第3篇 ドイツ空軍の生産と編成
ドイツ空軍関係の考証、などという恐ろしいテーマは1ページなどで語り尽くせるものではない。ここでは、生産・損耗というマクロ的な観点と、いくつかの部隊の編成というトピックスに絞って取り上げたい。
このテーマで真っ先に思い出すのは、マーレイ「ドイツ空軍全史」(朝日ソノラマ)である。大戦勃発から1944年までのドイツ空軍の生産と損耗に関する基礎的な数字を豊富に含んだ本であった。絶版である。原書はLuftwaffeという本だがやはり絶版である。
では、手に入らないか。
じつはこんな名前で、ちゃんと手に入る。
W.Murray
'The Luftwaffe 1933-45:Strategy for Defeat'
Brassey's(Washington)
ISBN 1-57488-125-6
この本の題名を見て、あああれかとピンと来た人は凄い。「ドイツ空軍全史」の訳者後書きにあるが、Luftwaffeという名前になる前の原書旧版のタイトルがこれである。どういうわけか別の出版社から出ていた旧版の再版がかかってしまったわけである。察するに、この本は軍関係でいまだにテキストとして使われていて、絶版になると甚だ困るのでブラッセイ社に誰かが泣き付いたのではなかろうか。ともあれめでたい。
なお原書と対照してみると、邦訳で省略されている部分は、四発機の生産数など米英の戦略爆撃の戦果と損害に関係する部分が多い。
この資料での航空機の区分は機種別になっておらず、「双発爆撃機」などというカテゴリ別になっている。機種別(例えば「Me109」といったレベル)の年次生産量は「図解ドイツ空軍」(並木書房)に戦闘機の分だけ載っているが、どうやらこの資料の元をたどると例によって、米国戦略爆撃調査団報告書に行き着くらしい。
W. Victor Madej
'The War Machine - German Weapons and Manpower, 1939-1945'
Game Publishing Co.
という私家本に近い本が池袋の西山書店で売られていたが、この資料が上記の機種別生産量をリプリントしている。
この資料と好一対を成す資料が、最近発行された。(別の名前で1977年に出ていた本の新版なのだが)
A.Price
'The Luftwaffe Databook'
Greenhill Books(London)
ISBN 1-85367-293-9
著者のDr.A. Priceはイギリス空軍のパイロットあがりの研究者だそうだが、日本の読者がプライスと聞くと思い出す本がある。「最後のドイツ空軍」(朝日ソノラマ)である。この本には妙に詳しいデータがついている。ある時点での、ドイツ空軍の全航空団・飛行隊の機種と在籍機数・稼動機数の一覧表である。そう。Luftwaffe Data Bookには、同様のフォーマットのデータが、概ね1年おきの時点を取って、ごっそりとおさめられているのである。
そのほか、この本には、パイロットの訓練システム、基本的な戦闘機・爆撃機の戦術、そして都市や工業施設を守っていた空軍高射砲部隊について述べられている。まことにお買い得である。残念ながら陸軍に協力して前線で戦った高射砲部隊や、降下猟兵・空軍野戦師団についてはあまり触れられていない。しかし後方における高射砲部隊の編成というのは、日本の資料ではほとんど空白になっていた情報だから、他のトピックスは他の資料から補いながら、紹介しておこう。
編成に関しては、次のWWWサイトが驚くべき完成度の情報を提供している。この文章を書く上でも大いに参考にさせてもらった。
The Luftwaffe, 1933-45
高射砲軍団という編成の名前が時折資料に出てくることがあるが、これは前線に出るための移動手段を持った高射砲部隊だけをまとめた、最大の単位である。高射砲軍団はその地域を管轄する航空艦隊に属している。ケッセルリンク元帥の回想録(書誌データは少し後で示す)によれば、第2航空艦隊がソビエト攻撃に参加したとき、第1高射砲軍団、のちにこれに加えて第2高射砲軍団を配属された。(p.90)これから述べるように、実際にはどの高射砲軍団にも属さない高射砲部隊が非常に多かったのだが、1945年初めには、ドイツ軍全体で7つの高射砲軍団があった。(Data Book、p.230)
話は変わるが、航空艦隊の管轄地域はいくつかのLuftgau(航空管区とでも訳すべきか)に分かれていて、それぞれの航空管区司令部は航空艦隊の指揮を受け、地域の防空や飛行場への補給にあたる。高射砲軍団の次に大きい単位は高射砲師団だが、専ら都市や固定目標の防衛に当たる高射砲師団は航空管区司令部に属し、野戦用の高射砲師団は高射砲軍団に、あるいは直接、航空艦隊に属した。それぞれの高射砲軍団と航空管区については、上記のWWWサイトにきわめて詳細な資料がある。
高射砲軍団のピラミッド構造は、もし切れ目なく下部構造まで続いた場合には、次のようになっていた。
高射砲軍団=2〜4個高射砲師団
高射砲師団=2個以上の高射砲旅団
高射砲旅団=2〜4個の高射砲連隊
高射砲連隊=通常4〜6個の高射砲大隊
高射砲大隊=3〜5個高射砲中隊
ただし、師団以下の独立部隊も非常に多かったし、いろいろな編成が試された。また、ピラミッドのいくつかの層を飛ばして直属するケースは非常に多かった。実際、ソビエト侵攻時には上記のような高射砲軍団に高射砲連隊・高射砲大隊が直属するシステムだったが、大戦中期以降は高射砲軍団が配属されず、多数の高射砲師団が航空艦隊に直属するケースが現れている。つまり、「陸軍の軍集団司令部に高射砲軍団が協力する」システムでは地上支援などで意思疎通に時間がかかりすぎたらしく、「陸軍の軍司令部にそれぞれひとつの高射砲師団が協力する」システムに変わったのである。
珍しいところでは、サーチライト師団などというのも短期間だが編成されている。夜間防空のためのいわゆるカムフーバー・ラインに、サーチライト部隊が集中配備された時分のことである。
開戦時点で空軍高射砲部隊は100万人近い人員を抱え、空軍兵士全体の2/3を占めた。
さて、さらに下位の構造を解説しよう。
高射砲大隊には、軽高射砲大隊、重高射砲大隊、混成高射砲大隊(重高射砲中隊と軽高射砲中隊が混在する)、そしてサーチライト大隊があった。
地域防空を担当する重高射砲中隊は当初6門から成り、大戦後期になると集中攻撃が効果的であるとされ8門編成が一般化した。しかし例えば空軍野戦師団に配属された重高射砲中隊は4門編成であり、陸軍の重高射砲中隊も4門編成のものが多かったと思われる。軽高射砲中隊は多くの場合、12基の軽高射砲から成る。これらは20ミリ機関砲、37ミリ機関砲、20ミリ4連装機関砲のいずれかで、ハーフトラックやトラックに載せられることもあった。37ミリ砲を装備する場合1個中隊は9門、と書いた資料をどこかで見た覚えがある。戦車の車体を使った対空戦車は、戦車連隊の対空小隊に配属するのが精いっぱいで、中隊以上の規模では運用されなかったようである。
陸軍の高射砲部隊の編成は1940年8月から本格化し、1943年には多くの戦車師団に陸軍の高射砲大隊が配属された。このときの標準的な編成は、2個重高射砲中隊、1個軽高射砲中隊であった。なお、これらの高射砲大隊はごく短期間、砲兵連隊第4大隊として扱われた例がいくつかある。
ミッチャム「続ドイツ空軍戦記」(朝日ソノラマ)に、1943年のクルスク戦時に第6航空艦隊の指揮下にあった、第12高射砲師団の編成を述べた記述があるので引用してみよう。「後者の兵力は自走対空砲大隊12個とトラック牽引対空砲大隊4個(それぞれ、重対空砲中隊3個と軽対空砲中隊2個編制)、軽対空砲大隊7個、列車搭載対空砲大隊3個、探照灯大隊2、3個である。」(p.124、なお漢数字はアラビア数字に直した)トラックはハーフトラックのことを言うのかもしれないし(ミッチャムは技術的な面では誤記や勇み足が多い)、ハーフトラックの不足から文字どおりトラックに引かれているのかもしれない。また、88ミリ高射砲をハーフトラックに載せた自走砲は実在するけれども、数はごくわずかで、それも陸軍の独立対戦車大隊が運用したものらしい。(ドイツ軍の小編成「#7 対戦車中隊/戦車猟兵中隊/戦車駆逐中隊の編成」参照)
ここで列車搭載対空砲大隊というのが出てくるが、これはData Bookによると、文字通り列車に大小の対空砲を積んだもので、敵襲が予想される地点に手早く増援を送るのに使われる。
次の本はノルマンディーのドイツ軍部隊の編成定数と実情について詳しく述べているが、ノルマンディーに展開していた第III高射砲軍団について詳しく述べているので紹介しておこう。
Niklas Zittering
'Normandy 1944'
J.J.Fedorowicz Pub.
ISBN 0-921991-56-8
同書152〜159ページによると、この軍団は4つの高射砲突撃連隊を持っており、それぞれ3個重高射砲中隊と2個軽高射砲中隊から成っていた。消費弾薬の記録からすると、軽対空砲のうち37ミリ砲は存在したがわずかであったようである。また、1944年8月8日現在、軍団全体で3個中隊は88ミリ長砲身のFLAK41を装備していた。軍団-連隊-中隊という中間を飛ばした戦闘序列になっているのがわかる。
余談になるが、ケッセルリンク元帥の回想録にはケネス・マクセイの序文が新たに付け加わっていて、中身はマクセイの書いた3ページを除いてケッセルリンクの文章である。にもかかわらず、各種データベースでは、この本の著者欄にはマクセイだけが載っていてケッセルリンクが載っていない。注意が必要である。もうひとつややこしいことに、ケネス・マクセイは実際に'Kesselring:German Master Strategist of Second World War'というケッセルリンクの評伝を書いたことがある(現在絶版)のである。
ケッセルリンク元帥の回想録のデータは次のとおりである。なおこれはペーパーバック版で、ハードカバー版は現在版元品切れである。
Kenneth Macksey(introduction)
'The Memoirs of Field-Marshal Kesselring'
Greenhill Books(London)
ISBN 1-85367-287-4
降下猟兵部隊史については、日本語になったいい本がある。ジェイムズ・ルーカスの「ストーミングイーグルス:ドイツ降下猟兵戦史」(大日本絵画)である。
ドイツ降下猟兵が空挺作戦を行っていた頃、ドイツの降下猟兵師団はひとつしかなかった。第7降下猟兵師団である。なぜ第7なのかは私も知らない。1941年のクレタ島作戦以降、よく知られているようにヒトラーは空挺作戦に消極的になるが、降下猟兵は各戦線に細切れに投入されて歩兵としてきわめて優秀な成績を残したので、このあとかえって師団の増設が続いた。もっとも降下猟兵師団は砲兵と車両の面で弱体なので、これは一流の歩兵に二流の装備をあてがうことになり、あまりいい選択とはいえなかったであろう。
ついでに、空軍野戦師団の話もしてしまおう。「ゲーリングが空軍の余剰人員を使って作った」とよく書かれているこの師団について、オスプレイ社からこんな珍しい本が出ている。
K. C. Luffner & R. Volstad
'Luftwaffe Field Divisions 1941-45'(Men-at-Arms Series)
Osprey(London)
ISBN 1-85532-100-9
オスプレイ社のこのシリーズは軍装のカラー図を中心としたごく薄い本であるが、なかなか珍しい国や部隊も取り上げられている。中でもこの本は編制と部隊史の両方に触れていて便利である。
1941年に陸軍はソビエトで恐るべき損害を被ったので、ヒトラーは陸軍を補強するため、海軍と空軍に人員の拠出を求めた。ゲーリングがこれを嫌ったのがことの発端である。ゲーリングは空軍全体に空軍管理下の陸上部隊への志願者を募り、志願者たちを次々に手早く連隊にまとめて、これらを中心に空軍野戦師団を作り出した。そして陸軍に「戦友として」これらの人員の訓練に協力するよう求めたのである。こうしてできた空軍野戦師団は、普通の歩兵師団が歩兵9個大隊を持っているのに対し、歩兵は4個大隊しかおらず、砲兵などの支援部隊も質量ともに劣っていた。
この師団は1942年から43年にかけて実戦の洗礼を受け、次々に大打撃を被る。原因として訓練の不足が良く言われるけれども、それ以前の問題として、この師団は編制上半個師団の実力しかなかった。特に東部戦線では砲兵の役割が大きく、この師団が榴弾砲の配備をまったく受けられなかったこと(フランスから捕獲した1897年式の75ミリ野砲や、陸軍で開発に失敗してもてあましていた150ミリ迫撃砲があてがわれたが、それも普通の歩兵師団が榴弾砲中隊を12個持っていたのに対して、わずか2個中隊であった)は致命的であった。
1943年9月、名称に「空軍」をつけたままなのであまり知られていないが、22個の空軍野戦師団はそっくり陸軍に移管される。陸軍はすぐに将校の多くを陸軍生え抜きに入れ替え、普通の歩兵師団に近づけるよう支援部隊を再編成したが、結局どの師団も2流師団から抜け出すことはできなかった。やりきれないのは、陸軍移管が決まったとたん、空軍は高射砲大隊をこれらの師団から引き上げてしまったことである。