あれも足りないだけど食いたい
このコーナーでは、第2次大戦期欧州軍民の食に関する話題を、とりとめもなく
取り上げる。
ドイツ軍の糧食基準については、日本語の文献でもよく見かけるようになったが、
多くはU.S.War Dept.[1990](書誌情報は「ドイツ軍の小編成」#1参照)を典拠とし
ている。
この資料の各種の配給量で目を引くのは、脂肪分の多さである。最も配給量の多い
Ration Iではじつに1日の配給量は60グラムである。給食用のマーガリン12個分を1日
で食べてしまうというからすごい。もちろんこの物凄い量の脂肪をパンにだけつけて
食べるわけではなく、フィールドキッチンの大釜で煮物を作って食べるわけである。
ちなみに、ドイツ人がよく食べるソーセージは、普通の肉に比べてかなり高い割合で
脂肪を含んでいる。
個人的に、あるいは分隊レベルで揚げ物や炒め物も行われていたようである。
STEINER氏のサイトにある「STEINER資料館-装備品展示室-雑嚢」には、標準的な中身
のひとつとして、個人用ラードケースの写真がある。同氏のアームズ・マガジン連載
記事によると、分隊にはガソリンストーブ、個人には数分間燃える固形燃料と小型コ
ンロが与えられていた。またFolkstead[2000]はあるドイツ兵の体験を聞き書きした
本であるが、実家から送って来たバターが傷んでいたので「ポテトを揚げるのに使っ
た」という記述がある。
ミュンヒ[2000]には、1941年7月に書かれた突撃砲隊員の日記がある。「多分糧食
にはしばらくありつけそうにない。我らが戦闘部隊は輜重隊の遥か前方を…」という
記述があった翌日、「休憩して、日曜の朝食を自分たちで作る。フライド・レバーに
スクランブル・エッグと、まずまずのメニューだ」と書いている(p.22)。たぶん
「糧食」というのはフィールドキッチンで作られる食事のことで、レバーや卵は現地
でソビエトの村落などから手に入れた食料品であろう。別の日には「豚を一匹殺し、
きわめて原始的な方法を用いて屋外でそれを焼く」と書いている(p.23)。かまどを
掘ってありあわせの燃えるもので調理したのであろう。
これらのシステムについての日本語文献としては、最近翻訳された「"グロー
スドイッチュランド"師団写真史」(大日本絵画、マックギール&スペツァー
ノ)の26〜27ページがよくまとまっている。
精肉中隊や製パン中隊にもやはり訓練システムがあった。第III、第VII、第XVII軍
管区にはそれぞれ第1、第2、第3後方訓練/補充大隊があって、それぞれ精肉訓練中
隊と製パン訓練中隊をひとつずつ持っていた。第1大隊にはさらに、食堂車訓練/補
充中隊が置かれていた。(Madej[1984])
撃墜され捕虜となったアメリカ空軍パイロットにアメリカ赤十字からとりあえず
送られた「捕虜小包」には次のようなものが入っていた。(Beltrone&Beltrone
[1994];p.67)
セーター1着 歯ブラシ1本 衣類用ブラシ1本 靴磨き布1枚 安全カミソリ1組
バスタオル2枚 フェイスタオル2枚 ハンカチ4枚 パイプ1本 パジャマ1組
靴下2足 シャツ1枚 靴磨き粉1缶 カスカラ(緩下剤になる樹皮)1箱 バンド
エイド1箱 靴紐2組 ビタミン錠1箱 携帯用櫛1本 紙巻煙草1カートン
チューインガム1カートン 寝室用スリッパ1足 カミソリ替刃3箱 パンツ1枚
トイレ用石鹸6個 洗濯用(大型)石鹸2個 歯磨き粉1缶 パイプ掃除用具一式
葉巻3箱 裁縫セット一式
必需品中の必需品に混じって、チューインガムが混じっているのが興味深い。
チューインガムをはずしてパンツを2枚にする可能性についてアメリカ赤十字が検討
したかどうか、この資料は沈黙している。
同資料によると、アメリカ赤十字は連合軍捕虜たちの不足する栄養分を補うため、
スイス経由で「標準食料パック」を送っていた。計画上は、捕虜ひとりにつき1パッ
クが配られることになっており、1944年後半になってドイツ国内の鉄道事情が悪化
するまでは各地の収容所にかなりの在庫が積みあがっていた。食料は各地の赤十字
支社が調達して、3ヶ所の包装作業所でパッキングされたとされているから、パック
によって中身は微妙に違っていたと思われる。ある捕虜が記録したところによると、
パックの中身は次のとおりであった。なお1オンスは約28グラムである。
角砂糖8オンス チーズ8オンス ジャムまたはピーナツバター6オンス クラッカー
またはシリアル7オンス チョコレートバー8〜16オンス、肉のパテ8オンス
(インスタント)コーヒー4オンス マーガリン8〜16オンス
コーンビーフまたはC-レーション16オンス 豚のひき肉缶詰12オンス
プルーンまたは干しぶどう16オンス KLIM(粉ミルク)16オンス
鮭またはカツオ8オンス 石鹸2個 煙草5〜7箱
ただし中身の多くは集中管理され、日々の食事に取り入れられた。ある捕虜収容所
での典型的な食事は、次のようであったと記されている。(187頁)
朝食 パン2枚とスプレッド インスタントコーヒーまたは紅茶
昼食 スープ(2日に1回) パン1枚 インスタントコーヒーまたは紅茶
夕食 じゃがいも 肉の缶詰ひとり1/3缶 野菜(週2回) パン1枚
インスタントコーヒーまたは紅茶
夜食(午後10時ごろ) デザート(ケーキ、パイなど)
インスタントコーヒーまたはココア
コールドウェルは、1944年6月にパリ近郊に駐屯していた第26戦闘航空団(Dデイ
当日の2機だけの出撃で有名)の日常風景を描写する中で、典型的な食事は
「馬鈴薯、グーラッシュ、豆のマッシュ」だと述べている(405頁)。グーラッシュ
とは手島尚氏の訳注によれば「牛肉の濃い煮込みシチュー」である。同じ料理を
マックギールらは「ブツ切り肉を入れたハンガリー風シチュー」と表現している
(27頁)。陸空軍を問わず典型的な料理であったのだろう。
ソビエトの配給制度は、パンを中心とした主要食料品をカバーするもので、1941年
7月以降大都市から順次施行されていった。アルコールには配給制度がなく、1942-43
年のモスクワでの各種アルコールの公定価格は、1940年7月の約6倍となった。また、
コルホーズの農民には配給制度は敷かれなかったが、次に述べるように、これは彼ら
が惨めな立場にあったことを意味していない。むしろその逆である。(Barberら、
79〜80頁)
Barberらの試算によれば、1944年のホワイトカラー労働者への配給内容をカロリー
計算すると、1日あたり約1074KCalになる。「主要な(軍需)工場」の労働者になる
と少し状況は良く、1913KCalであった。(214頁)都市生活者は、カロリーの約69%
を配給から、12%を個人的な(庭などでの)耕作から、そして15%をコルホーズなど
の生産物の自由市場(合法で価格統制もなかった)での購入から得ていた。残りは、
所属する企業などの耕作地からの産物である。(82〜85頁)
ドイツ軍の捕虜になったソビエト兵士は、カーシャ(いろいろな穀物の粥)、干し
魚、黒パンをよく持っていたが、水筒の類は持っていなかった。(Folkstead[2000],
p.34)
昭和19年版海軍要覧(財団法人海軍有終会編)は原稿が1943年に集まったものの、
紙の不足から出版が1944年にずれ込んだ書物である。この資料には日本海軍の糧食基
準について詳しく述べてあるので、紹介しておこう。なお以下に挙げる数字は兵・下
士官の基本食1日分であって、新兵・生徒など激しい訓練を課される若年の兵には、
増加食と呼ばれる割増がつく。
生パン200gまたは乾パン180g 精米360g 精麦120g 骨付生獣肉135gまたは缶詰獣肉
100g 骨付生魚肉160gまたは缶詰魚肉100g 生野菜520gまたは乾物90g 新漬物120g
または旧漬物80g
ただし、パンは適宜米麦に代えても良いことになっていた。このパンは鎮守府や要
港の軍需部が製造することが多かったようである。
海軍兵学校関係の書物の用語集でちらりと見た覚えがあるが、一斤のパンの両端に
できる耳の部分は厚めに切って給されるのが習慣で、堅くて厚いことからアーマーと
呼ばれていた。育ち盛りの生徒達は、食事のさいたまたまアーマーに当たると喜んだ
という。このほか、毎旬1回は主食に代えてうどん類を給することになっていた。
調味料等は、月の各旬ごとに一定量が決まっており、その範囲で融通された。旬額
は次の通り。
豆150g 麦粉150g 醤油750ml 酢50ml 植物油70ml 凝脂35g 味噌750g 塩55g
白砂糖(日額)35g 黄双210g(注)
(注)文脈から言って味醂ではないかと思われるが内容不明。
海軍の計算では、3373〜3564KCalの熱量を含むとされていた。
ソビエト占領地では、食料の徴発や購入は住民の協力を得ることが難しかった。
Averbeckの隊の兵士(「我等はみんな生きている」で性病の懲罰を免れたのと同一
人物)は歌と手品がうまく、村で歌と手品の催しを開いて、入場料として生鮮食料
品を集めてきた。(Folkstead[2000],pp.23-24)
退却命令の出る前の週には、たいていチョコレート、タバコ、ウォッカの配給
があったので、兵士たちは移動を予期できた。(Folkstead[2000],p.53)
北アフリカのドイツ軍は、薪がないためにフィールド・キッチンが使えず、カ
ビが生えるからという理由で普通のパンやジャガイモが支給されなかったので、
黒パン、イタリア軍の肉缶詰、乾燥野菜、わずかなオリーブ油といった単調な食
物に頼る羽目になった。ビタミンCの不足が壊血病などの問題を起こしたこともあ
り、イギリス軍の食料は熱望され珍重された。
イタリア軍の肉缶詰はAMというスタンプがあったので、「Alter Mann」「Alter
Maulesel」(老人、老いたラバ)などと呼ばれた。(Hartら[2000],p.115)
参考文献
Beltrone A. & L. Beltrone[1994],'A Wartime Log',Howell Press,
ISBN 0-943231-90-6
Barber J. & M. Harrison[1991],'The Soviet Home Front 1941-1945',Longman,
ISBN 0-582-00965-0
Folkstead William B. [2000],'Panzerjager: Tank Hunter',White Mane Pub.Co.
ISBN 1572491825
Hart Dr.S., Dr.R.Hart & Dr.M.Hughes[2000],'The German Soldier',MBI Pub.
ISBN 0-7603-0846-2
Madej[1984],'German Army Order of Battle:The Replacement Army, 1939-1945',
Game Publishing Co.
D.L.コールドウェル「西部戦線の独空軍」朝日ソノラマ文庫
トーマス・マックギール、レミー・スペツァーノ「"グロースドイッチュランド"師団写真史」大日本絵画
カールハインツ・ミュンヒ[2000]「第653重戦車大隊戦闘記録集」大日本絵画
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