番外 戦車師団の戦車連隊と自動車化歩兵連隊を除く残り全部の編成
この原稿はある打診に基づき、ある人に渡したが結局日の目を見なかったものである。「ドイツ軍の小編成」で扱わない部分もあり、残りの部分も短くまとまっているので、ご覧に入れることにした。
装甲偵察大隊
極初期の戦車師団装甲偵察大隊は、通信小隊、装甲車中隊、オートバイ中隊、重装備中隊(歩兵砲班、対戦車砲班、工兵小隊)、段列から成っていた。1942年夏にはオートバイ狙撃兵大隊との統合が行われ、当初は1個装甲車中隊、3個オートバイ中隊、1個重装備中隊という構成になるのだが、ここから師団によって千差万別の構成になる。いくつかの特殊器材を宛がってもらえる師団と、受け取れない師団が出たのである。
1943年後半になると、オートバイ中隊のひとつが、2号戦車L型またはSd.Kfz.250/9ハーフトラックによって置き換えられる。残りふたつのオートバイ中隊のうち、一方または両方がハーフトラック化される師団もあり、そのままの師団もある。そして第25装甲師団のように編成途上で前線に投入された師団は、装甲車もSd.Kfz.250/9も足りず、本部中隊に装甲車小隊を持つ変則的な4個中隊編成である。さらに支援用の短砲身75ミリ砲を持ったSd.Kfz.233または234/3を1個小隊もらえた師団と、もらえなかった師団がある。
1943年9月の1943年型装甲師団編制定数表では、装甲車中隊は大隊本部と統合され、装甲車16両を持つことになっている。他の中隊も完全にハーフトラック化され、短砲身75ミリ砲を備えたSd.Kfz.250/8あるいは251/9が第1中隊(2号戦車L型またはSd.Kfz.250/9)以外のすべての中隊に現われ、火力の増強が強調された。ハーフトラックの不足に対応して、第3中隊の装備車両は半個分隊の乗る250系列でなく、1個分隊が丸ごと乗れる251系列に変更された。
装甲擲弾兵師団の装甲偵察大隊にはハーフトラックが供給されず、1943年型編成でもまだ3個オートバイ中隊の部分はそのままであり、1944年型編成表ではオートバイに代えてキューベルワーゲンなどを移動手段とするようになった。
装甲砲兵連隊
装甲師団の砲兵連隊は初期にはそれぞれ105ミリ榴弾砲3個中隊(各4門)を持つ2個大隊編成で、それ以上の火力支援は必要に応じ軍直轄部隊から受けていた。
1940年から1941年にかけて、150ミリ榴弾砲2個中隊(各4門)と10センチ(口径105ミリ)K18カノン砲1個中隊(4門)を持つ第3大隊が追加された。1943年以降、第1大隊は順次自走化され、ヴェスペ各6両を持つ2個中隊と、フンメル6両を持つ1個中隊で構成されることになる。
装甲工兵大隊
装甲工兵大隊は3個工兵中隊、架橋段列K、軽工兵段列から成る。
工兵中隊の編制は歩兵中隊に似ているが、もちろん歩兵中隊よりずっと荷物が多い。工兵分隊は歩兵分隊と同様に軽機関銃を1丁ずつ持っていて、戦闘への参加が強く意識されていた。火炎放射器は各中隊に当初3基あったが、のち6基となった。これらは背負い式のタンクを使うもので、火炎放射器を据え付けた装甲兵員輸送車Sd.Kfz.251/16はこの部隊ではなく、装甲擲弾兵連隊の工兵中隊で運用された。
架橋段列Kは組み立て式の橋、橋桁として使うポンツーン(がらんどうのボート)、それを曳航できる大型モーターボート(ポンツーンにも船外機は用意されている)、小型モーターボートである突撃艇、そして大小のゴムボートを持っていた。
対戦車大隊・戦車駆逐大隊
大戦初期には、対戦車大隊は37ミリ対戦車砲各12門を装備する3個中隊から成っていた。50ミリ対戦車砲の配備は1940年夏から始まっていたが、50ミリ対戦車砲が高価であることと、37ミリ対戦車砲のストックが大量にあったことから、更新は進んでいなかった。
対ソ戦が始まると、まず50ミリ対戦車砲PAK38、そして1942年夏から75ミリPAK40および75ミリPAK97/38対戦車砲が可能な限り投入された。後者は、フランスから捕獲した第1次大戦時の主力火砲であるシュナイダー1897年式75ミリ砲を、50ミリ対戦車砲の砲架に載せたものである。ポーランド軍の徹甲弾や成型炸薬弾が用意されたが、対戦車砲としては不評であった。ソビエト軍の76.2ミリ野砲もPAK40の弾丸が使用できるよう薬室を削り直し、対戦車砲として配備されたが、これらすべてを合わせても、数的に師団当たり36門を揃えることは不可能であった。
たまたま再建途上にあった第6装甲師団は1942年夏に1個中隊の76.2ミリ・マルダー自走対戦車砲を受け取っているが、当初のマルダー1個中隊の定数はわずか6両であった。多くの装甲師団は、1942年冬から1943年春にかけていくらかのマルダーを受け取った。1943年頃の戦車駆逐大隊は、牽引式対戦車砲と自走対戦車砲を各1個中隊(各14門程度)持っているのが普通であった。
1943年11月、9月に制定されたばかりの1943年型装甲師団編制定数表が改正され、戦車駆逐大隊はマルダー系列45両を持つ、完全な自走対戦車砲部隊となることが定められた。牽引式対戦車砲を放棄できるほど事情は良くなかったが、これらは順次、突撃砲もしくは4号駆逐戦車と交代した。例えば1944年3月時点で戦車教導師団の戦車駆逐教導大隊は、突撃砲2個中隊(各10両)と牽引式75ミリ対戦車砲1個中隊(12門)の混成部隊であった。なおヘッツァーは主に軍直轄部隊と歩兵師団に配備されており、装甲師団への配備例はわずかである。
対空大隊
大戦勃発時、ドイツ空軍は2459門の88ミリ砲を持っており、スペイン内乱の戦訓から、88ミリ砲で陸軍部隊を支援するための徹甲弾と防循を開発し終えていた。
しかし88ミリ砲の多くは都市防空用で、陸軍部隊に随行して支援する部隊は実際には不足していた。このため陸軍はまず軍直轄部隊として対空部隊の整備を開始した。
フランス戦までは、すべての88ミリ対空砲部隊は空軍所属であり、特定の装甲師団の戦術的指揮下に長く入っていても、それはあくまで空軍部隊であった。ただフランス戦の時点で、すでに性能試験用にいくらかの88ミリ対空砲が陸軍に引き渡されていたので、これらは軍直轄対戦車大隊に属して戦闘に参加した。12トンハーフトラックの荷台に88ミリ砲を据え付けた有名な車両はこの一部である。
1941年から陸軍直轄対空大隊にも88ミリ対空砲が配備されるようになり、1942年夏には一部の装甲師団に装甲砲兵連隊第4大隊として軍直轄対空大隊がそのまま編入され、すぐに装甲砲兵連隊から独立して対空大隊となった。1943年までに、ほとんどの装甲師団に対空大隊が設けられている。
当時の装甲師団対空大隊は、それぞれ88ミリ砲4門、20ミリ砲3門を持つ2個中隊と、20ミリ砲12門または20ミリ砲9門と20ミリ4連装2基を持つ1個中隊の3個中隊編成が一般的であった。1943年にかけて、一部の装甲師団の戦車駆逐大隊は第3中隊として自走(ハーフトラック)20ミリ対空砲12門を受け取ったが、この中隊は現場では対空大隊の第4中隊として扱われることが多かった。この場合、戦車駆逐大隊は2個中隊で戦闘することになる。
1944年以降、装甲師団の戦車駆逐大隊からは対空砲が除かれ、対空大隊は順次3個中隊編成に戻った。また、20ミリ対空砲に代えて37ミリ対空砲が配備されるケースも生じた。
装甲通信大隊
無線中隊、野戦電話中隊、通信段列という基本構成は大戦を通じて変わっていない。末期になると総統護衛師団のように、無線小隊と野戦電話小隊をひとつずつ含む通信中隊しか持っていないものもある。
補充大隊
基礎訓練期間を終えた兵士は200人程度で仮に「行軍中隊」を編成し、師団の展開する地域にいる補充大隊の指揮下に入る。 行軍中隊は師団を構成する雑多な兵種の兵士たちをごちゃ混ぜに含んでいた。補充大隊は一種の学校でもあり、いつ来るか分からない部隊配属の時期が来るまで、部隊の兵士たちによる最終訓練が行われる場であった。ひとつの補充大隊は3〜5個の行軍中隊を抱えていた。
補給隊
補給関係の部隊、衛生隊、憲兵隊、野戦郵便隊は総じて補給主任参謀(師団補給指揮官、通称ディナヒュー)の指揮下にあったため、第1師団補給指揮官支援部隊、などという長い名称が使われ、しばしばディナヒュー1などと略された。
1941年には、師団補給指揮官支援部隊は補給隊と改称されたが、これでは衛生隊などまで補給隊に含まれてしまうので、1942年10月にはいくつかの段列と輸送中隊、補給中隊などだけが補給隊と呼ばれることになった。このとき同時に、自動車廠を構成する修理中隊、予備部品段列は自動車廠部隊と定義されて、補給隊から区別された。
段列と輸送中隊
大戦初期には、装甲師団の補給隊は6個の補給段列(30トンの物資を運ぶ)と2〜3個の重燃料段列(50立方メートルの燃料を運ぶ)を持っていた。しかしこれではとても必要を満たせず、もっと大掛かりな輸送中隊が編成されるようになった。1943年型装甲師団の輸送隊は、120トン輸送中隊2個と、90トン輸送中隊3個を定数に含んでいる。雑多なトラックを扱うため、トラックの積載限界の合計だけが定められており、実際の台数は一定しない。
自動車廠
大戦初期の装甲師団は、各戦車連隊の修理中隊の他に、3個修理中隊と、75トンの輸送能力を持つ予備部品段列を持っていた。1943年型装甲師団編成表では修理中隊はいったん2個に減ったが、すぐ3個に戻された。1944年型装甲師団の修理中隊は2個整備小隊、回収班、装備班、無線修理班、予備部品班から成っていた。
大戦初期の軽機械化師団の牽引器材としては12tハーフトラックと10トントレーラー(特殊牽引車115)が使われたが、主体となったのは18tハーフトラックと22/23トントレーラー(特殊牽引車116)である。III号回収戦車、IV号回収戦車、ベルゲパンターといった回収戦車の装甲部隊への配備総数は、装甲部隊に回収用として配備された18トンハーフトラックの総数の約10%であった。また、少なくとも40両のT34が回収用に使われており、この中には第7、第12、第14戦車師団に使われていたものもある。
補給中隊
装甲師団には1個補給中隊が置かれた。段列や輸送中隊が物資の輸送を行うのに対して、補給中隊は補給所を運営し、荷物の積み下ろしを行った。なお同様に、補給大隊は軍レベルの補給所を運営する部隊を指すので、師団レベルの補給隊を補給大隊と訳すのは誤解を招くおそれがある。
兵站部
兵站部は主に食料品を師団内の各部隊に配分する事務管理部門である。大戦後半になると衣食住すべての管理部門を統合して兵站中隊と呼ばれるようになる。
製パン中隊(野戦製パン廠)・精肉中隊(精肉班、精肉小隊)
師団の規模により、製パン・精肉部隊の規模は増減する。初期には名称が一定しなかったが、1943年以降はそれぞれ中隊と呼ばれることが多くなった。夜明け前から働かねばならない製パン中隊は、大掛かりな発電・照明設備を持っていた。
衛生中隊
大戦初期には2個衛生中隊が配属されていたが、大戦末期になって編成・再建された装甲師団は1個衛生中隊しか持っていない。1944年型装甲師団の衛生隊(2個衛生中隊と1個救急車中隊) の編制定数は500人弱であった。
衛生中隊は第1小隊(患者搬送小隊)、第2小隊(包帯所小隊)、第3小隊(器材小隊)、歯科医班、野戦薬局から成り、レントゲン施設や手術室を備えた包帯所を運営することができた。といっても包帯所には患者が回復を待つ間収容しておくだけの余力はなく、応急手当を終えた患者は後方の野戦病院まで運ばれるか、あるいは自分で歩くことを命じられた。
救急車中隊
3個小隊から成り、各小隊は大戦初期には救急車5台、サイドカー8台、乗用車2台から成っていた。サイドカーは水平にした担架を支えられるようになっており、かなり揺れるがいちおう負傷兵を横にしたまま搬送できた。
憲兵隊
師団憲兵隊は基本的に2人1組で乗用車かサイドカーで移動し、その一方または両方が下士官以上である。1944年型装甲師団憲兵隊の定数は33名で、うち25名が下士官であった。
野戦郵便隊
ドイツ軍のすべての部隊には野戦郵便番号が振られており、どこの戦場で戦っていても郵便を受け取ることが出来た。1944年型装甲師団野戦郵便隊の編制定数は兵・士官18名、トラック2台、自動車2台であった。