対ソビエト援助

 もしこのタイトルから、マチルダ戦車の年次配備数や配備状況についての記述を期待される読者がおられたら、残念ながら本稿はご期待に添うことが出来ない。本稿の参考文献に出てくる数字は、100万ドルとか1000トンとか行った単位を用いるものが多く、それすら送った量が分かるだけである。どれだけが北極海に沈み、どれだけがソビエト国内を輸送中に失われたか、信頼できる数字はほとんど含まれていない。
 架空戦記の資料として対ソ援助の問題を考えるとき、焦点は「対ソ援助を軍事的に止める手段はあるのか」「止まるとどうなるのか」に絞られる。言い換えれば、ソビエトはどういう問題を抱えていたか、何がどれだけ送られたか、どうやって送られたか、それはどのように使われたかの4点について整理するのが良いと思われる。

[1]ソビエトはどういう問題を抱えていたか

 Harrison(p.10)によると、1940年のソビエトのGDPはドイツ(同盟国や占領地を含まない)の1.26倍であった。1941年にドイツがソビエトに侵攻すると、6月末からイギリスと、さらに7月末からアメリカとの援助に関する交渉が始まった。(ソールズベリー、pp.47-48)8月2日には早くも、アメリカがソビエトに援助を与える基本協定が成立したが、アメリカ議会がレンド・リースの対象にソビエトを加えることに同意したのは、10月のことであった。ソビエトがレンド・リースの条件である援助物資の利用状況の報告を拒否したため、議会が納得しなかったのである(van Tuyll、p.5)。
 このため、1941年中にはアメリカはほとんど物資を届けることが出来なかった。ソビエト国内での物資の振り分けにかかる時間も考えに入れると、ソビエトは最も困難な1942年夏までの期間を、ほとんど対ソ援助の恩恵を被らずに切り抜けたことになる。ソビエトがもともと大きな経済力を持っていることを考え合わせると、van Tuyllが著書を通じて主張するように、対ソ援助無しでもソビエトは結局ドイツ軍を退けることが出来た可能性は高い。対ソ援助はしかし、これから説明するように間接的な形でソビエト経済を支え、ドイツの崩壊を早めたことは確かである。
 Harrison(p.81)によると、1942年の各産業部門の実質付加価値額(実質GNPと考えて良いだろう)は、機械・冶金部門で1940年の94%増しになっているのに対し、製鉄、化学、林業などの「基本的産業」では1940年の48%、食品産業では44%に落ち込んでいる。ソビエト経済全体が軍需産業に可能な限りの資源を集中した状態になったのである。労働者あたり付加価値は、1944年の防衛産業では1940年の3倍になったが、それ以外の産業や農業では微減している。(Harrison、p.103)このことは、設備、燃料といった生産要素が防衛産業に潤沢に供給されたこと、成人男性労働者が軍需産業には比較的残っていたこと、一部の重要産業の労働者は食糧配給上優遇されていて飢餓ゆえの能率低下が起こらなかったことなどを反映している。
 レンド・リースは武器だけを援助するものではなかった。ソビエトは崩壊した農業や軽工業の生産物をレンド・リースに求め、食糧や衣服の要求は大きな比重を占め、その一方でソビエト経済は軍需生産をますます増大させていったのである。

[2]何がどれだけ送られたか

 他の連合国からソビエトへの援助の大半は、アメリカからのレンド・リース法に基づくものである。イギリスは、いったん自分たちに割り振られた援助物資をソビエトに仕向け直したり、独自の援助物資をソビエトに送ったりした。van Tuyll(p.155)がアメリカ議会への報告書から計算したところでは、ソビエトへのこれらの援助総額は125億ドル、うち108億ドルがアメリカからの援助とされているから、残り15億ドルがイギリスの負担ということになる。同じ著書の他の表と照合したところでは、これはアメリカ政府の支出額であって、輸送経費などを含んでおり、実際に届いた物資の価額は合計95億ドルほどである。このほか、赤十字などを通じて送られたアメリカ国民からの義援金が1億ドルを超えていた。
 やはりアメリカ議会への報告書からHarrisonがまとめた表(p.133)によると、1942年のアメリカからソビエトへのレンド・リース輸出価額のうち、武器弾薬、航空機とその部品、戦車とその部品は合わせて全体の51%であったが、1943年にはこれは33%となり、1944年には27%に落ち込んだ。援助総額はこの間増大を続けており、戦車以外の車両、工業製品、食糧といった項目が増大の主要な原因となっている。言い換えれば、ソビエト側の資料がその性能について冷ややかに論評しているにもかかわらず、ソビエトはアメリカ製戦車を要求し続けていた。戦車も航空機も、1943年の戦車を除いて、1941年から1944年まで前年比で絶対額が下回った年はない。
 van Tuyll(pp.115,152,157)によると、ソビエトに渡った戦車はアメリカから6196両、イギリスから約5000両である。このほかイギリスからその他の戦闘車両が約9000両、アメリカから自走砲が1807両、その他の装甲車両が4158両、ジープが43728台、トラックが363080台送られている。航空機については、イギリスから約7000機、アメリカから14203機が送られており、アメリカの分のうち9438機は戦闘機(P40、P39、P63)、2908機は軽爆撃機(A20)である。このほかB25とC47も相当数送られた。ちなみにP39エアロコブラはソビエトのパイロットからコブリーシュカと呼ばれていたそうである。
 これら直接装備に限っては、イギリスとアメリカの比率が明らかに援助全体でのそれと異なっている。イギリスはソビエトの作戦継続が危うく、アメリカが議会対策にもたついていた初期の段階で、思い切った独自援助を行ったのではないかと思われる。いかにも力の使いどころを心得た、老練なイギリスらしい対応である。
 van Tuyllは、野戦電話38万台など、大量の通信器材が送られていることを強調している。ソビエトが得意とする砲兵の集中使用には、これらは大きな役割を果たしたに違いない。
 1944年以降、機関車と貨車が新たに援助物資に加わった。同時に大量のレールも送られ、確保した鉄道網を迅速に標準軌から広軌に引き直し、復旧させることに貢献した。van Tuyllは、ソビエト側の資料やアメリカ観戦武官の報告を丹念に参照して、ソビエトが大戦を通じてこれら通信・輸送器材の不足に悩んでいたことを指摘している。
 ソビエトは軍需・民生を問わず、いろいろな機械を少しずつ注文する傾向があった。van Tuyll(pp.25-26)はこれを、デッドコピーを生産するためではなかったかと示唆する。レンド・リースはその価額に現れない、巨大な技術移転を伴っていたことになる。

[3]どうやって送られたか

 レンド・リース物資が届けられるルートは、大きく分けて4つあった。
 最も有名なのは、イギリスからソビエトのムルマンスクへと海路を取る北ロシア・ルートであろう。1942年には、このルートは積荷重量で測って、援助物資の38.7%を引き受けていた。1943年になると、このルートを通る物資は絶対量でも減少し、比率としては14.2%に激減する。ペルシャ湾ルートが軌道に乗ってきたため、危険な海路が避けられたものと思われる。Uボートの脅威は1943年5月をターニングポイントとして激減し、1944年には北ロシアルートは過去最大の輸送量を記録し、シェアも23.4%まで回復する。大戦全体では、アメリカからの対ソレンド・リースに占める北ロシアルートの(重量)シェアは22.7%である。
 ペルシャ湾ルートは、1941年8月にイギリスとソビエトが共同で保障占領したイランを経由して、鉄道で物資を送り込むルートである。アメリカから距離的に最も不利なことに加え、港湾施設の整備や、ソビエト側の鉄道設備の拡充に時間がかかったことから、初期には細細としたものであったが、トータルでは北ロシア・ルートをしのぐ23.8%の物資が運ばれた。
 極東ルートは、日ソ中立条約の規定に従い、ソビエト船籍の貨物船のみを用いて、アメリカからウラジオストック向けに民生品を運ぶものであった。先に述べたように、レンド・リース物資の中には多くの民生品が含まれていたから、この最短ルートは大いに利用され、47.1%の物資がこのルートを通った。この比率は、積み荷の多くがかさばる食糧や衣服であることを考えに入れて解釈しなければならない。金額的なシェアはもっと低いであろう。なおもちろんアメリカは、真っ先に貨物船そのものを援助した。
 最後に、ALSIBルートとも呼ばれる、北極圏ルートがあった。このルートは、アラスカからシベリアへ援助用の航空機をそのまま飛ばして送り込み、緊急性の高い物資をC47輸送機でシャトル輸送するもので、1942年9月から1944年9月まで稼動した。トン数のシェアは2.5%に過ぎないが、価額に占めるシェアははるかに高いと思われる。ソビエトはアメリカ人のパイロットがシベリアに入ることを拒否したので、ソビエト空軍のパイロットがアラスカのフェアバンクスにあるラドフィールド飛行場に常駐し、ここで引き渡しが行われた。航空機はアラスカの西端に近いノームで再給油し、ここからソビエト空軍の先導機を加えてシベリアに飛んだ。
 B25をめぐる面白いエピソードをHays(p.87)が伝えている。B25の75ミリ砲搭載型が評価試験のためにこのルートで送られたが、非常に珍しがられ、給油のために立ち寄るソビエト軍基地で必ず指揮官が試射を要求したため、評価試験用の弾丸がなくなってしまい、結局この型のB25は要求されずに終わったということである。
 このほか、1945年になると、地中海から黒海を通る援助ルートもわずかの期間用いられた。

[4]それはどのように使われたか

 レンド・リース物資の効果は間接的で、広範なものである。ソビエトの軍需生産の驚異的な伸びは、レンド・リースによって提供された様々な機械類(とそのデッドコピー)に支えられており、それに従事する労働者の食糧もまたレンド・リースによって相当程度まかなわれた。ドイツの初期の占領地域はソビエトの穀倉地帯であるだけでなく、畜産地帯でもあったので、肉類や乳製品の生産も大きく落ち込んだまま推移した。もし食糧援助がなければ、ソビエトは軍需産業労働者だけでなく、兵士をも農場に返さなければならなかったであろう。
 Van Tuyllはレンド・リース物資と戦闘の推移を関連付けようと努めているが、明白な証拠となるような事例を挙げることに成功しているとは言えない。しかし先に述べた砲兵の集中使用、そして部隊の大規模な集結と攻勢準備は、ソビエト軍の大戦後半の戦術を特徴づけるものであり、van Tuyllが著書の随所で主張するように、レンド・リースで送られた大量の通信器材・輸送器材なしには円滑に進まなかったことは確かであろう。
 ソビエトへのレンド・リース物資は1944年まで毎年大幅な増加を続けた。大戦初期にはアメリカの戦時生産体制そのものが立ち上がっておらず、レンド・リース物資はアメリカ軍自身の拡充スピードを犠牲にして行われることになった。また、初期のアメリカ議会への報告義務を巡る交渉から、結局のところソビエトは負債を返す意志も能力もないことを、アメリカ政府の指導者は承知していたものと思われる。それでも援助は強い政治的イニシアチブの下で、様々なアメリカ国内の反対や懸念を押しきって続行され、拡大された。
 冷戦下で書かれたものが多いこともあって、ソビエト側の文献には、レンド・リース物資の役割を高く評価したものがほとんどない。しかしそれを送り付けたアメリカ側の意図も、暖かいと表現するのはふさわしくないと思われる。アメリカはソビエトが戦い続けることを必要としていたので、ソビエトが戦い続けるようにしたのである。


Mark Harrison
'Accounting for War: Soviet Production, Employment, and the Defense Burden, 1940-1945'
Cambridge Univ. Press
ISBN 0-521-48265-8
 主にソビエトの未公刊公式資料をもとに、ソビエト戦時経済全般について取り扱った書物。本文にも引用したように、終始マクロ的な数字を扱っている。

Hubert P. van Tuyll
'Feeding the Bear: American Aid to the Soviet Union, 1941-1945'
Greenwood
ISBN 0-313-26688-3
 アメリカ軍戦史研究所の支援を受けてまとめられた対ソ援助の研究書。1989年に発行されたのは、戦後50年を経ていくつかの外交文書が公開されるのを待っていたのかもしれない。非常に広い範囲の文献を渉猟した包括的な労作である。

Otis Hays, Jr.
'The Alaska-Siberia Connection: The World War II Air Route'
Texas A&M Univ. Press
ISBN 0-89096-711-3
 ALSIBルートの誕生から閉鎖までを追ったノンフィクション。主に関係者への直接取材に基づいている。

ソールズベリ「燃える東部戦線」ハヤカワ文庫NF
 主にソビエト側の動きを追った1冊本で、通史として便利である。


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