官を当てるのが普通になった。このあたりの機微については、コー
ルドウェル[1996](69頁)の描写が生き生きしている。
飛行隊および航空団本部には若干の連絡機と、大戦初期には輸送機が配属されて
いた。パイロットのための救難機も航空団本部に属しており、パトル・オブ・ブリ
テンに参加した航空団は、水上救難機を持っていることもあった。
駆逐(双発戦闘機)航空団および爆撃航空団の後方支援は、各飛行場の支援中隊
に大きく依存していた。1942年末になって、駆逐航空団は一定区域で防空任務に就
くようになったことから、戦闘航空団に似た固有の後方支援部隊を持つようになっ
た。
Garland A. et al. [1998],
'The Luftwaffe Fighter Force:The View from the Cockpit',
Greenhill/Stackpole
ISBN 1-85367-327-7
Price A.[1997],
'The Luftwaffe Data Book'
Greenhill/Stackpole
ISBN 1-85367-256-4
D.L.コールドウェル[邦訳1996]「西部戦線の独空軍」朝日ソノラマ文庫
R.ムラー[1995]「東部戦線の独空軍」朝日ソノラマ文庫
渡辺洋二[1995]「ドイツ夜間戦闘機」朝日ソノラマ文庫
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