マジノ線と大西洋の壁



 要塞による防衛構想は、若者の人口を大きく失ったフランスにとって兵力節約のための自然な発想であっただけでなく、1920年代のヨーロッパを覆った反戦感情ともマッチする非攻撃的な軍事構想であった。レマルクの「西部戦線異状なし」が世界で読まれ、パリ不戦条約が締結されるという時代の空気の中でマジノ線は構想され、建設されたのであって、それを現代から見て単に先の見えない懐古趣味と断じるのは、正当な評価とはいえないであろう。
 強力な要塞を点在させるか、薄い防衛線の後方に支援システムを置いて連続した戦線での機動防御を行うかで軍人たちが意見を戦わせた後、マジノ線の建設が始まったのは1930年のことである。この名は、1929年に軍務大臣となったマジノにちなんだものである。建設計画は1935年に予定されていたフランス軍のラインラント撤退(実際には繰り上げられて1930年)をにらんで、この時期までに完成させることを意識したものであった。
 マジノ線は本来、フランス軍が動員を完了するまで数週間の時を稼ぐものとして構想されたが、1930年代に構想が変質し、恒久的な要塞線が指向されるようになった。
 狭い意味でのマジノ線は、ザール地域を境界線としてふたつの要塞管区(RF)に分かれた、ベルダン北方からライン川に至る直線的な要塞地帯を指す。ザール地域は蛇行するザール川のために要塞を建設するには地盤が弱いため、フランス軍は川の水をあふれさせてドイツ軍を食い止める準備をしていた。ザール地域を境に、西はメス(メッツ)要塞管区、東はロイター要塞管区と呼ばれていた。
 ベルギー国境の西側は海に近い低地のため、地下を深く掘る要塞の建設が困難で、従来からあったモーブージュ要塞とそれに沿った20キロほどの国境が強化されるにとどまった。ライン川に沿ってアルプスに至る国境線の要塞化は、地形の険阻さと要塞造営の困難さから進められず、いくつかの通行しやすい部分を防御する計画もあったが実現しなかった。(Kaufmann)

 要塞管区の次に大きな単位は、西部国境をくまなくカバーする25の要塞地区(SF)もしくは防衛地区(VF)であって、それぞれの担当する国境線は短いもので12キロ、長いものは100キロ以上(これは険阻なスイス国境の地区)にも及んだ。マジノ線の要塞地区にはそれぞれ要塞旅団が置かれ、歩兵連隊、砲兵連隊各1個を擁していた。1939年の開戦後には、動員によって歩兵連隊は3〜4個に拡張され、要塞旅団は要塞師団に格上げされた。メス要塞管区に第1から第4、ロイター要塞管区に第5から第7、ザール地区に第8の合計8個師団であった(Wahl)。175キロの前線を27個連隊で守っていたことになる。
 かつてV for Victoryという傑作コンピュータ・ウォーゲームがあったが、この説明書は実に出色であった。「1個大隊が守る前線はおよそ1キロ、攻撃のため密集したときはその半分、逆に兵力不足で薄く延びる限界はその倍、それを超えるとパトロールするのがやっと」などという重要で基本的な数字がさらりと解説してあったのである。各連隊が3個大隊であったとすると、戦時下の重要戦線を守る兵力としては、基本の半分以下であったことになる。マジノ線無用論を気軽に書く本は多いけれども、壮丁の不足に悩んでいたフランスとしては、マジノ線はないよりあったほうがよほどまし、ではあった。コストパフォーマンスはどうか、他の手段と比べてどうか、という議論はもちろんありうるとしても。
 チャーチルの回想録で、ダンケルクの危機前後に「戦略予備軍はどこにいる」と問われたフランスのガムラン総司令官が「ない」と答えたシーンは有名であるが、戦略予備軍がマジノ線に吸い込まれていた、という理解も誤っているように思われる。マジノ線はそれほど多くの兵力を吸い込んでいないからである。もっとも要塞に据え付けられた火器を操作する部隊は、例え師団編成を取っていても、他の戦線に武器ごと転用することは難しい。そうした硬直的な部隊を8個師団も作ってしまったのは確かにデメリットが大きかった。しかしそれも第2次大戦の戦局を後から見渡して、初めて言える批判であろう。
 防衛地区は一般に陣地の少ない地区であり、ひとつの地区も要塞地区に比べて大きかった。アルデンヌ防衛地区は70キロある最大級の地区で、陣地に備えられた砲はわずかに75ミリ砲単装砲塔2基だけであった(Wahl)。この地区はグーデリアン、ラインハルトの装甲軍団に蹂躙された。ロンメルの第7戦車師団を含むホトの装甲軍団は、先に述べたモーブージュの孤立した古い要塞地帯を南に迂回し、外縁の陣地とわずかに戦闘しただけで駆け抜けた。モーブージュの陣地群は5月22日までに激しい攻撃によってドイツ軍の手に落ちた。ヘップナーの装甲軍団は5月17日にルントシュテットのA軍集団に配属され、モーブージュの北方を通過しているが、おそらくこのときにはモーブージュの陣地群は他の歩兵部隊に占領された後だったであろう。
 ダンケルク撤退までの決定的な時期に、ドイツ軍が戦って奪取したマジノ線の堡塁は、アルデンヌ防衛地区に隣接するラフェール歩兵陣地群のみであった。フランス軍は激しく抵抗し、ドイツ軍が突入したときには、空調設備の破壊による窒息が原因と思われるフランス軍の死者を多数発見したといわれる(Kaufmann)。
 要塞地区は、戦時に1個連隊が担当する区域に合わせて3〜4個の小区域に分けられていた。物理的には、大規模もしくは地下道でつながった陣地群と、孤立した小陣地が混在しており、後者は開戦後も含めて現地部隊の作業で追加されたものが多い。後者にはルノーFT17戦車の砲塔や車体がしばしば流用され、模型ファンにはむしろ興味のあるところかもしれないが、ここではマジノ線の基本構成要素として、前者について解説する。
 地下道でつながった一連の陣地は、75ミリ以上の砲を持つかどうかで、小陣地群/歩兵陣地群(PO)と大陣地群/砲兵陣地群(GO)に分けられた。この陣地群はフランス語ではouvrageだが、これは英語のwork、ドイツ語のwerkに当たる言葉である。地下道でつながり、敵の砲撃時には陣地内に引き込める砲塔を備えたコンクリート陣地はblocs(英語やドイツ語ではbunker)と呼ばれ、ほかに独立した歩兵用砲座(casemates d'infanterie)が隙間を埋めるように配置されていた。これはふつう対戦車砲と機関銃を組み合わせた武装を持つが、砲塔は外に出たままである。

 blocsの武装としては引き込み可能な砲塔の他に、75ミリ砲を3門並べて、接近する敵歩兵を撃退する機関銃と組み合わせた砲座がよく用いられた。手薄な防衛地区や、地下道が掘りにくいザール要塞地区を中心に、大口径砲を持った独立の砲座も見られた。また、要塞外で戦線を維持する部隊が砲撃時に退避する壕(Abri)も主防衛線からわずかに後方に多数置かれた。
 POは通常2〜4個のblocsを地下道で結んだものだが、まれに大規模な構築物ひとつでもPOと呼ばれる場合があった。衣食住の機能を備え、毒ガス対策も兼ねた空調設備、それらを動かす自家発電設備も備わっている。医務室を備える場合もある。兵員定数は概ね100〜200人で、指揮官は大尉。
 GOは大型砲を備えたblocsを中心とする防衛の要である。POによって点在するGOの隙間を埋めて、切れ目のない主防衛線を作るというのが基本的コンセプトであった。POの地下道は陣地を横に結んで終わりのことが多いが、GOは大口径砲を持つ陣地を小火器しか持たない陣地が囲み、花のように放射状になった通路がさらに後方に延びて、その先に弾薬庫と兵員室(ベッドなど)があることが多かった。兵員定数は600〜800人で、指揮官は少佐。
 GOでは大口径砲があるために大掛かりな弾薬庫や弾薬専用搬入口が必要になる。すべてのGOが持っていたわけではないが、弾薬運搬のため、幅60センチの狭軌鉄道を最寄の鉄道駅から引いていた場合もあった。機関車としては蒸気機関車、ガソリン機関車、ディーゼル機関車が使われた。一部のGOではこの線路を陣地の通路内にも引いて、電気機関車もしくは人力で貨車を動かし、個々の陣地まで物資を運ぶことができた。
 POやGOの外周陣地に典型的な兵器は、37および47ミリ対戦車砲(要塞用に、天井から吊るす独特の砲架のものがあった)、Reibelと呼ばれた7.5ミリ連装重機関銃、5センチ迫撃砲(バズーカ砲のような形状のランチャーで、接近する敵兵に向けて発射する)などであった。対戦車砲がReibelと共用する形式の陣地開口部もよく使われた。これらの小口径砲は砲兵でなく歩兵が操作した。火器ではないが、このクラスの陣地が多数備えていたのが、GFMキューポラと呼ばれる監視施設である。監視孔を持ち、自動小銃で接近する歩兵を迎撃することもできる。いくつかタイプがあるが最低でも11トンの重さがあった。
 この重さを見れば、戦車の砲塔が主要な恒久陣地であまり使われない理由がわかる。こうした砲撃の応酬を前提とした要塞では、戦車砲等の薄い上面装甲など無装甲に等しく、そこが弱点となってしまうのである。
 このほか観測専用キューポラや、Reibel用キューポラもあった。大口径砲の近くはすぐに発射煙で見通しが悪くなるので、弾着観測地点は別のところに確保しておく必要があった。
 GOの主力兵器は、フランス軍が大量に持っていた75ミリ野砲であった。先に述べたように、3門分の銃眼を並べ、その脇に歩兵の接近を防ぐための機関銃座を配したデザインは標準的なものである。
 81ミリ迫撃砲もGOにのみ見られた。といっても要塞専用のデザインで、開口部にぴったり砲口をつけるため、弾丸を先から落とし入れることができず、電気発火だったのではないかと思われる。電気発火式の81ミリ迫撃砲を車両の上に並べた兵器が「ジャーマンタンクス」にも載っているが、どうもこれらしい。
 135ミリ榴弾砲というのが時折見られるが、この兵器はWahlによると射程が6キロに達せず、ドイツ軍が捕獲して利用した形跡もないことから、第1次大戦(以前)の遺物である可能性が高い。

Karl-Heinz Schmeelke & Michael Schmeelke
'German Defensive Batteries & Gun Emplacements on the Normandy Beaches; Invasion: D-Day June 6, 1944'
Schiffer
ISBN 0-88740-755-2
 ノルマンディーの上陸地域に限った沿岸砲台写真集。小規模な抵抗巣に関する、場所が特定された写真が多く、周囲の地図も丁寧。ただしフランスの地名が周知のものとして出てきて、概況図の中に位置が示されていない場合があるので、ノルマンディーの詳しい地図と組み合わせて読まないと一部の情報は意味をなさない。こうした外国地図(現地語のもの)は三省堂神田本店の品揃えが良い。
Alain Chazette
'1940-1944 Les Batteries Allemandes De Dankerque au Crotoy'
Editions Heimdal
ISBN 2-902-171-67-6
 ダンケルク-クロトワ間、つまりカレー地域の沿岸砲台に関する写真、図面、地図でいっぱいの本。
 筆者はフランス語がまったく読めない。その筆者が店頭でこれを見て思わず買ってしまったのは、ドイツ軍の規格型固定陣地(Regelbau)が図面入りで多数紹介されていたためである。この部分はドイツ語の説明がそのままで、どうやら公式図面の写しらしい。それぞれの部隊配置についても細かく記してあるようなのだが、フランス語なので読めないのが残念である。
Sonia Wetzig
'Nahverteidigungswaffen am Westwall-Atlantikwall u.a.'
Podzun-Pallas (Waffen Arsenal Band 173)
ISBN 3-7909-0630-1
 トーチカにすえつけられたドイツの小火器・迫撃砲・小口径対戦車砲などに関する写真集で、第1次大戦当時の写真もいくらか含まれる。小火器のための装甲砲塔断面図が多数載っているが、この資料が役に立つのはかなり特殊な状況に限られるであろう。
J.E.Kaufmann & R.M. Jurga
'Fortress Europe; European Fortifications of World War II'
Greenhill Books
ISBN 1-85367-341-2
 国別に(もちろん筆頭はフランス)第二次大戦当時の要塞建設状況、それらをめぐる戦況について述べている。配置された兵器の一覧は多くの国について詳細で網羅的。多くの図面(多くは陣地平面図と配置を示す地図)を含む。
Jean-Bernard Wahl
'Damals und Heute: Die Maginotlinie'
Mittler
ISBN 3-8132-0685-8
 マジノ線に関するA4版434ページハードカバーの大著。原著はフランス語らしいが私は読めないので解説省略。地下道などで結ばれた固定陣地については、すべての堡塁について何らかの記述がある。陣地間の連携・配置についても図を多用して細大漏らさず記されている。マジノ線以外の国境陣地についてもかなりの写真、図、解説を含む。表題の"Then and Now"にあたるドイツ語が示すように、残っている堡塁については近年の内部写真もいくらか含まれている。