古 流 居 合 劍 術 保 存會

刀 法 談 義


当会は、「基本刀法」に重点を置き、「組太刀」「形」は並行して教える。
真剣を所持していても、斬ることができなければ、用を成さないからである。
半巻の巻藁を斬り、全巻の巻藁を斬り、体捌きで斬り、細竹を斬り、
孟宗竹を斬り、脇差をもって順手で斬り、逆手で斬り、
あらゆる斬り方を覚えて、初めて「刀法」を知ることができるからである。
まずは、当会の稽古内容の一部を抜粋して紹介するので、一読されたい。


             ( 力 を 抜 く )


当会の稽古は、素振りより始まる。

正面斬り三十本、右袈裟斬り三十本、左袈裟斬り三十本、右袈裟から逆袈裟斬り三十本、左袈裟から逆袈裟斬り三十本、右横胴から左横胴斬り三十本、早抜き十本、計百九十本、所要時間約十五分、以上をもって素振りを終了する。

たった十五分の素振りと言えども、門人たちは冬でも汗をかき、夏場ともなれば汗だくとなり、道着は汗を吸い込んで肌に張り付いてしまう程である。

ところが、同じ本数を同じようにこなす私はどうかというと、冬場はほとんど汗をかかず、夏場でも道着がしっとりする程度で肌に張り付くことはない。

これを読まれる方は、自慢話か、あるいは、手抜きではないかと疑うかもしれないが、事実である。


汗をかく理由は、「腕力のみで斬っていること」にあり、汗をかかない理由は「斬る瞬間にのみ力を集中すること」にある。

上段からの素振りを例に上げると、門人達は、斬り始めから、右手・左手とも重い刀を「腕力のみ」で押し斬ろうとするから、体力を消耗するのである。

私の場合はどうかというと、上段から右手左手に力を入れず、剣先は上を向いたまま、頭上から胸の位置まで引いてから、一気に左肘鉄で左脇に引くと同時に、右手左手の握りを締めるので、刀も一瞬にして加速がつき、を入れるのも一瞬の間だけとなる。

これが「手抜き」ではなく、「無駄な力を省いて斬る瞬間の一点に力を集中する」ということである。



              ( 手 抜 き )


ある時、「腕力のみ」で素振りをしている門人がいたので、「力を抜くように」と指導したら、斬り始めから斬り終わりまで「力を抜いた」門人がいた。

力を抜いた素振りでは、加速がつくはずもなく、「それで巻藁を斬れるのか?」と質問したところ「斬れません。」と正直に答えたので、思わず苦笑してしまった。

その門人には「巻藁を斬るためには、加速が必要であり、加速をつけるためには、斬り始めは力を抜き、斬る瞬間にのみ力を集中すること。」とあらためて指導したものである。

次の週の稽古で、直ったか否かを確認するため、再度、素振りをさせてみると、斬り始めから斬り終わりまで「腕力のみ」の斬り方に戻っていた。

なぜ、力を抜かないのかと質問したところ「力を抜くと巻藁が斬れません。」という答えが返ってきた。

またまた、苦笑してしまった、指導とは、むずかしいものである。



          ( 湯 船 で 泡 を た て ず に 斬 る )


ある時、門人達に質問した、「湯船につかり、右片手で水面に泡を立てずに斬るにはどうするか?」と。

次の週になって門人達が言うには「右手で静かに斬ろうとしても、どうしても泡が立ちます。」と、正直な門人達である。

私が、門人達に教えたのは「湯船につかって、右手を水面に上げたところで、そのまま片手正面斬りをすれば、誰でも泡が立ってしまうものである。」

「水面の上に出ている右片手を静かに水面まで下げ、水面下に没したところで、斬り下ろせば、泡はたたないものである。」と。

次の週になって、門人達が言うには「先生の言われるとおり、水面の下で斬ったら泡は立ちませんでした。」と。

当たり前である、そこで私が門人達に教えたのはこうである・・・

「素振りも同じである、上段から右手左手に力を入れず、剣先は上を向いたまま、頭上から胸の位置まで引いたところが「水面下」であり、そこで一気に左肘鉄で左脇に引くと同時に、右手左手の握りを締めれば、刀も一瞬の間に加速がついて斬れるのである。」と。

教えるということは、習う以上にむずかしいものである。



          ( 木 剣 素 振 り に よ る 確 認 )


「水面下で斬る」方法ができているか否かを確認するには、木剣での素振りをさせることである。

二人の門人に木剣を用意させ、斬り方の門人は私の正面に立たせ、受け方の門人は私の右前に立たせて木剣を構えさせる。

斬り方の門人を上段に構えさせ、受け方の木剣に打ち込ませるという、ごく一般的な正面斬りである。

されど、斬り方は「水面下の斬り方」であるから、上段から右手左手に力を入れず、剣先は上を向いたまま、頭上から胸の位置まで引いたところで、一気に左肘鉄で左脇に引くと同時に、右手左手の握りを締めるという、瞬間の加速で斬るのであるから、打ち込みは激しいものとなり、門人達も、私が目の前では「手抜き」ができない。

この鍛錬を続けていると、やがて受け手の木剣は折れるようになる。

昨年までは、各門人達も、一年に一本の割合で木剣を折っていたものであるが、最近は、上達の成果がでてきたのか、昨年十二月に一本、今年の一月に一本と、頻繁に折れるようになってきたため、木剣を素振り鍛錬用の太い物に替え、これなら折れるはずはないとの思惑で振らせてみたのであるが、二月に折れてしまったのは誤算であった。

この斬り方を忘れなければ、門人達は「竹斬り」に挑戦できるはずである。

なぜなれば、この斬り方を覚えきらないうちに「竹斬り」をやらせてしまうと、刀を曲げるか、刃こぼれをおこしてしまうからである。

門人達の上達を確認したところで、早速、細竹から、細めの孟宗竹(直径五センチ程度)を斬らせてみたが、斬れた時には、門人達も大喜びである。

門人達の上達を見るのは、教える側にとっても喜びである。

されどされどである、細めの孟宗竹(直径五センチ程度)を斬ることができても、冬の硬く締まった孟宗竹(直径十センチ程度)を斬るには、まだまだ不足である。

その、冬の硬く締まった孟宗竹(直径十センチ程度)を斬るには、さらなる「術技」を修得する必要がある・・・・・



                                  (四段の壁)


当会では、有る程度の努力さえすれば、三段までは誰でも取れるものであると、門人達に教えている。

ところが、「四段の壁」を境目にして、残る者と去る者に分かれるのである。

その「四段の壁」とは「冬の硬く締まった孟宗竹斬り」のことである。

「腕力」のある者は力まかせで斬って残り、「腕力」のない者は斬れずに去って行く、が、しかし、そこで、私は、門人達に異を唱えるのである。

「腕力のみ」で力まかせに斬ろうとする者は、「術技などなくても上達は可能」という自信過剰に陥ってしまうため、いずれ限界を知り、それ以上の上達を望むことはできない。

むしろ、「腕力」のない者の方が、「無駄な力を省いて斬る瞬間の一点に力を集中する術技」とは別の「さらなる術技」を修得することに努力を重ねるため、さらなる上位に達する可能性が高いのである、と。



                                (足腰で斬る)


細竹から、細めの孟宗竹を斬ることができた門人達は、大喜びをしていたが、所詮、細めの孟宗竹である。

門人達の斬り方を見ていると、確かに以前より素早く斬れるようになってはいるが、これでは、細めの孟宗竹を斬ることはできても、冬の硬く締まった太い孟宗竹を斬ることはできない。

冬の硬く締まった太い孟宗竹を斬るには、「さらなる術技」が必要なのである。

「腕力と体力で斬る」ことから脱し、無駄な力を省いて「斬る瞬間の一点に力を集中すること」に到達できたら、次の課題は「さらなる術技」を修得すること、それは「瞬間動作で斬る」ということである。

「瞬間動作」を会得していない門人達に右袈裟で斬らせると、斬り始めた刀の動きと足腰の動きが同時である。

ここで、門人達に「瞬間動作は、足腰の切れから生み出されるものである。」と教える。

要は、瞬間動作で足を動かすことによって、瞬間動作で腰を切ることにつながり、その結果、刀の斬りにも加速がついて、「瞬間斬り」が完成するのである。

しかしながら、この刀法が完全に身につくに至るまでには、相応の時間がかかる。

門人達は、頭で理解できても、体が思うように動かないので、戸惑っているようである。

教えるのは簡単だが、身につけさせるには、習う側本人の努力と工夫が必要である。



             (無音の素振り)


門人たちの素振りを見ていると、皆、振るたびに音を出している。

木剣であれば、ビュッ、ビュッと、真剣であれば、ヒュッ、ヒュッという風切り音である。

ある日、門人達に問うた。「素振りで風切り音を出すのは、なぜか。」

門人達が答えるに、「素振りの音を聞けば、刃筋が通っているか否か、その音色で確認することができると、先生に教えていただいたからです。」と・・・

その門人達に対する答えは、次のとおりである。

「確かに、初心の時代には、そのように教えたものであるが、これから上位を目指す者には、まったく違うことを教えるから、よく聞いておくように。」

「自分が居合剣術を習い始めて三年の後、我が師が教えるに、居合剣術も上手になるにつれ、素振りで剣を振っても風切り音は小さくなり、やがて消えていくものであると。」

「師より教えを授かったその時は半信半疑であったが、居合剣術修行を卒業の後、皆に居合剣術を教えるに至って、やっとその境地にたどりついたものであり、これをもって無音の素振りというのである。」

「ややもすれば、素振りで風切り音を大きく出すことこそが、上達のあかしと勘違いしている者が、当流にも他流にも、多々見受けられるが、それは誤りであり、真実は、無音の素振りに至ることなのである。」と。



                                (無拍子に至る)


当流ならずとも、拍子について教えない流派はないものと思う。

拍子とは、西洋流に言えば、音楽のリズムである。

一、二、三、一、二、三、と言えば三分の一拍子であり、一、二、三、四、一、二、三、四と言えば四分の一拍子であるが、当流では、これを総じて一拍子と言う。

なぜなれば、タン、タン、タンと、拍子と拍子の間が、同じ秒間の長さだからであり、初心の者から三段に至るまでは、この一拍子を教える。

次なる段階である四段を目指す者には、半拍子を教える。

一秒の半分の半秒ということであるから、動きは一拍子よりも速い倍速となり、タッ、タッ、タンとなる

さらなる段階である五段を目指す者には、四分の一拍子を教える。

半秒の半分であるから、動きは半拍子よりもさらに速い四倍速となる。

要は、敵の動きよりも速く動くことを教えるのである。

さすれば、次の段階である師範を目指す者には、四分の一拍子の半分の八分の一拍子を教えるのかと思われるであろうが、答えは否である。

それでは、何を教えるのか・・・それは、「無拍子」を教えることである。

これを読まれる方には、意味不明と思われるかもしれないが、剣術を目指して到達するところは、「無」の世界に他ならないのである。



             (小太刀の素振り)


当流では、小太刀も教える。

なぜなれば、武士は二刀差をもって本来の武士と言えるからである。

一本差のみでは、浪人か、長脇差を許された町人に他ならない。

それゆえ、本来の居合剣術に小太刀の教えを欠かしてはならないのである。

小太刀の素振りは右片手をもって行うが、右片手上段から右手に力を入れず、剣先は上を向いたまま、頭上から胸の位置まで引いたところを「水面下」とし、そこで一気に左肘鉄で左脇に引くと同時に、右手左手の握りを締めることで一瞬の間に加速をつけて斬るのは、大刀の素振りと全く同じである。

斬り方の門人は私の正面に立たせて小太刀の木剣を右片手で持たせ、受け方の門人は私の右前に立たせて大刀の木剣を持たせて構えさせる。

斬り方の門人に右片手で小太刀を上段に構えさせ、受け方の大刀の木剣に打ち込ませるのであるが、されど、斬り方は、大刀よりもさらに速い瞬間の加速となるのであるから、打ち込みも激しいものとなる。

ひとりひとり交代で打ち込みをするうちに、結果として、またまた、受け方の木剣を折ってしまうこととなってしまった。

大刀の打ち込みで、昨年十二月に一本折ってしまい、今年の一月にも一本折ってしまい、二月になって素振り鍛錬用の太い物に替えても折ってしまい、今回は、小太刀の木剣で、大刀の木剣を折ってしまったのである・・・

決して安くはない木剣が、いとも簡単に折れてしまうことに、門人達は「出費」という痛手を感じているのであろうが、私は、それを「木剣一本折るごとに、君達は上達しているのだと思えばよい。」と、さとしているばかりである。



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